2017年、はじまる。2016年もあっという間に終わってしまったことを考えると、2017年も同じように、あっという間に終わってしまうのだろうか。

2016年のスタートと同時に、今年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだの、誓いめいたことを語っていた気もするが、それがつい最近のことに感じる。実現できたのか、実行に移せたのかさえ振り返る間もなく、またしても、2017年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだのと語ってしまいそうで閉口してしまう。

年をとると一年が早くなるとはよく言うが、あまりにも早すぎやしないだろうか。早いというか、もはや、速い。
どうせ、「もうすぐお花見のシーズンだね」なんて言い合いながら、あっと言う間に桜のシーズンを追い越してしまう。「やっぱり夏だよね」なんて言い合いながら、すぐに秋の気配を感じてしまう。「今年も紅葉の季節がやってきたね」なんて言い合いながら、気づけば紅葉はみな、散ってしまう。「肌寒くなってきたね」なんて言い合いながら、クリスマスも大晦日も横目に、あけましておめでとう、なんて言ってのける始末。想像に難くない。

クリスマスやら大晦日やらにしたってそうだ。不景気のせいか、イベント感が薄いように思う。昔はもっと、街がクリスマス一色になったり、お正月ムード一色になったりしていた気がする。テレビCMだって、バラエティ番組だって、もっと季節感を押し付けてくるようなものが多かったように思う。それがどうだろう。あまりにも一年、メリもハリもなさ過ぎる。

電化製品だってそうだ。製品購入と新製品登場のイタチゴッコは昔から変わらないかも知れないが、パソコンやスマートフォンなんて、機種の世代交代が早すぎやしないか。キャリアの二年契約があるからとか、不具合はまだバッテリーくらいのものだからと、人並みの物持ち良い精神で買い替え渋っていたとしても、いざようやく最新機種を買ったや否や、即座に新機種登場のニュースを耳にしたりで辟易。

ともかく、なんでもかんでも早すぎる。便利すぎる。のんびりしていない。こんな便利さに慣れてしまった人間は、既に不便だったあの頃にはもう戻れないのかも知れないが、徐々に、スローダウンさせて行くのも粋な気がする。

俳優やタレント、芸人やミュージシャンだって、流行り廃りが早すぎる。せっかく世に出られたとしても、次から次へ、ニューカマーが世に送り出されるもんだから、目まぐるし過ぎて記憶にも残らない。人々の記憶に残らないということは、歴史的な記録にも残らないということだ。それじゃあ、伝説的な人物やグループなんて、後世、出てくるわけがないだろう。機械だけならまだしも、人間をも使い捨てする時代になってしまったということか。

ほんま、なんでこんなにも、何もかも早く感じてしまうのだろう。休みの日が過ぎるのは早い。それだけならまだしも、気乗りしない平日さえも早く過ぎて行く。饒舌に語る楽しげなお酒の場は、なんであんなにも時間が早く過ぎるのだ? 夜中のタクシーのメーターは、なぜあんなにも早く料金を刻んで行くのだ? 二割増しってレベルちゃうやろ? ゆっくり身体を休めたいと思って眠りについても、朝はなぜあんなにも早く訪れるのか? それなのになぜ手の込んだインスタントラーメンは、湯を入れてからの待ち時間が五分もかかるのか? あれはより高度な技術で三分に短縮できないのか?

そこでこう思う。2017年は、そろそろ便利さを一枚ずつ剥いで行こうじゃあないかと。
たとえば、スマートフォン片手でできるような、そうやね、銀行振込なんかも、わざわざ銀行に足を運んで行うとか。銀貨をチャリンと投入すれば、自動で車を洗浄してくれるようなハイテクマシーンは使わずに、車を手でゴシゴシ洗うとか。家のお風呂に入らず銭湯に行く。インターネットで音楽などを採取せず、CDショップで購入したり、レンタル屋に借りに行く。助平な動画だって、観たいと思えば、ブラウザを起動するんじゃあなくって、レンタル屋の然るべきコーナーに行けばいい。

それらの風情な行為を、便利さの名の下に時短させ、時短したことによって作り出した時間に、その他の行為や用事を詰め込むことによって、それらの風情な行為を味わいながらやる心の余裕を欠いてしまっているってことに気づいた。自らその首を締めているということに。

今年は、便利さから遠い場所で生きて行くことをテーマとしよう。これだったら、今からでもできるし、やれ達成できただのどうだのと、下世話な会話も生まれてこない。ビールは瓶ビール。グラスに注ぐって行為を大切にしよう。その時間を大切にしよう。じゃあ、生ビールしかない店だったらどうするか。そりゃ、生ビールとグラスひとつをオーダーし、ジョッキから注いでやろうじゃあないの。いかんいかん、これじゃあ作為的で人為的過ぎる。もっと自然に無駄を楽しみたい。答えは出た。瓶ビールが飲める店に行きゃいいじゃあないの。

それはそうと、話は逸れるが、近頃、物忘れが激しい。友人知人と会話をしていて、やれ得意げに、「最近、おもしろい話があったんですよ」と、話の導入を自ら設け、意気揚々とオチへと向かって話していると、その中途で、話のオチを失念してしまうことしばしば。
すごく秀逸なエピソードトークを用意していたために、話を持ちかけたのである。それは真実。最終的な抱腹絶倒ポイントへと、しっかりアテンドしようとおもてなしていたのも事実。なのにだのに、どんなオチだったのかを忘れてしまう。前半から中盤にかけて、あまりに得意げだったため、「何の話か忘れてしまいまして……」などと後ずさることも許されぬ。オーディエンスたちは、その勢いのまま、ゴールまで駆け抜けてもらうことしか期待していない。

そんな窮地に陥ってしまうと、これ致し方がない、話ながら別の脳みそで、別のオチを捏造するほかない。右脳でしゃべっていたら、左脳でオチを、左脳でしゃべっていたら、右脳でオチを創るほかない。しかし、そこは即席のオチ。インスタントなオチ。出来栄えが良いわけがない。前半から中盤にかけての話との整合性だって怪しい。結果的に、ウケない。ウケないばかりか、期待を持たせ意気揚々と語り始めた分、変な空気になる。

こんな失念っぷりが最近目立つ。ともかく、話を途中で忘れたときの恐怖感は尋常じゃないんだよ。冷や汗だって、大量に出る。まさに失念ダイエットというところか。みなさん、期待を持たせて話はじめたくせに、おいまいなオチで、尻すぼみになったと感じた場合は、「あっ! こいつ、話忘れよったな?」と、大目に見てくだせえ。そんな寛大さも、心に余裕があってこそ。家電も人間の交流も、もっとのんびり行きましょうや。

もっと人々の心に余裕があった頃の、昭和のレガシーを訪ねるべく、懐古的に生きて、どんどん鈍くさく、どんどん鈍感に、スローライフ、すなわち、不便な毎日を送って行こうと思う。

今年は、酉年だそうだ。心にも、ゆとり、を持って生きたいものだ。

デタラメだもの

20170101