デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

2014年10月

麗しき常連という響きに誘われて、危険な蜜に群がる僕たち。『デタラメだもの』

常連客というものは、一見さんからすると、憧れの存在であり、羨望の眼の対象なわけである。
そして、自分がその店の常連になれたと感じる瞬間は、何よりも優越感があり、ふふふん、俺はここの常連だぜ、君たちとはひと味もふた味も違うぜなんて、鼻先にそよ風を吹かせたりもできる。

入店時、通常であれば、「いらっしゃいませ」と言われるところを「まいど!」と声をかけられる。
まいどやで、まいど。俺にはまいどって言うてくれるねんど、ほらみろ、今この店の中にいるお客様方々の中で、まいどって言われた人いてはる?仲間やね。ちなみに、いらっしゃいませって言われた人いてはる?はははぁ、君たちは、いらっしゃいませ組なわけやね、そうかそうか、まぁこの店、よろしゅうしたってえなぁ。

と、僕のように、恐ろしく性分の歪んだ常連客が登場するわけである。

先日も、そんな僕は、某立ち飲み屋にて、常連化した。
なかなかに美味しく、果てしなく安く、居心地もよく、仕事帰りに愛用させていただいている立ち飲み屋で、何度も通ううちに、オーダーも固定化されはじめ、先日、気分よく注文した際に、「いつものですね!」と声をかけていただき、有頂天。
いつものですねと言っていただけるということは、僕が注文するオーダーを記憶していただいており、もっと言えば、僕というような希薄な存在をも記憶していただいていることであり、それはつまりは、常連になっていると言ってしまっても良いんじゃあないでしょうか。

ヘラヘラと常連になれたことに浮き足立っているだけと思うなかれ。
常連という響きをこよなく愛しているからこそ、常連の怖さ、恐ろしさ、恐怖、ある種の不自由さをも、僕は身に染みて知っているつもりだ。

以前、仕事の昼休みに、部下と足しげく通っていた、チェーン店の喫茶店。
僕は旧来の面倒臭がりの性分から、毎回毎回同じ品を注文していた。(面倒臭がりの性分というか、その店で最安値のドリンクだという理由からだが)
すると、店員さん、いつしか「今日もいつものですね」と、注文を口にせずとも、オーダーを受け付けてくれるという、いわゆる常連へと格上げしてくれたわけ。
そしてさらには、店外のガラス越しに我々の姿を捉え、入店を予期した瞬間から、そのドリンクを準備し出すというほどに、特別待遇な存在になれたわけである。

当初はこの扱いに、部下共々、わははわはは、我々すっかり常連になったもんじゃ、これは天下統一の日も近いぞ近いぞ、バカヤロウ。と浮かれに浮かれていた。

が、日々飲んでいたドリンクが冷たい種別の飲み物であったため、冬も本番という季節になってくると、「この季節、ちょっと冷たい種別のドリンクは控えさせていただきたいのですがボス。いつものノリでいくと、確実に冷たい種別のドリンクが出されますよね、僕たち常連ですから。でも、僕はそろそろ冷たい種別のドリンクじゃあなくって、温かい種別のドリンクを飲みたいのですが、如何いたしましょうか、ボス」
などと、部下の野郎がふざけたことを言い出した。

一抹の不安が脳内を疾走する。
「いつものですね!」という掛け声は、常連が、いつもいつもお馴染みの品を飽きもせずオーダーするが故に、それを特別待遇のショートカットでもって「いつものですね!」になるわけで、その、いつもの感を逸脱するということは、常連条例に違反することになるのではないだろうか。
そして、ひと度、その掟を破り、常連の道を逸脱してしまうと、店員さんは、こいつらは、大抵はいつもの品をオーダーしやがるくせに、たまにフェイントで、違う品をオーダーする危険性もある。こちらが、いつもの感を出して接していると、不定期にそれを裏切る可能性のある要注意人物たちだ。いつもの感を出して接していると、恥をかかされる危険性がある。一杯食わされる危険性がある。こんな奴らは常連扱いすべきではない。常連扱いどころか、人畜無害なその他のお客様よりも、愚として扱うべきである。
そう思われるに決まっている。

案の定だった。
少し食い気味に「いつものですね!」とオーダーを受付ようとする店員さんを制し、「今日は温かい種別のドリンクをお願いします」と言ってのけた部下。その顔面を、畏怖と軽蔑の念で呆然と見つめる店員さん。
カウンターを挟みながら、とてつもなく気まずい空気が流れ、それはやがて濁り、うねり、いてもたってもいられないような状況に陥ってしまった。

もう想像していただけるだろう。
その日を境に、「いつものですね!」は消滅し、「ご注文をお伺いいたします」という、一見さんと同じ掛け声をいただくようになり、それだけならまだしも、今まで常連であった者たちが、格下げされたという妙な関係性から、気まずさは継続し、そういった居心地を嫌う僕は、以降、その店に足を運べなくなってしまった。

そんな風にして、常連というものは、馴染みの店をひとつ失ってしまうかもしれないという危険と隣り合わせな存在だと、常に意識していなければいけない。
本当にその店が好きならば、常連にならないよう、極力の気を配りながら、お店と接する必要があるのかもしれない。

常連でふと頭に浮かんだのだけれど、僕がまだ若かりし頃、高校生くらいの頃だったろうか、父親と一杯やる機会があり、父親、息子と飲むというたまの機会に、たいそう気分を良くし、ぬはははぬははと酒を煽り、しまいにはこう言ってのけたわけである。

「坊ちゃん。我輩が常連とされている飲み屋に連れてってやろうか」と。

連れてこられたのは、少し場末で、日本国籍ではない国の方々がカウンターの向こう側にいる風情のお店。
常連扱いされていることを息子に誇示したかったのか、カウンターの向こう側でニコニコする異国の女性たちと、やたらめったらデレデレする父親。
今も昔も、そういう風情のお店を好まない僕は、それをひどく冷めた目で見て過ごしていたのだが、その後、衝撃の事態を目の当たりにすることになる。

父親、お会計の段階になり、カウンターの向こう側からこちら側にやってきた店を仕切っているであろう年長の女性と、何やらモメ出したのである。

「僕は、常連だよね?」
「ごめんなさい」
「常連のはずだよね。それなのに、何、この会計」
「ごめんなさい。お会計間違った」
「常連に何してくれてるの?」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「もう常連の僕、二度と来ないよ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

何故か標準語で激高する父親と、片言の日本語で必死に謝罪する年長の女性。
その様子を見て若かりし僕は、大人というものは、とても醜い存在であると辟易し、自分はこういった類の店には近づかないような人間になろうと意を固め、モメている大人の間を縫って、そそくさお暇させていただいた記憶がある。

今思えば、その様子から学べる教訓があるということ。
そう、お店によっては、入った瞬間から常連化してくれる店もあり、常連客だと洗脳してくる店もあり、その常連から容赦なくぼったくりを計ろうと企む店もあり、店によっては、それら常連を、カモと呼んでいる店もあるということ。

常連、怖ろしや。
されど憧れる、常連という響き。

デタラメだもの。

201141026

牛丼、並、つゆだく。先人の雄姿が切り開いたその道に、僕らはただ従うのみである。『デタラメだもの』

つゆだく。

皆さんご存知の方も多いとは思うけれども、このつゆだくというシステム。システムというか注文方式。
いわゆる牛丼を食すことのできるお店では、一般的に注文の際に、

「牛丼、並」

などと、食べたいメニューと、サイズを伝え、それでオーダーは終了。あとは、希望の品が運ばれてくるのを待つだけといった塩梅であるが、これが何やら、

「牛丼、並、つゆだく」

と店員様に申し付ければ、なんということでしょう、牛丼の汁が多めの状態で、牛丼の並が運ばれてくるという、何ともお得な注文方式があるということを知って早二十余年。

この、つゆだくシステムなる注文方式には、とてもお得感があってたまらんわけである。
なんと言っても、普通に注文していたならば、牛丼の並盛だけが運ばれてきたところ、この注文方式を申請して注文すれば、多めの汁がサービスとして付加されているわけだもの。なんとお得。

そこでふと疑問に思うわけである。
一番最初に、これを注文した人は、誰なんだ?ということ。

だって、よく考えてみれば、当店のメニューには、「つゆだくシステム有り舛」などと、ご丁寧な解説文は書かれていない。メニューのどこを見てみても、書かれていない。にも関わらず、前人未到のこの注文方式を試みた猛者が、この世にはいるということだ。
そうして、その猛者の雄姿に続かんとばかりに、続々とつゆだくを注文する後陣が現れ、そして今や、誰しもが知るほどに、その注文方式は有名になったわけである。

となると、この猛者は、とてつもない功績を後世に残したということになる。

そしてもうひとつ疑問に思うことがある。
それは、他の飲食店やらサービス店などで、どこまでだったら、この、つゆだく注文方式を、ズケズケと申し付けてもいいものか?ということ。

牛丼には、汁というものが付き物。なので、つゆだくが来れば、お得感がある。では、ラーメン屋の場合で行くと、肝心要の麺、ほぼメインと言っても過言ではないチャーシュー、汁はもともと、器にたっぷり入っているので増量する必要がないとすれば、それらを除くもの、すなわち、葱、もやしなどの、その他の具材。これらを、つゆだくシステムを申し付けることによって、増量することなどは、果たして可能なのだろうか。

可能なのである。

ちょくちょく顔を出すラーメン屋の場合においては、葱多めや、野菜多めといった具合に、その他の具材に対して、多めという指示を予め出すことによって、運ばれてきた器の中には、その指示通り、その他の具材がてんこ盛りになって運ばれてくるといったハレンチな現象が。
ここにも、つゆだくシステムが。

そしてメニューを見てみると、またしても、そのラーメン店のメニューには、「葱多めでき舛」や「野菜多めでき舛」などといった良心的な記載はないのである。

じゃあ、なぜそのラーメン店において、僕がつゆだくシステムを申し付けることができたのかというと、単純である、そう、先人を切ってそれらを申し付けていた猛者がいたからである。
ただの真似事だ。ちゃっちい人間だ。真似事しかできないでいやがる。しかしだ、葱多めは魅力的、野菜多めは魅力的、僕だってその他の具材が多いほうがいい、多いほうがいい。多いほうがいいに決まっている。
そうやって悶々した問答の末、無事、つゆだくシステムを申し付けることができた。

これまたラーメン店において、一番最初に、「葱多め」や「野菜多め」なる、つゆだくシステムを試みた猛者がいるわけで、その猛者の心中たるやいかに。どのようにして、一見すると、たいそう厚かましいような、そんな暴挙に出ることができたのか。

「店員さん、ひとつお願いがあって……」
「なんすか?」
「あの……」
「なんすか?」
「私の注文の件でござんすが、どうにか、葱を多めにしてもらうわけにはいかないだろうか?」
「お客さぁーん、バカ言ってんじゃないよ。そんなサービスしてたら、ウチの店、潰れちゃうに決まってんじゃなーい。お行儀の悪いこと言わんでくださいや」

などと、決死の覚悟も、軽くバカにされてあしらわれてしまう可能性だってあるはずなのに。
プライドも誇りも地位も名誉も、その人が築き上げてきた全てが崩壊してしまう危険性だってあるはずなのに、それなのに猛者は、いや、先駆者は、ありったけの勇気を振り絞って、葱多めを申請したわけである。
それを思うと、日本人というのは、やはり侍の魂を持った人種であると、感涙だ、感涙。

ただ、そうなってくると、先人というものは、全てが全て、成功の道を辿るとは限らない。
多くの猛者たちが挑み、生き延びる者もいれば、志半ばにして倒れる者もいる。そうして、生き延びた者の轍こそが、道となり、道となるわけだ。
となると、中には、

「牛丼、並、牛多めで」
「は?」
「あ、つゆだくシステムを申し付けさせていただきますので、僕、牛丼、並、牛多めで」
「大盛りですね?」
「いや、牛丼、並、牛多めで」
「警察呼びますよ」
「すみません。牛丼、並で……」

と、果敢にも、牛を多めにしてくれと懇願し、命を奪われかけた先人もいただろう、可哀想に。

そうなってくると、何が可で、何が否なのか、さっぱりわからなくなってくる。
キムチが食べ放題のラーメン店もあれば、キムチは買わねば食べられないラーメン店もある。
葱入れ放題のラーメン店もあれば、葱はトッピングだからと、お金を払わねばならないラーメン店もある。
空気はタダで吸えるのに、自転車に吸わせる空気には、数十円が必要で、試食として出されているスーパーの食べ物は、ひとつだけ食べれば見込み客扱いなのに、二十個も三十個も食べれば、警察を呼ばれそうになる。

僕は元来の内気な性格も手伝って、先人が注文しているのを盗み聞きしたお得サービスしか、よう注文などできないし、試みた結果、それを却下などされようもんなら、あまりの恥ずかしさに、身ぐるみを自ら剥がしてその場から逃走でもし兼ねない。
そんな風にして、知らぬところで、お得を享受し損ねて生きているのかも知れない。

そう言えば以前、八山なる僕の人生の後輩と、良いお酒を楽しんだ後、カラオケでも行ってワイワイやろうやということになり、駅近くの、某格安カラオケチェーン店に入ったものの、繁華街の店であったがため、長蛇の列となっており、到底そんなには待てないやということで、退店。

でも、どうしても、大声で歌でも歌ってさいならしたいよなぁと相成って、その某格安カラオケチェーン店の向かい側にある、高価で有名なカラオケチェーン店に入店。

「いらっしゃいませ」と受付で声をかける店員に対して八山は、
「向かいの某格安カラオケチェーンなんかには一切なびかずに、こっちのカラオケに来ましたねん!そやから、ルーム料金安くしてやぁー!」
と、つゆだくシステムを逸脱したような、暴挙、暴君、愚行に出たわけである。
その様子を見て、あほなこと言いないや!と横からつっこもうとした瞬間、
「はい!では、ルーム料金、20%オフとさせていただきます!」
と店員は、その八山の暴挙に戸惑うこともなく、あっさりと、室料の値引きを快諾したのである。

これはいったい、何システムが働いたことによるサービスだったのだろうか。
世の中、何が可で、何が否か、余計にさっぱりわからなくなった。

デタラメだもの。

201141019

僕も俺も俺様も、代名詞の概念を凌駕するおばあちゃんの深み。『デタラメだもの』

僕とか俺とか、ワシとかオイラとか、オラとかワイとか、男にとって、自分のことを指す代名詞が複数ある。
オイラと聞くと、ビートたけしを思い起こさせたり、オラと聞けば、ドラゴンボールの孫悟空を想起させたりと、それら代名詞には、少なからず役割がある。

女性にとっても、ワタシとかアタシとか、ウチとか複数の代名詞があり、人によれば、自分の名前が、ミカなら、「ミカ的にわぁ~」などと、代名詞に頼らずに生きている猛者もいるだろう。

女性は自分のことをどの代名詞で呼ぶのか、どのようにして決定しているのかは定かではないけれど、男性にとって、この代名詞というやつ、プライドやら自尊心やら地位やら名誉やら、他人と自分とのバランスやら敬意や謙譲、尊敬やら敬い、はたまた、威圧やら暴圧やら、複雑な要因が絡まり合っているので、どれを選択するか、なかなかに、やっかいなもんなのである。

僕は、僕を、僕と呼んでいる。
僕が僕を僕と呼ぶ、すなわち、僕という代名詞を使うことには理由がある。
普段からのほほんと、生きているのか生かされているのか区別もつかないような生き方をしている自分のことなので、偉そうに理由があるなんていってみても、たいした理由ではないのだけれど、ちょっとした拘り、違う、そんなたいしたものではない、ちょっとした意味合い、違うなぁ、そうだ、理屈だ、理屈がある。

自分は、自分自身を俺と呼ぶに相応しい人間になれたためしがないので、恐れ多くて、俺などと僕は僕のことを呼べない。

仮に想像して欲しい。
普段、自分のことを俺と呼んでいる男が、時に、恐ろしく強面のメンズや、どう考えても格闘技でそれなりの名誉を手にしてはりますよねオタク、といった、イカつい人間に、

「おい!ワレこらぁ、誰に向かってメンチ切っとるんじゃ!」
と絡まれ、
「俺、メ、メンチ切ってません……」
として、自分のことを俺と普段通り呼んでみたとしよう。
「おのれ、誰に向かって俺とかホザいとるんじゃ、ボケェ!殺すぞ!アホンダラ!」
と、首筋にナイフのひとつでも突き立てられようもんなら、
「ひ、ひぃぃぃ、すみません、僕です、僕ぅぅぅぅぅ」
と、俺という代名詞から、僕というそれに、切り替えるだろう。

そうでないにしても、自分とは住む世界の違うような偉大な人と対峙したとしよう。
その方の世界では、信じられないくらいの功績を上げておられ、誰からも尊敬されるような偉大な人物。
そのお方から、

「君の趣味は……(偉人特有の間)……なんだね?」
などと、深海魚も居心地の良さを感じるほどの深い声色で尋ねられたとしよう。
すると、普段、自分のことを俺と呼んでいる男でも、たまらず、
「ぼ、ぼ、僕の趣味ですか……M性感です」
などと、思わず、僕という呼び方をし、挙句に、性癖まで吐露してしまうほどに情けない状態に陥ってしまうだろう。

すると何かい、自分のことを俺と呼んでいる奴は、話す相手、対峙する相手、時と場合、状況やら環境やら、そういったものを考慮し、俺を俺と呼んでいい場面か、俺を僕と呼ぶ場面かを、瞬時に判断し、そして、俺のGOサインが出たときのみ、自分のことを俺と呼んでいることになるじゃろうが。
そんなアホなこと、あるかい。
俺は空気を呼んで、俺のことを僕と呼びます。みたいなノリかい。あほんだらあ。

そういうのがみっともなくて、僕は僕のことを俺ではなく僕と呼ぶことに決めた。
女子には俺と呼べて、怖いお兄さんには僕と呼ぶ。その精神が、非日本男児の気配があり、違和感があり、ムズムズし、僕と呼ぶことに決めた。

そうやって、切り替えのきく「俺」ならば、もうすでに、「僕」並みの域に堕ちてると思うけどね。

他にも理屈があって、年齢や経験などを重ねて、とても大きな男になられた方が、自分のことを、僕などと呼んでいる光景を見ると、それほどに人として大きくなられたにも関わらず、自分のことを僕と呼ぶその器の大きさと謙虚さに、憧れを超え、羨望の眼差し、ただただ感服してしまい、いずれは自分もそういった人になりたいと思うわけで、やがて自分もそんな風な人間になる意志があるのならば、あえて、俺の時代など経なくても、そもそも、ずっと僕でいいんじゃないだろうかとも思っている次第で。

ところが、僕には、ごく稀に、俺が出る瞬間がある。
普段生きている時間のなかで、そりゃ人間だもの、激昂する場面や憤怒する場面、咆哮する場面や怒髪天を衝いてしまう場面などもあるが、そういった場面で、感情のまにまに、自分のことを俺と呼んでしまう瞬間がある。
その瞬間、きっと僕、いや、俺には、過去に見た、激昂する男のイメージやら、憤怒するヤンキーのイメージやらが、潜在意識に刷り込まれていて、それらが自分を誘引し、

「ほれ、お前さん、こんな風な口調で、こんな風なことを怒鳴り散らしたら、カッコエエぞい」

と、そのイメージが憑依し、ついつい口走ってしまっているはず。
しかしその刹那、心中では、

「わぁ!僕は今、僕のことを俺などと呼んでしまった。怒りの感情と妙なイメージの憑依によって、俺などと呼ぶに相応しくない自分みたいな人間が、今、僕のことを俺と呼んでしまったじゃあないの、なんてこと、恥ずかしい恥ずかしい、羞恥の極み、死にたい死にたい、穴があったら、入れずに入りたいじゃあないの」

と、赤面してしまいそうになり、一応、形式上、怒りの問答は続けるものの、心中は既にクールに冷め、恥ずかしさのあまり、四方八方にいる人々にハグして周りたいくらいになっている。怒りは沈下、消沈、平和な心を取り戻しているのである。

そう考えると、僕の中の俺は、僕が平和的な心を取り乱したときの、暴威の抑止力になっているのやもしらん。
なかなか素晴らしい装置である、俺。

要するに、自分は常に、実るほど頭を垂れる稲穂のように生きていきたいわけで、その生き様を貫く最中に、俺という代名詞は不要なわけである。そうだ、それを言いたかったんだ。それが、僕の理屈だったんだなあ。

そんなどうでもいいような理屈を思い浮かべながら、日中のお日様を浴びつつ、おばあちゃんがひとり店番をする駄菓子屋に入る。
僕たちすっかり中年になってしまった男どもが、キャッキャと駄菓子などを気分よく選んだ後、僕はこれにします、俺はこれにしますなどと、口々におばあちゃんに駄菓子を手渡していると、僕はこれやね?俺のんはこれやね?などと、銭勘定をするおばあちゃんにあやされる。

そういった折、なんとも癒されて、人間の一生を垣間見るようであり、このおばあちゃんからしたら、僕たちなんて、いくつになってもまだまだ、自分のことを僕と呼ぶ子供であり、自分のことを俺と呼ぶ子供でしかないんだと思うと、まだまだ自分もしっかりやらねばと、優しさでもって厳しく背中を押しされてるような気がする。
僕も俺も、ワシもワイも、俺様も貴様も、どいつもこいつも、おばあちゃんにとったら、子供。男の子。なんという素晴らしい。涙が止まらん。

そんなほっこりした思いを巡らせつつ、3個入りで内1個が酸っぱいという、ちょっとしたギャンブル要素を含んだガムを購入し、おもむろに開封、1個目を口に投げ入れ、勢いよく噛むと、一発目から酸っぱいやつが当たり、なんだか今日はいい一日だなぁと、しみじみ空を見上げる俺様であった。

デタラメだもの。

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