お酒を飲むときに、食べ物を口にしないタイプの人がいる。僕もそのひとり。基本的に、飲む、となれば物はほとんど食べない。逆に、食べる、となればお酒は飲まないくらい。要するに器用に食事とお酒の両方を楽しめない人間なのである。

そこで困るのが、目上のお方がよく、何らかの賞賛を与えてくださるときに飲みに連れて行ってくれるやつ。あれの何が困るのかというと、名目的には「飲みに連れてったる」やのに、その実、店に着くなり「うまいもん、どんどん食えよ」という大盤振る舞いにすり替わるからなのだ。

せっかく目上のお方とご一緒させていただけるんだから、こっちとしてはお酒を煽り、普段できない会話をしたり、普段言えないことを言ってのけたり、激しい議論を交わしたり、時に生意気な口を利いたりと、要するにお酒ありきのコミュニケーションをしたいわけだけれども、「どんどん食えよ」という縛りを設けられると、たちまちその場が苦痛に変わってしまう。食いたいわけじゃない。あくまで飲みにきたのだと。

なぜにこんなにもニーズにミスマッチが生じてしまうのか。そこには2通りの仮説が成り立つ。まずひとつめは、目上のお方たちが下々の人間へ与える賞賛の形が間違っている説。

わがまま勝手な言い分かもしれないが、賞賛されるには、賞賛されるに値する何かの貢献を、こっちがやってのけたということになる。となると、貢献したこちら側が望む形態の賞賛を欲するのは当然のこと。言葉でありがとうを伝えて欲しいだけの人もいれば、地位や名誉を与えて欲しいと考える人もいるだろう。ちなみに僕の場合は、お金で結構です。多くは望みません。わずかばかりのお金をいただければ、ぬへへ。

とまぁ、賞賛を受ける側のニーズを無視して、賞賛を与える側の思い込みで、「たいていの人間は、うまいもんをしこたま食わせてあげれば喜ぶだろう」と盲信し、「どんどん食えよ」ってなフレーズに結びついているんじゃなかろうかと。

ちなみに冒頭申し上げました通り、僕は飲みにいくと食べません。なので、飲みにきて且つどんどん食べるというシチュエーションもあり得なければ、それを欲することもないのでございます。
こんなことになるくらいなら、賞賛に値するような貢献をしなければよかったと感じるじゃあないか。賞賛に値する貢献をしてしまうと、「どんどん食えよ」と言われてしまう。それを避けるためには、賞賛に値する貢献をしないほうがいい。ならば仕事も控えめにやるべきだ。目の前に広がる広大なキャンバスのなかにデザインなどを施すのではなく、キーボードの溝に溜まった埃なんぞを掃除し続けているほうがよっぽどいい。そうすれば、「どんどん食えよ」とは言われない。それを避けることができる。と、まぁ、なるわな。

そしてもう1つの仮説は、「どんどん食えよ」と飯を食わせておけば、どんな人間も喜びよるやろ、一人ひとりの人間に合わせた賞賛なんぞ考えるの面倒臭いから、どいつもこいつも賞賛のときは、「どんどん食えよ」と言っとったらええわ、という投げやりな発想による行為説。

そりゃ美味しいものを食べれば人は喜ぶ。それは否定しない。しかし、ご馳走になるにも、ご馳走していただく御方に心がこもっていなければ、それを手放しで喜ぶことはできない。適当に食わしといたら満足しよるやろ。適当に食わしといたら、引き続き賞賛に値する貢献を続けよるやろ。ほんでまた、賞賛に値する貢献を連発しよったら、「どんどん食えよ」と言って、適当に飯を食わせておけば、ほいほい言うて賞賛に値する貢献を続けよるやろ。ほんま、アホなガキは楽やで。適当に食わしておくだけで、賞賛に値する貢献を続けよるんやもん。「どんどん食えよ」のひとことに、ウレション垂らしながら飯をバクバク食うとるわ。楽勝なやっちゃで。と、バカにされているようにも感じる。

相変わらずお前は性格が歪んでいるなと思われるかもしれない。まぁその実、性格は歪んでいる。歪みはそんなに簡単に矯正できないもんね。なんてことを脳内で考えていると、とある過去のエピソードを思い出した。

その昔、職場で僕のことを気にかけてくれていたおじさんが、僕と同じくらい熱量のある人間が社内にもおるからと、某高級料理屋で引き合わせてくれたことがある。会社のなかで若気の至りを暴発させ、会社を変えようとか社風を変えようとか、もっといい会社にしようと、時に上司に噛み付いたりしていた僕の鬱積したストレスを、似たような気持ちを持つ人間と引き合わせることで発散させようとしてくれたみたいだ。

肌寒い季節だったと思う。河豚でも食べんかと声をかけられた。君と同じくらいエモーショナルな奴がおるから連れて行くわとおじさん。当時まだ20代前半だった僕は、缶ビールとポテトチップスを夕食にするような粗暴な人間だったため、エレベーターが天空近くまで上昇していくような、そんな酸素の薄い位置にある料理屋なんてものにはもちろん無縁。ただ若かりし僕は、高級料理店に行くことよりも、自分と同じくらいのエナジーを持ち合わせた人間と会話ができることに胸を踊らせていた。

僕と同じくらいのパッションを持つとされるそのお人は、僕よりも6つ年上の先輩。同じ会社に勤めてはいるものの、まったく違う部署だったため、会話すらしたことがなかったところ、おじさんの粋な計らいで対面することに。

重ね重ね申し上げますが、僕は飲みに行くと、基本的に物を食べません。目の前にどんなに豪華な食材が並んでいようが、それには目もくれません。その日、僕たちの目の前には、てっちり、てっさ、白子など、今思えば目ン玉をひん剥くほどの高級食材が並んでいた。

ところが僕の興味は、その熱い気持ちを持ったお人と会話すること。同じくらいの情熱を持っているため、当然のように議論は激化する。お互いの考え方を戦わせる。いつしか議論が口論に変わる。しかしそこは上品で静穏な高級料理店。「うまいねぇ」と小声で料理に賞賛の言葉を述べる程度の会話しか生まれてこないようなお店。高級食材を口に運んだときに、小さく首を縦に数回振り、味を称える動作だけでも会話が成立するようなお店。そんなシチュエーションのなか、エモーショナルな僕は「これだから大阪の人って下品で嫌いなのよねぇ……」と忌避されるであろう大声で、しゃべり倒した。相手を打ち負かさんと、吠え続けた。年上の人間との議論が楽しすぎて、眉間に皺を寄せながら、打ち負かさんと咆哮した。相手も僕のペースに飲まれ、大声を張り上げる。こめかみに血管を浮かべながら、相手も吠える。僕も吠える。相手も吠える。吠える。吠える。吠える。

結果的に僕は、箸袋から箸を抜いていなかった。要するに、固形物を何ひとつ口に運んでいないことになる。あれほどの高級食材が目の前に並んでいたのにも関わらずだ。もちろん、お会計はおじさん持ち。相当な金額だったと思う。その行為がどれほど無礼だったか、今ならわかる。ただおじさんは帰りの道で僕に、こう言ってくれた。

「今日の目的は飯を食いにきたわけちゃうからな。お前とあいつを引き合わせて熱い思いをぶつけてもらうためにきたからな」
「はい……」
「楽しかったか?」
「はい……」
「ほな、よかった。また連れてったるわな」

数年後、おじさんの内情をとある人から耳にした。実は、僕が河豚で無礼を働いてしまった時期より少し前くらいから、時代の流れとともに事業が傾き、かなり苦しい生活を強いられていたらしい。ただ、貧乏な若手や後輩にいい思いをさせてあげたいからと、僕たちを飯や飲みに誘う際、キャッシングローンなどで一時的に借金をしていたそうだ。自分にお金がないにも関わらず、借金してまで飯を食わせてくれていたらしい。

おじさんはよくこう言っていた。「年上のもんが貧相に生きてたら、夢がないやろ。頑張ったらこんな風になれるんやって憧れを持たせてあげないと、若手の夢、奪ってしまうからな」と。

僕は今、当時のおじさんと同じ気持ちで生きている。もちろん、当時のおじさんよりはまだまだ若輩者だけど、後輩には「年上の人間はやっぱり違うなぁ!」と少なからず思ってもらえるような生き方をしている。もちろん、そんなに豪勢なものは食べさせてあげられない。美味しいお酒も飲ませてあげられない。あの日の河豚の高級さを思えば、自分の未熟さを鼻で笑いたくもなる。

ただ僕は「どんどん食えよ」なんて死んでも言わない。あの日、おじさんが、まったく箸をつけなかった僕に、どんどん食うどころか一切食わなかった僕に、飯が目的じゃないからと、楽しんでくれてよかったと、ニコチンで染まった黄色い歯を全開に見せて笑い飛ばしてくれた豪快さを、僕は忘れない。

おじさんはその後、大病を抱えることになる。弱っていく姿を人に見せたくないからと、周りの人間との音信を絶った。だからその後のおじさんの消息を知っているものは、少なくとも僕の周りにはいない。でも、気合いで病を克服し、ビシッと仕立てたスーツで再び繁華街を闊歩してくれることを信じている。そしてもし、おじさんとばったり街で会ったなら、こう言ってやろうと思う。「腹減ったっすわ! 河豚食いに連れてってくださいよ!」と。

デタラメだもの

20171014