世間では、人気急上昇のバンドのヴォーカリスト兼ギタリストと、ハーフで好感度バツグンのバラエティタレント兼歌い手の禁断の愛が報じられて幾日が経ち、個人的には、どうせテレビの向こう側の人たちやし、そもそもミュージシャンで成り上がるということもそう、タレントで成り上がるということもそう、それを達成できた人たちっていうのは、ある種のジャパニーズドリームの体現者でもあるわけだし、特にバンドマンなんていうのも、「モテたい」が端を発しているケースも多く、それがこうやって見事に叶えられた好事例を目の当たりにすると、陽の目を見ないバンドマンたちにも、再び大きな夢を与えられるってもんじゃないのかねえ。

スポンサーとの絡みなどになると、一気にビジネスのニオイがしてくるため、ただの男女の問題などと言って散らすだけじゃ済まないというのもよく分かるけれど、当事者のことを重んじるならば、水面下でコソッと、イメージキャラクターを差し替えるなり、表沙汰にしない対応をするほうが、企業に取っても遺恨なく済むし、そう考えると、こういうビッグバン風な芸能界のトラブルには、もっともっと大きな黒い影が潜んでいると思われて仕方がない。
そう、それを口にするだけで、存在が消されかねないような、大きな影。
芸事で飯を喰らう人たちは、何らかのきっかけで、その大きな黒い影の逆鱗に触れることをしてしまい、それによって、半自動的に、ビッグバンが起され、人気稼業としての生命が絶たれてしまう、と。

そんなことを邪推しながら、世論に目をやっていると、ふと、一つの句が目に留まった。
優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球が来る
(俵万智)

好感度バツグンに芸能界で生きてきた当該バラエティタレント兼歌い手の、今回の騒動の件での心境にピッタリなんじゃなかろうかと、インターネットの中の誰かさんが、コメント。

それを見た瞬間、足の動きが止まった。朝の通勤時間だったにも関わらず、足の動きが止まってしまったもんだから、その日の朝は遅刻した。ちなみに、足の動きが止まってしまわない日も、たいてい遅刻している。
見込み残業などと腐った制度に言いくるめられ、帰社時間には定時なんつう概念もないくせに、なぜに朝だけ縛るのだ。朝を縛る権利があるなら、夜も就業規則に則って縛る義務があるだろう。まぁええわ。

何が言いたいかというと、俵万智。
小学生の頃の教科書によく出ていた人。今だにどんな人かはよく知らないものの、よくこんな話って聞きません? 「教科書の問題で出た作家の本だから読んでみた」とか、「教科書で紹介されてたから読んでみたら好きになった」とかいうお話。
僕は全くの逆で、勉学の中で取り扱われてしまったものは、所詮、勉学の味方だ、出来損ないの敵だ、ということで、軒並み避けてしまうという性分を持っている。
ちなみに、朝の目覚ましにミュージシャンの楽曲を使ってみようと、好きなアーティストの楽曲を鳴らす習慣をつけてしまうと、その楽曲は、確実に嫌いになるよね。平生時に聴いても、朝起きる際の、忌まわしき気持ちが蘇り、反吐が出そうになるよね。

そんなことから、俵万智と、代表作のサラダ記念日は、恐らく教科書に載っていたのだろう、それ故に、意識して避けてきた記憶がある中で、先の句。
衝撃的だった。人間の中身を、ここまで正確に謳えるのか。謳えて且つ言い当てられるのか。しかも、こんなにも短い言葉の中で。なんだろう、この人は、いったい。
とかく優等生ぶって生きてしまいがちな自分にとって、身をつまされる思いを抱くとともに、そういえば過去、そんな一球が飛んできた瞬間もあったなぁと、それをかっとばしてやらんと、半ばヤケクソな情熱で、豪快なスイングをかましてやったこともあったなぁと、やけにノルタルジックな気持ちになりながら、そんな気持ちを代弁してくれる句に脱帽した。

そんな句に胸をぶち抜かれて数日、ほぼぼんやりと宙を見つめながら生きてしまっていた最中、習慣となっている帰り道の缶ビールが、その日は、やけに心中穏やかじゃない、のっぴきならない事情があったのか、いつもより本数多く、歩数多く帰っていると、ふと、「俵万智って、他に名言ないのかしらん?」と、アイフォーンをチクチクとイジり出す。すると、またしても衝撃的な事件が。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
(俵万智)

死ぬかと思った。大袈裟な表現を使わずに表現するならば、身体中の毛穴という毛穴が、鳥肌となって、凸化した気配を確かに感じた。
世の中には、まだこんなにも素晴らしいものがあるんじゃあないの。しかも、「名前は知ってるよ」的な知識に留めておいてしまっていた世界のなかにも、こんなにも素晴らしいものがあるんじゃあないの。
なんか、生きてると嫌なこともたくさんあるけれど、こんなにも素晴らしい体験もできるんだと、感謝の気持ちで溺れ死にそうになった。

そんな淡くメロウな気分に浸りながら、帰路の終着から逆算すると、ラスト一本になるであろう缶ビールをコンビニで買ってやろうと、意気揚々と入店。
サラダ記念日で完全に高揚している僕は、豪快に缶ビールをグワシ、掴むと、レジに突き出した。
レジの中には、イッセー尾形を思わせる中年男性。
平生、夜な夜な、コンビニのレジで働いている中年男性を見かけると、すかさず名札を確認する習慣がある。店長、もしくは、オーナーと書かれている場合、夜の時給の高い時間は、自らが店舗に出て、人件費を節約しているのだな、もしくは、働き者の店長なんだな、と感心するし、店長やらオーナーと書かれていない中年男性の場合には、どういった事情があって、こんな夜な夜なにコンビニで働いていらっしゃるのだろうと勘ぐってしまう。のっぴきならない事情から、生活が貧窮しているのかしらん? 独身なのかしらん? 昼間の仕事をリストラされたのかしらん? などと、下世話な想像を浮かべてしまう。

そんななか、イッセー尾形の名札には、店長ともオーナーとも、記載がない。所謂、後者ということになる。
いつもと変わらないレジのつもりだったのが、イッセー尾形のひと言で、様相が一変する。

「缶ビール派ですかぁ? グヘヘ」

イッセー尾形は、キャラクターもイッセー尾形風で、どこか芝居がかっており、イッセー尾形がよく演じていた、少しく他人を小バカにしたようなキャラクター。いきなり声をかけられたもんだから、こちとら狼狽。

そもそも、缶ビール派以外の派閥って何だ? 人を貧乏人とでも言いたいのか? こちらにどういったコメントを期待しているのだ?
レジで足止めをし、そないゆっくり相手している時間もない、端的に答えてさっさと退去しようと思い、「節約、ですねぇ」と答えたところ、なんとイッセー尾形は、「せーーーーつやく、ですよぇ?」と、僕のコメントと丸っぽ被せるようにして、且つ、「せーーーーー」のところをフェードインで且つグラインドさせるような風情で、被せてきやがった。
またしても、なんか小バカにされているみたいな気になって、早よう帰らせてくれといった風情のジェスチャーをしていると、イッセー尾形はさらに、「帰り道に飲みながら帰られる派っすか?」と、さらに軽い調子で、再び新たな派閥に属しているかどうかの尋問を続けてきた。

毒を食らわば皿まで、こうなったら、ちゃんと返事してやろうじゃあないの、そうやってちゃんと答えて、それで立派に帰らせてもらおうじゃあないの、そう腹を括った僕は、「そうですね。仕事帰りに飲みながら帰る派です!」と、好青年よろしく、答えてやった。
イッセー尾形は、「わかるなぁ~」など、一人で得心しているもんだから、レジを済ませた僕には帰る権利もあるんだし、イッセー尾形の対面から、歩を進め、帰らんとしたところ、イッセー尾形が、その特有の他人を小バカにしたような笑みを浮かべながら、「と・も・だ・ちぃ~」と、両の人差し指を僕に差し向けながら、チャラ男のようなジェスチャーで、且つ、大声で妙なことを口走ってきた。
きっと、イッセー尾形は、自分とビール関連の派閥が酷似している人物が現れてテンションが上がってしまったのだろう。
しかしだ、しかしだ、レジを待っている他の客にとって、店員の中年男性から、しかも、レジ中から、両の人差し指を差し向けられながら、「と・も・だ・ちぃ~」などというふざけた言葉を浴びている人間のことは、どう映るのだろう。被害者と見られるのだろうか、それとも、同類と見られるのだろうか。

脳内が、「と・も・だ・ちぃ~」の音節で埋め尽くされて、残りの帰路は、複雑な心境でいっぱいになった。
先ほどまでの、清く澄んだ感謝の気持ちはどこへやら、イッセー尾形の顔しか浮かばなくなった。

ああ、こんな出来事があった日は、いったい、何記念日になるのだろうか?

デタラメだもの。

20160117