デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

2013年06月

退職の名残りを撤収する早さは、なぜにあんなにも素早いのだ。『デタラメだもの』

そういえば先日、会社へ入社して半年ほどの新人(といっても中途採用なので、ええおっさんではあったけど)が、会社に愛想を尽かして、無断で逃亡したなぁ。

無断欠勤からの連絡遮断、そして退職といった、社会における、王道パターンの辞め方をしていった彼。
ううう、君の気持ちは痛いほど分かる。分かり過ぎて痛いよ。

でも、ほんとは、真っ先に僕がそれをやりたいんだよ。今すぐにでも、それをやってやりたいんだよ。

退職届けで紙飛行機を作って、それを遠巻きからピューと投げやり、空中フワフワと漂わせ、ストンッ、それを受理すべき人の机の上に着陸させる。そうやって、我が身は、新たな空へと、テイクオフ。

ただ、そうもできない現実に、歯軋りギシギシやりながら、今日もパソコンのキーボードのボタンをすり減らす。
そうだね、それは浪漫非行じゃなくて、現実逃避だね、単に。

まぁ、ある人間に憎いくらい腹を立てて会社を辞めるんなら、そいつのデスクの上に、うんこしてやるくらいの辞め方のほうが、きっといいと思うよ。僕だったら、そうするなぁ。
死ぬ覚悟があるくらいなら、人間何だってできるように、辞める覚悟があるくらいなら、同じく、何だってできるって思うけどね。

ただ単に逃げただけなら、一生バカにされっぱなしだけど、うんこしてやってから去っていけば、なんか伝説っぽくなるじゃない?英雄っぽくなるじゃない?革命家っぽくない?

しかし、何が悲しいって、会社ってやつは、社員の個人的な悩みなんて、まぁ一切知る由もないですわなぁ。勝手に悩んどれってなもんで。

皆さん一様に、自分のことしか考えておらず、他人のことになんて興味ないよね。
出世出世言うてて、他の人間のことになんて皆目興味のないようなロボットのような奴ならまだ分かるけど、そうじゃない、ごくごく一般的な勤め人的な人でさえ、一様に、他人に興味がないとくる。

そうやって、興味がない人間同士が集まりかたまり、会社というひとつの集合体を作れば、そりゃ、会話も音も、笑いも何もかもなくなりますわなぁ。
そうなれば、個々人の仕事っぷりやら、仕事での躓き、そんなものについても、会社ってやつは、一切興味持たんですわなぁ。

「お前らみたいな一従業員のことなんか、構もてられるかい」

と一蹴されて終わり。そんな風に無関心。

だから、社員がどんなに会社で疑問や不安や悩みを抱えていても、それに気づく者なし、それに手を差し伸べる者なし、そうして放置放置。
社員はどんどんと孤独になっていき、明るかった性格までもが陰鬱になり、何もかもに怯え、そうして物言えず、無言のまま、姿を消す。会社って、ほんとに手を差し伸べるために動き出すのも遅けりゃ、何にも興味ないんだね。

と、思いきや、解せぬことが、ひとつ。

それは、

『辞めた社員の名札を撤収する早さ』

である。

本日の出先を記入するホワイトボードに貼り付けてある名札的なモノ。

しばらくの長い時間をかけて、疲弊させ、衰弱させ、放置し、無関心の果てに、退職にまで追いやっておいて、いざ退職が決定すると、即、名札は回収される。

優しさや思いやりを投げかけることを忘れ続けた果てに退職にまで追いやるくらいなら、退職した人間の名札なんて、回収し忘れ続けて、ずっとずっとそこに貼られているくらいのほうが、よっぽどいい。

なんでそんなとこだけ、気がつくんだ。
なんでそんなとこだけ、気が利くんだ。

会社ってのは、誠に恐ろしい生き物である。
長い時間かけて、カッターナイフのような、死に至るほどではない凶器で、痛めつけられ舐られ傷つけられ、そうしてその、ねっとり湿った攻撃の果てに、死に至ったあとは、死体撤収班が、恐るべきスピードで駆けつけ、死体を片付けてしまう。

そうして、まるで、何事もなかったかのような、日々が再び始まる。

そんなことを考えながら、駅までの道のりをフラフラやっていると、俯いてるサラリーマンもいれば、ひとりで笑ってる奴、大勢で笑ってる奴、項垂れてる奴、いろんな奴らがいるなぁと、各々、どんな人生を歩んでるのかしらんと思ってみて、いざ、じゃあ自分はいったいどんな風体に見えるのだろうと、自分の足元から観察してみると、お昼の食事の際に、股間を中心に左足の先のほうに至るまで、その全てを濡らしてしまった、冷やし中華の汁こぼし事件の名残からか、うっすうらと染みが浮かび、そういやよく匂うと、やや酸味までもが香られて、嗚呼、人生こんなもんかと、本日幾たび見上げたか分からない、空を再び見上げ、小さく息を吐いた。

デタラメだもの。

20130629

大人にとっての電話というものは、媚び諂い卑しく浅ましい醜態のお披露目会なのか。『デタラメだもの』

如何せん、電話で話す声というものは、得てして情けない。

常日頃、お客さまなどに電話をしている時の、自分の声を客観的に傍聴してみると、そのあまりの情けない、媚びた声色と、媚びた語彙の連発に、先祖代々の方々に、平謝りしたくなる。

本当に申し訳ない。

そういや子ども時分、周りの大人たちとワイワイやっている最中などに、たとえばその大人の中の誰かに電話がかかってきたとき、その大人、急にこれまでのおちゃらけた態度を一変させ、即座に、何か「違和感のあるモード」へと切り替え、電話に出るや否や、とてつもなく不快感を与えるキーの高さで持って、

「はい~!もしも~し!あ~、全然大丈夫ですよ~!」

とかいう具合に、ヘラヘラしやがるもんだから、子どもながらに「こいつは何者なんじゃ?」という疑問符を頭に浮かべながら、何か見てはいけないものを見てしまったような罪悪の気持ちになりながら、電話を終え、こちらに戻ってくるのを待っていたような記憶がある。

電話が終わり戻るや否や、「よし!遊びの続き、やろう!」みたいに、急に大人然とした対応でもって、こちらに向き合ってくる。

この人は、劇団か何かの人かしらん?

そんな風に、大人たちの時折見せる、数分間の奇妙な演技に、子どもの理解のキャパシティーを超えた違和感と、何かしらの浅ましさのようなものを感じていた。

にも関わらず、平生、自分がどんな電話をしているかといえば、その記憶に残っている浅ましさなんかをはるかに超越したほどに、卑しい応対でもって電話をしているもんだから、やはり先祖代々の方々に、平謝りをする必要がある。

本当に申し訳ない。

社会における「電話」というものは、なぜにもあんなに、気色悪い応対が飛び交うのだろうか。

たとえば日中、仕事の手をピタと止めて、社内の電話に耳など傾けていると、やはり皆さま一様に、喜劇を演じているかのように、電話で話している。

なんと言いますか、好感度を上げるための、忌まわしい声色と応対でもって、電話の向こう側の人間に対して、数分間の演目を披露する。

そうして、鳴り止まぬ拍手喝采も、場内総立ちのスタンディングオベーションもないままに、電話のやり取り、たとえば、見積書を送った報告やら、送ってもらったFAXの読み取れない箇所の確認といった電話を終える。

受話器という名の緞帳を降ろして。

しかし中には、大企業、中小企業、個人商店問わず、その演技を放棄し、地の自分を出し、俺は私は、誰にも媚びない、諂わない、愛想を振りまかないといった猛者が、ごくごく稀に、いる。

そういった人と電話をしている折り、こいつは果たして、世に言う「孤高の戦士」か何かか?と思いながら、あまりの威圧感に、ただただ押しつぶされそうになってしまう。

孤高の戦士はええが、こいつ、ビジネスマナーを知らずに過ごしているのか、さては?

など思ってしまうが、ふと気づくと、その品のないビジネスマナーとやらにすっかり汚染されてしまっている自分の側が、よほど人間らしくないことに気づくと、そういう人たちが、素晴らしくカッコよく見えてしまう上に、自分自身に対して、救いようのない恥ずかしさを感じざるを得ない。

そうやなぁ、意気揚々と海水浴に出かけたのはいいものの、砂浜には、真っ黒に日焼けした若い男女たちがうごめいていて、その中で、自分ひとり、引き締まらない身体に、色白の情けない身体を晒して、これ、オセロやったら、劣勢やな、などと妙なお笑いで返しながら、苦笑いの末、ズボンの裾など捲くり上げ、足元だけをチャプチャプとつけて、

「楽しかったね!」

なんて嘯いて、そそくさと海水浴場を後にするような、そんな情けない事の顛末を見るわけである。

しかし気づいたわけである。

大人たちは、社会に出るタイミング、もしくは出た後のどこかの瞬間に、人間としての第二形態に変身してしまう、卑劣な改造を施されてしまったのだ、と。

だからあんなにも電話に出るや否や、条件反射的に、脊髄反射的に、卑しい態度を取ってしまうのである。

あれは、人間の、第二形態、きっと。

ただ、第二形態にも、改造の深度というものがあって、その形態に変身するのが、仕事の関係者に電話をするとき限定という仕様もあれば、僕のように、さらに極悪な改造をされた者もいる。

そういう奴は、仕事の関係という枠をすっかり飛び越えて、この世の中、自分に話しかけてくる者、接してくる者、その全てに対して、第二形態に変身するように仕込まれていて、もう何の自由も許されていない。

そうなると、ごらん、コンビニの店員さんを始め、飲食店のスタッフさん、道路工事の脇で交通整理をしている警備員さん、もう、全ての方々に対して、

「あっ、いえいえ、すみません!これ、ちょっとお願いしても、あっ、すみません!いいですか?あっ、ありがとうございます、あっ、すみません!」

と、遥か彼方、天上人と接するかの如く、卑しく媚び諂ってしまう始末。

しまいには、近所の子どもに、

「なぁなぁ!」

と呼び止められても、

「あっ、すみません、はい?何かな?」

と、こうなってしまったらもう、第二形態だろうが何だろうが、既に人間失格。

そうして行き着く先には、道端の野良犬たちにも、ワンと吠えられた後、「あっ」などと、お決まりの浅薄な接頭ワンフレーズを付けようもんなら、もう最後。

第三形態への改造を熱望し、ただの石ころか何かに改造でもしてもらおうかしらんと企む、今日この頃。

デタラメだもの。

20130616

ああ、しくじったしくじった、また会話の潤滑油になり損ねた。『デタラメだもの』

人は十人十色、それぞれに性格というものをもっているものだから、皆々様それぞれに合わせて応対なぞしていると、ほとほと疲れを感じてしまう。

何が疲れるってえと、やっぱり会話が一番疲れてしまうわけで。

日本狭しと言えど、2010年の国勢調査の結果によると、どうやらここ日本には、128,057,352人も人々はいるわけで、そうなると、日々暮らしていく中で、徹底的なひきこもりでもしていない限りは、誰かさんと会話をすることになる。会話するはめになる。

これが苦手だってなってくると、そりゃもう、肩もぎょうさん凝るはめになってしまう。

何がビックリ仰天するかってえと、たかだか何でもないような、どうでもいいような会話においてでも、全力で意見をぶつけ合わそうなどとしてくる、暴力的な方々。
そういう方々とお話している折りなどは、とてもとても、心が磨耗してしまう。

特段、話したくもないような方が隣にいらっしゃる場合でも、元来の気遣い過多の性分から、ついつい間を嫌って、話をしようとしてしまう。

そりゃそうだよね、人がふたり、もしくは複数人一緒にいるのに、何の会話もなく、ただただ突っ立っていたり、座りこけていたり、突っ伏していたりなんかすると、奇妙に感じて当然だよね。

なんとかせねば、この空気を救ってやらねば。そういった妙な責任感から、

「いやはや、最近は暑うございますなぁ」

なんて、別段、今この瞬間に興味のない天候の話なんかをおっぱじめて、なんとかこの珍妙な空気を緩和して、居心地のいいものにしようと努めてみる矢先。

「そうでもなくないですか?ここのところ、それなりに過ごしやすい日、多くないですか?」

え?何この人、なんの意図もない、なんの意志もない、なんの計画も策略も意味さえない会話に、突っかかってくる系の奴ですか?

こういう意表をつくような会話の攻撃に対する、防御、防具は備えていないわけで、ついつい、ふたこと目の口をつぐんでしまう。

こっちは別に真剣に天候の話をしたかったわけでも、朝まで生テレビよろしく、議論を戦わせたかったわけでもない。
のに、何、この攻撃は?

複数人で食事などしている際にも、皆々様、食に熱中されたりなどすると、これまた気遣い過多で、且つ、関西人気質というのでしょうか、歪な間を怖れてしまう性分ゆえ、奇妙な沈黙が生まれる際には、ついつい、間を埋めようとして、会話を始めてしまうわけです。

「ほんま、我々日本人、主食の米がないと生きていけないですなぁ、感謝ですなぁ、感謝」

などと、これまた何の重みもないような会話で、間を埋めるといいますか、会話のキッカケを作るといいますか、まるで箸先でマメをコロコロと転がすような、気軽極まりない会話を卓に放り込むや否や、

「別に米がなくても生きていけますけどねぇ、俺は。むしろ、パンないと困りますわ」

って、お前の意見や趣味思考なんざ、今、一ミリも興味ないし、聞きたくもないし、この命果てるまで、それに対して興味を持つこともないわ。

と、なってしまうわけです。

こういう方は、ふれあいの潤滑油の役目で、バラバラになりそうならそれを引っ付けてやり、引っ付いたならそれを強固にしたりと、縁の下でふれあいを支えているような、緻密で繊細なお仕事を、まったく気づかずに、そのような暴挙を日々続けられているのでしょうか。

遠い遠い祖先は、狩猟民族でいらっしゃったのかしらん?

まぁ、その会話というものの中では、攻撃を受けるだけならまだしも、しくじるってケースもございまして、だからこの会話ってやつは、なかなか食えない代物なわけです。

こちらが極上のヒアリング精神でもって、相手の会話を聞いてやり、相手の会話に興味を示している(ふりをしている)と、殊更、しくじりがちである。

「俺ってさぁ、○○ってアーティスト好きじゃん?」

「そうだよね、○○いいよね」

「結構聴いたりするの?」

「まぁ、聴いたことある程度だけどね」

「へぇ!ちなみに、何の曲?」

「え…汗。あぁ、なんか、バーンって感じのやつだったかな…汗」

「バーンって感じってことは、△△かな?」

「あ、うん。△△だったかもしれないね」

「でもさぁ、△△って、バーンって感じよりも、ボーンって感じじゃない?」

って、もうええわ!無理矢理にでも会話を弾ませようとして努力していること、ほんの数ミリでええ、ほんの数ミリでええから、理解してくれ。
俺、○○、知らんねん!

と、気遣い丸出しの会話をしていると悟られるや否や、知らないものは知らないって正直に言えよ失礼だろが、なんてご指摘を知識人の方々からいただきそうなので、こういう場合って、人としての正しいあり方は、こうなのでしょうか?

「俺ってさぁ、○○ってアーティスト好きじゃん?」

「へぇー」

「○○の曲、聴いたことある?」

「ない」

「あっ、そう」

「あっ、うん」

みたいなのが、嘘偽りなく、本音と本音をぶつけ合わせた結果生まれる、美しき麗しき会話なのでしょうか?

そちらの方が、人間としての本来の姿なのであれば、この機会に、会話の潤滑油のお役はゴメンにしていただいて、興味ないものはない、知らないものは知らない、要らないものは要らない、話たくない君とは話さない、のスタンスに変えてやろうかしらんとも思うが、元来のチキン精神から、じゃあ上辺の会話じゃなくって、ちゃんと知識・見識を備えた上で話をしてやろうとの向上心から、こんな風に試みてみる。

「俺ってさぁ、○○ってアーティスト好きじゃん?」

「そうだよね、○○いいよね」

「結構聴いたりするの?」

「かなり聴くね!特に二枚目のアルバムの三曲目。あの曲のコード進行とかめちゃ好きなんだ。ラストのサビ前で転調するじゃん?あの部分とかかなり泣けるよね。あと、五曲目のギターの音色とか最高じゃね?イントロのクリーントーンで奏でるアルペジオが妙に切ねえなって思ってたら、いきなり歪みまくったギターリフが被さってくるんだよね!あそこの高揚感ったらないよ!ほんでさぁ、ほんでさぁ、最後の曲のドラムの(中略)」

「ってか、俺、そこまでマニアックに聴かないし…。なんかキモくね?」

はぁ?これもダメか?食いついたらダメか?君の好きなものを僕も好きになった結果、今度こそ君が楽しめばいいと思って、全力投球した結果、野球ではなく、壁当てやってましたか、あぁ、そうですか。そうですか。

そんなことばかりを頭で考え、またしても人が寄ってくるなどしたときには、しくじることを知りつつも、元来の小心者スピリッツが、僕の口を勝手淫らに動かしやがり、何らかの汚点を残すことになる会話を、おっぱじめやがるわけです。

「ついに、梅雨の季節ですなぁ、たまりませんなぁ」

「厳密には、まだ、梅雨入りは、してないけどね」

「そ、そうでござんすなぁ。まだ、本格的には、梅雨入りってぇ感じじゃございませんなぁ」

「本格的にっていうか、まだ、昨日の雨も一昨日のも、梅雨の雨じゃないからね」

「そうですなぁ。もちろん、あれは梅雨の雨じゃ、ちっともございませんねぇ」

「じゃあ、何の雨か知ってる?」

あ、あぁ。何の雨かって?なんなんですかねぇ、この会話は。ほんと、手前は泣いちまいそうですぜ。辛くて辛くて、瞳から、涙という雨が降っちまいそうですぜ。
もちろん、この雨も、梅雨の影響じゃございませんから。

デタラメだもの。

20130608

機械的な生き方じゃ愛されないと思うので、欠陥商品になることオススメします。『デタラメだもの』

情けないことや、みっともないこと、足らずの部分や、中途半端な部分、そういうところって、人間の愛らしい部分だと思えて、仕方がないのです。

こうやって日々、ダラダラと仕事などしていると、駆け出しの若いビジネスパーソンに出会うことが、しばしば。

自分のような体たらくで、うだつのあがらない、ロクに仕事もできないような人間はあまりよく知らないのだけれども、やれ起業家を目指したり、やれビジネスで成功を企てたり、世のため人のためと、若いうちから同士たちと切磋琢磨、1分1秒無駄にしまいと、瞳を輝かせている若者たちが、いるんだという。

そうして、ふとした折りから、そういった若者たちと出会う機会などあった際に、いつも思うことがある。

瞳が輝き過ぎていて、嘘みたいだ。

って。

なんだろうか、この感じ。なんだろうか、あの違和感。

たとえば、スポーツに汗をかき、ひたむきに努力している方々や、散るやもしれない夢に向かって、がむしゃらに走っている方々と比べて、なぜビジネスの世界で、同じようにシャカリキになっている若い方々と対峙すると、あんな風な、しっくりこない感じを抱いてしまうのだろう。

つい先日も、そういった若いお人が、僕みたいな、社会においてなんの価値もないような人間に、「仕事、頑張らせてください!」態で、ご挨拶に参られて。

「は、はぁ」なんて感じで、応対してたのだけれども、あまりの瞳の澄んだ具合に、神々しさを感じ、吐き気を催す。そんな数分間。

そうやって考えると、スポーツや芸術、その他なんだって、夢ってものは、自分との戦いだったりする。

自分と向き合って、自分に厳しくしたり、自分を甘やかせてみたり、そうやって、自分自身の内なるものと会話して、シャカリキになる。

でも、ビジネスにおいては、対相手になってしまうから、これ食えない。
そのシャカリキさを、売り込むんだもん、だって。

ビジネスの世界には、成功の道筋や、成功へのステップや、成功への道標などがあるんか知らん。
けれども、そういうことを、叩き込まれたり、詰め込んだりしていくうちに、疑うことを知らずに、すくすくと、まっすぐまっすぐ育っていくんだと思う。

自分も疑わないし、人も疑わない、という。

そういう方々を前にして、僕はいつも、こんな風に思う。

この人、ロボットなん?

やっぱり充電とかしてはるのかしらん?

USBで充電するんかいな?

放電したりもするん?

充電してる最中は、人間が温泉につかってる時みたいに、あああぁぁあぁ~とか恍惚とした表情とかするん?

どこ製よ?

メーカーはどこ製よ?

とか。

やっぱり、人って、欠けてる部分が、かわいらしいんだと思う。
その欠けを、思いやりで埋めてあげたり、また逆に、埋めてもらってりして、人間関係って、築かれていくんだと思う。

だから、そんな、ロボットみたいに、完璧にやろうなんて、思わなくたっていいよね。

そんなロボットと対峙すると、僕はいつも、逸脱したことをやってやろうと考えてしまう。
少なくとも、自分と会ったその数分間は、彼ら彼女らのプログラムにバグを放り込んでやろうと考えてしまう。

支離滅裂なことを言って乱してみたり。
いきなり下ネタ言うてみたり。
仕事の話せずに思いっきりプライベートなこと聞きまくったり。

そうやって、「たまには臨機応変に生きようじゃないか」って、肩をもみほぐしてあげたくなる。

でも、響かないけどね。

なんてったって、相手(僕)は、おんぼろサラリーマンで、ヨレヨレのスーツに身を包み、数箇所も裂けたままの革靴を履き、威厳もオーラもないような下僕なんだから、そりゃ向こうも気合い入りませんわね。

きっと、人と人とがおるってことは、不規則なこと、変則なこと、不調和なこと、そういうことばっかりで、だから、おもしろくて楽しいだんと思う。

調味料を味わいたいんじゃなくて、素材の荒っぽい美味しさを堪能したいんだと思う。

なので、成功のためのマニュアルとか、応対スクリプトとか、先達のアドバイスとか、全部全部、捨ててしまえばいいな。

もっともっと無駄なこと、したらいいな。

目的地まで、まっすぐ一本道で進むよりも、無駄にクネクネ寄り道回り道するほうが、絶対に楽しいよな。

ということで、以後、ロボットに出会った暁には、背中か太ももか首筋か知らん、ぴょこんと生えてる電源ケーブルを引っこ抜いて、一旦は稼動停止にしてやろうかと。

いや、そんな大それたことはできませんな。
こっちは、何の影響力もない、薄汚れた中途半端な人間なので、そんな彼ら彼女らの燦燦と輝く眼から発せられる、神々しい光を浴びてしまえば刹那、体内の毒素が化学反応して、命さえ奪い去られかねない。

やめておこう。
やめておこう。

いかんいかん、そうこうしてる間に、充電がなくなってきた。
今すぐ充電しないと、動けんくなってしまう。
あ、あれ、あのスケベな雑誌、どこやった?どこにしまったっけ?
いかん、電池が切れてしまう…
早く充電しないと…

デタラメだもの

20130601
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