若い頃には、なにを大げさな、と思っていた。そんなわけあるかいな、と思っていた。芝居じみて、誇張した所作だと思っていた。それが今や、当たり前になった。とにかく、えずく。

おっちゃんたちが、歯を磨くとき、歯ブラシを奥歯のほうに突っ込み、「おえっ!」と言って、えずく。「おえぇぇっ!」と言って、えずく。あれは大げさな芝居だと信じていたのに、気づけば、毎朝えずいている自分がいる。そして、とかく、口の中、奥が弱くなった。

ただ、えずいているだけなら、それほど生活に支障はでないものの、あからさまに支障をきたす場面がある。それが、歯医者。
子どものころは、「あの音が嫌だ」「痛いから嫌だ」などと、直接的なことに嫌悪感を抱いていた歯医者も、今では、「えずくから恐い……」に変わってしまった。人間、痛みには耐えられても、えずくことには耐えられないんだな、これが。

ちょっとばかり以前の話。奥歯に不具合が出たため、歯医者に通うことに。初日からやっちまった。
奥歯の様子を撮影するとのことで、「これを噛めば局部の写真が撮れるんです」なんてハイテクノロジーなフィルム型のアイテムを口の奥に突っ込まれた。もちろん、えずく。「おぇぇぇっ!」。
撮影は滞る。できの悪いグラビアアイドルの如く、時間ばかりを食わせてしまう。恐縮する。焦る。でも、えずく。シャッターは一向に切られる気配がない。なぜなら、えずいていることが原因で、うまくそのハイテクノロジーな機械を、上下の奥歯で噛めていないからだ。

涙目になりながら、なんとか局部の撮影を終え、初日の治療は終えた。
しかし、その後の治療が地獄だった。奥歯を削り、型を取り、銀歯をはめ込む作業。どの工程が地獄かっていうと、型を取る、それである。

虫歯の治療をしたことがある人はご存知かと思うが、型を取るためには、なにやらゴムみたいなガムみたいなやつを噛まねばならん。そいつが固まるまでの間、ずっと噛んでおかねばならん。こんなにも科学や技術が進歩した今の日本にいながら疑問に思う。あのゴムみたいなガムみたいなやつ、なんであんなにデカいの?

診察台はフラットな状態。ゴムみたいなガムみたいなやつを噛みながら、僕は天井を見つめる。ゴムみたいなガムみたいなやつは、大胆に喉の奥に触れている。今にも吐き出してしまいそうだ。でも、ここでこれを吐き出してしまっては、治療が滞るどころか、ゴムみたいなガムみたいなやつを無駄にしてしまう。医師は怒り出すかもしれない。どつかれるかもしれない。でも、今にも吐き出してしまいそうなほど、えずくのを我慢している。

あまりの苦しさに、目には涙。天井で灯る電灯の光が涙で滲み霞んでくる。もうあかん。いや、まだ行ける。そう自分に言い聞かせ、吐きそうになるのを我慢する。心の中で、大事MANブラザーズバンドの『それが大事』を口ずさむ。負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと。ゴムみたいなガムみたいなやつを吐き出すなとは、大事MANブラザーズバンドも言ってない。ってことは、吐き出して、楽になってもいいのか。俺はやる。俺は、もうやる。吐き出してやる。限界だ。こんなもの噛ませやがって。俺は噛ませ犬じゃないぞ。下らん。

そのとき、医師の声がした。
「起き上がって、うがいしましょう」
その言葉に僕は突き動かされた。目にもとまらぬ速さで起き上がり、ゴムみたいなガムみたいなやつを吐き捨てた。そして、喉の奥にたまっていた大量の唾液を垂れ流す。不幸にもその日僕は、ベージュの綿パンを履いていた。吐き出した唾液は、ちょうど股間のあたりに。完全に尿漏れだ。その量からして、残尿じゃあない。本尿だ。恥ずかしい。恥ずかしい。

そのトラウマを抱えた僕は、別の奥の銀歯が老朽化に伴い取れてしまった状態を、もう二か月も放置している。歯は治したい。しかし、えずくのだけはごめんだ。当面、当該箇所を治療する予定は、ない。

そうやって、えずきから遠ざかっていたある日。風邪をこじらせ、抗生物質をもらいに耳鼻科に行くことになった。普段はめったと病院には行かないものの、生活に支障が出るほどに症状が悪化していたし、他人に伝染してしまっては迷惑だとも思い、診てもらうことに。地域で信頼を集めている耳鼻科は、朝から強烈に混雑していたため、近所に最近できた行ったことのない耳鼻科へと向かう。その時の無垢な僕は、喉の診察にも、えずきが付き物だってこと、地獄のようなショーが待っていることを知る由もなかった。

自転車を止め、病院のなかに入る。待っている患者さんの姿はない。受付には、暇そうな看護師さんが3人ほど。最近できたばかりの病院だからか、外装も内装もとてもきれい。その新築っぽさが、なんだかこの病院の信頼度の低さを感じさせた。

待合室でかばんから小説を取り出した瞬間に、診察室に入れと名前を呼ばれる。待っている患者さんがいないためだ。すこすこと診察室に入る。するとそこには妙な光景が。それなりに年配でとても背が低く、それでいて色黒のスキンヘッドの先生が、そのツルツルの頭に、なんていうの、ハチマキみたいに頭に巻くタイプのカメラをセッティングして待ち構えていた。それだけでも違和感があったのに、診察室内には、先生のほかに看護師が3人。しかも、3人のうち2人は、机に座る先生の奥へと連なるように、並んで座っている。すっごく狭い診察室のなかに。意味がわからん。帰りたい。帰りたい。だから病院は嫌なんだ。帰りたい。

帰りたい願望はあっけなく無視され、丸椅子に座れと促される。「どうされましたぁ?」と先生。なんと、低身長、スキンヘッド、色黒、年配、頭にはスポーツカメラ的なやつ。特徴の海鮮丼的なキャラクターに加えて、おねえ口調という特徴まで持っていらっしゃった。恐い。帰りたい。なんで、おねえっぽいくせに、小狭い診察室に、若い看護師を3人も従えてやがるんだ。帰りたい。奇妙過ぎる。なんか医療ミスされそう。

かつてないほどの不信感に襲われながらも、喉のチェックをされることに。
まずは定番。銀色をしたアイスの棒のようなもので、舌の奥を押さえられながら、喉の炎症をチェックされるやつね。子どもが嫌がるやつね。あれね。子どもは嫌がるだろうが、こっちは大人だぜ。社会の荒波に揉まれて、日々戦ってるんだぜ。子どもとの違いを見せつけてやんよ。
誤算。この年齢になった僕は、舌の奥に異物を入れられることを、子ども以上に嫌がる人間に成り下がっていたのだ。

銀の棒が挿入される。舌の奥に触れる。条件反射的に、えずく。口を閉じる。口を大きく開けて「えーっ」て言ってくださいねと促される。再挿入。再接触。えずく。再閉口。それを数度繰り返すうち、チラッとだけ症状が目視できたのか、次のフェーズへと進んだ。赤茶色した薬品みたいなやつを、炎症部に塗るというやつ。今しがた繰り返したやり取りを再度行う。さすがに先生も痺れを切らしたのか、局部に塗るというよりも、まるで喉の奥にスイッチがあって、それを瞬間的にツンッと押し込むような程度に薬品を塗るという高等技術、要約すると、面倒臭さを全面に押し出したような処置でもって、局部に薬品を塗る工程は終了した。

そして、ついにはじまった地獄のショータイム。
これまでの工程で、極度にえずく体質の人間、要約すると、おっさん体質だということが判明したにも関わらず、あろうことか、喉の奥に細長いカメラを通して、局部を撮影します、なんて言い出しやがる。おいおい、こいつ正気か? あんたの顔面に、吐しゃ物ぶっかけちまうぞ?

あの丸椅子に座ると、もはや拒否権はない。黙秘権を行使しても、診察は続く。年配のおねえ色黒スキンヘッドの先生が、僕の前に立つ。顔を上げさせられる。「はい、大きく口を開けて、えーって言ってください」。細長いカメラが口のなかに。その時点で、えずく。脳はカメラを拒もうとするため、口を閉じさせる。「口は閉じないでください。大きく開けて、えーって言って」。それは理解している。充分過ぎるほど理解している。頭で理解できていても、体が動かないってこともあるだろうよ。頭のなかで100メートルを8秒で走りたいと念じても、体はそれをやってくれないだろうよ。だから、僕にはそれができないんです。勘弁してください。

何度いっても言うことをきかない相手に、苛立ちはじめたのか、徐々におねえ口調が、お叱り口調に変化してきた。「だからぁ……。口は閉じないでっ! えーって声に出したら、口は勝手に開くからさぁ」。そのとき僕は、えずくのを我慢するのと、目の前の低身長年配おねえ色黒スキンヘッドの先生の指示に従わねばという義務感とに板挟みになっていた。あらん限りの力で瞳を閉じ、目じりには涙が溜まっていたことだろう。そしてついに声を絞り出した。

「あーーーーーっ」

ひとつの発見があった。えずくのを我慢しながら口を大きく開けた状態では「え」の母音は言えない。「え」の口の形にしたとしても、発音されるのは「あ」になる。すごい発見だ。怪我の功名とはこのことか。
「だからぁ……。あ、じゃなくて、え、だってば! アッカンベーってできる? アッカンベーしたら、勝手に、え、って言えるからさぁ……。あとさぁ、別に目は閉じなくていいから」
新たな発見に酔いしれていた僕に、とんでもない侮辱が降り注いできた。きっと、先生はもちろんのこと、周りにいるであろう3人の看護師たちも、僕のことを見下しているに違いない。こいつ、え、も言えないでやんの。え、って言えって言われてんのに、あ、なんて言いやがんの。アッカンベーもできないでやんの。恐くて目を閉じてやんの。

腹を括らねば帰れない。吐しゃ物出てもええわい。そして絞り出した「えーっ」と「あーっ」の中間の音。英語のappleのaの音。あんな感じの、汚ねぇ音が出た。そこに勝機を見出した先生は、即座にカメラを喉の奥に押し込み、シャッターを切った。それはそれは、一瞬の出来事だった。
「はい、終わりです」
助かった。解放された。吐しゃ物出さずに済んだ。

丸椅子に正しく着座する。改めて先生と対峙する。先生は僕に症状やらを伝えてくれている。と同時に、先生の奥に腰掛ける2人の看護師のうち手前の人が、先生の前に設置してあるパソコンのキーボードに、おそらく僕の症状であろうフレーズを打ち込んでいる。なんかおかしくないか?
たとえば、ピアノの中央に看護師1名、高音の鍵盤付近にもう1名、低音の鍵盤付近に先生が座っているとしよう。普通、低音の鍵盤付近に座っているのは先生だから、低音パートは先生だよね。でもって、パソコンとキーボードは、低音の鍵盤付近にある。それなのに、ピアノの中央に着座した看護師がキーボードを打つもんだから、なんていうのか、先生が邪魔で邪魔で低音弾けません的な、ものすごく窮屈そうに入力している。恐い恐い。なにここ? ほんで、高音の鍵盤付近の看護師は、なんでそこに座ってるの。一般的な事務デスクくらいのサイズしかないのに、なんで、先生と看護師2人とがギュウギュウになって一緒に座ってるの。こんな滑稽な光景、生まれてはじめて見た。恐い。帰りたい。

「扁桃腺が腫れて炎症起こしてますね」

でしょうね。扁桃腺が腫れて炎症を起こしていると思って診察に来た者ですと、遅ればせながら自己紹介してやろうかと思ったが、おとなげないのでやめた。このひと言を聞くために、あんなに大それた、えずき、との対決を経なければなかったのか。あんなにも地獄のような時間を過ごさねばならなかったのか。割に合わない。やっぱり病院なんて、二度と来たくない。そして、喉の奥に異物を入れられる系の施術も、二度と受けたくない。と、心に誓った。

が、ここ数日、再び熱い戦いに出ろと俺様に言わんばかり、銀歯が取れた奥歯がズキズキと痛みやがる。

デタラメだもの。

20170430