日夜、広告屋として働いていると、いろんな人に助けられて、豪勢とは到底呼べなくとも、こうして日々、細々と食いつないでいけている。
僕たち広告屋が、デザインやらコピーやらを仕立てたとしても、それを実際の広告物に仕立ててくれるのは、印刷屋さんなわけで、その印刷屋さんも、紙屋さんで紙を仕入れなかったら、印刷をすることもできなかったりと、日々、いろいろな人が動いて、僕のような若輩者が仕立てたデザインやらコピーなどを現実の形にしてくれている。

印刷屋さんの方々には、日ごろより、感謝の意を表しても表し尽くせないほどの気持ちを抱いているのだけれども、そのなかで、いつでも、どんなときでも、アイデアと知恵と工夫と、そしてなにより、ボーイズの気持ちを忘れずに物づくりを続けている、ある小さな印刷屋の社長がいる。

僕が今よりも若かりし頃、Webの分野でうつつを抜かして、「これからはWebの時代でしょ」「ふふふん、Webやってれば、そのうち財産築けるんでしょ」「ははん、Webの仕事、ウマウマ」などと、涼しい顔をして、Webを生業としていた僕に、その後の生き方を変えるひと言をプレゼントしてくれた人だ。

ある日、クライアントの要望により、自立式のバナースタンドを制作せねばならなくなった。
Web以外の不慣れな仕事を請けてしまったことにより、途方に暮れながらも、物づくりのおっちゃんがいるということは、社内の情報により知っていたため、半ばSOSを出す気持ちで、その社長に電話をした。

心の底からの敬意を込めて、ここでは、おっちゃんと呼ばせてもらおう。
そのおっちゃんはとても謙虚で温厚な方で、二回り近くも年下であろう僕に、それはそれは腰の低い応対で、僕のSOSの要望を聞き入れてくれた。
普段、パソコンのモニターばかりを見て、パチパチ打っては、カチカチ押して、小気味良い機械ばかりをこねくりまわしている僕に、「たまには、ホンモノの世界にも来てくださいねえ」と言葉を投げかけてくれた。

ホンモノの世界?
おっちゃんは、別にWebの世界を、ニセモノと思っているわけではない。そういう意味で言ったんじゃない。
確かにWebの世界も物づくりに違いないが、のぼりやら印刷物の加工やらターポリンのバナースタンドやら屋外看板やら、ホンモノの物づくりのように、汗をかくことも、怪我をすることも、血を流すことも、ない。
クライアントを思えばこそ大切なことなのかも知れないが、0.1%だの1.3%だのと、ハナクソのように細かい過去の数値ばかりを追いかけて、過去にとらわれて、未来に蓋をするようなWebのマーケティングなどとは、やはり、物づくりの世界は、決定的に違う。

その後、僕は、おっちゃんのひと言に胸を打たれ過ぎて、ホンモノの世界でも勝負してみることにした。
いわゆるWeb以外のもの、そんななんでもを、作ってやろう、世に送り出してやろう、そう決意した。もちろん、それらを形にするためには、おっちゃんをはじめ、多くの人たちの協力は不可欠だけれども、次々と新しい広告物を作っていった。

さすがホンモノの世界やなと痛感したのは、おっちゃんが作るもの、そこには、独自のアイデアや工夫や知恵や、そしてボーイズの魂が込められているので、それは世に言う、一点ものとなるわけ。
一点ものとなった広告物は、世の中からも重宝され、どれもこれもが注目を浴びた。
それらを見て、別の大きな代理店が、ソックリそのままパクりにかかるというような事件まで起こった。

これが、おっちゃんの言うてた、ホンモノの世界かあ。
仕上げていただく広告物に、いちいち興奮したし、いちいち感動した。
それが世に出た際の写真をクライアントから送ってもらったりなどした際には、涙も出た。

そんなおっちゃんが、病に伏して、しばらくが経つ。
すぐに復帰すると吉報を聞いてからというもの、まだ仕事には戻れる状態じゃないという凶報ばかりが続く。

印刷屋さんにても広告屋にしても、クライアントから見れば業者になる。
僕たちから見ても、印刷屋さんというのは、業者さんになる。
でも、業者さんだろうが、広告屋だろうが、代理店だろうが、クライアントだろうが、物づくりをしていると人は、すべて、物づくりの担い手で。そこに、上も下も、ない。

それにも関わらず、物づくりの尊厳を無視するかの如く、「発注先の業者が減った」とか「選択肢がひとつ消えた」とか、ただの外注としての選択肢としか見ない人間が、ことごとく多い。
こんな奴らに、物づくりの素晴らしさなど、わかるはずもない。こんな奴らが日々やっていることは、飯を喰らうためだけに、お金をコロコロと転がしているだけに過ぎない。

分かっているのか、世の中の連中よ。
物づくりを志している人と、そうでない人とは、存在価値そのものが、全く違っているのだ。
なぜなら、「その人がいなければ、これまでの数々は、世に出ることがなかったからだ」
ということはつまり、「その人がいなければ、これから世に出ることのない数々があるということだ」

ああ、最近、なんだか眠たい。
日々の仕事に追われ、長渕剛の言葉を借りるとするならば、「暮らしにまみれた」状態が、ずっとずっと続いている。無気力に呆けた奥歯が、噛んだスルメに苛められて悲鳴を上げている。

広告屋の日々は、今日もこうして、物づくりに焦がれながらも、四面楚歌のしがらみに囚われながら、足をすくわれ、転びそうになりながらも、なんとかオンボロの杖で心を支え、少しばかりの赤色をクリエイティブに足したり、煤けた用紙に文字を書き入れたりしている。

社長ともう一度、一緒に仕事ができる日が、待ち遠しい。
なにやら、今日のカラスは、必要以上に鳴きやがる。

デタラメだもの。

201150208