デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

2016年01月

ああ、こんな出来事があった日は、いったい、何記念日になるのだろうか?『デタラメだもの』

世間では、人気急上昇のバンドのヴォーカリスト兼ギタリストと、ハーフで好感度バツグンのバラエティタレント兼歌い手の禁断の愛が報じられて幾日が経ち、個人的には、どうせテレビの向こう側の人たちやし、そもそもミュージシャンで成り上がるということもそう、タレントで成り上がるということもそう、それを達成できた人たちっていうのは、ある種のジャパニーズドリームの体現者でもあるわけだし、特にバンドマンなんていうのも、「モテたい」が端を発しているケースも多く、それがこうやって見事に叶えられた好事例を目の当たりにすると、陽の目を見ないバンドマンたちにも、再び大きな夢を与えられるってもんじゃないのかねえ。

スポンサーとの絡みなどになると、一気にビジネスのニオイがしてくるため、ただの男女の問題などと言って散らすだけじゃ済まないというのもよく分かるけれど、当事者のことを重んじるならば、水面下でコソッと、イメージキャラクターを差し替えるなり、表沙汰にしない対応をするほうが、企業に取っても遺恨なく済むし、そう考えると、こういうビッグバン風な芸能界のトラブルには、もっともっと大きな黒い影が潜んでいると思われて仕方がない。
そう、それを口にするだけで、存在が消されかねないような、大きな影。
芸事で飯を喰らう人たちは、何らかのきっかけで、その大きな黒い影の逆鱗に触れることをしてしまい、それによって、半自動的に、ビッグバンが起され、人気稼業としての生命が絶たれてしまう、と。

そんなことを邪推しながら、世論に目をやっていると、ふと、一つの句が目に留まった。
優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球が来る
(俵万智)

好感度バツグンに芸能界で生きてきた当該バラエティタレント兼歌い手の、今回の騒動の件での心境にピッタリなんじゃなかろうかと、インターネットの中の誰かさんが、コメント。

それを見た瞬間、足の動きが止まった。朝の通勤時間だったにも関わらず、足の動きが止まってしまったもんだから、その日の朝は遅刻した。ちなみに、足の動きが止まってしまわない日も、たいてい遅刻している。
見込み残業などと腐った制度に言いくるめられ、帰社時間には定時なんつう概念もないくせに、なぜに朝だけ縛るのだ。朝を縛る権利があるなら、夜も就業規則に則って縛る義務があるだろう。まぁええわ。

何が言いたいかというと、俵万智。
小学生の頃の教科書によく出ていた人。今だにどんな人かはよく知らないものの、よくこんな話って聞きません? 「教科書の問題で出た作家の本だから読んでみた」とか、「教科書で紹介されてたから読んでみたら好きになった」とかいうお話。
僕は全くの逆で、勉学の中で取り扱われてしまったものは、所詮、勉学の味方だ、出来損ないの敵だ、ということで、軒並み避けてしまうという性分を持っている。
ちなみに、朝の目覚ましにミュージシャンの楽曲を使ってみようと、好きなアーティストの楽曲を鳴らす習慣をつけてしまうと、その楽曲は、確実に嫌いになるよね。平生時に聴いても、朝起きる際の、忌まわしき気持ちが蘇り、反吐が出そうになるよね。

そんなことから、俵万智と、代表作のサラダ記念日は、恐らく教科書に載っていたのだろう、それ故に、意識して避けてきた記憶がある中で、先の句。
衝撃的だった。人間の中身を、ここまで正確に謳えるのか。謳えて且つ言い当てられるのか。しかも、こんなにも短い言葉の中で。なんだろう、この人は、いったい。
とかく優等生ぶって生きてしまいがちな自分にとって、身をつまされる思いを抱くとともに、そういえば過去、そんな一球が飛んできた瞬間もあったなぁと、それをかっとばしてやらんと、半ばヤケクソな情熱で、豪快なスイングをかましてやったこともあったなぁと、やけにノルタルジックな気持ちになりながら、そんな気持ちを代弁してくれる句に脱帽した。

そんな句に胸をぶち抜かれて数日、ほぼぼんやりと宙を見つめながら生きてしまっていた最中、習慣となっている帰り道の缶ビールが、その日は、やけに心中穏やかじゃない、のっぴきならない事情があったのか、いつもより本数多く、歩数多く帰っていると、ふと、「俵万智って、他に名言ないのかしらん?」と、アイフォーンをチクチクとイジり出す。すると、またしても衝撃的な事件が。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
(俵万智)

死ぬかと思った。大袈裟な表現を使わずに表現するならば、身体中の毛穴という毛穴が、鳥肌となって、凸化した気配を確かに感じた。
世の中には、まだこんなにも素晴らしいものがあるんじゃあないの。しかも、「名前は知ってるよ」的な知識に留めておいてしまっていた世界のなかにも、こんなにも素晴らしいものがあるんじゃあないの。
なんか、生きてると嫌なこともたくさんあるけれど、こんなにも素晴らしい体験もできるんだと、感謝の気持ちで溺れ死にそうになった。

そんな淡くメロウな気分に浸りながら、帰路の終着から逆算すると、ラスト一本になるであろう缶ビールをコンビニで買ってやろうと、意気揚々と入店。
サラダ記念日で完全に高揚している僕は、豪快に缶ビールをグワシ、掴むと、レジに突き出した。
レジの中には、イッセー尾形を思わせる中年男性。
平生、夜な夜な、コンビニのレジで働いている中年男性を見かけると、すかさず名札を確認する習慣がある。店長、もしくは、オーナーと書かれている場合、夜の時給の高い時間は、自らが店舗に出て、人件費を節約しているのだな、もしくは、働き者の店長なんだな、と感心するし、店長やらオーナーと書かれていない中年男性の場合には、どういった事情があって、こんな夜な夜なにコンビニで働いていらっしゃるのだろうと勘ぐってしまう。のっぴきならない事情から、生活が貧窮しているのかしらん? 独身なのかしらん? 昼間の仕事をリストラされたのかしらん? などと、下世話な想像を浮かべてしまう。

そんななか、イッセー尾形の名札には、店長ともオーナーとも、記載がない。所謂、後者ということになる。
いつもと変わらないレジのつもりだったのが、イッセー尾形のひと言で、様相が一変する。

「缶ビール派ですかぁ? グヘヘ」

イッセー尾形は、キャラクターもイッセー尾形風で、どこか芝居がかっており、イッセー尾形がよく演じていた、少しく他人を小バカにしたようなキャラクター。いきなり声をかけられたもんだから、こちとら狼狽。

そもそも、缶ビール派以外の派閥って何だ? 人を貧乏人とでも言いたいのか? こちらにどういったコメントを期待しているのだ?
レジで足止めをし、そないゆっくり相手している時間もない、端的に答えてさっさと退去しようと思い、「節約、ですねぇ」と答えたところ、なんとイッセー尾形は、「せーーーーつやく、ですよぇ?」と、僕のコメントと丸っぽ被せるようにして、且つ、「せーーーーー」のところをフェードインで且つグラインドさせるような風情で、被せてきやがった。
またしても、なんか小バカにされているみたいな気になって、早よう帰らせてくれといった風情のジェスチャーをしていると、イッセー尾形はさらに、「帰り道に飲みながら帰られる派っすか?」と、さらに軽い調子で、再び新たな派閥に属しているかどうかの尋問を続けてきた。

毒を食らわば皿まで、こうなったら、ちゃんと返事してやろうじゃあないの、そうやってちゃんと答えて、それで立派に帰らせてもらおうじゃあないの、そう腹を括った僕は、「そうですね。仕事帰りに飲みながら帰る派です!」と、好青年よろしく、答えてやった。
イッセー尾形は、「わかるなぁ~」など、一人で得心しているもんだから、レジを済ませた僕には帰る権利もあるんだし、イッセー尾形の対面から、歩を進め、帰らんとしたところ、イッセー尾形が、その特有の他人を小バカにしたような笑みを浮かべながら、「と・も・だ・ちぃ~」と、両の人差し指を僕に差し向けながら、チャラ男のようなジェスチャーで、且つ、大声で妙なことを口走ってきた。
きっと、イッセー尾形は、自分とビール関連の派閥が酷似している人物が現れてテンションが上がってしまったのだろう。
しかしだ、しかしだ、レジを待っている他の客にとって、店員の中年男性から、しかも、レジ中から、両の人差し指を差し向けられながら、「と・も・だ・ちぃ~」などというふざけた言葉を浴びている人間のことは、どう映るのだろう。被害者と見られるのだろうか、それとも、同類と見られるのだろうか。

脳内が、「と・も・だ・ちぃ~」の音節で埋め尽くされて、残りの帰路は、複雑な心境でいっぱいになった。
先ほどまでの、清く澄んだ感謝の気持ちはどこへやら、イッセー尾形の顔しか浮かばなくなった。

ああ、こんな出来事があった日は、いったい、何記念日になるのだろうか?

デタラメだもの。

20160117

電車の中でこんな瞬間に立ち会えるなんて、光栄以外の何物でもない。『デタラメだもの』

お客さまとお仕事などをご一緒していると、あちらこちらと外出していく機会も多く、小市民な私たちは、お車などと呼ばれるハイカラなものに乗って移動できるわけもなく、公共交通機関の電車に乗って移動するわけ。

しっかしこの電車というものには、なんともまあ、玉石混交、雑多な人々が入り乱れていると感じて仕方がない。
世の中の怪しいことこの上ない素性の縮図と言いましょうか、世の中の実は奇妙奇天烈な実態を暴露していると言いましょうか、おかしい人間が多いこと多いこと。

東京に出かけていくため、朝早くに電車を利用した際、六人掛けのシートに、のんべんだらりん、まるで自分ちのベッドの如く、シートを私物化してグーグー眠っている兄ちゃんがおって、これはいかんと危惧したのが、その兄ちゃんの対面の椅子に、これまた恐らく早朝から、勉学のために遠方の優良な学校へ通うのであろう、立派な角帽を被った小学生が座っており、思わず、「アカンアカン、こういう非模範的な成人は目にしたらアカン、ほら、目を背けて、学習帳を注視しようね、熟視しようね……」と、身を乗り出したくもなった。

映画の舞台ともなり、どちらかと言うと、高級感の漂う阪急電車に、生まれて初めて乗車した際にも、作業着を着た大柄のおっちゃんが、シートのど真ん中にドシン、一人大股開いて鎮座。
グーガーグーガーとイビキをかいている様子が見てとれたので、なんか嫌な感じやなと嫌悪感を抱いた瞬間、おっちゃんの股間に違和感を覚え、ふと目をやってみると、小便を漏らしている。垂れ流している。薄緑の作業着ズボンの股間部分は、小便で変色。しかも、垂れ流した小便が、車両の床を流れ流れ、次の車両まで流れ行かんとばかりに、大河を作っている。
「なんじゃ、この電車」
そう思ってしまったのも、仕方があるまい。

スマートフォンを片手に、何やら急にニヤけ顔を浮かべるサラリーマンや、急に両隣の乗車客にアメちゃんを配り出す、大阪ならではのおばちゃん、目の前で高齢のおばあちゃんが杖を持って立っているのにも関わらず、子供三人を平気でシートに座らせ続けている、モラルのない若い母親、Bluetoothの接続が上手く行っていないことに気づかず、周りに大音量の音楽を垂れ流し始める男など、電車内の人間模様を見ていると、日替わり定食の如く、趣が移り変わって行くから、驚きだ。

そんな折り、仕事で新大阪駅界隈に用事があり、御堂筋線に乗っていたある日のこと。
相変わらず、悪臭多めのおっさん連中の中で、鼻息を止めつつ、中津駅を過ぎたあたりから地下鉄の車両が地上に這い出るため、窓外の景色に目をやり時間を過ごしていたところ、ふと目に留まったのが、読書に耽る小学生と思しき女学生。

近ごろの子供も大人も、やれ活字離れだの、やれゲーム機をピコピコやってみたり、スマートフォンを指でシュンシュンやってみたりと、本というものに視線を落としている人が少なくなっている昨今、読書に耽っている様子がとても微笑ましく、大きな文字フォントで印刷された子供向けの本を読んでいるその姿に、今後の日本もまだまだ安泰ぜよ、と、使ってみた試しさえない土佐弁を使ってみたくもなった。

その実、自分が小学生の頃、好きだった映画インディー・ジョーンズの文庫本を見つけ、それを手に取り、夢中になって読み漁ったのが、読書好きになるキッカケの一つだったため、子供たちが本を読むということはとても素晴らしいことぜよ、と、再び土佐弁を使いたくもなるわけである。

そんなことをぼんやり考えながら窓外の流れる景色を眺めていると、何気なく小学生が読む本のページに目が吸い寄せられた。
それはなぜかと言いますと、最後のページに差し掛かっていたからなのです。つまりは、ページタイトルが「おわりに」と、ひときわ大きな文字フォントで印字されているのが目に留まったからなのです、本の最後のページですよ、ショートショートだったら、オチが書かれている最後のページ、群像劇なら、無関係に思われていた全ての登場人物たちが、実は全て関係者同士だったということが判明するページ、推理小説なら、犯人と思われていた物語をひっくり返さんとする真犯人逮捕の瞬間、一冊の本を読み進めてきて、最も固唾を飲むページ、それが、最後のページである場合が多く、今、小学生は、その最後のページ、「おわりに」の章を読んでいるわけで、一冊の本単位で言えば、今まさに、歴史的瞬間に立ち会っているという感覚に襲われたわけです。

僕は感情移入し過ぎたり、キャラクターの心理を深読みしたりして読書するほうなので、一冊の本を読むのに、人よりも時間がかかってしまう上に、読了する際には、かなりの疲労感に襲われることになる。
そのため、一冊の本の最後のページを読み終わった瞬間には、まずは大きく深呼吸を一つ、それから小さな声で、「なるほどね」とか「やられたわ」とか「すごっ」とか、端的な感想をポツリ呟き、そして、大満足の表情を浮かべながら、改めて大きく息を吸い込み、その作品の世界と僕のいる世界も実は繋がっているよね、なんて空想しながら、空の見える場所に居ようが居まいが、上を見上げながら大きな空を思い浮かべる。

仮に周りに人がいたとしたら、そういう僕の様子を見て、さぞ奇怪にも思うだろうけれど、本を一冊読み終わるという偉業を成し遂げた瞬間くらい、誰にどう思われようが、自分なりの達成感に酔いしれたいので、気にもしない。

とまぁ、僕のことなどどうだっていいんだよ。今、目の前で、「おわりに」の章が終わろうとしているじゃあないの。他人が本を読了した瞬間、どのような快楽に襲われたり、どのような達成感の表現方法でもって、恍惚と舞い出すのかは知らないが、ともかく、「おわりに」が終わろうとしている。

そう思った刹那、「おわりに」のページがついにめくられ、片方のページは白紙、もう片方のページに、出版社や印刷会社などが記載された真に最後のページが現れ、そしてついに、本がパタムと閉じられた。
さらに本が閉じられたその刹那、本の表紙がチラリと見え、小学生が読んでいた本が、スヌーピーだったことが分かった。

ああ、なんだかいいよなぁ。隣で鼻くそをほじくりながら、車内吊り広告のうそ臭い見出しを追いかけ続けている、薄毛のサラリーマンなんかより、よっぽどいいよな。
小学生が本を読んでいるんだぜ。しかも、今、一冊、読了したんだぜ。残念ながら、その小学生が、本を読了した瞬間に、僕と同じような奇怪な行動や表情を見せなかったことを考えると、どうやらそういった変態的な行動は、僕一人か、もしくは、ごく少数の人間しか取り得ない行動ということで、理解しておこう。皆が皆、そんな風にするもんだという先入観は、今後、捨てながら生きようと思う。

そんなことより、とてもいい光景を見させてもらった。とてもいい瞬間に立ち会わせてもらった。

別にどんな本を読もうがいい。卑しくも物を書く身分として、活字から脳内に自分勝手で理想的な映像を描画できる本という存在を、一人でも多くの若者たちに味わって欲しいと思うし、それが別に電子書籍だっていい、誰かが作ったイラストやグラフィック、音楽なんかの一切を排除して、自らが役者たちに演出を施し、バックグラウンドミュージックをイメージしながら、情景や風景のディテールを再現していく、読書という夢のある行為の虜になって欲しいと思う。

思慮をグングンと深めながら、半ば満たされた気持ちでお客さまを訪問し、プレゼンテーションをする時間になったものの、脳内が「本っていいよね」という思考で染められてしまっていたため、会話のほぼ全てを同行していた者に任せ、自分は一人、ぽつねん、薄ら笑みを浮かべながら、一冊の本を読了したわけでもないのに、恍惚な表情を浮かべていたのであった。

文学界の明日は明るいのかも知れないが、この仕事っぷりじゃあ、僕の明日は決して明るくないかも知れない。

デタラメだもの。

20160111
ギャラリー
  • まだ見ぬ人々の数は腰を抜かすほどに多い。そして一流と呼ばれる人の数は実に少ないものだ。『デタラメだもの』
  • 自分の一生を全うするためには、「修正」という言葉を軽々しく口にしてはならない。『デタラメだもの』
  • 連絡無精の言い訳を対人関係にすることと緑豆もやしが枯れたことには大いに因果関係がある。『デタラメだもの』
  • 先輩の仕事とは後輩を育てることではなく後輩に夢を見させてあげることだと教えてくれた河豚、否、おじさん。『デタラメだもの』
  • 正常稼働していた歯が治療され、あろうことか、その後の激痛に悩まされる日々。『デタラメだもの』
  • 男たるもの、酩酊したうえでの失態を他人に見せるべからず。ましてや介抱されるだなんて。『デタラメだもの』
  • 退屈しのぎにネクタイを巻いてみた。意味のないことにも価値あるものとそうでないものがある。『デタラメだもの』
  • ラブホテル街にこだまする「ありがとうね」。今宵も美味なる缶ビールを片手に思いを巡らせる。『デタラメだもの』
  • 新幹線で窓側の席から順に指定席が埋まって行く原理が分からない。『デタラメだもの』
最新記事