デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

過剰サービスが惨事を招くこともあるってことを、もっと重く受け止めるべきだ。『デタラメだもの』

過剰サービスというやつは、何とも苦手だ。
サービスというものは、適度に気がきくという程度で充分なはずである。にも関わらず、世の中、過剰サービスが横行していて解せない。

最近、特に思う過剰サービスが、居酒屋での灰皿交換。
あの、灰皿交換のタイミングの悪さったら、天下一品である。

僕にとってのお酒を飲むという行為は、大いに語らうということと同義であり、それ故に僕は、何軒もお店をハシゴしたりだとか、ホステスさんがいるようなお店に行くだとか、そういうことはせず、場末の居酒屋などに、どっしりと腰を据え、やれ夢だとか、やれパンクロックだとか、やれ笑いとは何ぞやとか、とにもかくにも、語って笑って、泣いたり叫んだり、得てして、年甲斐もなく、そういうことをやるのが好きだ。
語るにせよ、笑わせるにせよ、ある種、熱を帯びてくると、何かしらが自分に憑依し、饒舌になったり、愉快になったりしているわけで、それはある種、酔狂ながら舞台に立ち、わっしょいわっしょいと演じているわけだ。

そこへ来て、その酔狂の芝居に水を差すのが、灰皿交換なんだわ。

「おうおう、仕事っちゅうもんはなぁ、お客さんの期待に応えてなんぼやぞ!」
「なるほど」
「ただなぁ、お客さんの期待に応えるよりももっと大切なことがあるんやぁぁぁ!」
「え!?いったい、それは何ですか、先輩!」
「それはなぁ…じ」
ここで突如現れる店員。
「灰皿交換しまーす」
店員の灰皿交換の所作を、ただただ見つめる男ども。
「……。」
「……。」
「……。」
「あ、ありがとうございました」
灰皿交換サービスに対して、礼を述べる男ども。
「で、先輩。さっきの話、どこまで話してはりましたっけ?ってか、何の話してはりましたっけ?」
灰皿交換に水を差され、話の状況はおろか、何の話をしていたのかさえ脳内から吹き飛んでいる後輩。
「そやなぁ。さっきの話はなぁ。仕事っていうもんは……。っていうか、もうええわ!」
熱演を中断させられ、先ほどと同じような熱さ、同じようなテンション、同じような熱量で話もできず、だったら、その熱量を必要とする語らいなんざ、こんなにも冷え切った熱量でやっても意味ないわ!と投げやりになり、キレ倒す俺。

誰を責めるべきか。灰皿交換サービスじゃろ。あの、空気も読めずに割り込んでくる、灰皿交換サービスじゃろうがい。灰皿は火を消すためのものであって、心の炎まで消し去って行くっちゅうのは、どういうこっちゃい。

何も熱い話をしてる時だけやない。あいつらは、笑いのネタを話してる時にも、いけしゃあしゃあと割り込んできよる。
計算されつくしたネタを饒舌に喋りながら、まずはフリや、ネタっちゅうもんはフリが命や、フリのリアルさが、そのネタの後半で活きてきよるんや。話のつまらん奴っちゅうのは、このネタフリが下手クソで、早よう早よう話の核心を突きたがるよって、話が尻つぼみになりよるんじゃ。俺のフリは天下一品やど、見とけ見とけ、よう聞いとけ、そのフリからどないな話の展開になるか、お前ら楽しみでしゃーないやろ、もうちょっと待っとれよ。

などと、我、笑いの覇者なり、といったようなバカげた様子で、恥ずかしげもなく話を進めている最中、ようやく話も終盤、さぁ、ボルテージが上がって参りました、ラージヒルで言うたら、既に滑降を開始、グングンとスピードが乗る乗る、さぁ、やって来ましたで皆さん、ついについに、お待ちかねのオ……!
「灰皿交換しまーす」
でたっ!またしても、このタイミングで来るか。どういう神経しとるんや。あとオチを残すのみやったんやぞ、ワシのネタは。このオチまでに、どれだけ焦らして焦らして、丁寧にネタフリを話しとったと思うとるんや。こっちのそんな苦労も露知らず、よう能天気に灰皿交換なんかしに来やがったのう。

そして、同じパターンになる。
「先輩、それで、その話って、最終的に、オチどないなんですか?」
「え?オチ?」
灰皿交換で中断された話の、オチだけを話させられるパターン。
「オチはなぁ……。結局、携帯と間違えて、テレビのリモコンで電話かけよう思うとったんじゃーー!」
場は白ける。
「ははは……。そうやったんですね……。面白いやないっすか……。ははは……」

そりゃそうなるわな。灰皿交換サービスまでの熱量は、すっかり冷めてしもとるもんなぁ。それで笑えるほど、笑いは甘くないわな。
吉本新喜劇で、島木譲二が、「しまった、しまった……」言うたタイミングで、「灰皿交換しまーす」などと割り込んで来ようもんなら、さすがに、ネタの中断後に、「島倉千代子」などと叫んでみたところで、客席はクスリともしないだろう。

ようよう考えてみると、居酒屋や飲み屋というものは、熱く語りたい、アホになって笑いたい、惚れた異性を落としたいなど、それなりに本気の連中が、大いなる熱量を持ち合わせて集っている場といっても過言ではない。
となると、いずれの客席にも、様々なストーリーがあり、ひとりひとり、その場に賭ける思いや勝負、戦いがあるはずである。
それを思うと、本来、その場に提供する灰皿交換サービスは、ある種の命懸け、戦場で鉄砲玉が飛び交う間を縫うが如く、死に物狂いでサービスを提供する必要があるんじゃないだろうか。

例えば、熱い話がひと段落した様子を見せたタイミング、オチがイマイチで語り手がスベッたタイミング、異性への下心が見透かされ冷え切ってしまったタイミング、そういったタイミングを、プロの視線、プロの視点から察知し、「灰皿交換しまーす!ついでに、冷え切った空気も交換しまーす!」くらいの粋なサービス精神で持って、割り込んでくるべきじゃないのか。

それほどのサービス精神がないのなら、あの例の灰皿交換サービスというやつは、過剰なサービス、不毛なサービスと思えて仕方がない。そもそも、交換して欲しいときは、声をかけるから。

そうやって過剰サービスを思い浮かべてみると、世の中にあるわあるわ。
服屋にて、のんびりと服を見ている時に、横から話しかけてくる店員の、「この服ねぇ、今人気で、買って行く人多いんですよー!」といったアドバイス。
こちとら、誰も買ってないような特異な服を探しとるんじゃい。誰でも買って帰るような、分かりやすい服なんぞ、要らんねん。そのアドバイス聞いて、買うのやめるわ。
他にも店員、「これ、いいっすよねー!僕も気にいって、一着持ってるんですよ!」といった情報。
お前が持ってるんなら、お前とカブるの嫌やから、買うのやめるわ。
美容院でもそう。髪の毛を染めたりパーマネントを当てたりする際、待ち時間をぼんやりと空想でもしながら過ごそうとウキウキしているところに、「良かったら読んでくださいねー!」などと、ファッション雑誌を4~5冊も用意されるサービス。
わしゃ視力悪過ぎて、裸眼じゃ、本など読めんし、MEN'S NON-NOなど手渡されても、この田舎モン丸出しのワシの服装を見てみれば、どう考えてもお門違いだと分かるだろうに。嫌味かい。

ほんまに世の中には過剰サービスが多すぎて困るわ、などとブツブツと文句を言いながら、得意先様との商談中、ちょっとした冗談で、いつもいつもお世話になっていますので、今回は無料で2~3点くらいならデザインいたしますよー!なんてケラケラとほざいていたら、お客様ご満悦のご様子で、その冗談を真剣に受け止めていただき、まさかまさか、グラフィックを2~3点ほど無料でデザインをせねばならんようになってしまった。

どうやら、ビジネスの世界では、サービスは、過剰であればあるほど、望まれるらしい。

『デタラメだもの』

201141116

合理的に考えると、出したものをいちいち片付けるという行為は、ナンセンスに思えてこないだろうか。『デタラメだもの』

出したものをいちいち片付けるというのが、なかなか解せなくて、反抗的になって、幼少の頃などは、部屋など、身の回りがグチャグチャになっていたものだ。

そういえば、小学生の頃から感じていた、そういう違和感。
明日も使う教科書を、なぜに今日、家に持ち帰らねばならぬのだ。すぐまた使うであろう鉛筆や消しゴムを、なぜにいちいち筆箱になおさねばならぬのだ。すぐにまた読むであろう読みかけの本を、なぜに本棚にいちいち仕舞わねばならぬのだ。解せない解せない、非効率過ぎて、解せない。

そう感じていた僕は、徹底的に、収納を指導してくる大人たちと抗い、権力やら腕力やらで押さえつけられ、それでも抵抗をやめなかった僕は、通知表と呼ばれる、人間を評価する下らない紙面の備考欄とやらに、アレやらコレやら文句をツラツラと書かれて、お前たち大人は、なんじゃい、聖人かい?完璧な人間なんかい?だとしたら、ロボットかいお前らは?ひとつもミスを犯さないような天空人のような存在なのかい?崇拝すれば気が済むのか?と毒づき、やたらめったら、路上に唾などを吐き散らしていたけれど、成人して果てしなく歳を取った今でも、変わらず、収納というものは解せない。

「出したものは片付けなさい!」
「うるさいわい!すぐにまた使うんじゃい!出したものをいちいち収納しては、またいちいち取り出して使って、ちょいと使い終わったと思った刹那、またしても収納するような無駄な時間を浪費するほど、人間の人生は短くないんじゃい!」

となるわけである。

この考えに異論のある人は、おそらく僕よりも、余命が二倍くらい長い人なんじゃないだろうか。
僕も、余命が今の二倍近くあるとするならば、出したものを収納することも粋なこととして取り組むかも知れない。
しかし余命が二倍ない今の現状、僕には収納している余裕はない。

そんな風な僕には特異な性質があり、これが、前述を主張するに胸を張れる所以なのである。
それはつまり、使わないものに関しては、徹底的に収納するという性分を持ち合わせているというところ。
なので、僕の身の回りは、散らかっているどころか、閑散と見えるほどに整頓されている。
要するに、超合理的なのである。
すぐ使うもの、よく使うものに関しては、徹底的に片付けず、これは使わないだろうと踏んでいるものに関しては、徹底的に片付ける。

この性分の自分で面白いと思うところに「これはよく使うよなぁ」と決め込んだものが多いシーズンには、想像に易いが、身の回りが異常なくらいに散らかることになる。合理に囲まれることになるのである。
その状態を見て人は、「ほんまにお前、それらの全部を使う予定あるんかい!」となるのであるが、当の本人にしてみれば、「使うから出しとるんじゃい!」となるために、他人との間に、意見の相違が生まれ衝突、となってしまうわけである。

そしてまた自分の中で特異だと感じる性分のひとつに、つい先ほどまで、「これ、近々使う予定あるよねー!」と感じ、身の回りに出しっぱなしになっていたものたちが、一瞬にして、「ん?やっぱりこれもあれもそれもどれもこれも使わんのちゃうやろか?」と極端に感じ、収納するどころか、全てを捨ててしまうことがある。

往々にしてこういう予感は正しかったりするもので、パソコンのアプリケーションやファイルやフォルダなどを例にとってみると、頭に浮かぶのが、少しく以前、職業柄、パソコンをさまざまカスタマイズしたり、いろんなソフトウェアをインストールしたりなど、パソコンの内部をゴテゴテにして使用していた頃があった。

これほどまでに使い込んだパソコンは、買い換えることも難しく、生涯このパソコンを使わねば、容易くは内部の移動などもできず、困ったもんだと頭を抱えていたある日、予期せぬ事故で、パソコンが故障し、一切の復旧も認めぬ悲惨な状況に陥った。

死んだ……。

そう思った。これで俺は仕事ができぬ、趣味もできぬ、今まで培ってきたものの全てが消えうせてしまった、もうオワタ。
一時はそんな絶望に苛まれたものの、ふと、自分の特異な性分が顔を持ち上げ、

「待てよ?ほんまにアレもコレもソレもドレも、俺に必要なもんやったのか?ほんまは使わんもんやったんとちゃうんけ?ほんまは要らんもんやったんとちゃうんけ?」

そう思い、何のソフトもインストールすることなく、前のパソコンから、何ら移設することもなく、ほぼ購入したままの状態でパソコンを使い始めてみた。
するとどうだろう。
そのまま、一切パソコンをイジることなく、今日までそれを使い続けている。特に何も困らない。不便もないわ、問題もないわ、むしろ動作が軽くて快適で、ルンルンしながら、真っ昼間っからシャンソンなんか聴いたりして、紅茶を飲んだり、鼻歌歌ったり、以前の生活よりも優雅に生きることができているではないか。

そんな経験に味を占めた僕は、これら本棚にクソ詰まっている書籍たちの大半も不要なのではないだろうか?
そう思い、読まなくなったビジネス本など、実用的な書籍の全てを処分することに決めた。
ビジネスなんか、我に関係なし、我に関係のあるものは、ファンタジーのみ、ファンタジー系の書籍さえ家にあれば、我はどこまでも生きていける。そう思い、大量のビジネス本を紐で縛り、集合的な意味合いのあるゴミ捨て場に持ち込んだ。

部屋に戻り、スリムになった本棚を眺めながら、はははぁ、身が軽くなった、俺の中からビジネスという四文字が消え去り、浮世離れの生活を歩めるぞ、ぎゃはははと楊枝片手に高笑いしていると、ふとあることに気づいた。

「あれらの書籍、古本屋と呼ばれるサービスに持ち込めば、それ相応の対価を貰えるのではないだろうか?結構、高価な書籍もあり、別荘のひとつでも購入できるかもしらん!」

天才的な閃きに、猛烈な勢いで部屋を飛び出し、集合的な意味合いのあるゴミ捨て場に駆けつけた。
その間、ものの五分程度。
世間とは、猛スピードで流れているもので、閃き、駆けつけたその五分の間に、ゴテゴテと闇鍋の如く散らかっていたゴミ捨て場から、先ほど我が捨てた高価な書籍類のみを丁寧に運び出し、持ち去っていた猛者がいたのである。
なんとまぁ、損をした。自分の持ち物を、計らずも他人に分け与えてしまい、それだけならまだしも、そいつはきっと今頃、僕が分け与えたその財産で、別荘のひとつでも買っていることだろう。

その事実に、トボトボと肩を落としながら家に帰り、気分転換に読みかけのマンガでも読もうと本棚に目をやると、先ほど捨てた実用書群の中に混ざって、読みかけのマンガまで捨ててしまっていることに気づき、憤怒憤怒激怒激怒の末、煮えきらぬ気分のまま古本屋に足を運び、読みかけのマンガを購入。

必死の思いで自宅に戻り、マンガをペラペラとめくると、ひとつ前の巻を購入していることに気づき、「一巻の終わりだ……」と呟いたかどうかは、当時、部屋で買っていた金魚のみが知る事実である。

デタラメだもの。

201141102

麗しき常連という響きに誘われて、危険な蜜に群がる僕たち。『デタラメだもの』

常連客というものは、一見さんからすると、憧れの存在であり、羨望の眼の対象なわけである。
そして、自分がその店の常連になれたと感じる瞬間は、何よりも優越感があり、ふふふん、俺はここの常連だぜ、君たちとはひと味もふた味も違うぜなんて、鼻先にそよ風を吹かせたりもできる。

入店時、通常であれば、「いらっしゃいませ」と言われるところを「まいど!」と声をかけられる。
まいどやで、まいど。俺にはまいどって言うてくれるねんど、ほらみろ、今この店の中にいるお客様方々の中で、まいどって言われた人いてはる?仲間やね。ちなみに、いらっしゃいませって言われた人いてはる?はははぁ、君たちは、いらっしゃいませ組なわけやね、そうかそうか、まぁこの店、よろしゅうしたってえなぁ。

と、僕のように、恐ろしく性分の歪んだ常連客が登場するわけである。

先日も、そんな僕は、某立ち飲み屋にて、常連化した。
なかなかに美味しく、果てしなく安く、居心地もよく、仕事帰りに愛用させていただいている立ち飲み屋で、何度も通ううちに、オーダーも固定化されはじめ、先日、気分よく注文した際に、「いつものですね!」と声をかけていただき、有頂天。
いつものですねと言っていただけるということは、僕が注文するオーダーを記憶していただいており、もっと言えば、僕というような希薄な存在をも記憶していただいていることであり、それはつまりは、常連になっていると言ってしまっても良いんじゃあないでしょうか。

ヘラヘラと常連になれたことに浮き足立っているだけと思うなかれ。
常連という響きをこよなく愛しているからこそ、常連の怖さ、恐ろしさ、恐怖、ある種の不自由さをも、僕は身に染みて知っているつもりだ。

以前、仕事の昼休みに、部下と足しげく通っていた、チェーン店の喫茶店。
僕は旧来の面倒臭がりの性分から、毎回毎回同じ品を注文していた。(面倒臭がりの性分というか、その店で最安値のドリンクだという理由からだが)
すると、店員さん、いつしか「今日もいつものですね」と、注文を口にせずとも、オーダーを受け付けてくれるという、いわゆる常連へと格上げしてくれたわけ。
そしてさらには、店外のガラス越しに我々の姿を捉え、入店を予期した瞬間から、そのドリンクを準備し出すというほどに、特別待遇な存在になれたわけである。

当初はこの扱いに、部下共々、わははわはは、我々すっかり常連になったもんじゃ、これは天下統一の日も近いぞ近いぞ、バカヤロウ。と浮かれに浮かれていた。

が、日々飲んでいたドリンクが冷たい種別の飲み物であったため、冬も本番という季節になってくると、「この季節、ちょっと冷たい種別のドリンクは控えさせていただきたいのですがボス。いつものノリでいくと、確実に冷たい種別のドリンクが出されますよね、僕たち常連ですから。でも、僕はそろそろ冷たい種別のドリンクじゃあなくって、温かい種別のドリンクを飲みたいのですが、如何いたしましょうか、ボス」
などと、部下の野郎がふざけたことを言い出した。

一抹の不安が脳内を疾走する。
「いつものですね!」という掛け声は、常連が、いつもいつもお馴染みの品を飽きもせずオーダーするが故に、それを特別待遇のショートカットでもって「いつものですね!」になるわけで、その、いつもの感を逸脱するということは、常連条例に違反することになるのではないだろうか。
そして、ひと度、その掟を破り、常連の道を逸脱してしまうと、店員さんは、こいつらは、大抵はいつもの品をオーダーしやがるくせに、たまにフェイントで、違う品をオーダーする危険性もある。こちらが、いつもの感を出して接していると、不定期にそれを裏切る可能性のある要注意人物たちだ。いつもの感を出して接していると、恥をかかされる危険性がある。一杯食わされる危険性がある。こんな奴らは常連扱いすべきではない。常連扱いどころか、人畜無害なその他のお客様よりも、愚として扱うべきである。
そう思われるに決まっている。

案の定だった。
少し食い気味に「いつものですね!」とオーダーを受付ようとする店員さんを制し、「今日は温かい種別のドリンクをお願いします」と言ってのけた部下。その顔面を、畏怖と軽蔑の念で呆然と見つめる店員さん。
カウンターを挟みながら、とてつもなく気まずい空気が流れ、それはやがて濁り、うねり、いてもたってもいられないような状況に陥ってしまった。

もう想像していただけるだろう。
その日を境に、「いつものですね!」は消滅し、「ご注文をお伺いいたします」という、一見さんと同じ掛け声をいただくようになり、それだけならまだしも、今まで常連であった者たちが、格下げされたという妙な関係性から、気まずさは継続し、そういった居心地を嫌う僕は、以降、その店に足を運べなくなってしまった。

そんな風にして、常連というものは、馴染みの店をひとつ失ってしまうかもしれないという危険と隣り合わせな存在だと、常に意識していなければいけない。
本当にその店が好きならば、常連にならないよう、極力の気を配りながら、お店と接する必要があるのかもしれない。

常連でふと頭に浮かんだのだけれど、僕がまだ若かりし頃、高校生くらいの頃だったろうか、父親と一杯やる機会があり、父親、息子と飲むというたまの機会に、たいそう気分を良くし、ぬはははぬははと酒を煽り、しまいにはこう言ってのけたわけである。

「坊ちゃん。我輩が常連とされている飲み屋に連れてってやろうか」と。

連れてこられたのは、少し場末で、日本国籍ではない国の方々がカウンターの向こう側にいる風情のお店。
常連扱いされていることを息子に誇示したかったのか、カウンターの向こう側でニコニコする異国の女性たちと、やたらめったらデレデレする父親。
今も昔も、そういう風情のお店を好まない僕は、それをひどく冷めた目で見て過ごしていたのだが、その後、衝撃の事態を目の当たりにすることになる。

父親、お会計の段階になり、カウンターの向こう側からこちら側にやってきた店を仕切っているであろう年長の女性と、何やらモメ出したのである。

「僕は、常連だよね?」
「ごめんなさい」
「常連のはずだよね。それなのに、何、この会計」
「ごめんなさい。お会計間違った」
「常連に何してくれてるの?」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「もう常連の僕、二度と来ないよ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

何故か標準語で激高する父親と、片言の日本語で必死に謝罪する年長の女性。
その様子を見て若かりし僕は、大人というものは、とても醜い存在であると辟易し、自分はこういった類の店には近づかないような人間になろうと意を固め、モメている大人の間を縫って、そそくさお暇させていただいた記憶がある。

今思えば、その様子から学べる教訓があるということ。
そう、お店によっては、入った瞬間から常連化してくれる店もあり、常連客だと洗脳してくる店もあり、その常連から容赦なくぼったくりを計ろうと企む店もあり、店によっては、それら常連を、カモと呼んでいる店もあるということ。

常連、怖ろしや。
されど憧れる、常連という響き。

デタラメだもの。

201141026

牛丼、並、つゆだく。先人の雄姿が切り開いたその道に、僕らはただ従うのみである。『デタラメだもの』

つゆだく。

皆さんご存知の方も多いとは思うけれども、このつゆだくというシステム。システムというか注文方式。
いわゆる牛丼を食すことのできるお店では、一般的に注文の際に、

「牛丼、並」

などと、食べたいメニューと、サイズを伝え、それでオーダーは終了。あとは、希望の品が運ばれてくるのを待つだけといった塩梅であるが、これが何やら、

「牛丼、並、つゆだく」

と店員様に申し付ければ、なんということでしょう、牛丼の汁が多めの状態で、牛丼の並が運ばれてくるという、何ともお得な注文方式があるということを知って早二十余年。

この、つゆだくシステムなる注文方式には、とてもお得感があってたまらんわけである。
なんと言っても、普通に注文していたならば、牛丼の並盛だけが運ばれてきたところ、この注文方式を申請して注文すれば、多めの汁がサービスとして付加されているわけだもの。なんとお得。

そこでふと疑問に思うわけである。
一番最初に、これを注文した人は、誰なんだ?ということ。

だって、よく考えてみれば、当店のメニューには、「つゆだくシステム有り舛」などと、ご丁寧な解説文は書かれていない。メニューのどこを見てみても、書かれていない。にも関わらず、前人未到のこの注文方式を試みた猛者が、この世にはいるということだ。
そうして、その猛者の雄姿に続かんとばかりに、続々とつゆだくを注文する後陣が現れ、そして今や、誰しもが知るほどに、その注文方式は有名になったわけである。

となると、この猛者は、とてつもない功績を後世に残したということになる。

そしてもうひとつ疑問に思うことがある。
それは、他の飲食店やらサービス店などで、どこまでだったら、この、つゆだく注文方式を、ズケズケと申し付けてもいいものか?ということ。

牛丼には、汁というものが付き物。なので、つゆだくが来れば、お得感がある。では、ラーメン屋の場合で行くと、肝心要の麺、ほぼメインと言っても過言ではないチャーシュー、汁はもともと、器にたっぷり入っているので増量する必要がないとすれば、それらを除くもの、すなわち、葱、もやしなどの、その他の具材。これらを、つゆだくシステムを申し付けることによって、増量することなどは、果たして可能なのだろうか。

可能なのである。

ちょくちょく顔を出すラーメン屋の場合においては、葱多めや、野菜多めといった具合に、その他の具材に対して、多めという指示を予め出すことによって、運ばれてきた器の中には、その指示通り、その他の具材がてんこ盛りになって運ばれてくるといったハレンチな現象が。
ここにも、つゆだくシステムが。

そしてメニューを見てみると、またしても、そのラーメン店のメニューには、「葱多めでき舛」や「野菜多めでき舛」などといった良心的な記載はないのである。

じゃあ、なぜそのラーメン店において、僕がつゆだくシステムを申し付けることができたのかというと、単純である、そう、先人を切ってそれらを申し付けていた猛者がいたからである。
ただの真似事だ。ちゃっちい人間だ。真似事しかできないでいやがる。しかしだ、葱多めは魅力的、野菜多めは魅力的、僕だってその他の具材が多いほうがいい、多いほうがいい。多いほうがいいに決まっている。
そうやって悶々した問答の末、無事、つゆだくシステムを申し付けることができた。

これまたラーメン店において、一番最初に、「葱多め」や「野菜多め」なる、つゆだくシステムを試みた猛者がいるわけで、その猛者の心中たるやいかに。どのようにして、一見すると、たいそう厚かましいような、そんな暴挙に出ることができたのか。

「店員さん、ひとつお願いがあって……」
「なんすか?」
「あの……」
「なんすか?」
「私の注文の件でござんすが、どうにか、葱を多めにしてもらうわけにはいかないだろうか?」
「お客さぁーん、バカ言ってんじゃないよ。そんなサービスしてたら、ウチの店、潰れちゃうに決まってんじゃなーい。お行儀の悪いこと言わんでくださいや」

などと、決死の覚悟も、軽くバカにされてあしらわれてしまう可能性だってあるはずなのに。
プライドも誇りも地位も名誉も、その人が築き上げてきた全てが崩壊してしまう危険性だってあるはずなのに、それなのに猛者は、いや、先駆者は、ありったけの勇気を振り絞って、葱多めを申請したわけである。
それを思うと、日本人というのは、やはり侍の魂を持った人種であると、感涙だ、感涙。

ただ、そうなってくると、先人というものは、全てが全て、成功の道を辿るとは限らない。
多くの猛者たちが挑み、生き延びる者もいれば、志半ばにして倒れる者もいる。そうして、生き延びた者の轍こそが、道となり、道となるわけだ。
となると、中には、

「牛丼、並、牛多めで」
「は?」
「あ、つゆだくシステムを申し付けさせていただきますので、僕、牛丼、並、牛多めで」
「大盛りですね?」
「いや、牛丼、並、牛多めで」
「警察呼びますよ」
「すみません。牛丼、並で……」

と、果敢にも、牛を多めにしてくれと懇願し、命を奪われかけた先人もいただろう、可哀想に。

そうなってくると、何が可で、何が否なのか、さっぱりわからなくなってくる。
キムチが食べ放題のラーメン店もあれば、キムチは買わねば食べられないラーメン店もある。
葱入れ放題のラーメン店もあれば、葱はトッピングだからと、お金を払わねばならないラーメン店もある。
空気はタダで吸えるのに、自転車に吸わせる空気には、数十円が必要で、試食として出されているスーパーの食べ物は、ひとつだけ食べれば見込み客扱いなのに、二十個も三十個も食べれば、警察を呼ばれそうになる。

僕は元来の内気な性格も手伝って、先人が注文しているのを盗み聞きしたお得サービスしか、よう注文などできないし、試みた結果、それを却下などされようもんなら、あまりの恥ずかしさに、身ぐるみを自ら剥がしてその場から逃走でもし兼ねない。
そんな風にして、知らぬところで、お得を享受し損ねて生きているのかも知れない。

そう言えば以前、八山なる僕の人生の後輩と、良いお酒を楽しんだ後、カラオケでも行ってワイワイやろうやということになり、駅近くの、某格安カラオケチェーン店に入ったものの、繁華街の店であったがため、長蛇の列となっており、到底そんなには待てないやということで、退店。

でも、どうしても、大声で歌でも歌ってさいならしたいよなぁと相成って、その某格安カラオケチェーン店の向かい側にある、高価で有名なカラオケチェーン店に入店。

「いらっしゃいませ」と受付で声をかける店員に対して八山は、
「向かいの某格安カラオケチェーンなんかには一切なびかずに、こっちのカラオケに来ましたねん!そやから、ルーム料金安くしてやぁー!」
と、つゆだくシステムを逸脱したような、暴挙、暴君、愚行に出たわけである。
その様子を見て、あほなこと言いないや!と横からつっこもうとした瞬間、
「はい!では、ルーム料金、20%オフとさせていただきます!」
と店員は、その八山の暴挙に戸惑うこともなく、あっさりと、室料の値引きを快諾したのである。

これはいったい、何システムが働いたことによるサービスだったのだろうか。
世の中、何が可で、何が否か、余計にさっぱりわからなくなった。

デタラメだもの。

201141019

僕も俺も俺様も、代名詞の概念を凌駕するおばあちゃんの深み。『デタラメだもの』

僕とか俺とか、ワシとかオイラとか、オラとかワイとか、男にとって、自分のことを指す代名詞が複数ある。
オイラと聞くと、ビートたけしを思い起こさせたり、オラと聞けば、ドラゴンボールの孫悟空を想起させたりと、それら代名詞には、少なからず役割がある。

女性にとっても、ワタシとかアタシとか、ウチとか複数の代名詞があり、人によれば、自分の名前が、ミカなら、「ミカ的にわぁ~」などと、代名詞に頼らずに生きている猛者もいるだろう。

女性は自分のことをどの代名詞で呼ぶのか、どのようにして決定しているのかは定かではないけれど、男性にとって、この代名詞というやつ、プライドやら自尊心やら地位やら名誉やら、他人と自分とのバランスやら敬意や謙譲、尊敬やら敬い、はたまた、威圧やら暴圧やら、複雑な要因が絡まり合っているので、どれを選択するか、なかなかに、やっかいなもんなのである。

僕は、僕を、僕と呼んでいる。
僕が僕を僕と呼ぶ、すなわち、僕という代名詞を使うことには理由がある。
普段からのほほんと、生きているのか生かされているのか区別もつかないような生き方をしている自分のことなので、偉そうに理由があるなんていってみても、たいした理由ではないのだけれど、ちょっとした拘り、違う、そんなたいしたものではない、ちょっとした意味合い、違うなぁ、そうだ、理屈だ、理屈がある。

自分は、自分自身を俺と呼ぶに相応しい人間になれたためしがないので、恐れ多くて、俺などと僕は僕のことを呼べない。

仮に想像して欲しい。
普段、自分のことを俺と呼んでいる男が、時に、恐ろしく強面のメンズや、どう考えても格闘技でそれなりの名誉を手にしてはりますよねオタク、といった、イカつい人間に、

「おい!ワレこらぁ、誰に向かってメンチ切っとるんじゃ!」
と絡まれ、
「俺、メ、メンチ切ってません……」
として、自分のことを俺と普段通り呼んでみたとしよう。
「おのれ、誰に向かって俺とかホザいとるんじゃ、ボケェ!殺すぞ!アホンダラ!」
と、首筋にナイフのひとつでも突き立てられようもんなら、
「ひ、ひぃぃぃ、すみません、僕です、僕ぅぅぅぅぅ」
と、俺という代名詞から、僕というそれに、切り替えるだろう。

そうでないにしても、自分とは住む世界の違うような偉大な人と対峙したとしよう。
その方の世界では、信じられないくらいの功績を上げておられ、誰からも尊敬されるような偉大な人物。
そのお方から、

「君の趣味は……(偉人特有の間)……なんだね?」
などと、深海魚も居心地の良さを感じるほどの深い声色で尋ねられたとしよう。
すると、普段、自分のことを俺と呼んでいる男でも、たまらず、
「ぼ、ぼ、僕の趣味ですか……M性感です」
などと、思わず、僕という呼び方をし、挙句に、性癖まで吐露してしまうほどに情けない状態に陥ってしまうだろう。

すると何かい、自分のことを俺と呼んでいる奴は、話す相手、対峙する相手、時と場合、状況やら環境やら、そういったものを考慮し、俺を俺と呼んでいい場面か、俺を僕と呼ぶ場面かを、瞬時に判断し、そして、俺のGOサインが出たときのみ、自分のことを俺と呼んでいることになるじゃろうが。
そんなアホなこと、あるかい。
俺は空気を呼んで、俺のことを僕と呼びます。みたいなノリかい。あほんだらあ。

そういうのがみっともなくて、僕は僕のことを俺ではなく僕と呼ぶことに決めた。
女子には俺と呼べて、怖いお兄さんには僕と呼ぶ。その精神が、非日本男児の気配があり、違和感があり、ムズムズし、僕と呼ぶことに決めた。

そうやって、切り替えのきく「俺」ならば、もうすでに、「僕」並みの域に堕ちてると思うけどね。

他にも理屈があって、年齢や経験などを重ねて、とても大きな男になられた方が、自分のことを、僕などと呼んでいる光景を見ると、それほどに人として大きくなられたにも関わらず、自分のことを僕と呼ぶその器の大きさと謙虚さに、憧れを超え、羨望の眼差し、ただただ感服してしまい、いずれは自分もそういった人になりたいと思うわけで、やがて自分もそんな風な人間になる意志があるのならば、あえて、俺の時代など経なくても、そもそも、ずっと僕でいいんじゃないだろうかとも思っている次第で。

ところが、僕には、ごく稀に、俺が出る瞬間がある。
普段生きている時間のなかで、そりゃ人間だもの、激昂する場面や憤怒する場面、咆哮する場面や怒髪天を衝いてしまう場面などもあるが、そういった場面で、感情のまにまに、自分のことを俺と呼んでしまう瞬間がある。
その瞬間、きっと僕、いや、俺には、過去に見た、激昂する男のイメージやら、憤怒するヤンキーのイメージやらが、潜在意識に刷り込まれていて、それらが自分を誘引し、

「ほれ、お前さん、こんな風な口調で、こんな風なことを怒鳴り散らしたら、カッコエエぞい」

と、そのイメージが憑依し、ついつい口走ってしまっているはず。
しかしその刹那、心中では、

「わぁ!僕は今、僕のことを俺などと呼んでしまった。怒りの感情と妙なイメージの憑依によって、俺などと呼ぶに相応しくない自分みたいな人間が、今、僕のことを俺と呼んでしまったじゃあないの、なんてこと、恥ずかしい恥ずかしい、羞恥の極み、死にたい死にたい、穴があったら、入れずに入りたいじゃあないの」

と、赤面してしまいそうになり、一応、形式上、怒りの問答は続けるものの、心中は既にクールに冷め、恥ずかしさのあまり、四方八方にいる人々にハグして周りたいくらいになっている。怒りは沈下、消沈、平和な心を取り戻しているのである。

そう考えると、僕の中の俺は、僕が平和的な心を取り乱したときの、暴威の抑止力になっているのやもしらん。
なかなか素晴らしい装置である、俺。

要するに、自分は常に、実るほど頭を垂れる稲穂のように生きていきたいわけで、その生き様を貫く最中に、俺という代名詞は不要なわけである。そうだ、それを言いたかったんだ。それが、僕の理屈だったんだなあ。

そんなどうでもいいような理屈を思い浮かべながら、日中のお日様を浴びつつ、おばあちゃんがひとり店番をする駄菓子屋に入る。
僕たちすっかり中年になってしまった男どもが、キャッキャと駄菓子などを気分よく選んだ後、僕はこれにします、俺はこれにしますなどと、口々におばあちゃんに駄菓子を手渡していると、僕はこれやね?俺のんはこれやね?などと、銭勘定をするおばあちゃんにあやされる。

そういった折、なんとも癒されて、人間の一生を垣間見るようであり、このおばあちゃんからしたら、僕たちなんて、いくつになってもまだまだ、自分のことを僕と呼ぶ子供であり、自分のことを俺と呼ぶ子供でしかないんだと思うと、まだまだ自分もしっかりやらねばと、優しさでもって厳しく背中を押しされてるような気がする。
僕も俺も、ワシもワイも、俺様も貴様も、どいつもこいつも、おばあちゃんにとったら、子供。男の子。なんという素晴らしい。涙が止まらん。

そんなほっこりした思いを巡らせつつ、3個入りで内1個が酸っぱいという、ちょっとしたギャンブル要素を含んだガムを購入し、おもむろに開封、1個目を口に投げ入れ、勢いよく噛むと、一発目から酸っぱいやつが当たり、なんだか今日はいい一日だなぁと、しみじみ空を見上げる俺様であった。

デタラメだもの。

201141012

おい、恩は仇で返ってくるぞ。歯の浮くような言葉にご用心。『デタラメだもの』

もし僕が、あなたに対して、何かしら、少し考えれば誰にでもできることや、いざやってみれば誰にだってできるようなことをやって差し上げたとしよう。そんな折、あなたは果たして、その御礼として、「●●さん、天才ですね!」とか「やっぱり●●さんは違いますね!」とか「●●さんに任せておけば、万事OKですね!」とか、言うのだろうか。
言わないよね、言わないよね、そんなこと、言わないよね。

俗にこれを歯の浮くような言葉というらしいが、世の中には、こういった類の言葉が氾濫していて、どこかの誰かさんが、そんな歯の浮くような言葉を言われているのを聞くことは数多あれど、いざ、自分がこれの被害者になってしまった瞬間には、あまりの辱めに、ヘドが出そうになって、いてもたってもいられなくなってしまい、ビルのガラスを突き破って、ワイヤーアクションのひとつでもカマして、美麗に華麗に流麗に優雅に地面に着地した後、世界の最果てまで全力疾走して、失踪してやりたくもなる。

どういう神経から、こういう言葉を、他人に言ってのけようとしはるのか、その精神がようわからん。
成人し、物事の分別がつくようになってからというもの、こういう言葉というのは、人を嘲笑する、人を侮蔑する、暗にコケ下ろすようなときに使用するという風に認識してきたつもりだが、それが賞賛、賛美、感謝の際に用いられることが多いということを知り、驚愕。

よくよく考えてみると、達成した行為と、賞賛する言葉の重みがつり合っていないがために、この違和感は生じるのだと思う。

仮に、ビジネスシーンでよく用いられる表計算ソフトExcel、これはマス目がゾロゾロと並んでいて、そこの中に、文字だの数字だのを打ち込み、人間の脳味噌では、計算にとてつもない時間がかかってしまうような処理でも、ものの数秒で解答してくれ、さまざまなグラフを作成したり、統計データを作成したりと、とても優秀なソフトなわけだけれども、そのソフトの使用中に誰かが困っているとしよう。
そして、その人が僕のような高卒の無学の人間に助けを求めてきたとしよう。

「すみません……」
「はい、無学の僕ですが、何でしょうか?」
「ここの数式とここの数式を掛け合わせて、人類が未だ発見していない新たな数式を発明した後に、不老不死の薬を調合できる数値データを算出してもらえませんでしょうか?」
「お安い御用でやんす」
ピピピのピッ。
「はい、できましたよ」
「●●さん、天才ですね!さすがです!感激します!感謝します!賞賛します!賛美します!今後生涯、●●さんには美辞麗句のみをお届けいたします!足を向けては寝ません!土曜と日曜の夕方には、●●さんの住む方角を向いて祈りを捧げます!恵方巻きも今後、●●さんの住む方角を向いてしか、かぶりつきません!」
「てへぺろ」

となるのなら、理解も理解、納得できる。
しかし、この社会、現実は違う。

「すみません……」
「はい、高卒の僕ですが、何でしょうか?」
「なんか、A列のセル(マス目)が表示されないんですけど?見てもらってもいいですか?」
「は、はぁ……」
ピッ。(およそ0.5秒)
「あの……。表示されましたけど……」
「すごい!すごーーーい!すんごーーーーーい!天才!天才!やっぱり何でもかんでも●●さんに任せておけば、万事OKですね!やっぱり天才は違いますね!」
「てへぺろ」

なんか違うやろう。歯が浮きすぎるやろう。歯が浮きすぎて、浮いた隙間に歯垢がたまって、糸状の歯垢取りで、歯垢を除去するのに苦労するわのう。

これはいったい、バカにされているのだろうか。ちょっと考えれば、誰でもできることだろう。やるのが面倒で、考えるのが面倒で、これしきの人生の壁を乗り越えるのが面倒で、それでたまたま目についた、いかにも無学そうな人間をとっ捕まえて、こんなもの、自分が考え乗り越える壁ではない、あいつにやらせておけば、手も汚さずに、汗も流さずに済む、やらせておけやらせておけ。

そういった歯垢、いや、思考の果てに、依頼を投げかけているのだろうか?
そして、こういった無学の連中は、適当に賞賛の言葉をぶつけておけば、ウヒウヒと調子に乗りやがって、喜び、慶び、悦び、歓び、満足しやがる上に、またいつでも、賞賛の言葉欲しさに、クソ面倒くせぇ依頼でも、ホイホイと喜んで請け負いやがるだろう、楽勝よ楽勝よ、無学の奴、楽勝よ、などと思っているに決まっている。

そんな思惑が見え隠れ、というか、一切隠れずに、丸見えなもんだから、たいがいにせい、と思ってしまう。
そして何より、そういった、歯の浮くような言葉をこちらが頂戴しているシーンを、誰か他人、第三者に見られている場合など、顔からマグマが吹き出てしまいそうなほど、恥ずかしくなる。

「あいつ、上っ面の言葉で賞賛されてやがるぜ」
「喜んでんじゃね?あいつ、喜んでんじゃね?」
「真に受けて、有頂天になってやがんじゃね?」
「俺、スゲェとか思ってんじゃねぇの?」
「バカにされてるのにも気づかずに、あいつ、ヘラヘラしてやがるぜ!」

といった心の中での嘲笑が、無数に聞こえてきて、即座、ビルのガラスを突き破って、前述通り、地球の最果てへの片道キップを手に、失踪したくなる。消えたい、消えたい、この場から消えたい。

ということで、歯の浮くような言葉での賞賛というものは、こちらはせっかく何かをしてあげたのにも関わらず、恩を仇で返すといいましょうか、何かをサービスして後、提供側がお金を取られるというような、社会のルールに反する違法行為なのではないだろうかと感じるわけで、そんな虚言をプレゼントしてくれるぐらいなら、確実に物と交換のできる、いわゆる通貨というやつ、通貨、そう、小銭でもいいんで、銭ゲバと呼ばれようが守銭奴と呼ばれようがいっこうに構わんので、ありがたく通貨を頂ければ、こちらとしても、本日、財布の中に、21円しか入っていないがために、お昼を抜くか、部下にお金を借りて、界隈最安の食物を購入して腹を満たすという愚鈍な行為をやってのけなくて済みそうだと、胸のひとつも撫で下ろせるというものだが、世の中というもの、天才という称号は容易く貰えるのだが、10円やら50円というコインは、何が何でも僕の手の中、財布の中には入らないという厳しい仕組みになっている模様で、そうなると、コインはもらえない上に、歯の浮くような言葉をぶつけられるという何の得にもならない目に遭うくらいだったら、いっそ、誰からも声のかからない場所に住み、誰とも交流せず、誰とも交信せず、ただひとりで暮らしながら、積年の歯垢を糸状の歯垢取りで、細やかに除去するという作業を延々繰り返しているほうが、なんぼも幸せというものに近づくのじゃあないだろうかと思考し、試行錯誤したものの、やはりそうもいかずに、本日のお昼ご飯は、酢の味が粋に効いた駄菓子ひとつをコンビニの飲食スペースで食すという、ファンシーでバラエティに富んだ日々を送っていくわけである。

デタラメだもの。

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ひとたび、オーラを身につけてしまえば、世知辛いこの世を楽に闊歩できるようになるらしいが。『デタラメだもの』

オーラって、いったい何だ?オーラって、いったい何なんだ?

偉大な人たちを表現する際によく使われる「あの人のオーラ、ハンパない…」とか、「オーラが凄すぎて近寄れない…」とか。
あのオーラっていったい、どないやったら身につくんだ?俺にもオーラが欲しい欲しい、万人に近寄りがたいと思わせるほどのオーラが欲しいと望み続けて、早、三十何某年も経過してしまった。

先日、お仕事でお打ち合わせなどしている際に、某超大物と打ち合わせを続ける若手ディレクターさんと、オーラの話で小盛り上がり。

「その方のオーラ、あまりにも凄すぎて、会議中でも、参加者みんな震えてますから…」
「その方が威圧すると、参加者全員の思考が停止してしまって、中には会議中、言葉になっていない、嗚咽のような言葉しか発せなくなる人間もいましたよ…」

それはいったいどんなオーラなん?教えてよ、教えてよ。
ということで、その方のオーラについて話合った結果、ワンピースのルフィが帯びる、覇王色の覇気と同じようなものだ。という結論に至る。
なるほど、キッと睨むだけで、人がヤラれるわけね、広範囲にいる人たちまで、ヤラれるわけね、その方も、海賊王を目指してはるわけね。

じゃあ、そのオーラってやつは、どないやって身につけるんかしらん。俺も欲しい、俺も欲しい。

ふと思いつくのは、ヤンキーのオーラ。
若かりし頃、ケンカの強い奴や、悪いことばっかりやってのける不良たちは、小学生だろうが中学生だろうが、一定の覇気を帯びていたと思う。
その覇気があるからこそ、周りも近寄り難かったろうし、他校の連中をも畏怖させる威力があったんだと思う。

なら何かい?ケンカが強い奴だけがそのオーラという奴を身につけられるんかい?そらそうやわな、ルフィもめちゃくちゃケンカ強いもんなぁ。それで納得ということで、ええんかしら?

いや、違う。社会に出てオーラを帯びてる人たちの大半は、そないケンカ自体は強くないはず。ひょろひょろのおじいちゃんでも、オーラのえげつない人は大勢いる。
となると、単にケンカが強くても、そういった人たちの覇気には勝てないことになる。
危ない危ない、ケンカが強くなったらオーラを身につけられると早合点して、拙速に答えを出してしまうところだった。先ほど申し込んだ、エクササイズボクシングジムの入会願書、取り消さねば。

でしたらば、どうやればオーラが?俺も欲しい、俺も欲しいんや。

あっ、そういや、人のオーラっていうのは、その人の生き様が表れるなんて、キザなことを言ってのけていた輩がおったことを思い出す。
生き様?イキザマ?

これ、ようわからん。
オーラが身につくような、生き様なんて、あるの?それって、どんな生き様なん?

自ら茨の道を進んで行くような生き様?
もしそうなら、カップラーメンに湯を入れてから一分半で食べてみたり、チゲ鍋を素手で食べてみたり、カレーうどんを食べるときには、必ず白いシャツを身に着けてみるとか、そういうこと?そういうことで、みんなオーラが身についてるの?なんや、簡単やん、簡単やん。

そう思って、この夏、ざる饂飩食べるときも、素麺食べるときも、汁に浸けずに、そのまま麺をダイレクトに食べるというワイルドなことを試し続けてみたけれども、夏も終わりかけ、森山直太朗が歌い出すこの季節、一向にオーラが身についた気配がない。

オーラがないと、損をすることが多いと思う。
人とモメごとになった際にも、相手は萎縮することなく、グイグイと横柄な態度でこちらに強引な交渉を迫ってきたり、電車の座席で、隣の奴に、思いっきり両足をグイッと広げられて、肩身の狭い思いをせんければならんかったり、映画館では、両サイドのドリンクホルダーを占拠されてしまったり、焼肉を食しているときなどに、焦げ付いた網の交換を店員さんにお願いした後、その店員さんから舌打ちされたり、見積もりを値切られたり、仕入れ値を上乗せされたり、幼少期の頃のエピソードなら、家に友達が遊びに来る度に、部屋の中から、ファミコンソフトがなくなっていったりと、あれもこれも全て、オーラを身に纏っていないことが、全ての原因なのだ。

取りあえず、僕が考える最もワイルドなこと、片道分のお金だけを持って、海外へ飛び立ち、骨を埋める覚悟で、現地で夢を追いかけるという荒行、これをやらんければ、オーラは身につかないんじゃないだろうか。
そう思い、銀行の残高に目をやると、片道分のお金どころか、大阪府外へと脱出する資金もない。

オーラを身につける前に、小銭をもう少し、身につけておかねばならない。

三十何某にもなって、地元の中学生の悪ガキから絡まれるという不測の事態を味わえば、誰だってオーラについて、考えたくもなるし、オーラと向き合いたくもなるし、せめて、身につけた小銭だけは、そいつらに奪われまいと、両手をばたつかせたくもなる。

デタラメだもの。

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お金のかからない遊びといえば、自転車。けれども、なかなか前途多難である。『デタラメだもの』

お金のかからない遊びが好きで、そうなってくると、ひとりで自転車に乗ってウロウロして、あちらへ行ったりこちらへ行ったり。
風を切りながら、鼻歌を口ずさみながら、快走して、フフフン、自由を感じながら、世界を征服したような優越感に浸りながら、快適に遊ぶ。

そんな僕の貴重な遊びが今、存続の危機に晒されている。
というのも、生まれて最早、三十何某年というもの、そのうちに数年間は、あちらこちらと移住しておったものの、やはり大半は、地元で暮らしていることになる。

そして、物心ついたころから、この優雅な遊びを続けているため、東西南北、大通りから裏道まで、隅々まで走自転車で破したことになり、存続の危機とは何かというと、全てが知っている道になってしまったため、知らない道を走るワクワク感やらドキドキ感が薄れてしまい、遊びとは呼べない代物に成り果ててしまったということ。

なんたる危機。

どちらの方角に走り出しても、知ってる景色、走ったことのある景色、どこの裏道に潜入しても、知ってる景色、知ってる匂い、知ったノラ猫の顔、新鮮な風はどこへやら、これはただの移動になってしまっている、なんの感動もない、オー、シット。

「そんなグダグダ言うてんと、もっと頭使いなはれ、そのええ趣味をもっと楽しむ方法おまっせ」と、アドバイスをしたがる人もいるでしょう。
「もっと遠出しはったらよろしいやん」
と、そりゃ明快な答えですなぁ。

それがそうもいきませんねん。
あんまり遠くへ行き過ぎると、今度、帰ってくるのに莫大な時間を費やし過ぎて、遊びの域を超えてしまう、お尻も痛なる、腰も痛なる、弱音も出る、涙も出る、それが遊びと言えますかいな?おまはん。
それは遊びと違いまっしゃろ。

で、遠出するとなると、それ相応のロードバイクかなんか知らんけれど、調子こいたような自転車を購入せねばならんようになり、ヘルメット被ったり、グローブみたいなんはめたりと、ゼニが飛ぶゼニが飛ぶ、挙句に、マイ自転車を盗まれでもしたら、もう死ぬしかなくなりますでしょ。
元来、お金をかけない遊びの自転車が、金食い虫の趣味になってしまうのも、違う。

「あんた、ほんま理屈こきやなぁ。もっと頭使って、自転車の趣味を楽しみなはれや」と、さらにアドバイスをしたがる人もいるでしょう。
「折りたたみ自転車かついで、途中まで電車で行きはって、降りた駅から自転車で走り出したらよろしいやん」
おお、アイデアマンやなぁ、おたく。

しかしおまはん、そもそも折りたたみ自転車買えるくらいのゼニがあったら、こちとら、昼飯を300円に抑えたりしまへんねや。

もう、こうなったら、自分の中でのアイデアを駆使して、お金のかからない遊びである自転車を復刻したる。
アイデア、アイデア、アイデア。
閃いた。
あることを思いつき、さっそく自転車に跨って、飛び出す。
手近な場所を走りつつ、新しい息吹を感じながら、ワクワク感、ドキドキ感を体感する方法、それはつまり、目を閉じて走ることで、知らない世界を快走するに等しい体験ができるのでは!

早速目を閉じて、ペダルをこぐ。
前が見えないため、左右の感覚がわからない。
家を出てすぐの米屋の角で、車にひかれそうになり、車内からの暴言を二言、三言浴びながら、目を開けると、なんのことはない、すっかり見飽きた景色、想像通りの米屋の角。

暴言の言葉の汚さに、すっかり意気消沈し、やはり、ゼニを持たない人間は、知った景色を何万回も楽しむしかないのか……と、肩を落としながら、走り始めはしたものの、ただでは転ばぬこの性格、ともかく何かしら楽しみを見つけねばと、思いついたのが、町の中にあるスナックの看板に書かれてある、その店の名前に最も多く使われている、よし子とか、あけみとか、順子とか、女性の下の名前の数の統計を取ってやらんと。これ、以外に楽しいぞ。

さぁ、三十何某年、物心ついたころから走っている全ての道を、この楽しみのために、もう一度、網羅せねば。
なんだか、町の景色が、真新しく見えてきたぞ。
やった、新しい世界の始まりだ。

と、スナックの看板をキョロキョロと眺めながら自転車をこいでいると、猛スピードの車にひかれそうになり、車内から二言、三言、暴言を浴びせられる始末。
ワシも金にものを言わせて、車で走りながら、スナックを巡ったろうかしらん。

デタラメだもの。

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笑いとは、人類にとっての息子のような存在なので、決して無碍に扱ったらあきません。『デタラメだもの』

その昔、斉藤君なる人物がいた。

初めて社会に出て、初めて勤めた会社の先輩。
右も左もわからずにキョロキョロしている状態の僕に、妙に明るく、お笑い芸人を思わせるそぶりで、良くしてくれたお方だ。

いつも明るく、常にヘラヘラしていて、仕事上でトラブルなどあった際にでも、周りの空気を重くさせまいと、心の内はどんな心情だったかはわからないが、いい意味で、心を表に出さずに、場の雰囲気を和ませてくれる人物だった。

そんな人物なので、本音の読めない人物であり、真意の掴めない人間であり、だからこそ、そないなムードメーカーが勤まるわけであって、だからこそ、実のある会話や、真面目ぶった会話、鎮痛な会話などは、一切したことがなかった。

にも関わらず、ただひとつ、斉藤君が僕に、本音であろう台詞を漏らしたことがあった。
それが、

「そう言うと思ってた!」

と、自分に言ってのける輩が許せないという、えらい重苦しい本音だった。

つまりは、大勢で会話などをしていて、誰かがしょうもないことを言ったり、ボケをかました際に、斉藤君が、お笑い芸人よろしくツッコミを入れる。
普通であれば、それで爆笑につながるところを、人によっては、そのツッコミに対して、「そう言うと思ってた!」などと言ってのける輩がいる。

斉藤君は、それをとても嫌がっている風で、そらそうだろう、いわゆるそれは、ツッコミ殺しという奴で、だれかが苦心して考えたツッコミなどに、「そう言うと思ってた!」と、やけに上の立場からというか、君のこと読めてたよ風の、その例えも脳内に浮かんでましたよ風の、ここではそうツッこむのがセオリーだよね風の、教師的な立場というか、預言者的な立場というか、お笑い専門学校の講師的な立場のようなスタンスで、ツッコミを殺す輩だからだ。

世の中には、簡単そうに見えて、その実、全然簡単ではなく、やってみるとできなかったり、単純そうに見えて、取り組んでみると複雑だったり、一見するだけでは、その奥の深さがわからないことが、たくさんある。

ほら、アコースティックギターを持ったシンガーと、タンバリンを持ったシンガーの二人組デュオがデビューしたとしよう。
それを見て、俺にもできそう、私にもできそう、ワシにもできそう、ミーにもできそうと、彼らがやっていることを簡単そうだと解釈し、ある種の近道だと思い込み、路上に出てジャカジャカかき鳴らしてみたりもするが、彼らがやっていることには、才能やら努力やら運やら人脈やら顔やら声やら身長やらスタイルやらキャラクターやら、数多の要因が絡み合っていて、それが実を結んで、デビュー、果てには、ミリオンセールスといったことにつながっているわけである。

だから、簡単そうに見えるから、簡単というわけでもなく、増してや、簡単そうに見えて、それを簡単だ簡単だ!などと批評だけして、実際に自分は何の行動にも移さないという、腐った輩までいるのが事実。

話をツッコミに戻そう。

「そう言うと思ってた!」

実際には、言えてへんわけである。思ってただけなのだ。頭の中で思っていただけなのだ。
さらに言うと、ツッコミを実際に聞いて、なるほど、そういう例えもあるな、と、コンマ何秒の間に思い浮かべただけに過ぎず、それをさも、自分は太古の昔から思いついていたような錯覚をしているだけかも知れない。

結局、言えてない奴は負けなのである。

そして、大勢でいる時などは特に、ここ一番、大声を張り上げたりするのは、度胸がいるものである。
誰かの発話とカブッてしまい、恥をかくかも知れない。
ツッコミを噛んでしまって、末代まで続く生き恥をさらしてしまうかも知れない。
そして何より、スベるかも知れない。

それらの恐怖と戦いながら、勇気を振り絞り、かくかもしれない恥をものともせず、ツッコミという名の前線に突っ込んで行くわけである。

その勇敢な姿を見て尚、「そう言うと思ってた!」などと言ってのける人間の根性は、ババ色をしているに違いないし、腹の内は真っ黒に違いない。

さらにそういう人間という奴は、人が場の空気を盛り上げるために、面白いことを言ってあげようと、知恵とユーモアを振り絞って、エンターテインメント、すなわち道化を演じ、ボケやらエピソードなどを披露した際にも、

「おもんないやん!」
「なんかよう意味わからんけど……」
「話、長いわぁ!」
「オチ、どこなん?」
「めっちゃスベッてるやん!」

などと、腐った発言をしやがるもんである。

そない批評家みたいな態度取りやがるんやったら、場の空気が盛り下がってるなどした際に、自分から率先して和ましたり、笑かしたり、ほぐしたり、揉み解したり、融和、溶解、溶融、柔和、柔和、柔和、朗らかにやってみろや、と怒鳴ってやりたくなるわけだ。

これだけは言っておきたいのだが、大勢が集まる場や、複数人が集まる場で、それなりに会が面白かったり盛り上がったりすること、それは、自然にそうなってるわけでは、決してない。
誰かが、縁の下の力持ちとして、その役を買って出ているのである。
そして、自分がその役ではなく、縁の下の力持ちが誰かもわからず、なんの意識も持たぬまま、その会を楽しんだ人は、完全に、その縁の下の力持ちさんの努力の恩恵を授かっているわけだ。
そうやって、人は、知らず知らずのうちに、誰かの恩恵を授かっているわけだ。

なぜ、斉藤君のことを今さらながら思い出し、こんな戯言をほざいているかというと、昨今、人生の先輩方と会話する時間が多く、それに比例して、スベることが多くなった。

それを冷静に分析してみると、そういった人生の先輩方というのは、会話では自分より面白い奴がいるのが解せず、スナックに行けば自分より歌が上手い奴がいるのが解せず、だから、そういった芽は摘んでやろうと、こちらの品質がどうであれ、潰しにかかってくるという事実に辿り着いた。

笑いの何たるかを忘れ、芸術や文化の何たるかを忘れ、ファッションやら感覚やら、何もかもの何たるかを忘れ、今いる地位に胡坐をかき、周りの神輿に担ぎ上げられ、裸の王様であることも気づかずに、横柄に、横暴に、暴君の如く、散々人を泳がせた挙句、

「君、おもしろないな~」

などと、言ってのけやがるわけだ。

愛想笑いに包まれて、それにも気づかずに、ええ気分になっている中年連中に、ユーモアなんぞ、わかられてたまるかい!場末で安酒飲みながら、延々と、漫談やったる気概で生きとるんじゃい!

とは思っているものの、僕の会話や文章やら何やらが、その実、本当にくだらないとしたならば、その時は、そっと僕の肩を叩きながら、耳元で囁くように、「おもんないやん……」って、忠告してくれませんでしょうか?
「やかましわ!」と、大げさに返事をしますので、さらに小声で、誰にも聞こえぬようにして、「そう言うと思ってた……」と、とどめを刺していただけますと幸いです。

デタラメだもの。

201140720

人々との交流は口角の筋トレと思って邁進せよ。『デタラメだもの』

他人との交流においては、愛想笑いばかりが横行してしまい、これは口角の筋トレをしているのだ、これは表情筋を著しく鍛えぬく修行のようなものだと自分に言い聞かせ、納得させ、何とか笑顔を保つようにはしているが、これは果たして必要なのだろうか、生きていくうえで。

と、自問自答。

気まずい空間というのは、何を持って、気まずいと言うのだろうか。

社会に出て仕事をしていると、同僚やら上司やら後輩やらという存在がいるのと同時に、ビルやらで働いていると、エレベーターが付き物で、そうなってくると、偶然にも、同僚やら上司やら後輩と、エレベーターに乗り合わせるという機会が訪れる。

これが、苦手だ。

基本、乗り合わせたとしても、僕からは何も話さないし、できることなら話しかけて欲しくもない。
移動する階数表示をおとなしく眺めたり、チマチマと爪をいじったり、壁面の染みの数を数えたりと、何かとエレベーターの中では、やりたいことが盛りだくさんなのだが、どうやら社会では、エレベーターの中で誰かさんと乗り合わせると、会話をしなければならないというような風潮があるらしく、

「今日は暑いですね…」

などと言った会話が切り出される。

「そうですね」
「昨日よりは少しマシでしょうかねぇ?」
「確かに、昨日よりは少しマシですね」
「地元のほうがちょっと気温、マシですよ」
「へぇ」
「こっちはやっぱり、ちょっと暑いですよ、体感温度が」
「そうなんですね」

エレベーターの扉が開き、会話は終了する。

この会話、要るんか?この会話は、果たして、必要なのか?しゃべる必要なんか、あったのか?天気やら気候の話をする必要など、あったのか?そいつはその瞬間、その会話を、心の底からやりたかったのか?

気まずい空気を避けようと、こんな会話をするんやも知れんけども、こんな風にこんな風な、天気の話やらを密室でするほうが、よっぽど気まずいんじゃい、と。

誰かが言った、それが社交的な会話だよ、そうやって人と人は、コミュニケーションを取っているんだよ。

はい?社交的な会話?なにそれ、なにそれ、それ儲かるの?それ美味しいの?
社交的な会話で交流せんければならないような相手となら、そもそも会話なんかしたくもないし、する必要もないし、そいつと天気の話なんかしても、不快なだけで、不快指数も高いし、ちょっと天候とかけてみたけど、それほど面白くもないし、もうてんやわんやで、なので、僕はエレベーター内では、自分から話かけることを一切やめるようにしているし、それなのに、天気の話やらをふっかけてくる輩は後を絶たず、その悩みで、胃がキリキリと痛み始め、胃腸炎のような症状がとまらず、ここ数週間、便がゆるゆるで、蛇口をひねって放水される水の如しで、夜もロクに眠れやしない。

そうやって、人との交流というものを改めて見つめ直してみると、自分には、交流をしたい人がいないということと、交流して話したい内容もないということと、そもそも他人からの交流を望んでいないということが判明した。

となると、社会における全ての交流はやはり、口角の筋トレ、表情筋を鍛えぬくストイックな作業であり、これは挫折してしまいそうやぞ、ペンで口角に筋を書いたろうかしらん、笑顔の形状記憶手術でも受けて、いつでもどこでもニコニコしている顔面に改造したろうかしらん、それか、山ごもりでもするしかないのか。

ただ、せっかくこの世界に産み落とされたんやから、他人との交流というものの面白みを、味わう前に死ぬのも癪なので、いっちょ、やったりますか、やったらできる子で有名な私が、いっちょやったりますか、意気込みながら、他人との交流というものをやってみた。

しかし、これがまぁ、なんともつまらん。何をお話されているのかもわからん。どこで笑えばいいのか、笑って欲しい話なのか、真顔で聞く手の話なのか、それさえ判別できん。
てめぇのつまらんエピソードトークなんか聞かされて、なになに、銭でもくれるんけ?この苦痛な時間、などと、無礼なことを思ってしまう始末。
そもそもがつまらんエピソードなんやったら、盛って盛って盛りまくった話にして、そんなわけあるかい!とツッコミのひとつでも入れさせやがれ、てめぇの日記読んでるんじゃないんやぞい、そんな時間あるかい、忙しいんじゃこっちも、と、やさぐれるわやさぐれるわ、荒廃するわ退廃するわ、こりゃあかん。

そうやそうや、つまらん人たちのお話の聞き手に回るから、つまらん会話が蔓延るわけであって、それならいっちょ、こっちが上手に会話を回してやろうじゃないの、ピザ生地を流麗に伸ばす職人のように、交流を円滑にして広げてやろうじゃない、望むところじゃない。

そうして、渾身のエピソードを披露、落語家よろしくのなぞかけ、熟女が涎を垂らすほどの毒舌、高尚なおやじギャグ、織り込んで盛り込んで、わちゃわちゃ披露、どや、どや、これやで、ほんまもんの交流っちゅうのは、と、話し終え、満足げに相手の顔を見てみると、ポカン、クスリとも笑っていないどころか、意味も理解されていない、何?何?僕、スベッてます?俺、スベッてます?どこがあきませんでしたか?布団が吹っ飛んだの下りですか?あれあきませんでしたか?

どうやら、人々のお話が僕の中に入ってこないのと同様に、僕のお話も、彼ら彼女らの中には入って行けないようで、果たして一方通行と思っていた交流という名の道路は、その実、通行止め、もしくは進入禁止だったようで、彼ら彼女らがつまらんのか、僕自身がつまらんのか、いったいどうなのだ、それなのに、人々は、楽しそうに笑ったり、笑い声が響いたり、表情穏やかにしている、みんなみんな、面白くて楽しい人たちばかりなのだろうか、僕だけがつまらん人間なのだろうか、きっとそうだきっとそうだ。

天気の話とか、サッカーの話とか、旅行の話とか、飲食店の話こそが、面白いんだね。それこそが、面白い交流なんだね。それこそが、面白い人たちの交流の仕方なんだね。そんなお話を、みんなみたいにできなきゃいけないんだね。お話にフリやオチなんて要らないんだね、忘れ物した話とか、料理を焦がしてしまった話とか、遅刻しそうになった話とか、つまずいたり、物を落っことしたり、エレベーターの階のボタンを押し間違えたり、そういうお話こそが面白いんだね。

すみません。
口角の筋肉を鍛えられるダンベル売ってるところ、ご存知ないでしょうか?

『デタラメだもの』

201140712
ギャラリー
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