今年一年を振り返る大晦日。それなりの年齢にもなってくると、大晦日に一年を振り返ったとしても、昨年と同じような一年だったなぁという感想しか漏れてこず、特に変わり映えのしない一年だったことに気づかされる。それも、毎年のようにそれに気づかされる。

そして、新年が明けたことで、「さぁ、今年はどんな一年にしてやろうか!」と発起してみても、結局、どんな一年にもできなかったことを次の大晦日で振り返る。要するに、未来が見えているというやつ。自分を占えているというスピリチュアルな奴。

そんなことを申し上げつつも、やはり一年を振り返りたくなる大晦日。今年はちょっと大きく出てみようと思う。どういうことかと言うと、自分とは果たしてどんな人間なのかということを考察してみようと思う。で、答えが出た。いともたやすく出た。どんな人間かというと、連絡無精な人間だ。

自分のことなので自分の内面は誰よりもよく知っているが、僕は連絡無精では決してない。対人関係がめっぽう苦手な人間なのだ。きっと。

というのも、他人様からの連絡というものは、こちらの予期せぬときにやってくる。たとえば僕がアーチェリーの競技中で、弓を目一杯にギリリと引き、的を射抜かんと緊迫している最中にも容赦なくやってくるはずだ。きっと。

そうなると、もちろんのこと、連絡を受けることができない。「あっ、今、連絡が入っているな」とは気づきつつも、連絡を取ることができない。さすがにアーチェリーの競技中なんだもん、連絡は受けられないよね、わかっちゃいないと思うけどわかってよね。そんなことを心中でボソボソと呟きながらも、連絡が止んでしまうのを心を痛めながら待つしかない。

で、ここからが対人関係が苦手な所以。それは何かと言うと、連絡を折り返そうとするときに、「あのとき、アーチェリーやってましてん! すんまへん!」と、どんなテンションで言えばいいのか迷ってしまうのである。ちなみに僕は、矢を放つのに持ち時間いっぱいいっぱい使うタイプなので、折り返すのに日を跨いでしまうことが多いから余計に迷ってしまう。

神妙なトーンで伝えようとすると、どこか嘘っぽくなってしまうだろう。「お前、俺の連絡無視したことを誤魔化すために、嘘ついてんちゃうん!?」と思われてしまっては、アーチェリーの競技に参加していたことに対しても失礼に当ってしまう。一方、明るいトーンで伝えようとすると、「お前、連絡取らんかったくせに、何をヘラヘラしとん!? 殺すぞ?」と、逆鱗に触れてしまいそうだ。

どうしよう、どうしよう、どんなテンションで折り返したらいいんだ。という葛藤を続けていると、大抵の場合、さらに次の日の朝を迎えてしまう。これで二度の宵越しだ。
しかし人にはきちんと接したい。不義理はしたくない。だから、たとえ二度も宵越ししてしまったとしても、その朝、ちゃんと折り返しを試みる。

がしかしだ、アーチェリーの競技中だったことをどのように伝えればいいのか悩んだ上に、今度はさらにひと晩寝かしてしまっている状態だ。どのように伝えればいいのか。事態はさらに悪化しているんだぞ。

「実は一昨日、アーチェリーの競技に出てまして。で、連絡が取ることができませんでした。昨日折り返そうとしたのですが、アーチェリーの競技に出ていたことを正しく伝えるにはどうすればいいのかを悩んでいるうちに、さらに夜が明けてしまいまして、で今朝を迎えております」なんて伝えたところで、誰が信用するねん。アーチェリーの事実までもが、さらに嘘臭さを増してしまうではないか。

取り返しがつかなくなってしまった事態に怯えていると、いかんいかん、連絡を折り返すことももちろん大切だが、お得意先様、お取引先様、業者様たちも僕を待っている。デザイン早よ出さんかい、文章早よ書かんかい、見積り早よ作らんかいと、僕を攻め立てている。すみませんが、アーチェリーの競技中にいただいた連絡の折り返し、少し寝かさせてもらいます。

気づけばその日の夜だ。もはや、どう説明すればいいのかわからない。事実をうまく伝えられなかったばかりに、数々の不義理をかましてしまっている。相手はもはや、激怒しているか愛想を尽かしているかのどちらかだろう。俺はやっぱりダメ人間だ。俺は他人様に迷惑しかかけることができない無用者だ。こんな俺に発せられる言葉はひと言足りともない。もう俺なんて黙ってしまえ。黙ることで意思を表明せよ。ええい、ケセラセラ。

と見事に、対人関係が苦手ゆえに連絡無精と思われていることを証明する数式が描けたと思う。
さらに補足するならば、このプロセスのどこかのタイミングで、再びアーチェリーの競技中に連絡をくれた方から、改めて連絡をいただくケースもある。しかし、ここでも問題が発生する。それは、不運なことに、改めて連絡をいただいた際に、カーリングの競技中であることが多いんだ。しかも、ブラシで氷上を掃いている最中が殊更に多い。

考えてみて欲しい。連絡をもらった方がいる。それを受けられなかった僕がいる。折り返す方法、というか、折り返すアティチュードに迷っている最中に、改めて連絡をくれるほど寛大な御方。にも関わらず、僕はブラシで氷上を掃いていて再びその連絡も受けられない。相手が抱く感情はひとつしかない。それは、殺意だ。対人関係が苦手なばかりに、寛大な御方を殺人犯に仕立て上げてしまうことになる。黙ることで意思を表明せよ。ええい、ケセラセラ。

さて、長くなってしまったが、ここからが本題。
こういった軟弱で身勝手な性格が如実に現れた事件が起こった。それは通称、緑豆もやし事件だ。

通信教材などのおまけによくありがちな、自宅で植物を育ててみよう風のものに対して比較的強い興味を持つ僕は、路上に設置されたガチャに、緑豆もやしを自宅で育ててみようという趣旨の玩具があることに気を引かれた。

少額の小銭を入れ、早速玩具を手に入れる。自宅に持ち帰りひとり、プラのコップに水を入れ、付属のキットの上に緑豆もやしの種を据える。暗所に設置せねばならないということで、自室の本棚の隙間に設置し、紙袋で光を遮ってやることにした。育成ルールとしては、日々、水を替えてあげなければならないこと。

ところがだ、自分は平日の朝に極端に弱い。休日ともなれば、どれだけ睡眠時間が短かろうが、意のままの時間に起きられるのに、平日ともなると、遅刻ギリギリの時間にならなければ起きられない。というか、ほぼ毎日、遅刻している。なので、朝の僕には時間がない。

では、夜に水を替えてあげればいいじゃあないの、ということになるが、夜は夜でお酒に酔っ払って、フランフランの状態で帰宅している。繊細な作業を要する水替えができる状態ではない。結果的には、緑豆もやしのことを気にはしているものの、水を替えてあげられない罪悪感に苛まれ、緑豆もやしに目を向けることができなくなってしまった。

日々、脳内では想像する。水がなくなってカラカラになって死滅してしまっているかもしれない緑豆もやしのこと。もしくは、清潔でなくなってしまった水で成長したことで、妙な成長を遂げ、人間では保護してあげることのできない物体に進化してしまっているかもしれない緑豆もやしのこと。

こうして幾日もが過ぎた。正しく育成すれば、育った緑豆もやしを食べることができますよ、という指定の日もとっくに過ぎた。しかしこれだけは言っておく。緑豆もやしのことを考えなかった日は、その間、一日足りともない。

僕も成人を迎えた大人。いつかは暗所に光を当て、自分の気の弱さにも目を向け、緑豆もやしを処分してやらねばならない。そう思い、僕は光を遮るための紙袋をどけ、ついに暗所に目をやった。

緑豆もやしは、元気なく枯れてしまっていた。それは僕が想像していたような悲惨な状態ではなく、愛を注がれなかった植物が、力尽きたという風情。胸が痛んだ。自分の弱さに嫌気がさした。果てしなく反省した。来年こそは、こんな身勝手な自分の性格を叩き直し、緑豆もやしを育てる機会があれば、正しく愛を注いであげ、たとえアーチェリーの競技中だったとしても、他人様の連絡はできるだけ受けるように務めたいと思った。

感傷に浸りながらも、最後くらいはしっかりと緑豆もやしを埋葬してあげようと、プラのカップを取り上げると、暗所に設置していたため気づかなかったが、緑豆もやしの種を据えるための付属のキット(黒い網状のプレート)に、白い綿状の菌が大量に付着していた。

最後くらい愛を注いでやろうと、威勢よく持ち上げたことで、綿状の菌が各々自由に世界へと放たれたことは言うまでもない。もちろん、彼ら彼女らの世界とは、僕の自室を指す。その光景はまるで、キラキラと輝く風花のようだった。嗚呼、僕もこの風花のように美しい人間になりたい。そして僕は風花に憧れを示すかのように、大きく深呼吸した。舞い散る風花を体内に吸い込んでしまったことは言うまでもない。

冒頭、アーチェリーの妙なたとえを出してしまったせいか、文章がどうにも的を得ていない気もするが、時の流れは光陰矢の如しとはよく言ったもので。来年もこんな風に、駄文の締めをどうにか上手いこと言ってすり抜けてやろうと企み、それに失敗した結果、スベった足元は氷。そうか、今はカーリングの競技中だったなあ。

デタラメだもの

20171231