僕とか俺とか、ワシとかオイラとか、オラとかワイとか、男にとって、自分のことを指す代名詞が複数ある。
オイラと聞くと、ビートたけしを思い起こさせたり、オラと聞けば、ドラゴンボールの孫悟空を想起させたりと、それら代名詞には、少なからず役割がある。

女性にとっても、ワタシとかアタシとか、ウチとか複数の代名詞があり、人によれば、自分の名前が、ミカなら、「ミカ的にわぁ~」などと、代名詞に頼らずに生きている猛者もいるだろう。

女性は自分のことをどの代名詞で呼ぶのか、どのようにして決定しているのかは定かではないけれど、男性にとって、この代名詞というやつ、プライドやら自尊心やら地位やら名誉やら、他人と自分とのバランスやら敬意や謙譲、尊敬やら敬い、はたまた、威圧やら暴圧やら、複雑な要因が絡まり合っているので、どれを選択するか、なかなかに、やっかいなもんなのである。

僕は、僕を、僕と呼んでいる。
僕が僕を僕と呼ぶ、すなわち、僕という代名詞を使うことには理由がある。
普段からのほほんと、生きているのか生かされているのか区別もつかないような生き方をしている自分のことなので、偉そうに理由があるなんていってみても、たいした理由ではないのだけれど、ちょっとした拘り、違う、そんなたいしたものではない、ちょっとした意味合い、違うなぁ、そうだ、理屈だ、理屈がある。

自分は、自分自身を俺と呼ぶに相応しい人間になれたためしがないので、恐れ多くて、俺などと僕は僕のことを呼べない。

仮に想像して欲しい。
普段、自分のことを俺と呼んでいる男が、時に、恐ろしく強面のメンズや、どう考えても格闘技でそれなりの名誉を手にしてはりますよねオタク、といった、イカつい人間に、

「おい!ワレこらぁ、誰に向かってメンチ切っとるんじゃ!」
と絡まれ、
「俺、メ、メンチ切ってません……」
として、自分のことを俺と普段通り呼んでみたとしよう。
「おのれ、誰に向かって俺とかホザいとるんじゃ、ボケェ!殺すぞ!アホンダラ!」
と、首筋にナイフのひとつでも突き立てられようもんなら、
「ひ、ひぃぃぃ、すみません、僕です、僕ぅぅぅぅぅ」
と、俺という代名詞から、僕というそれに、切り替えるだろう。

そうでないにしても、自分とは住む世界の違うような偉大な人と対峙したとしよう。
その方の世界では、信じられないくらいの功績を上げておられ、誰からも尊敬されるような偉大な人物。
そのお方から、

「君の趣味は……(偉人特有の間)……なんだね?」
などと、深海魚も居心地の良さを感じるほどの深い声色で尋ねられたとしよう。
すると、普段、自分のことを俺と呼んでいる男でも、たまらず、
「ぼ、ぼ、僕の趣味ですか……M性感です」
などと、思わず、僕という呼び方をし、挙句に、性癖まで吐露してしまうほどに情けない状態に陥ってしまうだろう。

すると何かい、自分のことを俺と呼んでいる奴は、話す相手、対峙する相手、時と場合、状況やら環境やら、そういったものを考慮し、俺を俺と呼んでいい場面か、俺を僕と呼ぶ場面かを、瞬時に判断し、そして、俺のGOサインが出たときのみ、自分のことを俺と呼んでいることになるじゃろうが。
そんなアホなこと、あるかい。
俺は空気を呼んで、俺のことを僕と呼びます。みたいなノリかい。あほんだらあ。

そういうのがみっともなくて、僕は僕のことを俺ではなく僕と呼ぶことに決めた。
女子には俺と呼べて、怖いお兄さんには僕と呼ぶ。その精神が、非日本男児の気配があり、違和感があり、ムズムズし、僕と呼ぶことに決めた。

そうやって、切り替えのきく「俺」ならば、もうすでに、「僕」並みの域に堕ちてると思うけどね。

他にも理屈があって、年齢や経験などを重ねて、とても大きな男になられた方が、自分のことを、僕などと呼んでいる光景を見ると、それほどに人として大きくなられたにも関わらず、自分のことを僕と呼ぶその器の大きさと謙虚さに、憧れを超え、羨望の眼差し、ただただ感服してしまい、いずれは自分もそういった人になりたいと思うわけで、やがて自分もそんな風な人間になる意志があるのならば、あえて、俺の時代など経なくても、そもそも、ずっと僕でいいんじゃないだろうかとも思っている次第で。

ところが、僕には、ごく稀に、俺が出る瞬間がある。
普段生きている時間のなかで、そりゃ人間だもの、激昂する場面や憤怒する場面、咆哮する場面や怒髪天を衝いてしまう場面などもあるが、そういった場面で、感情のまにまに、自分のことを俺と呼んでしまう瞬間がある。
その瞬間、きっと僕、いや、俺には、過去に見た、激昂する男のイメージやら、憤怒するヤンキーのイメージやらが、潜在意識に刷り込まれていて、それらが自分を誘引し、

「ほれ、お前さん、こんな風な口調で、こんな風なことを怒鳴り散らしたら、カッコエエぞい」

と、そのイメージが憑依し、ついつい口走ってしまっているはず。
しかしその刹那、心中では、

「わぁ!僕は今、僕のことを俺などと呼んでしまった。怒りの感情と妙なイメージの憑依によって、俺などと呼ぶに相応しくない自分みたいな人間が、今、僕のことを俺と呼んでしまったじゃあないの、なんてこと、恥ずかしい恥ずかしい、羞恥の極み、死にたい死にたい、穴があったら、入れずに入りたいじゃあないの」

と、赤面してしまいそうになり、一応、形式上、怒りの問答は続けるものの、心中は既にクールに冷め、恥ずかしさのあまり、四方八方にいる人々にハグして周りたいくらいになっている。怒りは沈下、消沈、平和な心を取り戻しているのである。

そう考えると、僕の中の俺は、僕が平和的な心を取り乱したときの、暴威の抑止力になっているのやもしらん。
なかなか素晴らしい装置である、俺。

要するに、自分は常に、実るほど頭を垂れる稲穂のように生きていきたいわけで、その生き様を貫く最中に、俺という代名詞は不要なわけである。そうだ、それを言いたかったんだ。それが、僕の理屈だったんだなあ。

そんなどうでもいいような理屈を思い浮かべながら、日中のお日様を浴びつつ、おばあちゃんがひとり店番をする駄菓子屋に入る。
僕たちすっかり中年になってしまった男どもが、キャッキャと駄菓子などを気分よく選んだ後、僕はこれにします、俺はこれにしますなどと、口々におばあちゃんに駄菓子を手渡していると、僕はこれやね?俺のんはこれやね?などと、銭勘定をするおばあちゃんにあやされる。

そういった折、なんとも癒されて、人間の一生を垣間見るようであり、このおばあちゃんからしたら、僕たちなんて、いくつになってもまだまだ、自分のことを僕と呼ぶ子供であり、自分のことを俺と呼ぶ子供でしかないんだと思うと、まだまだ自分もしっかりやらねばと、優しさでもって厳しく背中を押しされてるような気がする。
僕も俺も、ワシもワイも、俺様も貴様も、どいつもこいつも、おばあちゃんにとったら、子供。男の子。なんという素晴らしい。涙が止まらん。

そんなほっこりした思いを巡らせつつ、3個入りで内1個が酸っぱいという、ちょっとしたギャンブル要素を含んだガムを購入し、おもむろに開封、1個目を口に投げ入れ、勢いよく噛むと、一発目から酸っぱいやつが当たり、なんだか今日はいい一日だなぁと、しみじみ空を見上げる俺様であった。

デタラメだもの。

201141012