それにしても痴漢の冤罪というものは恐ろしい。表沙汰にならず泣き寝入りしている痴漢被害も実際は多いとは思うものの、痴漢の冤罪被害も実際には多いんだろう。
痴漢扱いされてしまうと、人生が崩壊してしまうほどのダメージを食らうと聞く。それを恐れ、線路に飛び込み、走って逃げるケースもあるんだろう。いったい何から逃げているのか分からなくもなる。それで事故に遭ったニュースも目にするし、命まで落とした人もいた。もしかしたら、痴漢の犯人が逃走した末の結末なのかもしれないが、冤罪だったとしたら浮かばれない。

気候も良くなり、仕事後に缶ビール片手に、徒歩で帰ることが多くなる季節。ほろ酔いで繁華街を抜けながら、住宅街に着く頃には酩酊している。
2時間近く歩く日もあるので、さまざまな店の前を通り過ぎ、さまざまな人たちとすれ違う。飲み屋には相変わらず賑やかな笑顔が溢れかえっているし、道すがらも、陽気なのんべえたちの笑い声がこだまする。お酒の酔い方は人それぞれだが、自分と比べ、こうも仕上がりが違う人たちがたくさんいるのかと、自分の酔いを見つめ直すも、これが好きでそれが好きで呑んでいるんだからやめられない。

職場と自宅のちょうど中間くらいの街に、ホテヘルのメッカがある。昼間はひと目を避けて情事に耽る男女しか目にしないが、夜になるとネオンはギラギラ、ホテヘル嬢がホテルから出てくるのを待つ黒っぽい自動車の群れで埋め尽くされる。
そんなホテル街のど真ん中を、缶ビール片手にフォークソングを口ずさみながら突き抜ける。嬢待ちの車は窓を全開にし、中からはタバコの煙が吐き出される。サービスを終え、ラブホテルのエントランスから出てくる男女を目にすることもよくある。

「ありがとうね」
すっきりした表情で男は言う。女はその言葉に対し、何かしら呟いているが、そこまでは聞き取れない。ただ、いつも、男が言う「ありがとうね」だけは鮮明に聞き取れる。

男はどこか誇らしげ。まるで嬢が自分に好意を持ってくれているかの如く、「ありがとうね」と上から目線で言い放つ。
おいおい、相手は仕事だぜ。究極のサービス業の方々だぜ。お前なんかに好意があるわけないだろう。次回、指名してもらって、効率的に報酬を稼ぐための戦略だと思うぜ。疑似恋愛ならまだしも、リアルな恋愛の如く、甘い目線で「ありがとうね」を言うのはどうかと思うぜ。

「そんなこと分かった上でやってるんだよ、カスが!」と怒られてしまうかもしれないが、酔いも手伝って、その光景がとても虚しく映る。
いや待てよ、コンビニエンスストアで商品を買い、お会計を済ませたあと、サービスを提供してもらったことに対し、「ありがとうございます」と言うだろう。それと同じか? いやいや、どうにも違う気がする。だって、「ありがとうね」と言った男を見送った後、気だるそうにスマホを触りながら、イヤホンを耳に突っ込み、窓が全開でタバコの煙が車中から吐き出される真っ黒い軽自動車に乗り込み消えていく様子を、何度も目にしている。それが現実じゃあないのかい。

「そんなこと分かった上でやってるんだよ、カスが!」と、またしても怒られてしまうかもしれない。でも、真実を目の当たりにしてしまった人間は、もはやフィクションの中では生きられない。
きっと車中で嬢は、交際している男にLINEしたり、次の現場に向かうよう、スマホに飛んできた店からの指示に目を落としているかもしれない。さっきの男が言った甘い言葉、「ありがとうね」なんかは、もう意識の外。そいつへの好意なんて、微塵も感じていないんじゃあないだろうか。

ただ、冷静に考えてみると、自分に好意があると勘違いし、高額なサービス料を支払い、甘ったるい声のトーンで「ありがとうね」と言う男。自分を指名してもらうことで報酬も手に入るし、それで生活も維持できる。自分という特選品を選んでくれたことに対し「ありがとう」と礼を言う女。これでバランスが取れているんじゃあないだろうか。そこに自分のような、店呑みする金も持ち合わせず、缶ビールで酩酊し、精神を落ち着かせているような小者が口を挟む余地はないんじゃあないだろうか。そうだ、きっとない。
ラブホテル前で「ありがとう」を言い合う男女たちは逆に、ホテル街をプラプラと酩酊しながら歩く僕のような人間を見て、軽蔑しているかもしれないし、見下しているかもしれない。擬似恋愛でもいい、騙そうが騙されようが、「ありがとう」を言い合える自分たちのほうが、よほど高尚な存在だと感じているかもしれない。実におもしろい。

そうそう、だから何を感じたかって言うと、女の人がひと声あげれば、男は冤罪で捕まるし、人生だって崩壊する。男がどれほど女を支配しているような気でいて、「ありがとうね」なんて甘い声で呟いたとしても、女はそれを逆手に取り、カモ、としか思っていない。もちろんそれは、一個人の感想であって、実際には、真心込め、気持ちも心血も注いでサービスを提供している嬢もいるかも知れないが。
ただ、社会的な観点からすると、まだまだ女性のほうが生きづらい世の中だと思う。だからこそ、女性が逆襲できる場があるのは健全な気がするし、胸がスカッとする。もちろん、冤罪なんてひとつもあってはならないが、「やろうと思えば、アンタなんか潰せるんだよ、ふふふん」と、女性が強気に感じていてもいいと思う。

男のほうが上だからと威張っている男たち。世間に目を向ければ、カッコいい男や優秀な男なんて、それほどいやしない。それなのに、男、というひと括りで、「俺たちは上だから」とあぐらをかいている男が多いのもまた事実。そんな神輿は早々に崩れ落ちるべきだ。

吉田拓郎の今日までそして明日から、を口ずさみ終えた頃、ちょうどホテル街も終わり。両サイドに続く嬢待ちの車も見当たらなくなった。あれこれ思考を逡巡させてはみたが、辿り着いた答えは、自分は誰に「ありがとうね」を言うのだろうかということ。おっ! ちょうど大通りを渡ったところに、コンビニエンスストア発見! 手に持つ缶ビールも底を突いたし、買い直すか。

人生は特に難しく考えることなかれ。缶ビールの酔いに任せて生きればよい。気づけばレジ対応してくれた、将棋棋士の加藤一二三九段似のおっちゃんに、甘いトーンで「ありがとう」と言っていたじゃあないか俺。今宵も美味なる缶ビールを、ありがとう。

デタラメだもの。

20170611