常連客というものは、一見さんからすると、憧れの存在であり、羨望の眼の対象なわけである。
そして、自分がその店の常連になれたと感じる瞬間は、何よりも優越感があり、ふふふん、俺はここの常連だぜ、君たちとはひと味もふた味も違うぜなんて、鼻先にそよ風を吹かせたりもできる。

入店時、通常であれば、「いらっしゃいませ」と言われるところを「まいど!」と声をかけられる。
まいどやで、まいど。俺にはまいどって言うてくれるねんど、ほらみろ、今この店の中にいるお客様方々の中で、まいどって言われた人いてはる?仲間やね。ちなみに、いらっしゃいませって言われた人いてはる?はははぁ、君たちは、いらっしゃいませ組なわけやね、そうかそうか、まぁこの店、よろしゅうしたってえなぁ。

と、僕のように、恐ろしく性分の歪んだ常連客が登場するわけである。

先日も、そんな僕は、某立ち飲み屋にて、常連化した。
なかなかに美味しく、果てしなく安く、居心地もよく、仕事帰りに愛用させていただいている立ち飲み屋で、何度も通ううちに、オーダーも固定化されはじめ、先日、気分よく注文した際に、「いつものですね!」と声をかけていただき、有頂天。
いつものですねと言っていただけるということは、僕が注文するオーダーを記憶していただいており、もっと言えば、僕というような希薄な存在をも記憶していただいていることであり、それはつまりは、常連になっていると言ってしまっても良いんじゃあないでしょうか。

ヘラヘラと常連になれたことに浮き足立っているだけと思うなかれ。
常連という響きをこよなく愛しているからこそ、常連の怖さ、恐ろしさ、恐怖、ある種の不自由さをも、僕は身に染みて知っているつもりだ。

以前、仕事の昼休みに、部下と足しげく通っていた、チェーン店の喫茶店。
僕は旧来の面倒臭がりの性分から、毎回毎回同じ品を注文していた。(面倒臭がりの性分というか、その店で最安値のドリンクだという理由からだが)
すると、店員さん、いつしか「今日もいつものですね」と、注文を口にせずとも、オーダーを受け付けてくれるという、いわゆる常連へと格上げしてくれたわけ。
そしてさらには、店外のガラス越しに我々の姿を捉え、入店を予期した瞬間から、そのドリンクを準備し出すというほどに、特別待遇な存在になれたわけである。

当初はこの扱いに、部下共々、わははわはは、我々すっかり常連になったもんじゃ、これは天下統一の日も近いぞ近いぞ、バカヤロウ。と浮かれに浮かれていた。

が、日々飲んでいたドリンクが冷たい種別の飲み物であったため、冬も本番という季節になってくると、「この季節、ちょっと冷たい種別のドリンクは控えさせていただきたいのですがボス。いつものノリでいくと、確実に冷たい種別のドリンクが出されますよね、僕たち常連ですから。でも、僕はそろそろ冷たい種別のドリンクじゃあなくって、温かい種別のドリンクを飲みたいのですが、如何いたしましょうか、ボス」
などと、部下の野郎がふざけたことを言い出した。

一抹の不安が脳内を疾走する。
「いつものですね!」という掛け声は、常連が、いつもいつもお馴染みの品を飽きもせずオーダーするが故に、それを特別待遇のショートカットでもって「いつものですね!」になるわけで、その、いつもの感を逸脱するということは、常連条例に違反することになるのではないだろうか。
そして、ひと度、その掟を破り、常連の道を逸脱してしまうと、店員さんは、こいつらは、大抵はいつもの品をオーダーしやがるくせに、たまにフェイントで、違う品をオーダーする危険性もある。こちらが、いつもの感を出して接していると、不定期にそれを裏切る可能性のある要注意人物たちだ。いつもの感を出して接していると、恥をかかされる危険性がある。一杯食わされる危険性がある。こんな奴らは常連扱いすべきではない。常連扱いどころか、人畜無害なその他のお客様よりも、愚として扱うべきである。
そう思われるに決まっている。

案の定だった。
少し食い気味に「いつものですね!」とオーダーを受付ようとする店員さんを制し、「今日は温かい種別のドリンクをお願いします」と言ってのけた部下。その顔面を、畏怖と軽蔑の念で呆然と見つめる店員さん。
カウンターを挟みながら、とてつもなく気まずい空気が流れ、それはやがて濁り、うねり、いてもたってもいられないような状況に陥ってしまった。

もう想像していただけるだろう。
その日を境に、「いつものですね!」は消滅し、「ご注文をお伺いいたします」という、一見さんと同じ掛け声をいただくようになり、それだけならまだしも、今まで常連であった者たちが、格下げされたという妙な関係性から、気まずさは継続し、そういった居心地を嫌う僕は、以降、その店に足を運べなくなってしまった。

そんな風にして、常連というものは、馴染みの店をひとつ失ってしまうかもしれないという危険と隣り合わせな存在だと、常に意識していなければいけない。
本当にその店が好きならば、常連にならないよう、極力の気を配りながら、お店と接する必要があるのかもしれない。

常連でふと頭に浮かんだのだけれど、僕がまだ若かりし頃、高校生くらいの頃だったろうか、父親と一杯やる機会があり、父親、息子と飲むというたまの機会に、たいそう気分を良くし、ぬはははぬははと酒を煽り、しまいにはこう言ってのけたわけである。

「坊ちゃん。我輩が常連とされている飲み屋に連れてってやろうか」と。

連れてこられたのは、少し場末で、日本国籍ではない国の方々がカウンターの向こう側にいる風情のお店。
常連扱いされていることを息子に誇示したかったのか、カウンターの向こう側でニコニコする異国の女性たちと、やたらめったらデレデレする父親。
今も昔も、そういう風情のお店を好まない僕は、それをひどく冷めた目で見て過ごしていたのだが、その後、衝撃の事態を目の当たりにすることになる。

父親、お会計の段階になり、カウンターの向こう側からこちら側にやってきた店を仕切っているであろう年長の女性と、何やらモメ出したのである。

「僕は、常連だよね?」
「ごめんなさい」
「常連のはずだよね。それなのに、何、この会計」
「ごめんなさい。お会計間違った」
「常連に何してくれてるの?」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「もう常連の僕、二度と来ないよ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

何故か標準語で激高する父親と、片言の日本語で必死に謝罪する年長の女性。
その様子を見て若かりし僕は、大人というものは、とても醜い存在であると辟易し、自分はこういった類の店には近づかないような人間になろうと意を固め、モメている大人の間を縫って、そそくさお暇させていただいた記憶がある。

今思えば、その様子から学べる教訓があるということ。
そう、お店によっては、入った瞬間から常連化してくれる店もあり、常連客だと洗脳してくる店もあり、その常連から容赦なくぼったくりを計ろうと企む店もあり、店によっては、それら常連を、カモと呼んでいる店もあるということ。

常連、怖ろしや。
されど憧れる、常連という響き。

デタラメだもの。

201141026