新年も明け、わずか数日の内に、すっかりと去年と何ら変わらないような状態となり、当たり前の毎日、ありふれた毎日の渦の中に飲み込まれ、

「やっぱり、どうあがいてみたところで、自分にとっての毎日とはこれしかないんやで。この日々をどうにか四苦八苦して面白くしていくしかないんやで」

と、改めて突きつけられ、やはり自分には、沖釣りのような大胆な人生よりも、サビキ釣りのように、細々とやってのける人生のほうが、向いているんじゃないだろうか、それしかないんじゃないだろうかと、足早に過ぎる一月の月日を意識する毎日。


『人間とは年を取るにつれて、どんどんと角が取れて円くなっていく』

なんていうことは巷でよく言われるけれども、自分は一向にその角ばったところが削れて行かず、相も変わらず角ばったまんまで、なぜにこうも生きることに対して、ぎこちなくしか取り組めないんだ自分はと、やはり嫌悪してしまう毎日。

去年末から今年の初めにかけて、その円くなれない自分が強烈にニョキッと顔を出したのが、年末年始の挨拶である。いわゆるひとつの、あれである。

「今年もお世話になりました。良いお年を!」というような年末の挨拶から、
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」という年始の挨拶。

これらを口にすることが、年々気恥ずかしくなってきており、去年末から今年の初めにかけては、ついには誰ひとりに対しても、その日本人らしい礼節を振舞わないという愚行に出てしまった。

元々、日本の古き良き文化や習慣やらしきたり慣わしなどを好む自分は、そういった昔から継承されているような風習は、殊更愛してしまうほうで、年賀状なども好んでマメに書いてきたにも関わらず、特にここ数年、そういったことが気恥ずかしく、どんどんと気恥ずかしくなってきているのである。

それには理由があって、そこに一瞬の嘘臭さというか、言いたくもない相手に対しても、皆一様に言わなければならないという強制感が働いているにも関わらず、これまた皆一様にその強制感を鵜呑みにして、あちらこちらでペコリペコペコと腰を折り挨拶をしている様子を見ていると、自分はもはやイチ抜けたと、元来の天邪鬼スピリッツが顔を覗かせヤンチャをしてしまっているからに他ならない。

さらに言うと、そういった先ほど書いた年末年始のセリフのトーンというか温度感というか雰囲気というかニュアンスというか、そういったものが、ご近所さんやら身内やらに対して用いるべきセリフのような気がして、それを同じような素振りで、社会の中で、社会の中に巣食う人間たちに対して、言ってのけるような欺瞞は、とうてい自分には出来ない。そう心に固く誓ったわけである。

年末年始の目出度い日柄に、そんな無礼な態度を取っているともなると、

「てめえ、いい年ぶっこいて、捻くれやがって、早よう角を削って円くなってから、出直してこいや!」

などと叱責されるほどロクでもない人間のように感じられる。がしかし、女性はどうなのだろうといったところだが、男性ならきっとわかってくれる。あの感じ。あの中学二年くらいから突如襲ってくる、

『挨拶するの恥ずかしい』
『親戚とか来ても顔出したない』
『お礼とか言うの恥ずい』

というような、思春期というのか反抗期というのか歪んだ羞恥心の芽生えというのか、あれ、そう、あれなのである。

まさに自分はその過渡期にあり、『お礼とか言うの恥ずい』と言ってのけ、俯いてしまうような時期なのである。
そうやってようやく自我が形成され出している、ちょうど頃合いなので、あと数年くらいしたら、いや、十数年くらいしたら、年末年始の挨拶も、大きな声で元気よく、「今年もよろしくお願いします!」などと、清々しい表情で飄々と言い放てる日が来るのかも知れない。

201140112