デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

僕も俺も俺様も、代名詞の概念を凌駕するおばあちゃんの深み。『デタラメだもの』

僕とか俺とか、ワシとかオイラとか、オラとかワイとか、男にとって、自分のことを指す代名詞が複数ある。
オイラと聞くと、ビートたけしを思い起こさせたり、オラと聞けば、ドラゴンボールの孫悟空を想起させたりと、それら代名詞には、少なからず役割がある。

女性にとっても、ワタシとかアタシとか、ウチとか複数の代名詞があり、人によれば、自分の名前が、ミカなら、「ミカ的にわぁ~」などと、代名詞に頼らずに生きている猛者もいるだろう。

女性は自分のことをどの代名詞で呼ぶのか、どのようにして決定しているのかは定かではないけれど、男性にとって、この代名詞というやつ、プライドやら自尊心やら地位やら名誉やら、他人と自分とのバランスやら敬意や謙譲、尊敬やら敬い、はたまた、威圧やら暴圧やら、複雑な要因が絡まり合っているので、どれを選択するか、なかなかに、やっかいなもんなのである。

僕は、僕を、僕と呼んでいる。
僕が僕を僕と呼ぶ、すなわち、僕という代名詞を使うことには理由がある。
普段からのほほんと、生きているのか生かされているのか区別もつかないような生き方をしている自分のことなので、偉そうに理由があるなんていってみても、たいした理由ではないのだけれど、ちょっとした拘り、違う、そんなたいしたものではない、ちょっとした意味合い、違うなぁ、そうだ、理屈だ、理屈がある。

自分は、自分自身を俺と呼ぶに相応しい人間になれたためしがないので、恐れ多くて、俺などと僕は僕のことを呼べない。

仮に想像して欲しい。
普段、自分のことを俺と呼んでいる男が、時に、恐ろしく強面のメンズや、どう考えても格闘技でそれなりの名誉を手にしてはりますよねオタク、といった、イカつい人間に、

「おい!ワレこらぁ、誰に向かってメンチ切っとるんじゃ!」
と絡まれ、
「俺、メ、メンチ切ってません……」
として、自分のことを俺と普段通り呼んでみたとしよう。
「おのれ、誰に向かって俺とかホザいとるんじゃ、ボケェ!殺すぞ!アホンダラ!」
と、首筋にナイフのひとつでも突き立てられようもんなら、
「ひ、ひぃぃぃ、すみません、僕です、僕ぅぅぅぅぅ」
と、俺という代名詞から、僕というそれに、切り替えるだろう。

そうでないにしても、自分とは住む世界の違うような偉大な人と対峙したとしよう。
その方の世界では、信じられないくらいの功績を上げておられ、誰からも尊敬されるような偉大な人物。
そのお方から、

「君の趣味は……(偉人特有の間)……なんだね?」
などと、深海魚も居心地の良さを感じるほどの深い声色で尋ねられたとしよう。
すると、普段、自分のことを俺と呼んでいる男でも、たまらず、
「ぼ、ぼ、僕の趣味ですか……M性感です」
などと、思わず、僕という呼び方をし、挙句に、性癖まで吐露してしまうほどに情けない状態に陥ってしまうだろう。

すると何かい、自分のことを俺と呼んでいる奴は、話す相手、対峙する相手、時と場合、状況やら環境やら、そういったものを考慮し、俺を俺と呼んでいい場面か、俺を僕と呼ぶ場面かを、瞬時に判断し、そして、俺のGOサインが出たときのみ、自分のことを俺と呼んでいることになるじゃろうが。
そんなアホなこと、あるかい。
俺は空気を呼んで、俺のことを僕と呼びます。みたいなノリかい。あほんだらあ。

そういうのがみっともなくて、僕は僕のことを俺ではなく僕と呼ぶことに決めた。
女子には俺と呼べて、怖いお兄さんには僕と呼ぶ。その精神が、非日本男児の気配があり、違和感があり、ムズムズし、僕と呼ぶことに決めた。

そうやって、切り替えのきく「俺」ならば、もうすでに、「僕」並みの域に堕ちてると思うけどね。

他にも理屈があって、年齢や経験などを重ねて、とても大きな男になられた方が、自分のことを、僕などと呼んでいる光景を見ると、それほどに人として大きくなられたにも関わらず、自分のことを僕と呼ぶその器の大きさと謙虚さに、憧れを超え、羨望の眼差し、ただただ感服してしまい、いずれは自分もそういった人になりたいと思うわけで、やがて自分もそんな風な人間になる意志があるのならば、あえて、俺の時代など経なくても、そもそも、ずっと僕でいいんじゃないだろうかとも思っている次第で。

ところが、僕には、ごく稀に、俺が出る瞬間がある。
普段生きている時間のなかで、そりゃ人間だもの、激昂する場面や憤怒する場面、咆哮する場面や怒髪天を衝いてしまう場面などもあるが、そういった場面で、感情のまにまに、自分のことを俺と呼んでしまう瞬間がある。
その瞬間、きっと僕、いや、俺には、過去に見た、激昂する男のイメージやら、憤怒するヤンキーのイメージやらが、潜在意識に刷り込まれていて、それらが自分を誘引し、

「ほれ、お前さん、こんな風な口調で、こんな風なことを怒鳴り散らしたら、カッコエエぞい」

と、そのイメージが憑依し、ついつい口走ってしまっているはず。
しかしその刹那、心中では、

「わぁ!僕は今、僕のことを俺などと呼んでしまった。怒りの感情と妙なイメージの憑依によって、俺などと呼ぶに相応しくない自分みたいな人間が、今、僕のことを俺と呼んでしまったじゃあないの、なんてこと、恥ずかしい恥ずかしい、羞恥の極み、死にたい死にたい、穴があったら、入れずに入りたいじゃあないの」

と、赤面してしまいそうになり、一応、形式上、怒りの問答は続けるものの、心中は既にクールに冷め、恥ずかしさのあまり、四方八方にいる人々にハグして周りたいくらいになっている。怒りは沈下、消沈、平和な心を取り戻しているのである。

そう考えると、僕の中の俺は、僕が平和的な心を取り乱したときの、暴威の抑止力になっているのやもしらん。
なかなか素晴らしい装置である、俺。

要するに、自分は常に、実るほど頭を垂れる稲穂のように生きていきたいわけで、その生き様を貫く最中に、俺という代名詞は不要なわけである。そうだ、それを言いたかったんだ。それが、僕の理屈だったんだなあ。

そんなどうでもいいような理屈を思い浮かべながら、日中のお日様を浴びつつ、おばあちゃんがひとり店番をする駄菓子屋に入る。
僕たちすっかり中年になってしまった男どもが、キャッキャと駄菓子などを気分よく選んだ後、僕はこれにします、俺はこれにしますなどと、口々におばあちゃんに駄菓子を手渡していると、僕はこれやね?俺のんはこれやね?などと、銭勘定をするおばあちゃんにあやされる。

そういった折、なんとも癒されて、人間の一生を垣間見るようであり、このおばあちゃんからしたら、僕たちなんて、いくつになってもまだまだ、自分のことを僕と呼ぶ子供であり、自分のことを俺と呼ぶ子供でしかないんだと思うと、まだまだ自分もしっかりやらねばと、優しさでもって厳しく背中を押しされてるような気がする。
僕も俺も、ワシもワイも、俺様も貴様も、どいつもこいつも、おばあちゃんにとったら、子供。男の子。なんという素晴らしい。涙が止まらん。

そんなほっこりした思いを巡らせつつ、3個入りで内1個が酸っぱいという、ちょっとしたギャンブル要素を含んだガムを購入し、おもむろに開封、1個目を口に投げ入れ、勢いよく噛むと、一発目から酸っぱいやつが当たり、なんだか今日はいい一日だなぁと、しみじみ空を見上げる俺様であった。

デタラメだもの。

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おい、恩は仇で返ってくるぞ。歯の浮くような言葉にご用心。『デタラメだもの』

もし僕が、あなたに対して、何かしら、少し考えれば誰にでもできることや、いざやってみれば誰にだってできるようなことをやって差し上げたとしよう。そんな折、あなたは果たして、その御礼として、「●●さん、天才ですね!」とか「やっぱり●●さんは違いますね!」とか「●●さんに任せておけば、万事OKですね!」とか、言うのだろうか。
言わないよね、言わないよね、そんなこと、言わないよね。

俗にこれを歯の浮くような言葉というらしいが、世の中には、こういった類の言葉が氾濫していて、どこかの誰かさんが、そんな歯の浮くような言葉を言われているのを聞くことは数多あれど、いざ、自分がこれの被害者になってしまった瞬間には、あまりの辱めに、ヘドが出そうになって、いてもたってもいられなくなってしまい、ビルのガラスを突き破って、ワイヤーアクションのひとつでもカマして、美麗に華麗に流麗に優雅に地面に着地した後、世界の最果てまで全力疾走して、失踪してやりたくもなる。

どういう神経から、こういう言葉を、他人に言ってのけようとしはるのか、その精神がようわからん。
成人し、物事の分別がつくようになってからというもの、こういう言葉というのは、人を嘲笑する、人を侮蔑する、暗にコケ下ろすようなときに使用するという風に認識してきたつもりだが、それが賞賛、賛美、感謝の際に用いられることが多いということを知り、驚愕。

よくよく考えてみると、達成した行為と、賞賛する言葉の重みがつり合っていないがために、この違和感は生じるのだと思う。

仮に、ビジネスシーンでよく用いられる表計算ソフトExcel、これはマス目がゾロゾロと並んでいて、そこの中に、文字だの数字だのを打ち込み、人間の脳味噌では、計算にとてつもない時間がかかってしまうような処理でも、ものの数秒で解答してくれ、さまざまなグラフを作成したり、統計データを作成したりと、とても優秀なソフトなわけだけれども、そのソフトの使用中に誰かが困っているとしよう。
そして、その人が僕のような高卒の無学の人間に助けを求めてきたとしよう。

「すみません……」
「はい、無学の僕ですが、何でしょうか?」
「ここの数式とここの数式を掛け合わせて、人類が未だ発見していない新たな数式を発明した後に、不老不死の薬を調合できる数値データを算出してもらえませんでしょうか?」
「お安い御用でやんす」
ピピピのピッ。
「はい、できましたよ」
「●●さん、天才ですね!さすがです!感激します!感謝します!賞賛します!賛美します!今後生涯、●●さんには美辞麗句のみをお届けいたします!足を向けては寝ません!土曜と日曜の夕方には、●●さんの住む方角を向いて祈りを捧げます!恵方巻きも今後、●●さんの住む方角を向いてしか、かぶりつきません!」
「てへぺろ」

となるのなら、理解も理解、納得できる。
しかし、この社会、現実は違う。

「すみません……」
「はい、高卒の僕ですが、何でしょうか?」
「なんか、A列のセル(マス目)が表示されないんですけど?見てもらってもいいですか?」
「は、はぁ……」
ピッ。(およそ0.5秒)
「あの……。表示されましたけど……」
「すごい!すごーーーい!すんごーーーーーい!天才!天才!やっぱり何でもかんでも●●さんに任せておけば、万事OKですね!やっぱり天才は違いますね!」
「てへぺろ」

なんか違うやろう。歯が浮きすぎるやろう。歯が浮きすぎて、浮いた隙間に歯垢がたまって、糸状の歯垢取りで、歯垢を除去するのに苦労するわのう。

これはいったい、バカにされているのだろうか。ちょっと考えれば、誰でもできることだろう。やるのが面倒で、考えるのが面倒で、これしきの人生の壁を乗り越えるのが面倒で、それでたまたま目についた、いかにも無学そうな人間をとっ捕まえて、こんなもの、自分が考え乗り越える壁ではない、あいつにやらせておけば、手も汚さずに、汗も流さずに済む、やらせておけやらせておけ。

そういった歯垢、いや、思考の果てに、依頼を投げかけているのだろうか?
そして、こういった無学の連中は、適当に賞賛の言葉をぶつけておけば、ウヒウヒと調子に乗りやがって、喜び、慶び、悦び、歓び、満足しやがる上に、またいつでも、賞賛の言葉欲しさに、クソ面倒くせぇ依頼でも、ホイホイと喜んで請け負いやがるだろう、楽勝よ楽勝よ、無学の奴、楽勝よ、などと思っているに決まっている。

そんな思惑が見え隠れ、というか、一切隠れずに、丸見えなもんだから、たいがいにせい、と思ってしまう。
そして何より、そういった、歯の浮くような言葉をこちらが頂戴しているシーンを、誰か他人、第三者に見られている場合など、顔からマグマが吹き出てしまいそうなほど、恥ずかしくなる。

「あいつ、上っ面の言葉で賞賛されてやがるぜ」
「喜んでんじゃね?あいつ、喜んでんじゃね?」
「真に受けて、有頂天になってやがんじゃね?」
「俺、スゲェとか思ってんじゃねぇの?」
「バカにされてるのにも気づかずに、あいつ、ヘラヘラしてやがるぜ!」

といった心の中での嘲笑が、無数に聞こえてきて、即座、ビルのガラスを突き破って、前述通り、地球の最果てへの片道キップを手に、失踪したくなる。消えたい、消えたい、この場から消えたい。

ということで、歯の浮くような言葉での賞賛というものは、こちらはせっかく何かをしてあげたのにも関わらず、恩を仇で返すといいましょうか、何かをサービスして後、提供側がお金を取られるというような、社会のルールに反する違法行為なのではないだろうかと感じるわけで、そんな虚言をプレゼントしてくれるぐらいなら、確実に物と交換のできる、いわゆる通貨というやつ、通貨、そう、小銭でもいいんで、銭ゲバと呼ばれようが守銭奴と呼ばれようがいっこうに構わんので、ありがたく通貨を頂ければ、こちらとしても、本日、財布の中に、21円しか入っていないがために、お昼を抜くか、部下にお金を借りて、界隈最安の食物を購入して腹を満たすという愚鈍な行為をやってのけなくて済みそうだと、胸のひとつも撫で下ろせるというものだが、世の中というもの、天才という称号は容易く貰えるのだが、10円やら50円というコインは、何が何でも僕の手の中、財布の中には入らないという厳しい仕組みになっている模様で、そうなると、コインはもらえない上に、歯の浮くような言葉をぶつけられるという何の得にもならない目に遭うくらいだったら、いっそ、誰からも声のかからない場所に住み、誰とも交流せず、誰とも交信せず、ただひとりで暮らしながら、積年の歯垢を糸状の歯垢取りで、細やかに除去するという作業を延々繰り返しているほうが、なんぼも幸せというものに近づくのじゃあないだろうかと思考し、試行錯誤したものの、やはりそうもいかずに、本日のお昼ご飯は、酢の味が粋に効いた駄菓子ひとつをコンビニの飲食スペースで食すという、ファンシーでバラエティに富んだ日々を送っていくわけである。

デタラメだもの。

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ひとたび、オーラを身につけてしまえば、世知辛いこの世を楽に闊歩できるようになるらしいが。『デタラメだもの』

オーラって、いったい何だ?オーラって、いったい何なんだ?

偉大な人たちを表現する際によく使われる「あの人のオーラ、ハンパない…」とか、「オーラが凄すぎて近寄れない…」とか。
あのオーラっていったい、どないやったら身につくんだ?俺にもオーラが欲しい欲しい、万人に近寄りがたいと思わせるほどのオーラが欲しいと望み続けて、早、三十何某年も経過してしまった。

先日、お仕事でお打ち合わせなどしている際に、某超大物と打ち合わせを続ける若手ディレクターさんと、オーラの話で小盛り上がり。

「その方のオーラ、あまりにも凄すぎて、会議中でも、参加者みんな震えてますから…」
「その方が威圧すると、参加者全員の思考が停止してしまって、中には会議中、言葉になっていない、嗚咽のような言葉しか発せなくなる人間もいましたよ…」

それはいったいどんなオーラなん?教えてよ、教えてよ。
ということで、その方のオーラについて話合った結果、ワンピースのルフィが帯びる、覇王色の覇気と同じようなものだ。という結論に至る。
なるほど、キッと睨むだけで、人がヤラれるわけね、広範囲にいる人たちまで、ヤラれるわけね、その方も、海賊王を目指してはるわけね。

じゃあ、そのオーラってやつは、どないやって身につけるんかしらん。俺も欲しい、俺も欲しい。

ふと思いつくのは、ヤンキーのオーラ。
若かりし頃、ケンカの強い奴や、悪いことばっかりやってのける不良たちは、小学生だろうが中学生だろうが、一定の覇気を帯びていたと思う。
その覇気があるからこそ、周りも近寄り難かったろうし、他校の連中をも畏怖させる威力があったんだと思う。

なら何かい?ケンカが強い奴だけがそのオーラという奴を身につけられるんかい?そらそうやわな、ルフィもめちゃくちゃケンカ強いもんなぁ。それで納得ということで、ええんかしら?

いや、違う。社会に出てオーラを帯びてる人たちの大半は、そないケンカ自体は強くないはず。ひょろひょろのおじいちゃんでも、オーラのえげつない人は大勢いる。
となると、単にケンカが強くても、そういった人たちの覇気には勝てないことになる。
危ない危ない、ケンカが強くなったらオーラを身につけられると早合点して、拙速に答えを出してしまうところだった。先ほど申し込んだ、エクササイズボクシングジムの入会願書、取り消さねば。

でしたらば、どうやればオーラが?俺も欲しい、俺も欲しいんや。

あっ、そういや、人のオーラっていうのは、その人の生き様が表れるなんて、キザなことを言ってのけていた輩がおったことを思い出す。
生き様?イキザマ?

これ、ようわからん。
オーラが身につくような、生き様なんて、あるの?それって、どんな生き様なん?

自ら茨の道を進んで行くような生き様?
もしそうなら、カップラーメンに湯を入れてから一分半で食べてみたり、チゲ鍋を素手で食べてみたり、カレーうどんを食べるときには、必ず白いシャツを身に着けてみるとか、そういうこと?そういうことで、みんなオーラが身についてるの?なんや、簡単やん、簡単やん。

そう思って、この夏、ざる饂飩食べるときも、素麺食べるときも、汁に浸けずに、そのまま麺をダイレクトに食べるというワイルドなことを試し続けてみたけれども、夏も終わりかけ、森山直太朗が歌い出すこの季節、一向にオーラが身についた気配がない。

オーラがないと、損をすることが多いと思う。
人とモメごとになった際にも、相手は萎縮することなく、グイグイと横柄な態度でこちらに強引な交渉を迫ってきたり、電車の座席で、隣の奴に、思いっきり両足をグイッと広げられて、肩身の狭い思いをせんければならんかったり、映画館では、両サイドのドリンクホルダーを占拠されてしまったり、焼肉を食しているときなどに、焦げ付いた網の交換を店員さんにお願いした後、その店員さんから舌打ちされたり、見積もりを値切られたり、仕入れ値を上乗せされたり、幼少期の頃のエピソードなら、家に友達が遊びに来る度に、部屋の中から、ファミコンソフトがなくなっていったりと、あれもこれも全て、オーラを身に纏っていないことが、全ての原因なのだ。

取りあえず、僕が考える最もワイルドなこと、片道分のお金だけを持って、海外へ飛び立ち、骨を埋める覚悟で、現地で夢を追いかけるという荒行、これをやらんければ、オーラは身につかないんじゃないだろうか。
そう思い、銀行の残高に目をやると、片道分のお金どころか、大阪府外へと脱出する資金もない。

オーラを身につける前に、小銭をもう少し、身につけておかねばならない。

三十何某にもなって、地元の中学生の悪ガキから絡まれるという不測の事態を味わえば、誰だってオーラについて、考えたくもなるし、オーラと向き合いたくもなるし、せめて、身につけた小銭だけは、そいつらに奪われまいと、両手をばたつかせたくもなる。

デタラメだもの。

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お金のかからない遊びといえば、自転車。けれども、なかなか前途多難である。『デタラメだもの』

お金のかからない遊びが好きで、そうなってくると、ひとりで自転車に乗ってウロウロして、あちらへ行ったりこちらへ行ったり。
風を切りながら、鼻歌を口ずさみながら、快走して、フフフン、自由を感じながら、世界を征服したような優越感に浸りながら、快適に遊ぶ。

そんな僕の貴重な遊びが今、存続の危機に晒されている。
というのも、生まれて最早、三十何某年というもの、そのうちに数年間は、あちらこちらと移住しておったものの、やはり大半は、地元で暮らしていることになる。

そして、物心ついたころから、この優雅な遊びを続けているため、東西南北、大通りから裏道まで、隅々まで走自転車で破したことになり、存続の危機とは何かというと、全てが知っている道になってしまったため、知らない道を走るワクワク感やらドキドキ感が薄れてしまい、遊びとは呼べない代物に成り果ててしまったということ。

なんたる危機。

どちらの方角に走り出しても、知ってる景色、走ったことのある景色、どこの裏道に潜入しても、知ってる景色、知ってる匂い、知ったノラ猫の顔、新鮮な風はどこへやら、これはただの移動になってしまっている、なんの感動もない、オー、シット。

「そんなグダグダ言うてんと、もっと頭使いなはれ、そのええ趣味をもっと楽しむ方法おまっせ」と、アドバイスをしたがる人もいるでしょう。
「もっと遠出しはったらよろしいやん」
と、そりゃ明快な答えですなぁ。

それがそうもいきませんねん。
あんまり遠くへ行き過ぎると、今度、帰ってくるのに莫大な時間を費やし過ぎて、遊びの域を超えてしまう、お尻も痛なる、腰も痛なる、弱音も出る、涙も出る、それが遊びと言えますかいな?おまはん。
それは遊びと違いまっしゃろ。

で、遠出するとなると、それ相応のロードバイクかなんか知らんけれど、調子こいたような自転車を購入せねばならんようになり、ヘルメット被ったり、グローブみたいなんはめたりと、ゼニが飛ぶゼニが飛ぶ、挙句に、マイ自転車を盗まれでもしたら、もう死ぬしかなくなりますでしょ。
元来、お金をかけない遊びの自転車が、金食い虫の趣味になってしまうのも、違う。

「あんた、ほんま理屈こきやなぁ。もっと頭使って、自転車の趣味を楽しみなはれや」と、さらにアドバイスをしたがる人もいるでしょう。
「折りたたみ自転車かついで、途中まで電車で行きはって、降りた駅から自転車で走り出したらよろしいやん」
おお、アイデアマンやなぁ、おたく。

しかしおまはん、そもそも折りたたみ自転車買えるくらいのゼニがあったら、こちとら、昼飯を300円に抑えたりしまへんねや。

もう、こうなったら、自分の中でのアイデアを駆使して、お金のかからない遊びである自転車を復刻したる。
アイデア、アイデア、アイデア。
閃いた。
あることを思いつき、さっそく自転車に跨って、飛び出す。
手近な場所を走りつつ、新しい息吹を感じながら、ワクワク感、ドキドキ感を体感する方法、それはつまり、目を閉じて走ることで、知らない世界を快走するに等しい体験ができるのでは!

早速目を閉じて、ペダルをこぐ。
前が見えないため、左右の感覚がわからない。
家を出てすぐの米屋の角で、車にひかれそうになり、車内からの暴言を二言、三言浴びながら、目を開けると、なんのことはない、すっかり見飽きた景色、想像通りの米屋の角。

暴言の言葉の汚さに、すっかり意気消沈し、やはり、ゼニを持たない人間は、知った景色を何万回も楽しむしかないのか……と、肩を落としながら、走り始めはしたものの、ただでは転ばぬこの性格、ともかく何かしら楽しみを見つけねばと、思いついたのが、町の中にあるスナックの看板に書かれてある、その店の名前に最も多く使われている、よし子とか、あけみとか、順子とか、女性の下の名前の数の統計を取ってやらんと。これ、以外に楽しいぞ。

さぁ、三十何某年、物心ついたころから走っている全ての道を、この楽しみのために、もう一度、網羅せねば。
なんだか、町の景色が、真新しく見えてきたぞ。
やった、新しい世界の始まりだ。

と、スナックの看板をキョロキョロと眺めながら自転車をこいでいると、猛スピードの車にひかれそうになり、車内から二言、三言、暴言を浴びせられる始末。
ワシも金にものを言わせて、車で走りながら、スナックを巡ったろうかしらん。

デタラメだもの。

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笑いとは、人類にとっての息子のような存在なので、決して無碍に扱ったらあきません。『デタラメだもの』

その昔、斉藤君なる人物がいた。

初めて社会に出て、初めて勤めた会社の先輩。
右も左もわからずにキョロキョロしている状態の僕に、妙に明るく、お笑い芸人を思わせるそぶりで、良くしてくれたお方だ。

いつも明るく、常にヘラヘラしていて、仕事上でトラブルなどあった際にでも、周りの空気を重くさせまいと、心の内はどんな心情だったかはわからないが、いい意味で、心を表に出さずに、場の雰囲気を和ませてくれる人物だった。

そんな人物なので、本音の読めない人物であり、真意の掴めない人間であり、だからこそ、そないなムードメーカーが勤まるわけであって、だからこそ、実のある会話や、真面目ぶった会話、鎮痛な会話などは、一切したことがなかった。

にも関わらず、ただひとつ、斉藤君が僕に、本音であろう台詞を漏らしたことがあった。
それが、

「そう言うと思ってた!」

と、自分に言ってのける輩が許せないという、えらい重苦しい本音だった。

つまりは、大勢で会話などをしていて、誰かがしょうもないことを言ったり、ボケをかました際に、斉藤君が、お笑い芸人よろしくツッコミを入れる。
普通であれば、それで爆笑につながるところを、人によっては、そのツッコミに対して、「そう言うと思ってた!」などと言ってのける輩がいる。

斉藤君は、それをとても嫌がっている風で、そらそうだろう、いわゆるそれは、ツッコミ殺しという奴で、だれかが苦心して考えたツッコミなどに、「そう言うと思ってた!」と、やけに上の立場からというか、君のこと読めてたよ風の、その例えも脳内に浮かんでましたよ風の、ここではそうツッこむのがセオリーだよね風の、教師的な立場というか、預言者的な立場というか、お笑い専門学校の講師的な立場のようなスタンスで、ツッコミを殺す輩だからだ。

世の中には、簡単そうに見えて、その実、全然簡単ではなく、やってみるとできなかったり、単純そうに見えて、取り組んでみると複雑だったり、一見するだけでは、その奥の深さがわからないことが、たくさんある。

ほら、アコースティックギターを持ったシンガーと、タンバリンを持ったシンガーの二人組デュオがデビューしたとしよう。
それを見て、俺にもできそう、私にもできそう、ワシにもできそう、ミーにもできそうと、彼らがやっていることを簡単そうだと解釈し、ある種の近道だと思い込み、路上に出てジャカジャカかき鳴らしてみたりもするが、彼らがやっていることには、才能やら努力やら運やら人脈やら顔やら声やら身長やらスタイルやらキャラクターやら、数多の要因が絡み合っていて、それが実を結んで、デビュー、果てには、ミリオンセールスといったことにつながっているわけである。

だから、簡単そうに見えるから、簡単というわけでもなく、増してや、簡単そうに見えて、それを簡単だ簡単だ!などと批評だけして、実際に自分は何の行動にも移さないという、腐った輩までいるのが事実。

話をツッコミに戻そう。

「そう言うと思ってた!」

実際には、言えてへんわけである。思ってただけなのだ。頭の中で思っていただけなのだ。
さらに言うと、ツッコミを実際に聞いて、なるほど、そういう例えもあるな、と、コンマ何秒の間に思い浮かべただけに過ぎず、それをさも、自分は太古の昔から思いついていたような錯覚をしているだけかも知れない。

結局、言えてない奴は負けなのである。

そして、大勢でいる時などは特に、ここ一番、大声を張り上げたりするのは、度胸がいるものである。
誰かの発話とカブッてしまい、恥をかくかも知れない。
ツッコミを噛んでしまって、末代まで続く生き恥をさらしてしまうかも知れない。
そして何より、スベるかも知れない。

それらの恐怖と戦いながら、勇気を振り絞り、かくかもしれない恥をものともせず、ツッコミという名の前線に突っ込んで行くわけである。

その勇敢な姿を見て尚、「そう言うと思ってた!」などと言ってのける人間の根性は、ババ色をしているに違いないし、腹の内は真っ黒に違いない。

さらにそういう人間という奴は、人が場の空気を盛り上げるために、面白いことを言ってあげようと、知恵とユーモアを振り絞って、エンターテインメント、すなわち道化を演じ、ボケやらエピソードなどを披露した際にも、

「おもんないやん!」
「なんかよう意味わからんけど……」
「話、長いわぁ!」
「オチ、どこなん?」
「めっちゃスベッてるやん!」

などと、腐った発言をしやがるもんである。

そない批評家みたいな態度取りやがるんやったら、場の空気が盛り下がってるなどした際に、自分から率先して和ましたり、笑かしたり、ほぐしたり、揉み解したり、融和、溶解、溶融、柔和、柔和、柔和、朗らかにやってみろや、と怒鳴ってやりたくなるわけだ。

これだけは言っておきたいのだが、大勢が集まる場や、複数人が集まる場で、それなりに会が面白かったり盛り上がったりすること、それは、自然にそうなってるわけでは、決してない。
誰かが、縁の下の力持ちとして、その役を買って出ているのである。
そして、自分がその役ではなく、縁の下の力持ちが誰かもわからず、なんの意識も持たぬまま、その会を楽しんだ人は、完全に、その縁の下の力持ちさんの努力の恩恵を授かっているわけだ。
そうやって、人は、知らず知らずのうちに、誰かの恩恵を授かっているわけだ。

なぜ、斉藤君のことを今さらながら思い出し、こんな戯言をほざいているかというと、昨今、人生の先輩方と会話する時間が多く、それに比例して、スベることが多くなった。

それを冷静に分析してみると、そういった人生の先輩方というのは、会話では自分より面白い奴がいるのが解せず、スナックに行けば自分より歌が上手い奴がいるのが解せず、だから、そういった芽は摘んでやろうと、こちらの品質がどうであれ、潰しにかかってくるという事実に辿り着いた。

笑いの何たるかを忘れ、芸術や文化の何たるかを忘れ、ファッションやら感覚やら、何もかもの何たるかを忘れ、今いる地位に胡坐をかき、周りの神輿に担ぎ上げられ、裸の王様であることも気づかずに、横柄に、横暴に、暴君の如く、散々人を泳がせた挙句、

「君、おもしろないな~」

などと、言ってのけやがるわけだ。

愛想笑いに包まれて、それにも気づかずに、ええ気分になっている中年連中に、ユーモアなんぞ、わかられてたまるかい!場末で安酒飲みながら、延々と、漫談やったる気概で生きとるんじゃい!

とは思っているものの、僕の会話や文章やら何やらが、その実、本当にくだらないとしたならば、その時は、そっと僕の肩を叩きながら、耳元で囁くように、「おもんないやん……」って、忠告してくれませんでしょうか?
「やかましわ!」と、大げさに返事をしますので、さらに小声で、誰にも聞こえぬようにして、「そう言うと思ってた……」と、とどめを刺していただけますと幸いです。

デタラメだもの。

201140720

人々との交流は口角の筋トレと思って邁進せよ。『デタラメだもの』

他人との交流においては、愛想笑いばかりが横行してしまい、これは口角の筋トレをしているのだ、これは表情筋を著しく鍛えぬく修行のようなものだと自分に言い聞かせ、納得させ、何とか笑顔を保つようにはしているが、これは果たして必要なのだろうか、生きていくうえで。

と、自問自答。

気まずい空間というのは、何を持って、気まずいと言うのだろうか。

社会に出て仕事をしていると、同僚やら上司やら後輩やらという存在がいるのと同時に、ビルやらで働いていると、エレベーターが付き物で、そうなってくると、偶然にも、同僚やら上司やら後輩と、エレベーターに乗り合わせるという機会が訪れる。

これが、苦手だ。

基本、乗り合わせたとしても、僕からは何も話さないし、できることなら話しかけて欲しくもない。
移動する階数表示をおとなしく眺めたり、チマチマと爪をいじったり、壁面の染みの数を数えたりと、何かとエレベーターの中では、やりたいことが盛りだくさんなのだが、どうやら社会では、エレベーターの中で誰かさんと乗り合わせると、会話をしなければならないというような風潮があるらしく、

「今日は暑いですね…」

などと言った会話が切り出される。

「そうですね」
「昨日よりは少しマシでしょうかねぇ?」
「確かに、昨日よりは少しマシですね」
「地元のほうがちょっと気温、マシですよ」
「へぇ」
「こっちはやっぱり、ちょっと暑いですよ、体感温度が」
「そうなんですね」

エレベーターの扉が開き、会話は終了する。

この会話、要るんか?この会話は、果たして、必要なのか?しゃべる必要なんか、あったのか?天気やら気候の話をする必要など、あったのか?そいつはその瞬間、その会話を、心の底からやりたかったのか?

気まずい空気を避けようと、こんな会話をするんやも知れんけども、こんな風にこんな風な、天気の話やらを密室でするほうが、よっぽど気まずいんじゃい、と。

誰かが言った、それが社交的な会話だよ、そうやって人と人は、コミュニケーションを取っているんだよ。

はい?社交的な会話?なにそれ、なにそれ、それ儲かるの?それ美味しいの?
社交的な会話で交流せんければならないような相手となら、そもそも会話なんかしたくもないし、する必要もないし、そいつと天気の話なんかしても、不快なだけで、不快指数も高いし、ちょっと天候とかけてみたけど、それほど面白くもないし、もうてんやわんやで、なので、僕はエレベーター内では、自分から話かけることを一切やめるようにしているし、それなのに、天気の話やらをふっかけてくる輩は後を絶たず、その悩みで、胃がキリキリと痛み始め、胃腸炎のような症状がとまらず、ここ数週間、便がゆるゆるで、蛇口をひねって放水される水の如しで、夜もロクに眠れやしない。

そうやって、人との交流というものを改めて見つめ直してみると、自分には、交流をしたい人がいないということと、交流して話したい内容もないということと、そもそも他人からの交流を望んでいないということが判明した。

となると、社会における全ての交流はやはり、口角の筋トレ、表情筋を鍛えぬくストイックな作業であり、これは挫折してしまいそうやぞ、ペンで口角に筋を書いたろうかしらん、笑顔の形状記憶手術でも受けて、いつでもどこでもニコニコしている顔面に改造したろうかしらん、それか、山ごもりでもするしかないのか。

ただ、せっかくこの世界に産み落とされたんやから、他人との交流というものの面白みを、味わう前に死ぬのも癪なので、いっちょ、やったりますか、やったらできる子で有名な私が、いっちょやったりますか、意気込みながら、他人との交流というものをやってみた。

しかし、これがまぁ、なんともつまらん。何をお話されているのかもわからん。どこで笑えばいいのか、笑って欲しい話なのか、真顔で聞く手の話なのか、それさえ判別できん。
てめぇのつまらんエピソードトークなんか聞かされて、なになに、銭でもくれるんけ?この苦痛な時間、などと、無礼なことを思ってしまう始末。
そもそもがつまらんエピソードなんやったら、盛って盛って盛りまくった話にして、そんなわけあるかい!とツッコミのひとつでも入れさせやがれ、てめぇの日記読んでるんじゃないんやぞい、そんな時間あるかい、忙しいんじゃこっちも、と、やさぐれるわやさぐれるわ、荒廃するわ退廃するわ、こりゃあかん。

そうやそうや、つまらん人たちのお話の聞き手に回るから、つまらん会話が蔓延るわけであって、それならいっちょ、こっちが上手に会話を回してやろうじゃないの、ピザ生地を流麗に伸ばす職人のように、交流を円滑にして広げてやろうじゃない、望むところじゃない。

そうして、渾身のエピソードを披露、落語家よろしくのなぞかけ、熟女が涎を垂らすほどの毒舌、高尚なおやじギャグ、織り込んで盛り込んで、わちゃわちゃ披露、どや、どや、これやで、ほんまもんの交流っちゅうのは、と、話し終え、満足げに相手の顔を見てみると、ポカン、クスリとも笑っていないどころか、意味も理解されていない、何?何?僕、スベッてます?俺、スベッてます?どこがあきませんでしたか?布団が吹っ飛んだの下りですか?あれあきませんでしたか?

どうやら、人々のお話が僕の中に入ってこないのと同様に、僕のお話も、彼ら彼女らの中には入って行けないようで、果たして一方通行と思っていた交流という名の道路は、その実、通行止め、もしくは進入禁止だったようで、彼ら彼女らがつまらんのか、僕自身がつまらんのか、いったいどうなのだ、それなのに、人々は、楽しそうに笑ったり、笑い声が響いたり、表情穏やかにしている、みんなみんな、面白くて楽しい人たちばかりなのだろうか、僕だけがつまらん人間なのだろうか、きっとそうだきっとそうだ。

天気の話とか、サッカーの話とか、旅行の話とか、飲食店の話こそが、面白いんだね。それこそが、面白い交流なんだね。それこそが、面白い人たちの交流の仕方なんだね。そんなお話を、みんなみたいにできなきゃいけないんだね。お話にフリやオチなんて要らないんだね、忘れ物した話とか、料理を焦がしてしまった話とか、遅刻しそうになった話とか、つまずいたり、物を落っことしたり、エレベーターの階のボタンを押し間違えたり、そういうお話こそが面白いんだね。

すみません。
口角の筋肉を鍛えられるダンベル売ってるところ、ご存知ないでしょうか?

『デタラメだもの』

201140712

気になる。日本人の所作が欧米化していくのが、気になる、気になる。『デタラメだもの』

所作が気になる。

何が気になるって、日本人の所作が欧米化しているのが、気になって気になって仕方なくて、最近では、所作のことばかり気になって仕事が手につかず、仕事の進捗が捗らず、仕事が溜まりに溜まって、お客様から、「所作のことよりも、仕事せいや」と、厳しいご指導ご鞭撻をいただく毎日。

この思いは、ずっとずっと胸の底には獅子として眠っていたのだけれども、暴発したのが、ワールドカップ、日本対コロンビア戦で、日本の敗退が決まった後の、長友選手のインタビューシーン。

個人的に、長友選手という男は、チャーミングで好きだ。
ツンケンした他のスポーツ選手とは違って、インタビューでもサービス精神旺盛で、今のキッズたちにとっても、スポーツ選手というのは、張り詰めた精神も大切だけれど、みんなのヒーローやヒロインである以上、憧れの存在としてのお手本を示すべき存在だと思っているので、それをやってくれる数少ないスポーツ選手のひとり。

その長友選手が、インタビュー途中、涙をこらえきれずに、中断し、退席、画面から見切れたところで、男泣きをしている感動のシーン。
そうだそうだ、プロというものは、高いクオリティでハイレベルな戦いを続けなければならない義務があるけれども、心の奥底には、キッズたちと同じ感情を持っているべきなのだ、高校球児たちと同じように、悔しいことを悔しいと感じて、嬉しいことを嬉しいと感じて欲しいものだから。
プロとは、ひとつひとつのプレーに一喜一憂していてはならない、常に冷静に、自分と向き合わなければならないとかいう、お堅い意見は抜きにして。

で、問題のシーンは、その直後。
ぼくは、サッカーのことをあまり知らないから、いったい誰が登場したのか、そのお方がサッカー界ではとても有名な方なのかは存知上げないが、ある男性が長友のところに寄ってきて、あろうことか、抱きしめ、抱き寄せ、包み込みながら、ポンポンやりながら、長友選手の耳元に口を寄せ、労いの言葉であろう、小声で何かを囁いた。

なんじゃこりゃ?
こいつらは、欧米人か?欧米人なのか?米じゃなくて、パンを食うとるのか?お茶とは、紅茶のことを指すのか?

それを見て、こう思ったわけである。
「日本人に、こんなことするDNAは、入っとらんじゃろうが!」と。

泣いてる男を慰めるときには、頭をグシャグシャやって、大声で、男気ある言葉をかけてあげるのが、日本文化じゃろがい。
思いっきりケツをバシッとやったり、両肩を掴んだり、強引強引に、奮起させてあげるのが、日本文化じゃろがい。

こういう欧米化したシーンを見ると、興醒めしてしまう。
フィギュアスケートなどの一喜一憂の仕方も、欧米っぽくて、見ていると演技の感動が薄れてしまう瞬間がある。

きっとこの感情は、友人、知人など、大阪人が東京に出ていった後に、しばらくして再会したときに、ナニワの魂を捨てて、すっかり標準語に染まっていたときの失望感に似ていると思う。
失望感というか、この裏切り者、国を売りやがって、故郷に後足で砂をかけよってと、徹底的に非難したくもなる。

日本選手が海外に出て活躍することは、とても尊敬するし、とても誇らしいことだと思う。海外の選手の中で、日本選手が活躍するシーンなどを見ていると、胸がスカッとする。

しかししかし、だけどもだけども、あの、所作や文化までをも、物まねするのは、いただけない。

じゃあ、何かい?海外に出て、海外の所作を物まねしている奴らは、
「すっきゃで!」と伝えるときに「I Love You」とか「Je t'aime」とか言うんかい?
それとも、身近で手軽な、ジェスチャーやらだけを、小器用に欧米化させるんかい?

ああ、所作が気になる気になる。
所作が欧米化していくのが気になる気になる。

それでなくても、日本人の話す言葉が、欧米語だらけになって、会話の中の肝心要の部分が、横文字ばかりで構成されるため、人と人との心の交流が希薄になって、醤油が切れてもお隣さんに借りに行くこともなくなり、肉じゃがを作り過ぎたために、お隣さんにおすそ分けしに行くこともなくなり、素晴らしき哉日本文化が、消滅の危機に瀕しているというのに、所作までもが欧米化してしまっては、滑稽、愚の極みと言わざるを得ない。

そのうち、お米もフォークで食い出すぞ。
家の中に土足のまま入り出すぞ。
道端で友人とばったり会ったら、ハイタッチとかし出すぞ。
壜のビールをラッパ飲みしながら徘徊し出すぞ。
夜の行為の際には、女性は、ダメよダメよじゃなく、イェス!イェス!言い出すぞ。
あほんだら。

日本文化退廃を防ぐべく、せめて自分だけでも抵抗してやろうと、たまたま、お仕事で書かねばならなかったeマネーの普及率についてのプレゼンテーション資料の中で、eマネーなどと書くのが解せなかったため、全編通じて、非接触型電子通貨普及率推移などと記載しまくっていたら、お客様から、

「君は中国語でもしゃべりたいのかね?」

と、日本文化、日本語の美を追求した結果、中国への憧れと勘違いされ、あげくに、大事なプレゼンテーションまで落としてしまうという、悲惨な目にあった。

しかし、こんなことでは、まだまだくじけていられない。
日本のサッカー選手も、審判から納得のいかないイエローカードを出されたときなど、ホワイ?といったような欧米スタイルのポーズでクレームするのではなく、故林家三平師匠のように、軽く丸めたこぶしを額にあてがいながら、苦笑いしつつ、「なんでですのん?」などと、言ってのけて欲しいものである。

デタラメだもの。

201140705

たった三色で出生率が向上するという妙案を思いつく、朝の通勤電車。『デタラメだもの』

あぁ、それにしても眠たいわあ。どうしてこうも仕事の朝は起きられへんのじゃあ。あぁ、眠たいわあ。

そんな眠い眠いなどと言ってる場合じゃなく、この通勤電車の時間の間にも、本日のお仕事のことを考えないと、スケジュールが遅延してしまう。
Aさんには見積もり送って、Bさんにはデザインカンプを出して、Cさんからの修正指示を聞いたあと、Dさんのところに打ち合わせ訪問行かないと。

などと考えていると、もとより、終わりもせず間に合いもしないスケジュールの中で生きておるのだ、もとより、上手くいかないスケジュールの中で生きておるのだ、それを間に合わそうとか、上手くやろうなどと、叶いもしない願いを腹に据えて、あれこれ考えようとするから、結局、破綻したときに、泡を吹くのである。

そうだそうだ、上手くいかないもんは、どう考えても上手くいかない。考えるだけ、無駄。なるようにしかならないし、なったときに、足早に考えればいい。なってもいないこの状況、電話もマウスもペンも持っていない、吊革しか持っていないこの状況で、まだ起こってもいないことを、あれこれ考えても仕方がないわ。

やめじゃやめじゃ。パッと次の駅で下車して、朝っぱらから立ち飲み屋にでもしけこもうぜ。

というわけにもいかないので、仕方なく、中吊り広告なんかをぼんやり見上げながら、日本の出生率を向上させる案を、論文にまで昇華させてやろうと思いつく。

子どもの人数が減り、老人の人数が増えていく、我が日本。
保障の問題やら、税金の問題やらで、国家を支えている既存のシステムが、どんどんと立ち行かなくなっていくそうな。

そこでだ。この電車の中で今、広告を見ている、過払い請求というゴシックフォントの文字を眺めているこの瞬間に、パッと思いついた自分の案で、憂い多き日本の出生率低下の問題を解決できる。自信がある。
普段のお仕事だと、妙案など、たったのひとつも出てきやしないくせに、こういうタイミングでの発想力と瞬発力といったら、まるで動物的。自分でも驚くほどの、脅威のイマジネーション力を備えている。

で、どうすんの、それ?

と鼻息荒げ、胸倉掴んで問い詰められるのは必至なので、僕の妙案、奇跡の案を披露したいと思う。

『赤色と黄色と青色の色札を、日本国民全員が、首からぶら下げれば、全てが解決する』

ほら、驚愕のアイデアでしょうよ。目をひん剥いてしもたでしょうよ。あまりの奇想天外さに、腰抜かしてしもたでしょうよ。

勘の悪いあなたには、特別に我輩の論文の内容を説明いたしましょう。

要するに、男女の出会いの数を飛躍的に伸ばせば、恋愛する人たちの数やら、結婚する人たちの数、出産する人の数も、比例して増えていくよね。

で、出会いという名のチャンスを阻害している要因を、前述の色札で解決するわけさ。
つまりは、既に恋人がいる人、既に結婚している人、今は恋愛をしたくないという人は、首から赤色の色札をぶら下げておけば、異性はその人を恋愛対象から外すよね。

そして、待ってました。青色の色札をぶら下げている人は、恋人欲しい、恋人欲しい、恋愛したい、そう思っている人ということに、相成ります。

ほれ、出会いがない出会いがないと嘆いている人は、仕組まれた出会いが舞い込んできていないだけで、皆まで言ってしまえば、街行く人、電車の中の人、バスの中の人、飲み屋の隣の席のお客さま、それら全員が、本来なら、出会いであって然るべきなのである。

しかし、一歩を踏み出せないのは、

「今、恋人いらっしゃいますか?」
「今、恋愛したいと思っていらっしゃいますか?」
「好きな人は、いますか?」

などと、見ず知らずの人に聞くことなんて、到底無理だし、それに近い行為を、人はナンパなどと呼んでいるらしいし、シャイでピュアな日本人には、土台不可能な話だ。

それを一気に解消してくれるのが、前述の色札なわけ。

ちょっといいなぁと思う異性がいて、青の色札をぶら下げてたら、ちょいとお近づきになってやろう!よ思うでしょうよ。それが出会いでしょうよ。青信号は、どんどん進行しちゃっていいんでしょうよ。
じゃあ、街中にいるベッピンさんや、嫌味なくらいにイケメンな男性などが、青色の札をつけているのを見るや否や、声をかけてみればいいわけ。

この案のすごいところ、それは、普通に考えると、これって、断られるのが怖くて、声なんてかけられないって臆してしまうところが、ナンパと変わらないなんて思われがちなんだけれども、想像してごらんなさい、声をかけた人に断られたとしても、街を歩いていれば、青札を下げた人なんざ、ここあそこどこにでも、見渡す限りいるわけで、そうなってくると、一回断られたくらいで臆する必要もなく、この大海原には、大量の魚たちが心地良さそうに泳いでいる、さぁ君も私も、まだ見ぬ海に出て行こうじゃないか、となるわけ。

だから、赤色と青色さえ、しかと目に入っていれば、人は臆する必要もなく、恋愛街道を闊歩できる。

え?じゃあ、黄色は、何のためって?

尋常じゃないほどに勘の悪いあなたに、お教えいたしましょう。
黄色の色札は、恋人はいませんが、好きな人はいますってやつ。きゃっきゃっきゃっ。
お声がけいただくのは構いませんが、一時停止が必要ですってやつ。うまくね?うまくね?きゃっきゃっ。

この三色の色札制度を導入するだけで、我が日本人、言いたいことも言えないこんな世の中と、言いたいことも言えないこんなシャイな性分を備えた我が日本人が、青色の色札めがけて、気持ちを告げ、恋を求め、愛を叫び合うようになるわけですよ。
そして、その愛の雄たけびの果てには、愛の育みがあって、そして、子どもが産まれ、出生率が向上する。

日本という名のシステムは、再びその機能を取り戻し、若い世代やこれからの子どもたちにも、幸の多い国へと魅力的な変化を遂げていくわけである。

わずか数秒間の間に、これほどまでのプレゼンテーションを思いつき自分の才能と能力に、改めて感服する。
この論文を発表すれば、生涯お金の巡りがよくなり、仕事なんぞ、やらなくて済む身分になれるんじゃなかろうか、にひにひ。

ぎゃ。電車、乗り過ごしてる。降りねばならぬ駅から、三駅も超過してる。
黄色の色札の説明に、時間を要し過ぎたか。

例に漏れず、本日も遅刻のようだ。

デタラメだもの。

201140622

人はそれぞれ事情を抱えながら、それでも力強く生きていくのさ。『デタラメだもの』

「今日は、牛を食べたい気分ですわ……」

そういう部下の欲求を聞き入れるべく、「それじゃあ、牛丼でも食べに行くけ?」と、部下二人を連れて、某牛丼チェーンに向かったランチタイム。

四人掛けのテーブルに陣を取り、いざメニューを見ながら、おぉ、このメニュー、めちゃカロリー高いやんけ!などと、戯言をほざきながら、オーダーの呼び鈴を鳴らす。

「ご、ご注文は、い、いかがいたしましょうか……?」

明らかに自信のない声が聞こえてきた。
ん?と思って、店員さまを見上げてみると、気の弱そうなおばちゃんの店員さまが、震えるような手つきで機械式注文受付機(ハンディターミナルというらしいが)を操っている。

ふざけたパーマをかけた方の部下が、丁寧な口調で、ゆっくりと、全員分の注文を、おばちゃんに伝えていく。

「牛丼の大盛り、つゆだくをひとつお願いします。あと、こっちの……」
「あの!ひ、ひとつずつ注文して、く、ください!」
おばちゃんの店員さまは、ふざけたパーマをかけた部下が、珍しく、ひとつひとつのオーダーをゆっくり丁寧に注文していたにも関わらず、ひとつずつ注文しろ!と注文してきた。

新人の店員さまなのだろうと、そこは我々心の豊かなメンバーは、嫌な素振りは見せないものの、ひとつずつ注文していたのに、ひとつずつ注文せよ!という指示がきたことと、その裏には、おばちゃんの、私がひとつの注文の入力を終えたのを察知して、次の注文を言ってくださいませ。それを分かりやすく言うと、ひとつずつ注文せよという指示になるんですのよ!という、切羽詰った背景も見え隠れし、顔から思わず笑みがこぼれてしまった。

それにしても、昨今の牛丼チェーンのスピード化には驚かされる。
おばちゃんが、まだ、僕の次、ふざけたパーマをかけていない方の部下のメニューを手元の機械に入力している最中に、もう、僕の牛丼、大盛りつゆだくが、運ばれてきたのだ。
入力が完了した時点で、キッチンに注文が送信される仕組みなんやね。

これ、野球やったら、前の走者抜かしてしもてるから、アウトやん。である。

無事に僕らのテーブルの注文も聞き終え、おばちゃんは次の業務、僕の右後ろに腰掛けた女性二人組みのテーブルに水を運んでいた。

その人たちのテーブル付近に来た時、おばちゃん、思いっきり水をこぼして、大惨事。
しかも、大惨事の被害者には、僕も含まれていて、左足に水が思いっきりかかったのである。

「すみません!」
大勢の店員が、僕のところに駆け寄ってくる。

「いやいや、気にすることおまへんで。ちょうど、湿気多くて、水でも浴びたいなぁ思ってたところやさかい、水かけてもろて助かりましたわ!」
と、陽気に言ってのけたどうかは定かではないが、全く気にもせず、ニコニコと笑みを浮かべていた。

いつも思う。
こうやって、明らかに不慣れな仕事でも、ミスしながら怒られながらでも、働いてお金を稼がねばならない、のっぴきならない事情が、人には、多かれ少なかれあるんだろう、と。
それを思った上で、やはり不慣れで不向きな仕事だけに、俯き加減な表情で働き、だからミスも多く、自分よりもはるかに若い年齢の奴らに、怒られ怒鳴られバカにされ。

背負い込んだ事情の重みを思い、それと戦う雄姿を見ていると、目の奥にツンと刺激が走る。

そんなことを考えながら、食後のお茶を楽しむべく、喫茶店。
ちょっとした屋外で飲食できるスペースを兼ね備えた店なので、気候もよいこの季節、外でお茶でも楽しもうやということになり、またしても部下に注文を任せ、僕はひと足先に、店の外へ向かう。

店内から店外へ出るガラス戸。
ボーッとしていた僕は、ガラス戸が既に開いてることに気づかず、なぜか取っ手に手をかけ、わざわざガラス戸を閉じたようで、それに気づいていない僕は、閉じられたガラス戸に向かって通過しようとしてしまった。

閉まってると思って、開けたつもりのガラス戸が、実際は、開いていたのに、閉じた上で、突き進んだのである。
自ら閉めたガラス戸に、だ。

物理的に、ガラスは強い衝撃を与えると、割れるよね。
そう、だから、ガラス戸を割ってしまいそうになったのは、想像に易いよね。

あやうく高級なガラスを弁償した上で、ケガの治療費までかかってしまうところだった。

それはそうと、僕が外出するタイミングに限って、雨が降り出すのは、なぜだろう?
今年の梅雨は、気まぐれに雨を降らせるが、どうやら、僕にだけは、毎回会いにきてくれるようだ。

デタラメだもの。

20140616

脂肪もコスモも情熱も、まだまだ燃焼しながら生きて行くわけです。『デタラメだもの』

「若い頃より脂肪がつきやすくなってきた」

CMでもよく耳にするフレーズ。近ごろ、まさにこのフレーズが自分の身に染み出して、なんともいただけない。

まだまだ丸くなってたまるか。世の中に牙を剥いて生きたる。吠えたる。長いものになど巻かれない。反骨精神剥き出しで生きたる。反社会的な人間でい続けたる。尖って尖って、もっと尖って。

などと鼻息を荒く、精神論を振りかざして生きているつもりが、腹の周りやら顎の界隈やらに脂肪などが溜まりに溜まって、ハングリー精神どころか、ハングリーを満たすために食欲やら肉欲と向き合い過ぎた結果、だらしない造形に身体がなってきてしまってるもんだから、そんな自分自身を忌み嫌って仕方がない。

そんな折り、またとないチャンスが訪れた。
身体の不具合により、胃腸やらがブチ壊れてしまったもんで、ちょびっと胃腸内を洗浄しましょうやということに相成り、妙なドリンクだけを二日間飲みながら、断食をするという機会を得た。

「これはこれは、痩せこけて、見るも無残な姿になれるチャンスではないか!」

鼻歌混じり、ルンルン気分でそのドリンクをチビチビやりながら、断食を決行した。

ところがこれ、やってみればなかなか辛い。
固形物は一切口にしてはならず、そのドリンクと、水、もしくはカフェインの入っていないお茶しか口にしてはならず、本来ならば禁止されているはずのタバコだけは、禁断の園ということを自分に言い聞かせながらスパスパやってはいたものの、日常生活から食というものの一切を奪われてしまうと、なんとも手も足も出ない状態に陥ってしまう。
コーヒーが飲めないというのも、なかなか致命的だったし。

「添加物の入っていない糖分だけは取ってもいいよ、だからね君、黄金糖を食しなさい黄金糖をね」という、指定銘柄の許可は得ていたので、黄金糖だけは食べてもいいことを事前に理解してはいたものの、断食決行前には、「俺様は、黄金糖などに頼らずとも、二日くらいの断食なんざ、朝飯前よ!」などと、朝飯さえも食せない身分のクセに息巻いていたことがアダとなり、初日の断食途中に、糖分が欠乏して、強烈な頭痛に襲われまくる。

黄金糖というメジャーな銘柄は、コンビニやら薬局やら、どこにでも売っているだろうと携帯せずに断食を始めたのだが、あまりの頭痛に、仕事どころではなくなり、大阪のオフィス街の中を、黄金糖を求めて彷徨うことになった。

フラフラリフラフラ。
歩けど歩けど、黄金糖がない。
しかも、歩けば歩くほど、エネルギーが消費されるので、さらに頭痛が酷くなる。
人間の身体というものは、糖分がなくなるだけで、これほどまでに弱体化してしまうのか、死ぬ死ぬ、このままじゃ確実に死ぬ。

そんな悲壮な表情で辿りついたお菓子量販店。
涙目になりながら黄金糖だけを手にレジに並ぶ。
まるで懇願するように店員さんから黄金糖を受け取り店を後にしようと思った瞬間、店員さん(研修生)の名札に記された名前が、「トウ」と書いていたもんだから、世界は僕に糖(トウ)という優しさを数多くれようとしている、なんという慈悲深いこと、泣きそう。
実際に、少しばかり涙をこぼしながら、黄金糖を貪り、職場へと帰った。

鬼に金棒。俺に黄金糖。
二日目の断食は、黄金糖を携帯していることから、余裕綽々、ナメきった態度でスタートした。

ところが、あろうことか、二日目には、仕事の関係上、得意先への訪問が予定されており、往復で徒歩40分の苦行を経なければならない。

「黄金糖だけで、この苦行を乗り越えられるのだろうか?」

一抹の不安を抱えながらも、なんとか得意先を訪問し、打ち合わせも無事に終えた。

ここで僕の中で、ある革命が起こった。
打ち合わせ後、そっと部下に告げた。

「なぁなぁ、なんか、ゲーセン行って、太鼓の達人したくね?」

急に太鼓の達人をプレイしたくなったのである。
仕事は鬼のように多忙だ。
しかも、ゲーセンがどこまで歩けば存在するのかも定かではない。
そして、断食二日目。

そんなことくらいで僕の心が妥協を許すはずがない。
今のこの太鼓の達人をやりたいという気持ち、何人が寄って集ったとしても、止められるわけがない。
僕は霞む目を擦りながら、部下と、ある商店街のほうへと歩き、ひたすらにゲーセンを探したのである。

フラフラになりながら、無事にゲーセンに辿り着いた。
ぐひひひ、太鼓の達人できる。
そう思い、小銭しか入っていない財布のなかから貴重な100円玉を取り出し、セットする。

「曲を選ぶドン♪」

よっしゃ!バチを握る腕に力が入る。血管が浮き出る。エネルギーが放散される。視界が霞む。頭痛が酷くなる。足元がふらつく。倒れそうになる。

幸か不幸か、その日のプレイはまさにいぶし銀とも言えるほどのバチ捌きで、ノルマをクリアしまくり、次の曲次の曲とプレイすることができ、断食二日目の体力も底をついた状態にも関わらず、計4曲も演奏し切ったのである。

知ってますか皆様。断食二日目の状態で太鼓の達人をプレイすると、ワンショットワンショットごとに、バチと太鼓がぶつかる振動が脳天を貫き、失神するほどの激痛が走ることを。

そんなことはさておき、太鼓の達人で高得点を出せたことに気分が高揚した僕は、そのまま電車で真っ直ぐに事務所に帰ればいいものの、「あんなお通夜みたいに静まり返った事務所に、この高揚した気分のまま帰れるかいな!」ということになり、ロールプレイングゲームで言うところのHPが、残り2%程度になっている状態で、

「思いっきり遠回りして歩いて帰ろうや!」

と自分の中のキッズ魂が、そのセリフを吐かせたのである。

遠回りすること50分ほどかけて、徒歩で事務所まで帰ってきた。
ただ断食をするだけではなく、さまざまなスリルとアドベンチャーを加味するところが自分らしくて憎めない。
やりきったった。やりきったった。二日間、断食をやりきったった。
二十四時間テレビで二十四時間マラソンを走るタレントが、最後の武道館でゴールテープを切ったときの気分は、きっとこんな感じだろう。きっとそうだろう。なんだろうこの充実感は。

そんな感じで、僕の断食生活は終了した。

断食明けの数日は、栄養の吸収力が尋常じゃなくなるので、リバウンドを避けるべく、おかゆや味付けの薄い味噌汁程度の食事を継続せよ。という指示が出ていたものの、食べるな!言われれば、食べないよ!と言えるのだけれど、食べてもいいよ!と言われているのに、好きなものを食べることを我慢せねばならないのは解せないと憤り、軽食に留めておくなんざ、男の恥じ、武士ならば切腹もんじゃ!あほんだら!と、行き場のない怒りを胸に溜め込み過ぎ、思い悩み、絶望し、断食明け数時間を持ってして、鬱状態となってしまった。

今ではその鬱状態を蹴散らすために、好きなものを暴飲し、好きなものを暴食している。
気づけば、断食中、理想的な体重まで落ちて、ウエストもほっそりとしていたはずなのに、断食開始前よりも、「若い頃より脂肪がつきやすくなってきた」な身体になってしまっている。

健康的に生きるために、死ぬ思いをするのは嫌だ。
安い酒をたらふく飲んで、安い食をたらふく食べて、笑って泣いて、豪快に死んでやる。

僕がもし断食を再びやるとしたならば、どうしても太鼓の達人でハイスコアを出さねばならないという使命を授かった時なのではないだろうか。

デタラメだもの。

201140608
著者

常盤英孝(ときわひでたか)

《3分後にはもう、別世界。》 3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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