デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

2014年07月

笑いとは、人類にとっての息子のような存在なので、決して無碍に扱ったらあきません。『デタラメだもの』

その昔、斉藤君なる人物がいた。

初めて社会に出て、初めて勤めた会社の先輩。
右も左もわからずにキョロキョロしている状態の僕に、妙に明るく、お笑い芸人を思わせるそぶりで、良くしてくれたお方だ。

いつも明るく、常にヘラヘラしていて、仕事上でトラブルなどあった際にでも、周りの空気を重くさせまいと、心の内はどんな心情だったかはわからないが、いい意味で、心を表に出さずに、場の雰囲気を和ませてくれる人物だった。

そんな人物なので、本音の読めない人物であり、真意の掴めない人間であり、だからこそ、そないなムードメーカーが勤まるわけであって、だからこそ、実のある会話や、真面目ぶった会話、鎮痛な会話などは、一切したことがなかった。

にも関わらず、ただひとつ、斉藤君が僕に、本音であろう台詞を漏らしたことがあった。
それが、

「そう言うと思ってた!」

と、自分に言ってのける輩が許せないという、えらい重苦しい本音だった。

つまりは、大勢で会話などをしていて、誰かがしょうもないことを言ったり、ボケをかました際に、斉藤君が、お笑い芸人よろしくツッコミを入れる。
普通であれば、それで爆笑につながるところを、人によっては、そのツッコミに対して、「そう言うと思ってた!」などと言ってのける輩がいる。

斉藤君は、それをとても嫌がっている風で、そらそうだろう、いわゆるそれは、ツッコミ殺しという奴で、だれかが苦心して考えたツッコミなどに、「そう言うと思ってた!」と、やけに上の立場からというか、君のこと読めてたよ風の、その例えも脳内に浮かんでましたよ風の、ここではそうツッこむのがセオリーだよね風の、教師的な立場というか、預言者的な立場というか、お笑い専門学校の講師的な立場のようなスタンスで、ツッコミを殺す輩だからだ。

世の中には、簡単そうに見えて、その実、全然簡単ではなく、やってみるとできなかったり、単純そうに見えて、取り組んでみると複雑だったり、一見するだけでは、その奥の深さがわからないことが、たくさんある。

ほら、アコースティックギターを持ったシンガーと、タンバリンを持ったシンガーの二人組デュオがデビューしたとしよう。
それを見て、俺にもできそう、私にもできそう、ワシにもできそう、ミーにもできそうと、彼らがやっていることを簡単そうだと解釈し、ある種の近道だと思い込み、路上に出てジャカジャカかき鳴らしてみたりもするが、彼らがやっていることには、才能やら努力やら運やら人脈やら顔やら声やら身長やらスタイルやらキャラクターやら、数多の要因が絡み合っていて、それが実を結んで、デビュー、果てには、ミリオンセールスといったことにつながっているわけである。

だから、簡単そうに見えるから、簡単というわけでもなく、増してや、簡単そうに見えて、それを簡単だ簡単だ!などと批評だけして、実際に自分は何の行動にも移さないという、腐った輩までいるのが事実。

話をツッコミに戻そう。

「そう言うと思ってた!」

実際には、言えてへんわけである。思ってただけなのだ。頭の中で思っていただけなのだ。
さらに言うと、ツッコミを実際に聞いて、なるほど、そういう例えもあるな、と、コンマ何秒の間に思い浮かべただけに過ぎず、それをさも、自分は太古の昔から思いついていたような錯覚をしているだけかも知れない。

結局、言えてない奴は負けなのである。

そして、大勢でいる時などは特に、ここ一番、大声を張り上げたりするのは、度胸がいるものである。
誰かの発話とカブッてしまい、恥をかくかも知れない。
ツッコミを噛んでしまって、末代まで続く生き恥をさらしてしまうかも知れない。
そして何より、スベるかも知れない。

それらの恐怖と戦いながら、勇気を振り絞り、かくかもしれない恥をものともせず、ツッコミという名の前線に突っ込んで行くわけである。

その勇敢な姿を見て尚、「そう言うと思ってた!」などと言ってのける人間の根性は、ババ色をしているに違いないし、腹の内は真っ黒に違いない。

さらにそういう人間という奴は、人が場の空気を盛り上げるために、面白いことを言ってあげようと、知恵とユーモアを振り絞って、エンターテインメント、すなわち道化を演じ、ボケやらエピソードなどを披露した際にも、

「おもんないやん!」
「なんかよう意味わからんけど……」
「話、長いわぁ!」
「オチ、どこなん?」
「めっちゃスベッてるやん!」

などと、腐った発言をしやがるもんである。

そない批評家みたいな態度取りやがるんやったら、場の空気が盛り下がってるなどした際に、自分から率先して和ましたり、笑かしたり、ほぐしたり、揉み解したり、融和、溶解、溶融、柔和、柔和、柔和、朗らかにやってみろや、と怒鳴ってやりたくなるわけだ。

これだけは言っておきたいのだが、大勢が集まる場や、複数人が集まる場で、それなりに会が面白かったり盛り上がったりすること、それは、自然にそうなってるわけでは、決してない。
誰かが、縁の下の力持ちとして、その役を買って出ているのである。
そして、自分がその役ではなく、縁の下の力持ちが誰かもわからず、なんの意識も持たぬまま、その会を楽しんだ人は、完全に、その縁の下の力持ちさんの努力の恩恵を授かっているわけだ。
そうやって、人は、知らず知らずのうちに、誰かの恩恵を授かっているわけだ。

なぜ、斉藤君のことを今さらながら思い出し、こんな戯言をほざいているかというと、昨今、人生の先輩方と会話する時間が多く、それに比例して、スベることが多くなった。

それを冷静に分析してみると、そういった人生の先輩方というのは、会話では自分より面白い奴がいるのが解せず、スナックに行けば自分より歌が上手い奴がいるのが解せず、だから、そういった芽は摘んでやろうと、こちらの品質がどうであれ、潰しにかかってくるという事実に辿り着いた。

笑いの何たるかを忘れ、芸術や文化の何たるかを忘れ、ファッションやら感覚やら、何もかもの何たるかを忘れ、今いる地位に胡坐をかき、周りの神輿に担ぎ上げられ、裸の王様であることも気づかずに、横柄に、横暴に、暴君の如く、散々人を泳がせた挙句、

「君、おもしろないな~」

などと、言ってのけやがるわけだ。

愛想笑いに包まれて、それにも気づかずに、ええ気分になっている中年連中に、ユーモアなんぞ、わかられてたまるかい!場末で安酒飲みながら、延々と、漫談やったる気概で生きとるんじゃい!

とは思っているものの、僕の会話や文章やら何やらが、その実、本当にくだらないとしたならば、その時は、そっと僕の肩を叩きながら、耳元で囁くように、「おもんないやん……」って、忠告してくれませんでしょうか?
「やかましわ!」と、大げさに返事をしますので、さらに小声で、誰にも聞こえぬようにして、「そう言うと思ってた……」と、とどめを刺していただけますと幸いです。

デタラメだもの。

201140720

人々との交流は口角の筋トレと思って邁進せよ。『デタラメだもの』

他人との交流においては、愛想笑いばかりが横行してしまい、これは口角の筋トレをしているのだ、これは表情筋を著しく鍛えぬく修行のようなものだと自分に言い聞かせ、納得させ、何とか笑顔を保つようにはしているが、これは果たして必要なのだろうか、生きていくうえで。

と、自問自答。

気まずい空間というのは、何を持って、気まずいと言うのだろうか。

社会に出て仕事をしていると、同僚やら上司やら後輩やらという存在がいるのと同時に、ビルやらで働いていると、エレベーターが付き物で、そうなってくると、偶然にも、同僚やら上司やら後輩と、エレベーターに乗り合わせるという機会が訪れる。

これが、苦手だ。

基本、乗り合わせたとしても、僕からは何も話さないし、できることなら話しかけて欲しくもない。
移動する階数表示をおとなしく眺めたり、チマチマと爪をいじったり、壁面の染みの数を数えたりと、何かとエレベーターの中では、やりたいことが盛りだくさんなのだが、どうやら社会では、エレベーターの中で誰かさんと乗り合わせると、会話をしなければならないというような風潮があるらしく、

「今日は暑いですね…」

などと言った会話が切り出される。

「そうですね」
「昨日よりは少しマシでしょうかねぇ?」
「確かに、昨日よりは少しマシですね」
「地元のほうがちょっと気温、マシですよ」
「へぇ」
「こっちはやっぱり、ちょっと暑いですよ、体感温度が」
「そうなんですね」

エレベーターの扉が開き、会話は終了する。

この会話、要るんか?この会話は、果たして、必要なのか?しゃべる必要なんか、あったのか?天気やら気候の話をする必要など、あったのか?そいつはその瞬間、その会話を、心の底からやりたかったのか?

気まずい空気を避けようと、こんな会話をするんやも知れんけども、こんな風にこんな風な、天気の話やらを密室でするほうが、よっぽど気まずいんじゃい、と。

誰かが言った、それが社交的な会話だよ、そうやって人と人は、コミュニケーションを取っているんだよ。

はい?社交的な会話?なにそれ、なにそれ、それ儲かるの?それ美味しいの?
社交的な会話で交流せんければならないような相手となら、そもそも会話なんかしたくもないし、する必要もないし、そいつと天気の話なんかしても、不快なだけで、不快指数も高いし、ちょっと天候とかけてみたけど、それほど面白くもないし、もうてんやわんやで、なので、僕はエレベーター内では、自分から話かけることを一切やめるようにしているし、それなのに、天気の話やらをふっかけてくる輩は後を絶たず、その悩みで、胃がキリキリと痛み始め、胃腸炎のような症状がとまらず、ここ数週間、便がゆるゆるで、蛇口をひねって放水される水の如しで、夜もロクに眠れやしない。

そうやって、人との交流というものを改めて見つめ直してみると、自分には、交流をしたい人がいないということと、交流して話したい内容もないということと、そもそも他人からの交流を望んでいないということが判明した。

となると、社会における全ての交流はやはり、口角の筋トレ、表情筋を鍛えぬくストイックな作業であり、これは挫折してしまいそうやぞ、ペンで口角に筋を書いたろうかしらん、笑顔の形状記憶手術でも受けて、いつでもどこでもニコニコしている顔面に改造したろうかしらん、それか、山ごもりでもするしかないのか。

ただ、せっかくこの世界に産み落とされたんやから、他人との交流というものの面白みを、味わう前に死ぬのも癪なので、いっちょ、やったりますか、やったらできる子で有名な私が、いっちょやったりますか、意気込みながら、他人との交流というものをやってみた。

しかし、これがまぁ、なんともつまらん。何をお話されているのかもわからん。どこで笑えばいいのか、笑って欲しい話なのか、真顔で聞く手の話なのか、それさえ判別できん。
てめぇのつまらんエピソードトークなんか聞かされて、なになに、銭でもくれるんけ?この苦痛な時間、などと、無礼なことを思ってしまう始末。
そもそもがつまらんエピソードなんやったら、盛って盛って盛りまくった話にして、そんなわけあるかい!とツッコミのひとつでも入れさせやがれ、てめぇの日記読んでるんじゃないんやぞい、そんな時間あるかい、忙しいんじゃこっちも、と、やさぐれるわやさぐれるわ、荒廃するわ退廃するわ、こりゃあかん。

そうやそうや、つまらん人たちのお話の聞き手に回るから、つまらん会話が蔓延るわけであって、それならいっちょ、こっちが上手に会話を回してやろうじゃないの、ピザ生地を流麗に伸ばす職人のように、交流を円滑にして広げてやろうじゃない、望むところじゃない。

そうして、渾身のエピソードを披露、落語家よろしくのなぞかけ、熟女が涎を垂らすほどの毒舌、高尚なおやじギャグ、織り込んで盛り込んで、わちゃわちゃ披露、どや、どや、これやで、ほんまもんの交流っちゅうのは、と、話し終え、満足げに相手の顔を見てみると、ポカン、クスリとも笑っていないどころか、意味も理解されていない、何?何?僕、スベッてます?俺、スベッてます?どこがあきませんでしたか?布団が吹っ飛んだの下りですか?あれあきませんでしたか?

どうやら、人々のお話が僕の中に入ってこないのと同様に、僕のお話も、彼ら彼女らの中には入って行けないようで、果たして一方通行と思っていた交流という名の道路は、その実、通行止め、もしくは進入禁止だったようで、彼ら彼女らがつまらんのか、僕自身がつまらんのか、いったいどうなのだ、それなのに、人々は、楽しそうに笑ったり、笑い声が響いたり、表情穏やかにしている、みんなみんな、面白くて楽しい人たちばかりなのだろうか、僕だけがつまらん人間なのだろうか、きっとそうだきっとそうだ。

天気の話とか、サッカーの話とか、旅行の話とか、飲食店の話こそが、面白いんだね。それこそが、面白い交流なんだね。それこそが、面白い人たちの交流の仕方なんだね。そんなお話を、みんなみたいにできなきゃいけないんだね。お話にフリやオチなんて要らないんだね、忘れ物した話とか、料理を焦がしてしまった話とか、遅刻しそうになった話とか、つまずいたり、物を落っことしたり、エレベーターの階のボタンを押し間違えたり、そういうお話こそが面白いんだね。

すみません。
口角の筋肉を鍛えられるダンベル売ってるところ、ご存知ないでしょうか?

『デタラメだもの』

201140712

気になる。日本人の所作が欧米化していくのが、気になる、気になる。『デタラメだもの』

所作が気になる。

何が気になるって、日本人の所作が欧米化しているのが、気になって気になって仕方なくて、最近では、所作のことばかり気になって仕事が手につかず、仕事の進捗が捗らず、仕事が溜まりに溜まって、お客様から、「所作のことよりも、仕事せいや」と、厳しいご指導ご鞭撻をいただく毎日。

この思いは、ずっとずっと胸の底には獅子として眠っていたのだけれども、暴発したのが、ワールドカップ、日本対コロンビア戦で、日本の敗退が決まった後の、長友選手のインタビューシーン。

個人的に、長友選手という男は、チャーミングで好きだ。
ツンケンした他のスポーツ選手とは違って、インタビューでもサービス精神旺盛で、今のキッズたちにとっても、スポーツ選手というのは、張り詰めた精神も大切だけれど、みんなのヒーローやヒロインである以上、憧れの存在としてのお手本を示すべき存在だと思っているので、それをやってくれる数少ないスポーツ選手のひとり。

その長友選手が、インタビュー途中、涙をこらえきれずに、中断し、退席、画面から見切れたところで、男泣きをしている感動のシーン。
そうだそうだ、プロというものは、高いクオリティでハイレベルな戦いを続けなければならない義務があるけれども、心の奥底には、キッズたちと同じ感情を持っているべきなのだ、高校球児たちと同じように、悔しいことを悔しいと感じて、嬉しいことを嬉しいと感じて欲しいものだから。
プロとは、ひとつひとつのプレーに一喜一憂していてはならない、常に冷静に、自分と向き合わなければならないとかいう、お堅い意見は抜きにして。

で、問題のシーンは、その直後。
ぼくは、サッカーのことをあまり知らないから、いったい誰が登場したのか、そのお方がサッカー界ではとても有名な方なのかは存知上げないが、ある男性が長友のところに寄ってきて、あろうことか、抱きしめ、抱き寄せ、包み込みながら、ポンポンやりながら、長友選手の耳元に口を寄せ、労いの言葉であろう、小声で何かを囁いた。

なんじゃこりゃ?
こいつらは、欧米人か?欧米人なのか?米じゃなくて、パンを食うとるのか?お茶とは、紅茶のことを指すのか?

それを見て、こう思ったわけである。
「日本人に、こんなことするDNAは、入っとらんじゃろうが!」と。

泣いてる男を慰めるときには、頭をグシャグシャやって、大声で、男気ある言葉をかけてあげるのが、日本文化じゃろがい。
思いっきりケツをバシッとやったり、両肩を掴んだり、強引強引に、奮起させてあげるのが、日本文化じゃろがい。

こういう欧米化したシーンを見ると、興醒めしてしまう。
フィギュアスケートなどの一喜一憂の仕方も、欧米っぽくて、見ていると演技の感動が薄れてしまう瞬間がある。

きっとこの感情は、友人、知人など、大阪人が東京に出ていった後に、しばらくして再会したときに、ナニワの魂を捨てて、すっかり標準語に染まっていたときの失望感に似ていると思う。
失望感というか、この裏切り者、国を売りやがって、故郷に後足で砂をかけよってと、徹底的に非難したくもなる。

日本選手が海外に出て活躍することは、とても尊敬するし、とても誇らしいことだと思う。海外の選手の中で、日本選手が活躍するシーンなどを見ていると、胸がスカッとする。

しかししかし、だけどもだけども、あの、所作や文化までをも、物まねするのは、いただけない。

じゃあ、何かい?海外に出て、海外の所作を物まねしている奴らは、
「すっきゃで!」と伝えるときに「I Love You」とか「Je t'aime」とか言うんかい?
それとも、身近で手軽な、ジェスチャーやらだけを、小器用に欧米化させるんかい?

ああ、所作が気になる気になる。
所作が欧米化していくのが気になる気になる。

それでなくても、日本人の話す言葉が、欧米語だらけになって、会話の中の肝心要の部分が、横文字ばかりで構成されるため、人と人との心の交流が希薄になって、醤油が切れてもお隣さんに借りに行くこともなくなり、肉じゃがを作り過ぎたために、お隣さんにおすそ分けしに行くこともなくなり、素晴らしき哉日本文化が、消滅の危機に瀕しているというのに、所作までもが欧米化してしまっては、滑稽、愚の極みと言わざるを得ない。

そのうち、お米もフォークで食い出すぞ。
家の中に土足のまま入り出すぞ。
道端で友人とばったり会ったら、ハイタッチとかし出すぞ。
壜のビールをラッパ飲みしながら徘徊し出すぞ。
夜の行為の際には、女性は、ダメよダメよじゃなく、イェス!イェス!言い出すぞ。
あほんだら。

日本文化退廃を防ぐべく、せめて自分だけでも抵抗してやろうと、たまたま、お仕事で書かねばならなかったeマネーの普及率についてのプレゼンテーション資料の中で、eマネーなどと書くのが解せなかったため、全編通じて、非接触型電子通貨普及率推移などと記載しまくっていたら、お客様から、

「君は中国語でもしゃべりたいのかね?」

と、日本文化、日本語の美を追求した結果、中国への憧れと勘違いされ、あげくに、大事なプレゼンテーションまで落としてしまうという、悲惨な目にあった。

しかし、こんなことでは、まだまだくじけていられない。
日本のサッカー選手も、審判から納得のいかないイエローカードを出されたときなど、ホワイ?といったような欧米スタイルのポーズでクレームするのではなく、故林家三平師匠のように、軽く丸めたこぶしを額にあてがいながら、苦笑いしつつ、「なんでですのん?」などと、言ってのけて欲しいものである。

デタラメだもの。

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