それにしても月日が流れるのは早いもんで、一週間など、あっと言う間に過ぎていきやがる。こんな感じで一週間があっと言う間に過ぎていくようならば、そりゃ一ヵ月だって早く過ぎていくだろうし、一年はもちろんのこと、十年、いや二十年、一生だって早く過ぎてしまい兼ねない。
その証拠に、若かりし頃は、「ああ、早く週末来ねぇかな? 仕事なんてダルくてやってらんねぇぜ。平日、ファック! 週末、最強! 平日マジでダリぃ。早く週末来ねぇかな!」などと、仕事のある平日を毛嫌いし、仕事のない休日を溺愛していたため、嫌な平日はやたらと長く感じ、ウキウキと過ごせる週末はやたらと短く感じ、「もうサザエさんやってるよ…。また明日から仕事だべ。長い平日が始まるわ…」と意気消沈していたものの、それがどうやらここ数年、平日さえもが短く感じているようで、嫌な嫌な仕事が延々と続く平日までもが短くなっているということは、元来短く感じていた休日はもちろん短く、そうなれば一週間というものは非常に短く、そりゃ『いのち短し 恋せよ少女』なんて素敵なフレーズが共感を生むわけだと妙に深く納得している今日この頃である。
こんなスピードで日々が過ぎて行かれた日にゃ、老いや死を意識せざるを得んがな。得んがなまんがな。

話は変わって、自分には、友人というものが居ない。「俺は友だちいないからなぁ」と、涼しげな顔をして言ってのけるような輩の数十倍、いや数百倍、深刻なレベルで友人というものが居ない。
もはや、この歳にもなると、「もう友人とかええわぁ」と達観してしまっているので、殊更に焦る必要もないが、自分という人間は、ほとほと人付き合いが出来ない人間だと痛感する。

ただ、痛感と言っても、痛感とは本来、自分が何かしらしでかしてしまったり、ミスしてしまったり、落ち度があったり、やらかしてしまったりしたその事後、やっぱり自分にはこれは向いていないだとか、やっぱり自分にはこの才能はないなどといった具合に、いわゆる『痛感』するもんだろうが、僕の場合は、周りから『痛感』させられると表現したほうが適切なのかも知れない。

じゃあお前さん、どういった具合に周りからそれを痛感させられているんだいと、多少なりとも興味を持ってくれる人もいるかも知れないので、ひと言でそれを言ってしまおう。つまりは、平素、誰からも連絡というものが入ってこないからである。
またしても、「俺も連絡なんて、平素、誰からも入らんぜ」と、涼しげな顔をして言ってのけるような輩が現れては困るので、先に断っておくけれども、そういった輩の数十倍、いや数百倍、深刻なレベルで、誰からの連絡も入ってこないのである、これ。

先にも書いたように、今ではすっかり達観してしまっているが、僕はその昔、友人知人というものと自分との関係性において、ある法則があるのではということに気づいてしまったのである。
それは何かというと、誰かと友人関係を継続していたとして、それを友人関係だと思い込んでいたとして、こちらからその友人と思い込んでいる人間に対して、ピタッと連絡を送ることを止めてみると、あら不思議、向こうからはこちらに、一切と言っていいほど、連絡を寄越しやがらないのである。
まさかと思い、別の、仮にBさんとしよう、そうなるとつまり、先ほどの誰かさんはAさんということになるので、こちらの誰かさんはBさんとさせていただくが、この友人と思い込んでいるBさんに対しても同様、こちらからの連絡を一切止めてみると、あら不思議、その後、Bさんと連絡を取る機会というものが、全く消滅してしまうのである。

この法則、男女はもちろんのこと、老いも若きも、自分が友人と思い込んでいる人間全てにおいて、この結果になったわけであるからして、となると、僕には友人と呼べる人間が一人も居ないということを意味するわけで、それによって、今では既に、「友人って何? それって旨いのけ?」くらいに達観してしまっているのである。

ただ悲しいかな、浅いお付き合いの人々からは、「友だち多そうですよねぇ」とか「人付き合いが上手いですねぇ」とか「人脈が多そうですよねぇ」などと妙な称賛を受けるので、いちいち否定するのも面倒臭く、「あはは、あはははは、そうですねえ、確かに多くございますわねえ」などと、薄ら笑いを浮かべながら返答もするが、それだけならまだしも、友だちと思い込んでいるような人間から、「お前とおるとオモロイわ!」などと、浪速のレゲエグループが謳う歌詞よろしくの称賛をいただいたりすることもあり、そうなってくると内心、「本心からそうやって称賛してくれてるんやったら、連絡の一つでも寄越してくれるはずやろ……」と、これまた疑心暗鬼に陥る始末。嗚呼、人間なんて、誰も彼も信用できないや。

そうやってすっかり捻くれてしまった結果、携帯電話の機種変更を行う際に、電話帳なるものを、新しい機械に移すということをせず、店員さんから、「電話帳のデータ移しましょうか?」と聞かれたときにも、「いいえ、結構です!」と、クラスメイトから勧められたドラッグをキッパリと断る生徒会長の如く、掌を店員の眼前に突き出し断り続けてきた。
機械的に電話帳を移すことがないので、新しく手にした携帯電話の電話帳は空っぽ。この世界との繋がりが、誰一人として、ない状態を意味する。これがまた気持ちいいんだ。
そうして空っぽの電話帳の中に、この人とは後世、何らかの理由で連絡を送る(もちろん向こうからはかかってはこないが)ことがあるかも知れないと予感させられる人々については、手入力で電話帳に移すという行為を、ここ7~8年続けているが、その数や、年々減少して行く。
これは人間関係を清算していると言うのか、縮小化していると言うのか、スリム化していると言うのか、やっぱり人間関係もエコの時代よね、はははん、電話帳の件数がどんどんと減っているわけである。
でも、そりゃ当然よね。毎年毎年、そのリストは精査されて然るべき。だって、今年も連絡送らなかったな、去年も一昨年も送ってなかったなって、毎年毎年記録を更新しているような人の連絡先なんて、保持してても何の意味もない。万が一、十年先までそいつの連絡先を温めておいて、いざそいつに連絡せねばならないような事態って、よっぽどの緊急事態なような気がして、そんな緊急事態なら、いっそ警察に電話したり、家の前の往来を行くおっさんに声をかけたり、インターネットの知恵袋的な掲示板に投稿したりなどするほうが、よほどの解決に至りそうな気もして、そうなってくると、尚のこと、それは不要、ということになり、削除削除。
今ではすっかり痩せ細った電話帳しかなくなっているという次第である。

ところが先日、仕事で鬱憤が溜まりに溜まり、身元引受人不在の感情が渦巻いてきたため、安酒、世に言うところの缶ビールを大量に流し込んで、おろろおろろと千鳥足で歩いているとき、何の衝動に駆られたのか、その痩せ細った状態の電話帳の中身を、さらに精査したらん! という感情が沸き起こってきたのである。
おもむろにスマートフォンを取り出した僕は、毎回毎回、機種変更を行い電話帳が精査された際にも、その厳正な審査の上、残ってきた精鋭たちに、鬼のようなふるいを加え、迷いのない指の動作と共に、シュンシュシュシュン、次々に消去していったのである。
「ええい、もうええわい、連絡を取るかも知らんって、何やねん。知らんって、何やねん。こっちは、取るかも知らんなんて薄い期待を積み残していたとしても、向こうは連絡を取る気なんざ毛頭無いんじゃ。それだけは明白な事実じゃろがい。それを、いつか取るかも知らんって、わしゃ乙女か! いらんいらん、こんなもん要らんのじゃい!」

結果的に、世の中で僕が能動的に連絡の取れる人間は、ほとんど居なくなってしまった。ががが、気持ち良い。
悦に入りながら、電車の到着を待っていると、やたらめったらリアルが充実してそうな男女二組が、ワイワイと甲高い声を上げながら、同じく電車を待つべく、僕の横あたりにやって来た。
なんじゃい、嫌味のようにワイワイやりやがって、やたらめったらリアルの充実感をアピールしやがってと、鬱蒼とした気持ちを抱いていると、その中の一人の男子が、あろうことか、僕の靴をふとした拍子に思いっきり踏みやがって、こんちくしょう、リアルがやたらめったら充実しているくせに、この我輩の靴までをも踏みやがるなんて下衆の極み、どついてやろうかしらと、その集団にグワッと目をやると、なんと、お連れ様の女子がどちらも、大層ブサイクなお顔をしていらっしゃって、なあんだ、リアルが充実してるってこんな程度か、こんなお顔の女子なんて、連れて歩きたくもないないわな。ぎゃははははと内心喜んでいると、電車が到着したので、ルンルン気分で乗り込んだ。
いいよいいよ、靴踏まれたくらいで僕は怒ったりしないよ、ふふふん、僕は器が大きいからねえ、そんなんでイライラしないよと、酔いも巡り薄ら笑いを浮かべていると、どうやら、下車せねばならん駅には停車しないタイプの急行電車に乗り込んでしまっていたらしく、降りねばならん駅を通過してから二十五分近くも無駄な旅を続けるハメになってしまったことは、少なくともリアルが充実している奴らだけには悟られまいと、ポーカーフェイスを続けてみた。

デタラメだもの。

201150719