ごろんと寝転びながら、特段やることもないわと、ぼんやりテレビなんぞを眺めていると、ごくごく稀に、「この番組、意外に面白いやん」と、普段はテレビなんぞめったに見ないのだけれども、少しばかり心躍らせて見入ってしまうことがある。
その、たまたま見ていた番組が、たまたま面白かったときの優越感というか、日々テレビに齧りついて血眼になって見ているわけでもないのに、その偶然を引き寄せる自分の強運と言いましょうか、特段やることもないということは、不毛に時を消化してしまうところだったものを、有意義に、フフフンと鼻歌混じりにテレビを見ている自分の優雅さったら、並みのブルジョアジーなら、涙ながらに羨ましがるに違いない、フフフン。
ただ、このたまたま見ていた番組が面白かったときの優越感には、ある落とし穴がある。
生まれも育ちもいたって平々凡々な中産階級の臭いが染み付いた自分などが、ブルジョアジーたちに羨ましがられるわけもない現実が、一瞬にして襲ってくることになるのだ。
「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
この類のテロップが、いきなり表示された瞬間だ。
その瞬間、それまでフフフンと、陽気に番組を楽しんでいた自分のピュアな心が、ハンマーで打ち砕かれる。
「そしたら何かい!ワシは、数年前の番組を、ごくごく最新の番組であるかのように楽しんでおったわけかい!じゃあ何かい!目の前に繰り広げられている、例えばグルメ番組やったら、その店、もう潰れてるかもしらんし、旅番組やったら、その宿、もう潰れてるかもしらんし、おしどり夫婦特集やったら、その夫婦、もう離婚してるかもしらんし、お笑い番組やったら、その漫才コンビ、もう解散してるかもしらんし、例えば女優やアイドルやったら、そのお顔は、もう整形されて変わっとるかもしらんし、もっと言うなら、目の前でキャッキャッしている芸能人、もう引退してるかもしらんし、死んでしまってるかもしらん、ということになるやん」
こんな大恥、あるいかな。
しかも、純粋な再放送ならまだしも、東京で放送された番組が、我々大阪という田舎に、タイムラグを持って運ばれてきたがために、初回放送にも関わらず、えらい年月が経ってしまっている場合など、複雑な心境過ぎて、画面を直視できなくなる。
そこでふと、こう思うわけだ。
目の前にある光景、景色、映像、いつ何時、自分たちは、捏造されたそれを見せつけられているかわからないということ。これまでバカ正直に当たり前のように信じていた光景、景色、映像も、実は捏造されたものだったかもしれないとうこと。
金閣寺とか、ないかもしらんぞ。あれ、プロジェクションマッピングで、映像が投影されているだけかもしらん。
ジョニーデップとか、おらんかもしらんぞ。あれ、巧妙に作られた次世代ロボットかもしらん。
美しい美しいと騒がれる女優さんとか、ひとりもおらんかもしらんぞ。あれ、精巧に加工されたCG映像を見せつけられてるのかもしらん。
税金とか、正しい用途で使われてないかもしらんぞ。あれ、使途不明のまま、どこかに消えてるのかもしらん。まぁ、それはほんまやろう、きっと。
近ごろ、若くして死んでしまった僕の好きなミュージシャンが、十二年ぶりに新曲を出すことになったそうな。
もちろん、十二年前に他界してしまっているので、本人が歌ってギター弾いてなど、できるわけがない。
どうやら、本人の過去の歌声を細かく千切って、それをボーカロイドと呼ばれる技術と融合させることによって、あたかも本人が歌っているかのような雰囲気でもって、楽曲を創り上げたそうだ。
いざ、それを聴いてみる。
これがまた、めちゃ良い。
「やったー!新曲やー!新曲なんか聴けるなんて思ってなかったから、嬉し過ぎるー!」
と素直に思っている自分がいる。
心底、それを聴いて、嬉しく思った。
しかしこれも同じだ。
この喜びは、他界してしまったアーティストに向いているのか、十二年の時を経て、存在しないミュージシャンの楽曲を新曲としてリリースできるほどの、最先端技術に向いているのか、どっちだ。
円形脱毛症ができるほどに悩んだ末、あるひとつの答えに辿り着いた。
それを聴いて、嬉しく思っているんだから、もうええやん、と。もう、その嬉しいという感情が全てやん、と。
楽しいとか嬉しいとかに、理屈を捏ねても仕方がないんだ、結局。
そうなんだ、僕たちは本来、とてもロマンチックな生き物で、ミッキーマウスの中には、人なんて入っていないと思って楽しめて、サンタクロースだって、実在するってドキドキできて、宝くじは、いつか当たるかもって信じれられて、奇跡は起こるものじゃなくて、起こすものだって信じている。
晴れの日も雨の日も満遍なくあるだろうに、たまたまイベントの際などに晴れの回数が少し多いだけで、俺は晴れ男だ!なんてドヤ顔もやってのけられるし、ボウリングのスコアが伸びなかったときには、手首をコキコキと捻りながら、今日は手の調子が悪いわ……などと、自分の実力ではなく、自分の手に責任を押してつけてプライドを保つこともできるし、街なかで異性と目が合うだけで、この人もしかしてだけど、自分に気があるのでは?なんて、身分不相応な勘違いもできる。
何もかもが、楽しいことばかりなんだ。
これで、プロジェクションマッピングで創られた金閣寺を見ても、次世代ロボットであるジョニーデップを見ても、これまで通り感動できるし、使途不明のまま問答無用に徴収される血税にも、納得できる。
わけがない、税金だけは納得しない。
選挙ポスターの笑顔も、選挙演説も、党のマニフェストも、何もかもが捏造じゃ、笑えないし、ひとつも楽しくない。
同じような顔ぶればかりで変わらない政治、変わらない選挙を繰り返して、そのうち国会中継を見ている最中にでも、画面下にテロップで、
「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
などと、表示され出すんじゃ、あるまいな。
デタラメだもの。

その、たまたま見ていた番組が、たまたま面白かったときの優越感というか、日々テレビに齧りついて血眼になって見ているわけでもないのに、その偶然を引き寄せる自分の強運と言いましょうか、特段やることもないということは、不毛に時を消化してしまうところだったものを、有意義に、フフフンと鼻歌混じりにテレビを見ている自分の優雅さったら、並みのブルジョアジーなら、涙ながらに羨ましがるに違いない、フフフン。
ただ、このたまたま見ていた番組が面白かったときの優越感には、ある落とし穴がある。
生まれも育ちもいたって平々凡々な中産階級の臭いが染み付いた自分などが、ブルジョアジーたちに羨ましがられるわけもない現実が、一瞬にして襲ってくることになるのだ。
「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
この類のテロップが、いきなり表示された瞬間だ。
その瞬間、それまでフフフンと、陽気に番組を楽しんでいた自分のピュアな心が、ハンマーで打ち砕かれる。
「そしたら何かい!ワシは、数年前の番組を、ごくごく最新の番組であるかのように楽しんでおったわけかい!じゃあ何かい!目の前に繰り広げられている、例えばグルメ番組やったら、その店、もう潰れてるかもしらんし、旅番組やったら、その宿、もう潰れてるかもしらんし、おしどり夫婦特集やったら、その夫婦、もう離婚してるかもしらんし、お笑い番組やったら、その漫才コンビ、もう解散してるかもしらんし、例えば女優やアイドルやったら、そのお顔は、もう整形されて変わっとるかもしらんし、もっと言うなら、目の前でキャッキャッしている芸能人、もう引退してるかもしらんし、死んでしまってるかもしらん、ということになるやん」
こんな大恥、あるいかな。
しかも、純粋な再放送ならまだしも、東京で放送された番組が、我々大阪という田舎に、タイムラグを持って運ばれてきたがために、初回放送にも関わらず、えらい年月が経ってしまっている場合など、複雑な心境過ぎて、画面を直視できなくなる。
そこでふと、こう思うわけだ。
目の前にある光景、景色、映像、いつ何時、自分たちは、捏造されたそれを見せつけられているかわからないということ。これまでバカ正直に当たり前のように信じていた光景、景色、映像も、実は捏造されたものだったかもしれないとうこと。
金閣寺とか、ないかもしらんぞ。あれ、プロジェクションマッピングで、映像が投影されているだけかもしらん。
ジョニーデップとか、おらんかもしらんぞ。あれ、巧妙に作られた次世代ロボットかもしらん。
美しい美しいと騒がれる女優さんとか、ひとりもおらんかもしらんぞ。あれ、精巧に加工されたCG映像を見せつけられてるのかもしらん。
税金とか、正しい用途で使われてないかもしらんぞ。あれ、使途不明のまま、どこかに消えてるのかもしらん。まぁ、それはほんまやろう、きっと。
近ごろ、若くして死んでしまった僕の好きなミュージシャンが、十二年ぶりに新曲を出すことになったそうな。
もちろん、十二年前に他界してしまっているので、本人が歌ってギター弾いてなど、できるわけがない。
どうやら、本人の過去の歌声を細かく千切って、それをボーカロイドと呼ばれる技術と融合させることによって、あたかも本人が歌っているかのような雰囲気でもって、楽曲を創り上げたそうだ。
いざ、それを聴いてみる。
これがまた、めちゃ良い。
「やったー!新曲やー!新曲なんか聴けるなんて思ってなかったから、嬉し過ぎるー!」
と素直に思っている自分がいる。
心底、それを聴いて、嬉しく思った。
しかしこれも同じだ。
この喜びは、他界してしまったアーティストに向いているのか、十二年の時を経て、存在しないミュージシャンの楽曲を新曲としてリリースできるほどの、最先端技術に向いているのか、どっちだ。
円形脱毛症ができるほどに悩んだ末、あるひとつの答えに辿り着いた。
それを聴いて、嬉しく思っているんだから、もうええやん、と。もう、その嬉しいという感情が全てやん、と。
楽しいとか嬉しいとかに、理屈を捏ねても仕方がないんだ、結局。
そうなんだ、僕たちは本来、とてもロマンチックな生き物で、ミッキーマウスの中には、人なんて入っていないと思って楽しめて、サンタクロースだって、実在するってドキドキできて、宝くじは、いつか当たるかもって信じれられて、奇跡は起こるものじゃなくて、起こすものだって信じている。
晴れの日も雨の日も満遍なくあるだろうに、たまたまイベントの際などに晴れの回数が少し多いだけで、俺は晴れ男だ!なんてドヤ顔もやってのけられるし、ボウリングのスコアが伸びなかったときには、手首をコキコキと捻りながら、今日は手の調子が悪いわ……などと、自分の実力ではなく、自分の手に責任を押してつけてプライドを保つこともできるし、街なかで異性と目が合うだけで、この人もしかしてだけど、自分に気があるのでは?なんて、身分不相応な勘違いもできる。
何もかもが、楽しいことばかりなんだ。
これで、プロジェクションマッピングで創られた金閣寺を見ても、次世代ロボットであるジョニーデップを見ても、これまで通り感動できるし、使途不明のまま問答無用に徴収される血税にも、納得できる。
わけがない、税金だけは納得しない。
選挙ポスターの笑顔も、選挙演説も、党のマニフェストも、何もかもが捏造じゃ、笑えないし、ひとつも楽しくない。
同じような顔ぶればかりで変わらない政治、変わらない選挙を繰り返して、そのうち国会中継を見ている最中にでも、画面下にテロップで、
「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
などと、表示され出すんじゃ、あるまいな。
デタラメだもの。
