デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

2017年01月

結局、センスあるヤツが大勝する。それすなわち、倍音を持っているかどうかなのだ。『デタラメだもの』

倍音。
辞書で調べるとそれは、『振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音。ハーモニックス。』とある。
歌がうまい人とカラオケなどに行けばわかる。もしくは、プロの歌手の生歌を、すぐ近くで、できればマイクを通さず、生声のまま聴いてみれば分かる。その声に、多分に倍音が含まれていることを。

端的に言うと、「ド」の音を出したとして、その音の周りに、なにやらぼんやりと、オーラというか雰囲気というか色気というか、「ド」を取り巻く謎の音群が存在していて、それが「ド」をよりどっしりと響かせ、まるで周りの音、「レ」や「シ」までをも包含せんとする音の広がりを感じさせる。すなわちそれ、安定感。
だから、倍音を持つ人の歌声を聴いていると、音を外すということが滅多とないことに気づく。それは音感がいいって類のもんじゃあなく、もしかしたら微妙に音が外れているのかも知れないが、その微妙なズレさえも、倍音の幅がカバーして止まない。だから、すごく安心して歌に聴き惚れることができる。

一方、倍音の持ち主でない人の歌声は、聴いていて不安になる。その代表格が俺。倍音を持たぬ人間は、か細い槍のようなもので音を捉えに行くため、安定もしないし、音のズレも目立ってしまう。倍音を持っている人の音のズレは、倍音で補正してくれるが、倍音を持たぬ人の音のズレは、誰も補ってくれない。孤軍奮闘。もう、そうなれば、歌うのなんてやめちまって、倍音を持つ人の歌声をただただ聴くに限る。あの倍音が、聴く人を酔わせるのであって、倍音を持つ人の歌声は、多くの女性たちはもちろんのこと、男性さえもうっとりさせることだろう。

ふと考えた。倍音は、音だけにあらず。それを総じて、センスと言ってみようと思った。
たとえば、ファッション。「何着ても似合うよね、あんた」と言われる人がいる。そういう人は、ファッション的な倍音の持ち主なんだと思う。ファッションの倍音が、多少のズレをも「アリ」にしてくれる。だから、どんなジャンルの服を着ても、似合って見えるし、魅力的に映る。

一方、ファッションにおける倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であるが、その場合、「なんか着せられてる感がハンパないよねぇ」とか「無理してるぅ」とか「ダサい」とか「臭い」とか散々言われる。それは、ファッション的な倍音を持っていないがため、自分に似合う服装というのが、幅ではなく、か細い槍の如く、突く際に多少のズレさえも許されない。そういう人間は、自分磨きや服そのものに金をかけても無駄。さっさと、自分に似合うか細い槍の突き先、要するに、このTシャツにこのジーパンにこの靴、といった固定の組み合わせを見出し、永遠にそれを身に着けるほかない。

髪型だってそうなんだ。髪型的な倍音を持っている人間は、伸ばしてもよし、ナナメに別けてもよし、短くしてもパーマをあてても、坊主にしたって似合う。倍音がその魅力を補ってくれるから。
一方、髪型的な倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であり、そういった人間が、倍音を持っている人間と同じような髪型にしたところで、「なんか違和感」とか「似合ってない」とか「古臭い」とか「臭い」とか散々言われる。悪かったなあ! と啖呵を切ってみたところで、髪型的な倍音を持っていない自分に非がある。

そう言えば、中学生の頃、ハリウッドスターに憧れ、ハリウッドスターのような髪型にすればモテるだろうと、映画雑誌を買い込んで、レオナルド・ディカプリオの髪型を自分なりに真似てみたところ、極度のクセ毛の持ち主である俺の髪型は、レオナルド・ディカプリオどころか、昭和の漫才師のような仕上がりに。しかし、その仕上がりの粗末さにも気づかず、自分がレオナルド・ディカプリオになったつもりで、ふふふんと鼻歌を歌いながら、街を闊歩していた。今思えば、抹殺したい、そんな奴。
その後、青春パンクに憧れ、髪を無造作に伸ばし、無頼者のパンクロッカーを気取っていたところ、周りから、昭和のフォークシンガーがいるだのなんだの噂され、これまた抹殺したい衝動を、今この瞬間、抑えきれない自分がいる。

あれもこれもすべて、自分に倍音がないがため。髪型の倍音を持ち合わせていないだけでなく、自分を客観視する倍音さえもないがゆえ、こんな恥さらしな生き様を露呈してしまう結果になるのである。

倍音を持ち合わせていない代表格の俺が、倍音の持ち主を見分ける方法を教えてやろう。もちろん、歌を聴いたり、服装や髪型を見れば一目瞭然なわけであるが、もっと単純な見分け方がある。それは、倍音の持ち主に対し、「倍音の持ち主ですねぇ」と伝えること。つまりは、「めっちゃ歌がうまいですねぇ!」とか、「めっちゃ服似合ってますねぇ!」とか、「どんな髪型しても似合いますねぇ!」と、賛辞を提供してあげる。
ひとつも倍音を持たない自分のようなクソ野郎は、その瞬間、「え? やっぱりそう思う?」感が出てしまうのである。顔が一瞬、緩むというか、下品な照れが出るというか、なんかそんな類の反応が見てとれるわけ。

一方、倍音を持つ人というのは、賛辞の言葉に対しても謙虚な対応を取れるという倍音まで持ち合わせているため、そんな賛辞の言葉を受け取ったとしても、「そんなことないんですよぉ」とか「適当にやってるだけなんですけどねぇ」と、こちらが用意したトロフィーを受け取ることを辞退しようとする。これこそが、倍音の持ち主かどうかの簡単な見分け方。トロフィーを辞退する人か、ぬへへと下卑た笑いを浮かべるタイプか。ちなみに、後者の代表格が俺。

そんな害虫のような俺が、唯一、倍音を響かせていると噂される場所がある。それは、生ビールが二百円代の居酒屋でベラベラと喋っているときだ。どうやら、生ビールが二百円代を超え、三百円代に突入する店になると、その倍音は消えてしまうらしいが、二百円代のリーズナブルでコストパフォーマンスだけがやたらと高い居酒屋では、倍音が出ているようだ。要するに、安い店で安酒を呷っていると、意気揚々と倍音が出るらしい。むろん、安い店じゃなければ、委縮して、その倍音は鳴りを潜めてしまう。究極に条件つきの倍音があるんだそうだ。

トークの倍音というものも、確かに存在する。同じ話でも、彼がしゃべると爆笑、ヤツがしゃべると沈黙、そういう状況に出くわしたことのある人も少なくないだろう。ネタ振りや声の抑揚、音の高低など、トークにもしっかりとセンス、すなわち倍音は存在する。

そんなこんなで、本日も安居酒屋。お得意の倍音を響かせ、我、トークの覇者なり、と言わんばかり、大声を張り上げ、唾を飛ばしながら、快活に語る。後輩相手に、我こそ、トークの覇者なり、と言わんばかり大げさに語る。安酒を呷りながら、ふと自分を冷静に見つめてみる。この年齢にもなると、ようやく自分を客観視できる類の倍音を身につけはじめたらしく、時に冷ややかな目で自分をPDCAサイクルできるときがある。

ん? ちょっと待てよ? 俺の倍音、低くないか? 下のほうの音ばかりが響いているぞ。下のほう? そうか、下ネタか。さっきから俺、下ネタしか喋ってへんがな。下のネタしか響かん倍音。安居酒屋で且つ下ネタでしか響かない倍音。果たしてそれが、人の心に響くと言うのだろうか。まあ、ええわ。人は人、俺は俺。なんにもないよりマシか。

そう思いながら、チャプチャプになったお腹へと、さらに安酒を流し込む、場末の居酒屋。そろそろ、一軒につき、アテ一品の経済状況から卒業し、アテの二品でも注文できるくらいの収入が欲しいところだ。

デタラメだもの。

20170128

当たり前を疑うには、まずは泣き寝入りして払っている料金からはじめてみるべきだ。『デタラメだもの』

当たり前というのは、いつからそれが当たり前になったのか不明だ。もはや当たり前になり過ぎていて、なんら疑いも持たんけれども、その実、それが当たり前のことじゃあない場合だってあるんだなってことが、たくさんあり過ぎて、今日も仕事をしながら終始、別のことを考えながら業務に従事する。

テレビのせいなのか、親のせいなのか、教師のせいなのか、兄弟のせいなのか、友人のせいなのか、恋人のせいなのか、本のせいなのか、自分のせいなのか、思考の中に当たり前という概念を作り上げてしまった僕たち私たちは、今日も疑うことなく毎日を過ごす。

よくよく考えてみれば、これほどまでに謎の多い身体の仕組みを持っている人間。怪我をしたらやがて治ったり、アルコールを飲めばやがて分解してくれたり、眠った後はしっかり目覚めてくれたり、快感を覚えれば出るものもでる。ふと臓器のある部分に不可思議な痛みを感じたとしても、それをすぐに忘れてしまえるほど、身体の中では、何かが起こり何かを治癒してくれているんだな、当たり前のようでいて、それがほんまに当たり前のことなんか? 疑ってもみたくなる。

と、そんなスケールのデカい話をしたかったわけじゃあないんだ。僕のように矮小な人間にとって、そんなスケールのデカいことを考えている余裕なんてない。もっとちっぽけなことを考えるほうが性に合っている。僕が疑いはじめている当たり前は、料金について。ほら、もうテーマが小さい。

世の中、料金設定というものがなされているよね。これを購入するためには、いくらの料金を支払わねばならないという、アレ。これをレンタルするためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められているし、これを飲むためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められている。あれに疑問を感じてしゃあない。

たとえば、ファストフードのポテト。美味しいよね、アレ。本品のバーガーを凌駕するほどの魅力を持っていると言っても過言ではないポテト。なんだったら、ポテトセットなる商品ラインアップを追加し、ポテトを主役、その他、バーガーやらナゲット的なやつやらを脇に添えても、人気メニューとして成立するんじゃあないだろうかとさえ思うほど美味しい。

しかしそのポテト、しなっしなの状態で提供されるときあるよね。作ってからかなりの時間が経過したのだろう、油が染み込みきってしまい、揚げた感も損なわれ、醍醐味のカリカリの部分は既に消失してしまっている。外装の紙パッケージだって、油がしゅんでベトベトになっている。あれに定価を支払う理由が分からん。あのポテト、全力で仕事してないよね? ポテト本来のポテンシャルを活かしきれてないよね? それやのに、なんで定価なん? ちょっとした値引きあってもええんちゃうのん? 当たり前のように定価を支払うことに、悔しさを隠しきれない。

しなっしなだけじゃあない。塩加減だってそうだ。まれに、ぜんぜん塩がまぶされていないポテトが提供されるときもあるし、逆に、塩のかたまりがゴリゴリに付着しているときだってある。味付けが人任せなので仕方がない部分もあると思うが、ちょっとしたイレギュラーな要求には、「マニュアル上、無理なんで!」と、なにもかも突っぱねているんだったら、ポテトの塩加減もマニュアル通り、しっかり対応してもらいたいもんだ。塩加減がデタラメなポテトが提供されてきたら、「マニュアル通りの塩加減じゃあなかったので、本品は受け取ることができません!」と、受け取り拒否する権利だって、あるんだぜ、こっちには。

ただ、そんなクレームをつけたいために物申しているんじゃあない。要するに、商品本来の魅力の80%しか発揮できていない仕上がりの商品は、料金だって80%にするのが世の常ってもんじゃあないのってこと。当たり前のように、文句を言わず、しなっしなのポテトを食べてきたけれど、あれは全部、泣き寝入りの類だってことに気づいてしまった。

生ビールだってそうなんだ。駆けつけ一杯の生ビールを楽しみにし、直前の水分補給を一切絶ち、店が混んでいて入れなかったらどうしようという不安とも戦いながら、ようやく入店、着座し、あらんほどの清々しいボイスで、「とりあえず、生!」と叫び、ご褒美がテーブルにもたらされることを、少年のような気持ちで待つ。ようやく提供された生ビール。ジョッキを豪快に持ち上げ、さぁ飲むぞ! ぐびぐびぐびび。「ん、なんか、ぬるくない?」。これである。

冷えていて且つ喉越しを楽しめるのが生ビールの醍醐味。それを欲してここまで来たんだ。それを手に入れるため、その他の欲には目もくれず、あらゆるものを我慢してきたんだ。それやのに、生ビールが冷えてないって、どういうことなん?

またしてもそう。クレームをつけたいわけじゃあない。店が混んでいるときは、生ビールがオーダーされる数も飛躍的に増え、ジョッキを冷やす時間もないなど、最高のパフォーマンスを発揮できない理由も分かるんだ。だから言いたいのは、生ビールの温度が最高潮の時と比べ、二割減していたんだから、料金だって二割減になるのが世の中ってもんじゃあないのかい。それをなぜに、最高潮で味わえたときと、同額のマネーを支払わねばならんのだ。当たり前のようにやり過ごしてきたが、よくよく考えてみると、解せん。

世の中の一般的な仕事の場合、100%の満足を提供できなかった場合、「今回、商品がイマイチやったから、ちょっと値引きしてえやぁ」と、減額を要求される。それに対し僕たちは、「すんません。すんません。ほんま申し訳ございません。しっかりと値引き対応させてもらいますんで!」と、料金から、満足に至らなかった部分を考慮し、値引く。満足度が100%で提供できなかった理由が、その商品の制作時、納品時に、親が死んだからとて、財布を落としたからとて、恋人と別れたからとて、指名手配を受けたからとて、決して許されない。激怒されるか減額させられるかの二つにひとつ。

それなのに、ポテトも生ビールも。と思うと、泣けてきやしないだろうか。
もっとあり得ないのが、レンタルDVD。レンタルだからある程度は我慢せい、というスタンスなのかも知れないが、ある一部のガサツな連中の手によって、DVDの盤面にキズがつけられていること、あるよね。あのキズってもれなく、その映画の名画面で、音飛びやらコマ落ちを発生させやがる。自分が最も感情移入し、さぁ泣くぞ、さぁこの映画から人生の大切なものを授かるぞ、そんな場面で、必ず音飛びやらコマ落ちが起こる。すべて台無しじゃ。酷いときには、そのままDVDプレイヤーの動作が停止し、それ以降のシーンへと再生できなくなってしまったこともある。しかも何が大罪って、音飛びやらコマ落ちが一度起こってしまうと、その後もまた起こるんじゃないかと、意識の何割かがそちらへ向いてしまい、作品に集中できなくなってしまう。

それでも、定価。映画を最大限に味わい満喫し、人生の大切なものをしっかりと授かった場合と、同じ料金。なんでなん。映画監督が、その場面で、効果的に音飛びやらコマ落ちを画策し、仕込んでいたんなら仕方がない。それも演出のひとつだから。でも、ある一部のガサツな連中のせいよね。それなのに、定価って、あり得ますか? せめて、コマ落ちした分の料金も、定価から落としてもらわないと割に合わない。

そういったケースで最も泣きを見る瞬間が、ライブハウス。動くアーティストを目に焼き付け、生ならではの音を感じ、盛り上がるライブ。それなのに、身長の決して高くない僕、前に背の高い男子が来た暁には、醍醐味のうち、動くアーティストを目に焼き付けることの一切の権利が奪われてしまうの。オールスタンディングだったなら、ある程度、自由に場所を移動できるため、権利を掠奪されるのを回避もできるが、指定席の場合、終わる。指定席にも関わらず、アーティストがステージに登場した瞬間、暗黙の了解で会場中が総立ちになり、立ち見と化すパターンのライブの場合である。
身長の高い男子の肩越しに、なんとか、動くアーティストを目に焼き付けようと工夫をするものの、そうした結果、妙な姿勢でライブを見るハメになり、ライブ後、左右いずれかの首の関節を痛めてしまい、やれ鍼灸やら、やれ整骨やらに通わねばならなくなり、健康保険が適用されるからまだ良いものの、それなりの出費を伴うことになる。

背の高い男子に非がないことはもちろん承知している。彼らだって、望んで高身長に生まれたわけじゃあない。そんなちっぽけなことを言っているんじゃあない。こっちは醍醐味の半分を奪われているんだ。料金だって、半額でいいじゃあないの。それを言いたいわけである。

どこまでの低身長の人が減額対象になるのか議論が面倒臭いと言うのなら、小学校時代よろしく、ライブハウスの指定席では、背の順で席を割り振るとか、チケット購入の際、申し込みフォームで自身の身長も申告する制度とし、決して、背の低い人の前には、背の高い人が来ないようにプログラミングされた上で席順を決定づけるとか、方法はいっくらでもあるはずなんだ。当たり前のように、背の高い男子の背中だけを眺めるライブを楽しんできたが、やっぱりこれは当たり前のことじゃあないよね。

あかんあかん。書けば書くほど、自分が小さな人間に思えてきた。だって、そんなことを声高に叫んでみたところで、サービス業というものは、「だったら食うな」「だったら飲むな」「だったら来るな」と突き放してくるに決まっている。僕みたいな人間を相手にしてくれるわけがない。だから泣き寝入りするしかないの。

そんなしょうもないことを考えながら、地下鉄の電車内。さっきから、やたら座席が窮屈だなって思っていたところ、シートの中央に目をやると、めちゃめちゃ巨漢な男が着座していた。一般人の二人分のスペースは確保している。しかも、あろうことか、股を開き気味でリラックスして座っていやがる。それのせいで、僕は座席の端、追いやられ、肩身の狭いを思いをしながら、窮屈さを押し付けられていたのである。これは解せん。

そう思い僕は、すっくと立ち上がり、「それだけ大きい図体で且つリラックスした状態で着座されているということは、二人分のスペースを確保してはりますよね。だったら、料金も倍支払ってもらいますか。もしくは、半人分ほどのスペースに追いやられていた僕の料金を半額にしてもらえるよう、大阪市営地下鉄に交渉してもらえませんか」と言ってやった。

言ってのけた刹那、巨漢男のグーパンチが、僕の頬をヒットした。ふっ飛ばされる僕。車内の乗客から嘲笑される。はずい。はずい。余計なことをした。さっさと席に戻ろう。頬の痛みに耐えながら、赤ちゃんみたく床を這い、席に戻ろうとしたところ、元々僕が座っていた席は、別の誰かに取られてしまっていた。それはそれは、半人分のスペースでも充分に座席の醍醐味を味わえるほど、痩せ細った男子だった。

デタラメだもの。

20170108

何もかもが早い。そんな時代を楽しむための手段をじっくりと考えてみる。『デタラメだもの』

2017年、はじまる。2016年もあっという間に終わってしまったことを考えると、2017年も同じように、あっという間に終わってしまうのだろうか。

2016年のスタートと同時に、今年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだの、誓いめいたことを語っていた気もするが、それがつい最近のことに感じる。実現できたのか、実行に移せたのかさえ振り返る間もなく、またしても、2017年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだのと語ってしまいそうで閉口してしまう。

年をとると一年が早くなるとはよく言うが、あまりにも早すぎやしないだろうか。早いというか、もはや、速い。
どうせ、「もうすぐお花見のシーズンだね」なんて言い合いながら、あっと言う間に桜のシーズンを追い越してしまう。「やっぱり夏だよね」なんて言い合いながら、すぐに秋の気配を感じてしまう。「今年も紅葉の季節がやってきたね」なんて言い合いながら、気づけば紅葉はみな、散ってしまう。「肌寒くなってきたね」なんて言い合いながら、クリスマスも大晦日も横目に、あけましておめでとう、なんて言ってのける始末。想像に難くない。

クリスマスやら大晦日やらにしたってそうだ。不景気のせいか、イベント感が薄いように思う。昔はもっと、街がクリスマス一色になったり、お正月ムード一色になったりしていた気がする。テレビCMだって、バラエティ番組だって、もっと季節感を押し付けてくるようなものが多かったように思う。それがどうだろう。あまりにも一年、メリもハリもなさ過ぎる。

電化製品だってそうだ。製品購入と新製品登場のイタチゴッコは昔から変わらないかも知れないが、パソコンやスマートフォンなんて、機種の世代交代が早すぎやしないか。キャリアの二年契約があるからとか、不具合はまだバッテリーくらいのものだからと、人並みの物持ち良い精神で買い替え渋っていたとしても、いざようやく最新機種を買ったや否や、即座に新機種登場のニュースを耳にしたりで辟易。

ともかく、なんでもかんでも早すぎる。便利すぎる。のんびりしていない。こんな便利さに慣れてしまった人間は、既に不便だったあの頃にはもう戻れないのかも知れないが、徐々に、スローダウンさせて行くのも粋な気がする。

俳優やタレント、芸人やミュージシャンだって、流行り廃りが早すぎる。せっかく世に出られたとしても、次から次へ、ニューカマーが世に送り出されるもんだから、目まぐるし過ぎて記憶にも残らない。人々の記憶に残らないということは、歴史的な記録にも残らないということだ。それじゃあ、伝説的な人物やグループなんて、後世、出てくるわけがないだろう。機械だけならまだしも、人間をも使い捨てする時代になってしまったということか。

ほんま、なんでこんなにも、何もかも早く感じてしまうのだろう。休みの日が過ぎるのは早い。それだけならまだしも、気乗りしない平日さえも早く過ぎて行く。饒舌に語る楽しげなお酒の場は、なんであんなにも時間が早く過ぎるのだ? 夜中のタクシーのメーターは、なぜあんなにも早く料金を刻んで行くのだ? 二割増しってレベルちゃうやろ? ゆっくり身体を休めたいと思って眠りについても、朝はなぜあんなにも早く訪れるのか? それなのになぜ手の込んだインスタントラーメンは、湯を入れてからの待ち時間が五分もかかるのか? あれはより高度な技術で三分に短縮できないのか?

そこでこう思う。2017年は、そろそろ便利さを一枚ずつ剥いで行こうじゃあないかと。
たとえば、スマートフォン片手でできるような、そうやね、銀行振込なんかも、わざわざ銀行に足を運んで行うとか。銀貨をチャリンと投入すれば、自動で車を洗浄してくれるようなハイテクマシーンは使わずに、車を手でゴシゴシ洗うとか。家のお風呂に入らず銭湯に行く。インターネットで音楽などを採取せず、CDショップで購入したり、レンタル屋に借りに行く。助平な動画だって、観たいと思えば、ブラウザを起動するんじゃあなくって、レンタル屋の然るべきコーナーに行けばいい。

それらの風情な行為を、便利さの名の下に時短させ、時短したことによって作り出した時間に、その他の行為や用事を詰め込むことによって、それらの風情な行為を味わいながらやる心の余裕を欠いてしまっているってことに気づいた。自らその首を締めているということに。

今年は、便利さから遠い場所で生きて行くことをテーマとしよう。これだったら、今からでもできるし、やれ達成できただのどうだのと、下世話な会話も生まれてこない。ビールは瓶ビール。グラスに注ぐって行為を大切にしよう。その時間を大切にしよう。じゃあ、生ビールしかない店だったらどうするか。そりゃ、生ビールとグラスひとつをオーダーし、ジョッキから注いでやろうじゃあないの。いかんいかん、これじゃあ作為的で人為的過ぎる。もっと自然に無駄を楽しみたい。答えは出た。瓶ビールが飲める店に行きゃいいじゃあないの。

それはそうと、話は逸れるが、近頃、物忘れが激しい。友人知人と会話をしていて、やれ得意げに、「最近、おもしろい話があったんですよ」と、話の導入を自ら設け、意気揚々とオチへと向かって話していると、その中途で、話のオチを失念してしまうことしばしば。
すごく秀逸なエピソードトークを用意していたために、話を持ちかけたのである。それは真実。最終的な抱腹絶倒ポイントへと、しっかりアテンドしようとおもてなしていたのも事実。なのにだのに、どんなオチだったのかを忘れてしまう。前半から中盤にかけて、あまりに得意げだったため、「何の話か忘れてしまいまして……」などと後ずさることも許されぬ。オーディエンスたちは、その勢いのまま、ゴールまで駆け抜けてもらうことしか期待していない。

そんな窮地に陥ってしまうと、これ致し方がない、話ながら別の脳みそで、別のオチを捏造するほかない。右脳でしゃべっていたら、左脳でオチを、左脳でしゃべっていたら、右脳でオチを創るほかない。しかし、そこは即席のオチ。インスタントなオチ。出来栄えが良いわけがない。前半から中盤にかけての話との整合性だって怪しい。結果的に、ウケない。ウケないばかりか、期待を持たせ意気揚々と語り始めた分、変な空気になる。

こんな失念っぷりが最近目立つ。ともかく、話を途中で忘れたときの恐怖感は尋常じゃないんだよ。冷や汗だって、大量に出る。まさに失念ダイエットというところか。みなさん、期待を持たせて話はじめたくせに、おいまいなオチで、尻すぼみになったと感じた場合は、「あっ! こいつ、話忘れよったな?」と、大目に見てくだせえ。そんな寛大さも、心に余裕があってこそ。家電も人間の交流も、もっとのんびり行きましょうや。

もっと人々の心に余裕があった頃の、昭和のレガシーを訪ねるべく、懐古的に生きて、どんどん鈍くさく、どんどん鈍感に、スローライフ、すなわち、不便な毎日を送って行こうと思う。

今年は、酉年だそうだ。心にも、ゆとり、を持って生きたいものだ。

デタラメだもの

20170101
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