社会人になって十数年がたつが、今だにあの、社会に飛び交う薄っぺらい会話というものに、どうも慣れない。

あの薄っぺらさが、とてもとても鼻につくわけです。

例えば若手社員が、上司や上層部に対して話す、お世辞にも満たない、太鼓持ちほど質の良くない、下品な媚び諂い。

例えば会社で催される飲み会などで繰り広げられる、その場限りの、妙に座りの悪い会話の数々。

そういった場に出くわしたりすると、もう寒気がして、これは夢か現実か?といった具合に、目の前のできごとを、疑ってみたくなる。

思い返せば、ぼく自身も、社会に出たての頃や、新しい職場環境になった時、あとほんの僅かではあるが、社会というフィールドでのし上がってやろうかしらん、そない思った時など、そう、思い返せばそんな頃、やってましたわ、媚び諂い、やってましたわ、その場限りの虚無な会話。

でもいつからだろうか、単純にそういう自分が、痴態を晒してるなぁなんて感じ出したこと。ほんま、シンプルに痴態めいて映ったわけです、自分のことが。

長渕剛も歌ってましたわなぁ。

偉い人に頭を下げたら いい奴だと口々にほめられた
心とうらはらの顔を鏡にうつしたら 恥ずかしい自分に気がついた

って。

ん?となると、社会に出ておられる皆々様方、ああいう痴態は、自らちゃんと痴態だと意識して、やはり社会に身を人質として取られている身分ゆえ、恥を忍んで実行しておられるのだろうか?

疑問である。はなはだ、疑問である。

そしてそして、さらに難解なのが、まぁ一方的にそういった下品な言葉を用いたり姑息な手段を取るのは、百歩、譲りたくもないが、譲ったとして、その言葉の数々を受け止める側も、なんだか、まんざらじゃないような、そんなニヘニヘした表情で、受け取るもんだから、これまた、難解。

いわゆる、捏造された言葉で、気持ちよくされたところで、ぼくだったらば、ぼくだったらばですねぇ、こいつアホちゃうか?そない歯の浮くような言葉、五月雨式に言いやがって、なんの信用も置けんぞ、こいつは。

と、まぁ、鼻持ちならず、まず疑ってかかりますわ。

それが社会では、なんだか、そういった下衆い言葉でキャッチボールが成立するときやがる。意味わからん。

さらにさらに、そういった奇妙な奴が、社内で地位を優位に確立したりだとか、出世したりだとか、得意先も拡大したりだとか、意味わからん。

社会とは、アホの集まりなのか?

まぁ、私自身、既に社会の標準レールからは、とうにはみ出してしまっており、すでにそのレールと私自身のひた走るレールとは連結されておらず、グイグイイと果て無き砂漠へと向かうレールをまっしぐらなわけですが、自分よりもずいぶん若い社員などが、そういった明け透けに下品極まりない言動・行動などを繰り返しているのを見ると、その器用さにゲロを吐きそうになり、こいつ、終わっとるな、そない感じてしまうわけです。

それと同時に、そういった、下衆の極み的な言葉を受けて、ニヘニヘヘとしておられる年配の方々、権力者の方々、ステークホルダーの方々、決裁権をお持ちの方々、そういった方々にも、心底の侮蔑の眼を差し向けてしまうわけであります。

社会とは、あぶら取り紙一枚程度の薄っぺらい人間関係で、バランスが保たれておるのかしらん?

そんなこんなで今日も、ウンコのような顔面の色を晒した決裁者と呼ばれるような方々に、やぁおはようございます、今日もナイスなウンコ色の顔面でございますね、とも言えず、かといって、いつも快活なイメージですね、何かスポーツでもやられてるのですか?キレイに日焼けされておられる、なんてウンコのようなセリフを吐けるわけでもなく、ただひたすらに、影響を及ぼし及ぼされるような方々とは、目が合わぬよう、伏目伏目で、今日も斜陽。

ともかく、社会で飛び交う薄っぺらい会話からは、いち抜けた、を続ける日々なわけであります。

20121012