ちょっとでも面白い文章を書いてやろうと、意気込んで日々をやり繰りしていると、幸いなことに、奇奇怪怪なこの世の中、滑稽や人や無様な人、情けない人やお調子者、ひょうきんな野郎や無頼者、理解不能な事件や、口角が僅かにつり上がる程度の軽いハプニングなど、それはそれはいたるところにおられるわけで、あられるわけで、となると、それらを見たからには聞いたからには感じたからには、面白い文章にまとめ上げねばならんということになる。

そこで登場するのが、ネタ帳。

調子に乗って芸人然として生きているわけではない。決してそんなわけではない。
この面白き世の中と、面白き世の中を記憶しておく能力のないつまならなき脳みそを繋ぐ栄光の架け橋として、いつぞやネタ帳をつけるようになった。

ネタ帳といっても、一般的にイメージされるような、小さな手帳のようなものに、鉛筆やらシャーペンやらでアイデアを殴り書きするようなタイプのものではなく、あろうことか、現代人気取り丸出しで、アイフォーンのアプリケーション、しかもクラウドなどと呼ばれるタイプのものを駆使して、それをネタ帳と称し使っているのである。

元来、果てしなく面倒臭がりの性分故に、一般的に想起されるタイプのネタ帳を持ち歩いていたときなどは、

「ん? いいアイデア思いついたぞ! 忘れては大変なことだ、忘れてしまっては大変なことだ! 手帳、手帳……。カバンの奥にあり過ぎて取られへんがな……。ペンはどこや? ペンは……? ああ! もうええわい! 面倒臭い! ネタ帳に書き込まな覚えてられへん程度の陳腐なアイデアなんぞ、いっくらでも脳内で忘却して行ってやるわい! 真に価値のあるネタなら、そんなもんに書き込まんでも、心にこびりついて、一生涯、忘れるわけあらへんがな!」

と、思いついたアイデアやネタのほぼ全てを、脳内で消滅させてしまっていた。
何事も、面倒臭さというか、手間というか、そういった類のものを介在させると、途端に、所謂ところの無精者になってしまうことを、誰よりも知っているというか、誰ひとりとして、僕がそんな性分なんだということを知っているどころか、僕自身を知っている人間なんざ、世の中には数名程度しかおらんわけであるが、なんともまぁ、アイフォーンのアプリケーションを使って、僕はネタ帳を書いているんだということを言いたかった。ただそれだけを言わんがために、ここまでの文章量を浪費してしまうという、この筆の無邪気な走り方といったら、全くチャーミングだよ。

さて、ここからが本題なわけだけれども、何が言いたかったかと言うとねぇ、そのネタ帳をじっくりゆっくりと読み返す機会があったわけで、軽く缶ビールなんか仕込みながら。
ネタ帳をめくるのではなく、フフフンと人差し指を使って、アイフォーンの画面を涼しげに上下運動させていると、それはそれは爆笑してしまったわけ。

知識が浅く、学力がなく、一般常識に欠けている自分だからこそ、そういった恥部が露呈せぬよう、極力、短めの文章、能力のなさ、才能のなさがバレてしまわない程度の短い文章を、恥ずかしながら売り物としているだけに、ネタ帳の記述も、ひと言でバサッと切り殺す、殺傷能力の高い短い言葉や短い単語が、ツラツララと書き連ねられていて、これを読み返していると、意味不明なものもあり、記憶から消えているものもあり、情景が全く浮かばんものもあり、自分で言うのも何だけれども、なかなかにこれ美味だったわけである。

ところがどっこい、ふと気づく。酔いが醒める。夜風が目に染みる。

「ネタ帳だけ見て、こんなに爆笑してしもうて、大丈夫か……」

つまりは、一発ギャグのような気配がしてしもうたわけです。
となると、そこには文章は不毛。脚色やら演出やら、ギミックやらオノマトペやら、比喩やら倒置やら、物書きの醍醐味であるそれらのもの一切不要ということになる。
じゃあもはや、僕に対しては、面白い文章を書くという役目は与えられていないわけで、だからと言って、一発ギャグのように、末永く流行りそうなものもない。
言うならば、一瞬ギャグ、のようなものばかりが、ネタ帳に認められていた。

何が恐ろしいってねぇ、タイトルのネタやら超短文のネタで笑ってしまったら、そこにツラツラと文章を乗っけても、自分のそのネタへの初笑い、つまりはリビドー、初期衝動を凌駕することは、不可能なんです。それは、痛いほど知っているんです。
芸人さんが、ギャグをやった後に、理解力のない面白みもないボキャブラリーのセンスもない頭の固い人間から、それってどういう意味ですか? などと聞かれる場面で、

「説明さすんかい!」

と、ツッコミを入れるあれ。
つまるところ、笑いの説明になってしまうわけなんです。
となると、自分のネタ帳に書かれている見出しやら短文を見て、ひとしきり爆笑を済ませてしまった自分にとっては、もうこれらのネタと真正面から向き合って、文章へと昇華させる行為はできなくなってしまったわけです。

やっぱり、世の中で起こる瞬発性の高い面白さというものは、ネタ帳のような保温バッグに入れておくのではなく、その鮮度のまま、うまく調理し、すかさず世に再度提供することが重要なんだと、改めて思いながら、なんでここのキッチン什器保管サービス業者の建物の一階ガレージは、いつもいつも猫の小便臭いんだと小首を傾げながら、駅の方へと向かった。

と、これが本題だと言い張りながら文章を書き進めていたが、実は、これからが本題なのだ。
何が言いたいかっていうと、物事を説明するときに、「要は」とか「極論で言うと」とか、我々日本人、使い過ぎだアホンダラアということを言いたかったんだ、今思い出した。
世の男たちの話が、どれもこれもつまらん、やたらめったらに長いのは、「要は」とか「極論で言うと」などと言いながら、一向に話をまとめられない柔な野郎ばかりだからだってえことを言いたいがために、ネタ帳の中に、凝縮された短文が詰っていたんだよ、殺傷能力が高かったんだよ、それを見て僕は自分で阿呆のようにキャハハと笑っていたんだよってことを、前フリとして使っていたんだった、がはは、すっかり忘れていたよ。

日々こうやって、短文に凝縮することを妙味としている自分から世を見ていると、皆さん、「要はね……」と言いはじめてからの説明が、これまた長い、これまたひとつもまとまっていない。
「極論で言うとなぁ……」とはじまった説明が、全くといっていいほど、極論を語れていない。
自分の本論に自信がないために、説明の頭に、余計な装飾を施して、自分の話は、要点をついていますよ、自分の話は、しっかりと振れ幅を持たせていますよと、アピールしなければ、よう話せんのやろう。
「要は」とか、「極論で言うと」などは、もう少し正しく使ってもらいたいものだ、我々日本人。

「要は僕が年々、脚フェチになってきているということです。極論で言うと、恋人のストッキングを主食にしたいくらいなんです」

こういう文例こそが、正しい使われ方だと信じてやまず、今日も駄文をツラツララ。
しっかし、猫の小便臭いなぁ、ここ。

デタラメだもの。

201150614