お客さまとお仕事などをご一緒していると、あちらこちらと外出していく機会も多く、小市民な私たちは、お車などと呼ばれるハイカラなものに乗って移動できるわけもなく、公共交通機関の電車に乗って移動するわけ。

しっかしこの電車というものには、なんともまあ、玉石混交、雑多な人々が入り乱れていると感じて仕方がない。
世の中の怪しいことこの上ない素性の縮図と言いましょうか、世の中の実は奇妙奇天烈な実態を暴露していると言いましょうか、おかしい人間が多いこと多いこと。

東京に出かけていくため、朝早くに電車を利用した際、六人掛けのシートに、のんべんだらりん、まるで自分ちのベッドの如く、シートを私物化してグーグー眠っている兄ちゃんがおって、これはいかんと危惧したのが、その兄ちゃんの対面の椅子に、これまた恐らく早朝から、勉学のために遠方の優良な学校へ通うのであろう、立派な角帽を被った小学生が座っており、思わず、「アカンアカン、こういう非模範的な成人は目にしたらアカン、ほら、目を背けて、学習帳を注視しようね、熟視しようね……」と、身を乗り出したくもなった。

映画の舞台ともなり、どちらかと言うと、高級感の漂う阪急電車に、生まれて初めて乗車した際にも、作業着を着た大柄のおっちゃんが、シートのど真ん中にドシン、一人大股開いて鎮座。
グーガーグーガーとイビキをかいている様子が見てとれたので、なんか嫌な感じやなと嫌悪感を抱いた瞬間、おっちゃんの股間に違和感を覚え、ふと目をやってみると、小便を漏らしている。垂れ流している。薄緑の作業着ズボンの股間部分は、小便で変色。しかも、垂れ流した小便が、車両の床を流れ流れ、次の車両まで流れ行かんとばかりに、大河を作っている。
「なんじゃ、この電車」
そう思ってしまったのも、仕方があるまい。

スマートフォンを片手に、何やら急にニヤけ顔を浮かべるサラリーマンや、急に両隣の乗車客にアメちゃんを配り出す、大阪ならではのおばちゃん、目の前で高齢のおばあちゃんが杖を持って立っているのにも関わらず、子供三人を平気でシートに座らせ続けている、モラルのない若い母親、Bluetoothの接続が上手く行っていないことに気づかず、周りに大音量の音楽を垂れ流し始める男など、電車内の人間模様を見ていると、日替わり定食の如く、趣が移り変わって行くから、驚きだ。

そんな折り、仕事で新大阪駅界隈に用事があり、御堂筋線に乗っていたある日のこと。
相変わらず、悪臭多めのおっさん連中の中で、鼻息を止めつつ、中津駅を過ぎたあたりから地下鉄の車両が地上に這い出るため、窓外の景色に目をやり時間を過ごしていたところ、ふと目に留まったのが、読書に耽る小学生と思しき女学生。

近ごろの子供も大人も、やれ活字離れだの、やれゲーム機をピコピコやってみたり、スマートフォンを指でシュンシュンやってみたりと、本というものに視線を落としている人が少なくなっている昨今、読書に耽っている様子がとても微笑ましく、大きな文字フォントで印刷された子供向けの本を読んでいるその姿に、今後の日本もまだまだ安泰ぜよ、と、使ってみた試しさえない土佐弁を使ってみたくもなった。

その実、自分が小学生の頃、好きだった映画インディー・ジョーンズの文庫本を見つけ、それを手に取り、夢中になって読み漁ったのが、読書好きになるキッカケの一つだったため、子供たちが本を読むということはとても素晴らしいことぜよ、と、再び土佐弁を使いたくもなるわけである。

そんなことをぼんやり考えながら窓外の流れる景色を眺めていると、何気なく小学生が読む本のページに目が吸い寄せられた。
それはなぜかと言いますと、最後のページに差し掛かっていたからなのです。つまりは、ページタイトルが「おわりに」と、ひときわ大きな文字フォントで印字されているのが目に留まったからなのです、本の最後のページですよ、ショートショートだったら、オチが書かれている最後のページ、群像劇なら、無関係に思われていた全ての登場人物たちが、実は全て関係者同士だったということが判明するページ、推理小説なら、犯人と思われていた物語をひっくり返さんとする真犯人逮捕の瞬間、一冊の本を読み進めてきて、最も固唾を飲むページ、それが、最後のページである場合が多く、今、小学生は、その最後のページ、「おわりに」の章を読んでいるわけで、一冊の本単位で言えば、今まさに、歴史的瞬間に立ち会っているという感覚に襲われたわけです。

僕は感情移入し過ぎたり、キャラクターの心理を深読みしたりして読書するほうなので、一冊の本を読むのに、人よりも時間がかかってしまう上に、読了する際には、かなりの疲労感に襲われることになる。
そのため、一冊の本の最後のページを読み終わった瞬間には、まずは大きく深呼吸を一つ、それから小さな声で、「なるほどね」とか「やられたわ」とか「すごっ」とか、端的な感想をポツリ呟き、そして、大満足の表情を浮かべながら、改めて大きく息を吸い込み、その作品の世界と僕のいる世界も実は繋がっているよね、なんて空想しながら、空の見える場所に居ようが居まいが、上を見上げながら大きな空を思い浮かべる。

仮に周りに人がいたとしたら、そういう僕の様子を見て、さぞ奇怪にも思うだろうけれど、本を一冊読み終わるという偉業を成し遂げた瞬間くらい、誰にどう思われようが、自分なりの達成感に酔いしれたいので、気にもしない。

とまぁ、僕のことなどどうだっていいんだよ。今、目の前で、「おわりに」の章が終わろうとしているじゃあないの。他人が本を読了した瞬間、どのような快楽に襲われたり、どのような達成感の表現方法でもって、恍惚と舞い出すのかは知らないが、ともかく、「おわりに」が終わろうとしている。

そう思った刹那、「おわりに」のページがついにめくられ、片方のページは白紙、もう片方のページに、出版社や印刷会社などが記載された真に最後のページが現れ、そしてついに、本がパタムと閉じられた。
さらに本が閉じられたその刹那、本の表紙がチラリと見え、小学生が読んでいた本が、スヌーピーだったことが分かった。

ああ、なんだかいいよなぁ。隣で鼻くそをほじくりながら、車内吊り広告のうそ臭い見出しを追いかけ続けている、薄毛のサラリーマンなんかより、よっぽどいいよな。
小学生が本を読んでいるんだぜ。しかも、今、一冊、読了したんだぜ。残念ながら、その小学生が、本を読了した瞬間に、僕と同じような奇怪な行動や表情を見せなかったことを考えると、どうやらそういった変態的な行動は、僕一人か、もしくは、ごく少数の人間しか取り得ない行動ということで、理解しておこう。皆が皆、そんな風にするもんだという先入観は、今後、捨てながら生きようと思う。

そんなことより、とてもいい光景を見させてもらった。とてもいい瞬間に立ち会わせてもらった。

別にどんな本を読もうがいい。卑しくも物を書く身分として、活字から脳内に自分勝手で理想的な映像を描画できる本という存在を、一人でも多くの若者たちに味わって欲しいと思うし、それが別に電子書籍だっていい、誰かが作ったイラストやグラフィック、音楽なんかの一切を排除して、自らが役者たちに演出を施し、バックグラウンドミュージックをイメージしながら、情景や風景のディテールを再現していく、読書という夢のある行為の虜になって欲しいと思う。

思慮をグングンと深めながら、半ば満たされた気持ちでお客さまを訪問し、プレゼンテーションをする時間になったものの、脳内が「本っていいよね」という思考で染められてしまっていたため、会話のほぼ全てを同行していた者に任せ、自分は一人、ぽつねん、薄ら笑みを浮かべながら、一冊の本を読了したわけでもないのに、恍惚な表情を浮かべていたのであった。

文学界の明日は明るいのかも知れないが、この仕事っぷりじゃあ、僕の明日は決して明るくないかも知れない。

デタラメだもの。

20160111