妙に記憶力が良いというのも、困りものである。
かく言う自分は、妙に記憶力が良く、ほとほと困らされる場面が多い。

早速話が脱線して恐縮ではあるが、記憶力も去ることながら、鼻も妙に利く。この、鼻が妙に利くというのも、ほとほと困りものである。
どう考えても、一般人の数倍近くの嗅覚があることは間違いなく、それで何が困るかと言うと、世の中が悪臭に包まれていることである。
公衆便所はもちろんのこと、街の至る所や電車の中。この電車の中なんていうものは、最悪だ。特に夏場。嗅覚が異常に発達している人間からすると地獄以外の何物でもない。
朝の起き抜けの不機嫌な中、満員に近い電車に乗ると、目の前におっさん。それほど身長の高くない自分の鼻は、ちょうどおっさんのうなじ付近に位置することが多く、ただでさえ悪臭が漂っている車内の中、高性能な鼻のまん前におっさんのうなじを近づけられた日には、卒倒しそうになる。
ということもあり、普段、僕はめったと鼻で息をしない。どこに行っても鼻で息をしない。口呼吸のみである。トイレもそう。風呂場もそう。給湯室もそう。どんな場所でも、鼻で息をしない。不意を突いて、鼻腔内部に、悪臭が侵入してくることを極度に恐れるがために、鼻で息をすることをしなくなった。それにより、ニオイ問題は解決されつつあるものの、鼻が極度に利くというのは、本当に困りものなわけだ。

話を元に戻そう。
記憶力についても、妙に発達してしまうと、自分自身を困らせる能力の一つに化してしまう。
じゃあ、いったいどんな記憶力に長けているのかというと、人の顔を覚えすぎてしまうことだ。

軽く接点があった程度の人だろうが、一度街中ですれ違って、何らかの印象に残った程度の人だろうが、ひと度、顔を認識してしまうと、どんなことがあろうが、記憶から消えてくれない。

それのどこが困りものなんだ? きっとそう思うだろう。記憶力が良いってことは、便利なことなんちゃうんかい? そう思う人も多いだろう。それがそうでもないんだなあ。覚え過ぎているってのも、都合が悪い。
なぜか?
それは、こっちが相手の顔を覚えているにも関わらず、相手はこっちの顔を覚えていないというケースに出くわすことが多いからだ。
実際に、相手に対して、「僕のこと覚えてはります?」と確認し、「はて? どなたさんでしょう?」などと、無礼なことを言ってのけられた経験があるわけではない。
だけども、もう生まれてこのかた、長い年月を経て、それなりの経験を積んだ自分なら分かる。絶対に、相手は、こちらのことなど記憶に残してくれてやしない。

僻み根性からなんだろうか? いや違う。自分の妙な記憶力の凄まじさと、他人のそれとを比較した場合、圧倒的に差があるのは歴然で、そうすると、こちらが記憶している相手と言えど、相手はこちらを記憶などしてくれていない。

例えば、街中で、知った顔を目撃することが多い。知った顔と言っても、前述通り、過去に軽い知人であった程度の人から、一度だけ会ったことのある人、こちらが身勝手に認識し印象に残してしまっているだけの人もいるが、それらを総じて知った顔と言って語弊がないとするならば、街中ではよく、知った顔に出くわす。
そうなった場合、もちろんこちらは、知った顔と言ってしまっているくらいなので、記憶に残っているが、向こうは絶対にこちらのことなど、記憶にないはずだ。
となると、「久しぶり!」とか「ご無沙汰してます!」などと、フランクに声をかけるのも歪で、向こうからすると「誰やこいつ?」ってな相手が、突如としてフランクに声をかけてくるもんだから、慌てふためいて仕方がないだろう。
そして、相手に対して、「このフランクな兄ちゃんはこちらのことを覚えてくれているのに、こっちはこの兄ちゃんのことを覚えていない。自分はなんて不覚な奴なんだ。武士の世界ならば、切腹して詫びねばならない失態。どない償って良いものだろうか。すんません、すんません。こんな無礼な自分を許してくださいませ……」と、こちらのことを忘れてしまっている失態について、心の中で、深く陳謝させてしまうことになる。

それを知ってて、「久しぶり!」などと、テヘヘ顔して言ってのけられるわけがない。その軽率な行動が、相手の心を踏みにじってしまうことになるのだ。「久しぶり!」なんてセリフは、口が裂けても言えない。

仮に相手が、「あぁ……。ご無沙汰してますぅー」なんて、超大人な対応で、こちらのフランクな態度に合わせてくれたとしても、相手の口元に、少しでも居心地の悪さが滲み出たりしようもんなら、ああ、やっぱり覚えてはらなかったんだな、悪いことをしたなあ、一生懸命に覚えている風の演技でその場を過ごそうとしてくれてはる、本当に申し訳ないことをしたと、こちらも罰が悪く、足早に立ち去らねばと反省し、猛ダッシュの末、近隣の川にでも飛び込んでしまうしか、身の振り方がなくなってしまうじゃあないの。

だから嫌なんだ、記憶力。
よく、「俺、他人の顔とか、名前とか、覚えられないタイプなんスよぉ」とか、風俗のキャッチの兄ちゃんのようなテンションで言ってのける輩がいるが、そんなことが言えるということが、どれほど恵まれたことかを、しっかりと噛み締めて欲しいもんだ。

妙な記憶力の良さを疎ましく思っている自分が取れる処世術として、知った顔が街中で出現などした場合、道路だったら、逆側の道路へとスピーディーに移動する。電車内だったら、次の停車駅で一瞬だけホームに降り立ち、隣の車両に移動する。どうしてもニアミスしそうな一本道の場合には、人生に何の兆しも見えず、お先真っ暗で未来も見えない極度の憂鬱を抱いた人間の如く、足元を見つめながら歩いている風情を醸し出し、俯き加減ですれ違う。そんな処世術を駆使しながら、知った顔と接触しないようにして生きている。

どうしてそんな処世術を駆使しなければならなくなったかというと、知った顔の人々が、こちらに対して、「久しぶり!」だとか「ご無沙汰です!」とか、声をかけてくれたためしが、一度たりともなかったことに起因する。
一度でもそんな幸福な瞬間を経験していたとしたならば、こんな自分も胸を張って、「久しぶり!」とか言ってのけられる人間になれていたのかもしれないが、悲しいかな、そんな恵まれた瞬間は、一度も訪れなかった。
それほどに、自分という人間は、印象が薄いのだろうか。破天荒に生きているつもりなのに、もしかしたら、誰の目にも映っていないのかもしれない。もしかしたら、透明人間的な要素を兼ね備えているのかもしれない。

そういえば、小学生の遠足のとき、複数の生徒で構成されたチーム制で移動などしている最中、点呼の際に、構成された複数の生徒全員が揃っていないと、チームの不和があるということで、そのチームに対してペナルティが課せられるというルールが採用されていたにも関わらず、ひょんな理由でモタモタと点呼に集合できなかった僕という存在がいたのに、いたのにだ、どのチームに対してもペナルティが課せられた形跡もなく、無事、点呼の際に、複数の生徒で構成されたメンバー全員が集ったという証が残されていたことがある。
僕が点呼に参加できていなかったにも関わらずだ、ペナルティがないとはどういうことだ。それほどに印象にないということか? これほどまでに印象がないと、誰にペナルティを課すことなく、点呼に参加しなくてもいいということなのか?

冒頭の問題定義の主旨が変わってきたことに気づいた人もいるだろう。
妙な記憶力はほとほと困りものだと訴えたい自分がいるのか、自分の印象がとてつもなく薄いという悲しみを訴えたい自分がいるのか、どちらの訴えが自分のソウルから発せられているのか、それさえをも見失いかけている自分がいる。

ただしこれだけは言える、言ってあげることができる。もし、自意識が過剰過ぎて、人前でしゃべることが苦手だと言った人や、人前で何かを披露するときに、極度に緊張し、上手くやってのけられない人、相手に自分がどう映っているのかが不安で、対人関係を上手くこなせない人。そんな人に言ってあげたい。
他人の記憶になんて、そう簡単に残るもんじゃない。他人の記憶に残れるなんて、そんなおこがましい驕りは、今すぐ捨て去ったほうがいい。
心配しなくていい。安心してもらってもいい。君のことなんて、誰も覚えちゃいない。君が他人の前で、いかなる失態をしようとも、他人は君のことなんて、覚えちゃいない。覚えていてくれるほど、他人なんて優しくもない。
だから、他人にどう思われるか分からないから……という理由で臆病になっている君、僕と一緒に、点呼に不参加でいてやろうじゃないか。
きっと、どのチームもペナルティを喰らうことなく、のほほんと、手作りのメダルか何かを首からぶら下げてもらって、のほほんとピースサインで集合写真なんかを撮っちゃってるよ。
安心したまえ、君のことなど、誰も覚えていない。
もちろん、僕のことなんて、もっと、誰も覚えてくれていない。

悲しみから生まれたこの名言は、ぜひとも、記憶の中に留めておいていただきたいものだ。

デタラメだもの。

201150813