デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

周りの人々が高貴なのか、それとも自分が孤高なのか、いや、所詮、誰も彼もが人間なんだ。『デタラメだもの』

少しく仲の良い程度の間柄の人には、気色悪がられるので決して言えないが、生まれて元より僕は、草や花、壮大な景色や優雅な建築物などを美しいとか綺麗とか感じず、目がクリックリとした小さな犬や猫などを見ても可愛いとか感じず、さらには、生まれたての赤ちゃんや、おべべを着て這い這いするような幼子を見ても、何ひとつ、可愛いと感じない、意味の分からん閉鎖的な感性を持ち合わせております。

例えばお花畑を訪れたとしても、目の前に広がるお花たちを見ている気分と、道路脇に望まずとも生えてしまった悲しき雑草を見ている気分とは、何ら変わらず、「まぁ、植物図鑑に載っている草花のうち、15ページのやつか、29ページのやつか」程度の違いしか感じられない。

犬や猫だってそうだ、赤子だってそうだ、あんなに手のかかる生き物、今は可憐かも知れないが、その可憐さもやがて数十年したら、老年になっていくんだ、皺だらけになるだろう、目ヤニでカピカピになるだろう、歯槽膿漏になって、たまらん口臭を吐き出すかも知れない、糞尿だって半自動的に漏らし始めるかも知れない。
そんな光景を、その目やその肌やその微笑の向こう側に感じ取ってしまうものだから、アホのひとつ覚えみたいに「かわいぃぃぃぃ」とかほざいて、抱っこやらナデナデやら、できないわけである。

あとよう分からんのが絵画とか書とか建造物とか大自然の景色とか。
こういう類のものを見ても、何が良いのかさっぱり分からん。
そういった作品の展示イベントに行った際なども、「ここに来ているお人たちは、こういった類のものを見て、何かを感じ取ったフリをして、何かを感じている素振りをして、私、感性が豊かなタイプですの、おほほほほ」と、高貴ぶっているだけのような気がして仕方がない。

じゃあお前は感性というものが欠落している人間なのかい、と問われても、逆にそういった類の人たちよりも、むしろ豊かなのではなかろうかとさえ思っている。

なぜならば、僕は平生、音楽を大変好んで聴いている。本を大変好んで読んでいる。お笑いやらユーモアを大変好んで視聴している。食うことを嬉々として楽しんでいる。人間を大変好んで観察している。
それらの好みかたは偏執的で、こういったジャンルの音楽が好きだの、こういったアーティストが好きだのといった陳腐な好み方ではなく、もう、音楽の全てが好きで、本の全てが好きで、そこに、すごく好きとか、ちょっと好きとか、これは嫌いとかっていう差異は存在せず、それそのものの全てを好んでいる。

それに比べて、先に書いたような、俄か何でもかんでも人が好きそうなものを好む類の人たちは、やれこの作品は違うとか、やれこの年代は違うとか、やれここのこだわりが薄くて好かんとか、これは嫌いだ、これは趣味と違うとか、好いたり嫌ったり忙しい様子が見てとれる。

「お前、ほんまにそれ、好きなんかい?」

と、哀れんだ目で逆に問いたくもなるわけだ。

人々が一様に好んでいるフリをしているものを、何も無理矢理好む必要もなく、人々が一様に好んでいる価値観が正しいという事実なんてものも、ないんだし。

周りの人々が一様に好んでいるものと、自分との間に大きな隔たりがあろうとも、周りの価値観に染まれずに、大きな隔たりを感じようとも、大した問題ではないと思うんだな。
大切なのは、自分の好きなものを、たとえ周りから白い目で見られようが、いつだってどこだって、大きな声でもって、「好きだ!」と貫けるかどうかなんだと思う。

ほうらほうら、わけのわからない話題でも、こうしてきちんとまともなお話に流れて行くじゃあないの。進んで行く筆のほうが、ゴール地点を知っているじゃあないの。
万歳、万歳、マイノリティ、万歳。

ただ自分が浅ましくて狡猾で嫌になる瞬間は、これだけの大それた問題提起をしておきながら、いざ、美術館に訪れた際や、歴史的建造物を前にした際、絶景の景色を目の当たりにした際などに、「ふふふん」と鼻息を鳴らして、「素晴らしいやね、ほんと素晴らしいやね」などと、こんな絵画に触れている俺って何て高貴な人間なんだ、この場にいない奴らめ、ざまあみやがれ、俺は今、高貴だ、高貴過ぎて敵うまいと、振る舞いが大きくなって、「見てごらん、この油絵の具の重ね塗りなんて、とても情熱がこもっているよねぇ」とか、まるで自分がジェントルマンにでもなったかのような涼しげなボイスで、絵を寸評しやがるもんだから、あまりの滑稽さに、ヘドが出そうになる。

「今回の作品は、ぜひ家に置いておきたいよね。作品集、買って帰ろうかな。あっ、でも、現物で見るのと、作品集で見るのは雲泥の差。立体感とか陰影とか、やっぱり作品集じゃ表現できないしなぁ。買っても仕方ないかなぁ。でも、やっぱ、家に置いておきたいから、買って帰ろう!」

などと、クソ腹の立つことを得意げに放ちながら、意気揚々と作品集を購入して帰る瞬間など、さらに自分の醜さが増長してきて吐きそうになる。

そうして買って帰った作品集を本棚にしまい、その後、二度と手に取ることもなく、見開くこともなく、ただただホコリまみれになってしまい、お部屋のレイアウトを変える刹那や、引っ越し準備の荷造りの刹那に、ホコリまみれの作品集と久方ぶりの対面を果たし、購入時の愚かな記憶を脳内に蘇らせ、苦い汁が心に充満した際などに、改めて自分の人間臭さに気づかされ、ほっと一息、安心したりもするのである。

デタラメだもの。

201150412

物づくりを志す人よ、記録にも記憶にも残る仕事をしようじゃないか。『デタラメだもの』

日夜、広告屋として働いていると、いろんな人に助けられて、豪勢とは到底呼べなくとも、こうして日々、細々と食いつないでいけている。
僕たち広告屋が、デザインやらコピーやらを仕立てたとしても、それを実際の広告物に仕立ててくれるのは、印刷屋さんなわけで、その印刷屋さんも、紙屋さんで紙を仕入れなかったら、印刷をすることもできなかったりと、日々、いろいろな人が動いて、僕のような若輩者が仕立てたデザインやらコピーなどを現実の形にしてくれている。

印刷屋さんの方々には、日ごろより、感謝の意を表しても表し尽くせないほどの気持ちを抱いているのだけれども、そのなかで、いつでも、どんなときでも、アイデアと知恵と工夫と、そしてなにより、ボーイズの気持ちを忘れずに物づくりを続けている、ある小さな印刷屋の社長がいる。

僕が今よりも若かりし頃、Webの分野でうつつを抜かして、「これからはWebの時代でしょ」「ふふふん、Webやってれば、そのうち財産築けるんでしょ」「ははん、Webの仕事、ウマウマ」などと、涼しい顔をして、Webを生業としていた僕に、その後の生き方を変えるひと言をプレゼントしてくれた人だ。

ある日、クライアントの要望により、自立式のバナースタンドを制作せねばならなくなった。
Web以外の不慣れな仕事を請けてしまったことにより、途方に暮れながらも、物づくりのおっちゃんがいるということは、社内の情報により知っていたため、半ばSOSを出す気持ちで、その社長に電話をした。

心の底からの敬意を込めて、ここでは、おっちゃんと呼ばせてもらおう。
そのおっちゃんはとても謙虚で温厚な方で、二回り近くも年下であろう僕に、それはそれは腰の低い応対で、僕のSOSの要望を聞き入れてくれた。
普段、パソコンのモニターばかりを見て、パチパチ打っては、カチカチ押して、小気味良い機械ばかりをこねくりまわしている僕に、「たまには、ホンモノの世界にも来てくださいねえ」と言葉を投げかけてくれた。

ホンモノの世界?
おっちゃんは、別にWebの世界を、ニセモノと思っているわけではない。そういう意味で言ったんじゃない。
確かにWebの世界も物づくりに違いないが、のぼりやら印刷物の加工やらターポリンのバナースタンドやら屋外看板やら、ホンモノの物づくりのように、汗をかくことも、怪我をすることも、血を流すことも、ない。
クライアントを思えばこそ大切なことなのかも知れないが、0.1%だの1.3%だのと、ハナクソのように細かい過去の数値ばかりを追いかけて、過去にとらわれて、未来に蓋をするようなWebのマーケティングなどとは、やはり、物づくりの世界は、決定的に違う。

その後、僕は、おっちゃんのひと言に胸を打たれ過ぎて、ホンモノの世界でも勝負してみることにした。
いわゆるWeb以外のもの、そんななんでもを、作ってやろう、世に送り出してやろう、そう決意した。もちろん、それらを形にするためには、おっちゃんをはじめ、多くの人たちの協力は不可欠だけれども、次々と新しい広告物を作っていった。

さすがホンモノの世界やなと痛感したのは、おっちゃんが作るもの、そこには、独自のアイデアや工夫や知恵や、そしてボーイズの魂が込められているので、それは世に言う、一点ものとなるわけ。
一点ものとなった広告物は、世の中からも重宝され、どれもこれもが注目を浴びた。
それらを見て、別の大きな代理店が、ソックリそのままパクりにかかるというような事件まで起こった。

これが、おっちゃんの言うてた、ホンモノの世界かあ。
仕上げていただく広告物に、いちいち興奮したし、いちいち感動した。
それが世に出た際の写真をクライアントから送ってもらったりなどした際には、涙も出た。

そんなおっちゃんが、病に伏して、しばらくが経つ。
すぐに復帰すると吉報を聞いてからというもの、まだ仕事には戻れる状態じゃないという凶報ばかりが続く。

印刷屋さんにても広告屋にしても、クライアントから見れば業者になる。
僕たちから見ても、印刷屋さんというのは、業者さんになる。
でも、業者さんだろうが、広告屋だろうが、代理店だろうが、クライアントだろうが、物づくりをしていると人は、すべて、物づくりの担い手で。そこに、上も下も、ない。

それにも関わらず、物づくりの尊厳を無視するかの如く、「発注先の業者が減った」とか「選択肢がひとつ消えた」とか、ただの外注としての選択肢としか見ない人間が、ことごとく多い。
こんな奴らに、物づくりの素晴らしさなど、わかるはずもない。こんな奴らが日々やっていることは、飯を喰らうためだけに、お金をコロコロと転がしているだけに過ぎない。

分かっているのか、世の中の連中よ。
物づくりを志している人と、そうでない人とは、存在価値そのものが、全く違っているのだ。
なぜなら、「その人がいなければ、これまでの数々は、世に出ることがなかったからだ」
ということはつまり、「その人がいなければ、これから世に出ることのない数々があるということだ」

ああ、最近、なんだか眠たい。
日々の仕事に追われ、長渕剛の言葉を借りるとするならば、「暮らしにまみれた」状態が、ずっとずっと続いている。無気力に呆けた奥歯が、噛んだスルメに苛められて悲鳴を上げている。

広告屋の日々は、今日もこうして、物づくりに焦がれながらも、四面楚歌のしがらみに囚われながら、足をすくわれ、転びそうになりながらも、なんとかオンボロの杖で心を支え、少しばかりの赤色をクリエイティブに足したり、煤けた用紙に文字を書き入れたりしている。

社長ともう一度、一緒に仕事ができる日が、待ち遠しい。
なにやら、今日のカラスは、必要以上に鳴きやがる。

デタラメだもの。

201150208

何もかもが捏造された世界だとしても、力強い僕たちは楽しんで生きて行く。『デタラメだもの』

ごろんと寝転びながら、特段やることもないわと、ぼんやりテレビなんぞを眺めていると、ごくごく稀に、「この番組、意外に面白いやん」と、普段はテレビなんぞめったに見ないのだけれども、少しばかり心躍らせて見入ってしまうことがある。

その、たまたま見ていた番組が、たまたま面白かったときの優越感というか、日々テレビに齧りついて血眼になって見ているわけでもないのに、その偶然を引き寄せる自分の強運と言いましょうか、特段やることもないということは、不毛に時を消化してしまうところだったものを、有意義に、フフフンと鼻歌混じりにテレビを見ている自分の優雅さったら、並みのブルジョアジーなら、涙ながらに羨ましがるに違いない、フフフン。

ただ、このたまたま見ていた番組が面白かったときの優越感には、ある落とし穴がある。
生まれも育ちもいたって平々凡々な中産階級の臭いが染み付いた自分などが、ブルジョアジーたちに羨ましがられるわけもない現実が、一瞬にして襲ってくることになるのだ。

「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
この類のテロップが、いきなり表示された瞬間だ。

その瞬間、それまでフフフンと、陽気に番組を楽しんでいた自分のピュアな心が、ハンマーで打ち砕かれる。
「そしたら何かい!ワシは、数年前の番組を、ごくごく最新の番組であるかのように楽しんでおったわけかい!じゃあ何かい!目の前に繰り広げられている、例えばグルメ番組やったら、その店、もう潰れてるかもしらんし、旅番組やったら、その宿、もう潰れてるかもしらんし、おしどり夫婦特集やったら、その夫婦、もう離婚してるかもしらんし、お笑い番組やったら、その漫才コンビ、もう解散してるかもしらんし、例えば女優やアイドルやったら、そのお顔は、もう整形されて変わっとるかもしらんし、もっと言うなら、目の前でキャッキャッしている芸能人、もう引退してるかもしらんし、死んでしまってるかもしらん、ということになるやん」
こんな大恥、あるいかな。

しかも、純粋な再放送ならまだしも、東京で放送された番組が、我々大阪という田舎に、タイムラグを持って運ばれてきたがために、初回放送にも関わらず、えらい年月が経ってしまっている場合など、複雑な心境過ぎて、画面を直視できなくなる。

そこでふと、こう思うわけだ。
目の前にある光景、景色、映像、いつ何時、自分たちは、捏造されたそれを見せつけられているかわからないということ。これまでバカ正直に当たり前のように信じていた光景、景色、映像も、実は捏造されたものだったかもしれないとうこと。

金閣寺とか、ないかもしらんぞ。あれ、プロジェクションマッピングで、映像が投影されているだけかもしらん。
ジョニーデップとか、おらんかもしらんぞ。あれ、巧妙に作られた次世代ロボットかもしらん。
美しい美しいと騒がれる女優さんとか、ひとりもおらんかもしらんぞ。あれ、精巧に加工されたCG映像を見せつけられてるのかもしらん。
税金とか、正しい用途で使われてないかもしらんぞ。あれ、使途不明のまま、どこかに消えてるのかもしらん。まぁ、それはほんまやろう、きっと。

近ごろ、若くして死んでしまった僕の好きなミュージシャンが、十二年ぶりに新曲を出すことになったそうな。
もちろん、十二年前に他界してしまっているので、本人が歌ってギター弾いてなど、できるわけがない。
どうやら、本人の過去の歌声を細かく千切って、それをボーカロイドと呼ばれる技術と融合させることによって、あたかも本人が歌っているかのような雰囲気でもって、楽曲を創り上げたそうだ。

いざ、それを聴いてみる。
これがまた、めちゃ良い。
「やったー!新曲やー!新曲なんか聴けるなんて思ってなかったから、嬉し過ぎるー!」
と素直に思っている自分がいる。
心底、それを聴いて、嬉しく思った。

しかしこれも同じだ。
この喜びは、他界してしまったアーティストに向いているのか、十二年の時を経て、存在しないミュージシャンの楽曲を新曲としてリリースできるほどの、最先端技術に向いているのか、どっちだ。

円形脱毛症ができるほどに悩んだ末、あるひとつの答えに辿り着いた。
それを聴いて、嬉しく思っているんだから、もうええやん、と。もう、その嬉しいという感情が全てやん、と。
楽しいとか嬉しいとかに、理屈を捏ねても仕方がないんだ、結局。

そうなんだ、僕たちは本来、とてもロマンチックな生き物で、ミッキーマウスの中には、人なんて入っていないと思って楽しめて、サンタクロースだって、実在するってドキドキできて、宝くじは、いつか当たるかもって信じれられて、奇跡は起こるものじゃなくて、起こすものだって信じている。

晴れの日も雨の日も満遍なくあるだろうに、たまたまイベントの際などに晴れの回数が少し多いだけで、俺は晴れ男だ!なんてドヤ顔もやってのけられるし、ボウリングのスコアが伸びなかったときには、手首をコキコキと捻りながら、今日は手の調子が悪いわ……などと、自分の実力ではなく、自分の手に責任を押してつけてプライドを保つこともできるし、街なかで異性と目が合うだけで、この人もしかしてだけど、自分に気があるのでは?なんて、身分不相応な勘違いもできる。

何もかもが、楽しいことばかりなんだ。

これで、プロジェクションマッピングで創られた金閣寺を見ても、次世代ロボットであるジョニーデップを見ても、これまで通り感動できるし、使途不明のまま問答無用に徴収される血税にも、納得できる。

わけがない、税金だけは納得しない。
選挙ポスターの笑顔も、選挙演説も、党のマニフェストも、何もかもが捏造じゃ、笑えないし、ひとつも楽しくない。
同じような顔ぶればかりで変わらない政治、変わらない選挙を繰り返して、そのうち国会中継を見ている最中にでも、画面下にテロップで、
「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
などと、表示され出すんじゃ、あるまいな。

デタラメだもの。

201141228

初対面の印象なんてもんは、人間の何をも語ってはいない、もっと中身を見なければ。『デタラメだもの』

初対面のときの印象っていうものは、なかなか面白いもんだ。

ほら、今ではすっかり既知の仲になっている人たちの、初対面のときの印象を思い起こしてみるといい。きっと、全然初対面のそれと、今のそれとは違っていて、中には、初対面のときにあんな印象を、たとえばクールな奴だとか学のある奴だとかおしとやかな奴だとか、今の本人とはずいぶんとかけ離れた印象を、持ってしまったことが悔やまれるような奴もいるに違いない。

きっと人は、初対面と呼ばれる機会が訪れる瞬間、幾ばくかの緊張を持ってして、人と接するんやろうな。
その緊張によって、普段から他人に対してサービス精神旺盛に接している人と、そうでない人とで、初対面の印象と本人の実像との間に、二極化した乖離が生まれるんやろうと思う。
なんや難しい話をし過ぎて、偏頭痛になってきた。ちょっと、頭痛薬でも飲んで来なければ。

他人に対してサービス精神旺盛に接していない人、もしくは他人に対してサービス精神旺盛に接するのが苦手な人というものは、初対面のときの緊張などと相まって、本人の実像以上に、クールに見えたり、おとなしく見えたり、暗く見えたり、恐く見えたり、近づき難い印象を他人に与えてしまうんやろうな。

「初めて会ったとき、めっちゃおとなしいタイプの人やと思ってたもーん!」

こういう会話は、居酒屋では、「Hey! What's Up Bro?」ぐらいに乱用される会話である。

その逆で、普段から他人に対してサービス精神旺盛に接している人というものは、初対面のときの緊張が、さらにそのサービス精神に拍車をかけることで、本人の実像以上に、何も考えていない人、チャラい人、無責任な人といった印象を他人に与えてしまいがちだ。

「初対面のときのチャラさからは想像できひんなぁ」

弱ったり、真面目になったり、責任感を発揮したり、泣いたり、落ち込んだり、勇敢な姿を見せると、そういう評価を下されることになる。

ほうらほうら、こんな文章を読んでいると、身近にいる人、周りにいる人の初対面のときの印象を思い浮かべて、ちょっとニタニタしてみたくなるでしょう?相変わらず、影響力のある文章書くじゃあない、私。
あかん、偏頭痛、取れへんがな。薬、効けへんがな。

それじゃあ、お前はどんな印象を持たれる人間なんじゃいと、眉間に皺を寄せて睨みつけてくる紳士もいるでしょうから、僕の場合はどうかというと、「真面目」という印象ばかりをありがたくいただいておりましたので、その評価が胸糞悪くて、もう自らその印象を変えてやろうじゃないということになり、やれ髪の毛の色を滑稽な色に染めてみたり、やれ滑稽な洋服やら履物を身につけてみたり、やれ奇をてらった発言を繰り返してみたり、大声を出してみたり、人に迷惑をかけるような場所で立ちションベンをしたりして、その印象というやつを破壊してみた。

結果は、成功。
トリッキーな人間に成り果ててしまい、他人からいただく印象というものに統一性がなくなり、挙句の果てに、「お前さん、何を考えているのかようわらかん人間じゃけえ、怖いわ、近寄りがたいわ」などと、ノーベル賞以上に光栄な評価をいただくまでに至った。

しかし、世に出て社会に出て、いろんな人と対峙してみると、人間のことをしっかりと見ようとする人は、初対面のときでさえ、そんな上っ面の印象に振り回されずに、ちゃんとその人の、根っこの部分を見抜いてくれるということを知った。

得意先様の中で、たいそう出来上がった人物で、多大な影響をいただいた人物がひと方おりまして。
既に今では、花の都大東京でご活躍され、身分も相当に手の届かぬ存在になられているので、もう気軽に会ったりはできないけれども、駆け出しのころのハナ垂れ小僧のような僕を、しかも大企業にお勤めのその方が、遊びに連れ出してくれたり、飲みに連れて行ってくれたりと、とてもとてもよくしていただいたことがある。
身分や地位といったしょうもないことで、つまりは、生まれたところや皮膚や目の色で、人間のことを決めつけない、器の大きな男の人で、もちろんその人と僕との間にも、初対面と呼ばれる瞬間があった。

「君の顔面は、卑猥やなぁ!顔面秘密倶楽部やでぇ!きゃははははは」

といった評価をいただいた。
ちなみに、秘密倶楽部というのは、大阪界隈にある、M性感を好む男性たちが集う風俗店の呼び名である。
そのお方は、初対面の僕の顔面を見て、秘密倶楽部に例えたというわけである。
僕の中身をしっかりと見極め、初対面の印象を刷り込んでくれるような、大胆で愛に溢れた人は、後にも先にも出会ったことがない。
大半が、「君は真面目そうやねぇ」の繰り返しばかりの、面白みのない世の中で、そんな愛に溢れた接し方を、初対面のときから繰り広げてくれる人が、世で認められないわけがない。

その出来事があった以来、自分に影響を与えてくれる人というものは、初対面のときから、やはりファンキーな対面になるということが、得てして多い。

じゃあ、今の自分は、身近な人間にどんな風に映っているのだろうか?と問うてみたくなり、後輩に問うてみた。

「ウチの会社に出入りしてるような、会計士か税理士かなんや知らんけども、そういった類の真面目腐った連中と、この僕とは、やはり、人として、異なって見えてるもんやろうか?」と。

事務所に出入りしている、所謂、士業の人、真面目を絵に描いたような人物がいて、そういった類の真面目そうな連中というものは、いざ真面目に見えているものの、どうせ手鏡で女子高生のスカートの中身とか覗き見てそうやし、犯罪とか犯して捕まった後に、近隣の住人から、「あんな真面目そうな人がそんなことするやなんて…」などと、通り一辺倒なコメントを寄せられそうで、だいたい人間としての凄さ、凄まじさ、そういったものが兼ね備えられているかどうかもわからんのに、周りの人間から、「先生!先生!」などと呼ばれて、殊更に否定もせず、「はい」などと、眼鏡の位置を正しながら応答できる人間にロクな人間なんかおるわけがない。
僕だったら、どんなに偉くなったとしても、まぁならんけれど、なったとしても、周りから、先生などと呼ばれた日には、条件反射的に、「先生など、おこがましいです。クソ野郎とか、カス野郎って呼ばれたほうが、気が楽です」なんて言ってのけて、「じゃあ、クソ野郎。あっ、さん付けしたほうがいいでしょうかねぇ?クソ野郎、さん?」とか光栄にも呼んでいただき、「このあほう、どのツラ下げて、人のこと、クソ野郎さんなんて呼んどるんじゃい!冗談を間に受けるボケがどこにおるんじゃい!」とか、咆哮してしまいそうで、何ともアットホームやね。
それはそうと、士業は、侍業じゃ、とかヌカしてるボケがおるけれど、そういった類の連中たちは、真面目過ぎるか、胡散すぎるかのどちらかで、それを侍などと称してしまった日にゃ、ご先祖さまに怒鳴られるで、と思っている次第で、なんやろね、あの、士業ってやつは。

そうそう、話は逸れましたが、そうして問うたわけですわ。
「ああいうクソ真面目な先生とか呼ばれてる人間と、僕とは、やはり、異なって見えるもんかのう?」と。

すると、僕のデキの良い後輩は、「ぜんぜん違いますねぇ」と答えてくれるもんだから、さすが俺の後輩、グッジョブ、なんて思っていると。

「だって、先輩、アホッぽいっすもん。異なって見えるというか、先輩、学歴も何もないじゃないですか。そりゃ違いますよ。こんなクソ寒いのに、Yシャツで外ウロウロしてるのなんて、先輩ぐらいですよ。いい加減、近く歩いてるの、恥ずかしいんですよね。同類やと思われるんで」

おう。後輩よ。そこまで、皆まで、エンドロールまで語ってくれとは言うとらんぞ。
まぁ、それだけ人間の中身、否、僕という人間をしっかりと理解してくれているからこそ出てくるフレーズの数々、その暴言を聞きながら、俺、生き方間違ってなかったなぁと、しみじみ夜空を見上げてみると、強風に煽られた木々の葉が猛スピードで顔面に飛んできて、目と眼鏡の隙間に飛び込んできたと思った瞬間、葉の鋭利な部分が目尻に突き刺さり、浮世を憂いたからか、あまりの痛みに耐えかねてか、自然と涙が、ツーツララと流れ出た。

デタラメだもの。

201141207

運やら縁やらが凄まじく関わってくる、チケット購入のわびさび。『デタラメだもの』

それにしても、ああいうなんと言うのだろうか、抽選めいたものとやらには、一切当たる気がせんもんやね。

やれ懸賞やから応募してみようと意気込んで、送ってみたところで当たった試しがないし、昨今のように、インターネットが主流になる前、抽選の応募方法の主流がまだ、葉書だったころなども、一球入魂と意気込んで、葉書の中、所狭しと、あれこれ丁寧に感想など書いたりして送ってみたものの、これまた当たった試しがない。

ラジオ番組などでもそうだ。
こちとら、一応リスナーと呼ばれる身分なもんで、聴きたい曲をリクエストしてみたりもするが、一向に流れる気配はないし、これまた丁寧に、番組の感想やら、アーティストへのコメントを打ち込んで送ってみるものの、希望の楽曲が流れる気配が一切ない。

なぜそんな思いを胸中に巡らせているかというと、あの忌まわしき、チケット購入という所為が、どうにも運やら縁やらに支配されているようで、まったく解せぬという思いが、ジュンジュワワと湧き上がってきたからである。

チケット購入の所為、すなわち、チケットを取るという行為であるが、この行為、簡単そうに見えて、簡単そうに聞こえて、その実、至難の技だということは、いざチケットを取ろうと試みたことがある人ならわかるはず。
なにがそこまで至難の技かというと、お察しの通り、「チケット取る時、ネットも電話もつながらんし、売り切れるの早過ぎる」ということだ、要は。

あれ、いったい、誰が取れてるん? スパコーンとインターネットに接続されて、スイススイと入力画面をやり過ごし、無事に購入ボタンに辿り着けている猛者など、ほんまにおるん? チケット屋さんに電話をかけて、話し中という樹海を潜り抜けて、販売担当者なり機械応答なりにつながり、チケットの購入を完了させ、ほくそ笑みながら電話を切っているような猛者など、ほんまにおるん? おるとしたら、どこにおるん?

そして、なんだあの、1分でソールドアウトとか。
ソールドアウトとかかっこ良く英文字で呼んどるけれども、つまりは、売り切れよね。1分で購入できた奴ら以外は、全員、売り切れのため、ライブに足を運べません。足を運ぶ権利もありません。ライブを見る資格もありません。運やら縁やらの一切合財がありません。生きてる資格もありません。
と、こっちに対して、そう言いたいのだろう。やかましいわ。

今でこそ、インターネットやスマートフォンが普及したり、コンビニエンスストア内にも、チケットの購入ができる機械が設置されていたりと、恵まれた環境になっているが、ひと昔前までは、チケット発売のタイミングで、チケット屋さんに電話をするか、チケット屋さんの受付カウンターに直接買いに向かわねばならん時代があった。

そういえば、20年前くらいだろうか、誰かは忘れてしまったけれど、あるアーティストのライブに行きたいと思い、チケットの取得を企んだときがあったことを思い出す。

「電話やとつながらん可能性もあるし、それでチケットを取り損ねるとか最低やし……」
と、ブツブツ抜かしながら、それならばと、当時近所にあった、百貨店の中に入っているチケット屋の受付カウンターに、直接チケットを買いに行くことに決めた。

確か、それは人気アーティストのチケットだったはずで、だから、開店の少し前に到着し、もし行列などできていようもんなら、並んででも購入したるねんと意気込み、いざ、開店前の百貨店の玄関前に到着した。

すると、想像とは違い、玄関前にはなんの行列もできておらず、「よっしゃ、これでチケット取れたも同然!」と高揚しながらも、ふと回りをよく見渡してみると、なんと、玄関前の足元付近に、寝袋が2つ横たわっているのが目に飛び込んできた。

「ね、寝袋!?」

それは違和感でしかなかった。
だってさぁ、超行列ができるような、最新の電子機器の発売日とかなら、最前列に寝袋がいくつもあるという光景が似合うが、誰一人として、開店前の百貨店の玄関前に並んでもいないのに、ポツンポツンと、たった2つだけ寝袋があるというんだもの。何かの間違いだと思うよね。

「この人たちは、僕と同じアーティストのチケットを取ろうとしているのかしらん?」

そう思いながらも、2つの寝袋の最後尾に、立って並んでいるのも、あまりに恥ずかしく、周りの目も気になったため、そしてなにより、誰も並ばないようなこの状況なら、チケットも余裕で取れるだろうと、その場を後にし、近所をウロチョロと散歩することにした。

ふと時計に目をやる。
「あっ!百貨店の開店時間が過ぎてる……」
調子に乗ってウロついていたため、目的の時刻が数分超過しているのに気づかなかった僕は、少しだけ小走りで、百貨店へと戻って行った。

百貨店の中に入り、いざ、チケット屋さんの受付カウンターを目指す。
辿り着いてみるとそこには、先ほど寝袋に入っていた二人の男性の姿があった。

「いや、なんでですのん?」
二人の男性のうち一人が、カウンターの中のスタッフに声を荒げている。
「そう言われましても……」
「いや、僕ら寝袋まで用意して並んでましたんやで!」
「は、はぁ……」
すっかり困り果てた様子のスタッフ。
「ほんまにダメなんですか……」
どれだけ訴えかけても変わらぬ事態を受け止め始め、消沈する二人の男性。

いったい何があったというのだろうか。
そこに、衝撃の言葉が飛び込んできた。

「ほんまに売ってないんですか?」と男性。
「大変申し訳ございません。当チケット屋では、布袋寅泰のチケットは販売しておりません。おそらく、販売しているのは、競合チケット屋かと思われますので……」

改めてその言葉を受け止めると、寝袋を担いだ二人の男性は、しな垂れるように肩を落とし、チケット屋の受付カウンターの前から姿を消した。

布袋寅泰のチケットなどは、寝袋で待機せずとも、余裕で取れたはずだ。そして、寝袋で待機をするという決死の覚悟を決め込んでいるわりに、そのチケット屋で布袋寅泰のチケットが販売されるかどうかの下調べをしていなかったという愚かさ。そして、寝袋で待機することで生じるアドバンテージをすっかり失ってしまったその時刻から、競合のチケット屋に足を運び、改めてチケットを買い求めるという情けない結末。さらに思う。きっと、この時刻からでも、余裕でチケットは購入できるだろうことを。

とまぁ、チケットというのは、いつの時代も、運やら縁やらが凄まじく関わってくるもので、だから、アーティストへの思いやら、インディーズのころから熱愛しているアーティストだからといった事情など、問答無用に排除され、運無き者はチケットを取れず、運無き者はライブも見れず、ただただ、一年後などに控える、ライブDVDの発売を心待ちにするほかないのである。

「あのアーティストのチケットは、ファンクラブに入ってても、入手困難らしいよ……」
などと囁かれてしまっては、運やら縁やらがない人間からしてみれば、死刑宣告にしか聞こえないよ。

あの寝袋の男性たちは、今頃、どうしているのだろうか。

デタラメだもの。

201141130

顎鬚も権力も同じように、ツルッツルに剃り落として、ありのままのスペックで生きようじゃないか。『デタラメだもの』

人としての器もないくせに、仕事もロクにできずに、それなのに、会社に長いこと勤めているやら、会社の立ち上げ時期からそこに居るやらという理由で、なまじっか権力を持って、それをふんぬふんぬと振りまわしている輩の滑稽なことといったら、全く食えない。

ハリボテのような身分でいて、それでいてよくもまぁ、呑気に威張っていられるものだと、摩訶不思議。
下克上など申されたら、刹那に身分を失脚させられるような状況で、のほほん、よく生きていられるもんだと感心するよ、全く。
こんな世の中じゃ、アルコールの接収量も減るわけないわな。

そんなことを考えながら、酒をチビリチビリやっていると、ふと、自分はなんて写真映りの悪い人間なんだと、楊枝をつまみ、歯と歯の隙間をシーシーお掃除しながら、脳内に自分の写真映りを思い浮かべてみる。

なんとも素人臭い。

あれ、何でみんなあんなにも、写真を撮られる際に、表情やら佇まいやら、妙味な具合に演出できるのかしらん。
どこでそんな勉強したん? どこでそんな練習やら特訓やらしたん?

ここ一番、ビシッと決めた表情で撮られるのも良し、お茶目にチャーミングな表情を浮かべ、ニコリして撮られるのも良し、おふざけ満開で、滑稽なポージングを決めながら撮られるも良し。なんとまぁ、みんな役者なんだなぁ。

あれには何かしらのコツでもあるのかしらん? 首の角度であったり、眉間の皺の寄せ具合であったり、手の角度やら、股の開き具合やら、歯の見せ具合やら、口角の吊り上げ具合やら、コツがあるんやろうか。
まぁ自分が写真に撮られると、どれもこれもが失敗作で、二度と目も当てたくないほどの酷い仕上がりばかり。写真なんて、嫌いじゃ。

まっこと下らんことを考えながら楊枝を操っていると、うっかり歯茎をブッ刺してしまい、口内に血の味が滲む。
おうい、おとっつぁん、馬肉ひとつおくれやす。

そもそも、人間本来のスペックが、他人と比べて劣っているからこそ、写真の映りも悪くなるというものではなかろうか? と、自分のスペックを疑ってみる。
これはもしや、そうかも知れん。
だって、たかだか表情を操作してみたところで、そない写真の映りなんぞ、変わるものだろうか。股の開きを大胆にしたからといって、そない写真の映りが豪快になんぞ、ならんだろうに。
やっぱりスペックだ、自分のスペックが劣っているからこそ、写真映りも劣るというものだ。

これはいっちょ試してみる価値がある、自分のスペックというものを試してみる価値があると意気込んで、おとっつぁんにお会計を申し出ると、千円足らずの飲み食い代で、毎度安価に満たしてもらってありがとうございますと、深々と頭を垂れ、店を後にした。

翌日からちょいと試みに打って出た。

人間というものは、他人に対して少しでも自分のことを良く見せようと、無駄な努力を繰り返す習性を持っているもので、だからこそ、朝も起きるや否や、頭髪にジェル状のものやらペースト状のものやらスプレー状のものをブッかけたりして、セットなるものをやってみたり、ペタペタと白粉を塗って、紅などひいて、顔面を煌びやかに見せてみたりと、その努力を絶やすことはない。

そうやって、本来の自分のスペックを少しでも良く見せようと捏造し、他人から小マシな人間と思われたくて仕方のない僕たち小市民。
そんな捏造をいったん止めてみて、自分の本来のスペックを曝け出したまま生きてみれば、どのような塩梅になるのかを試してみようと、まずは、頭髪のセットなるものを止めてみた。
頭髪のセットのみならず、朝起きて、頭髪の寝癖をシャワーで濡らし、リセットし、颯爽としたヘアスタイルに仕立てることをも止めてみた。

さて、その仕上がりといえば、阿呆の極み。鏡に映る自分が、洟垂れ小僧のように見えて仕方がない。
そんな状態のまま、スペックの捏造を止めている旨を、密やかに身近な人間に問うてみた。すると、「いつも通りじゃね?」といった返答が返ってきたもんだから、仰天して背骨が折れそうになってしまった。

それはどういう意味なん? 普段、スペックを捏造して、一生懸命自分を煌びやかに見せようとしていた状態と、この洟垂れ小僧のような状態が、何ら変わらんということなん? じゃあ何かい、いつもいつも、自分はこないな状態で他人から見られていたということになるん?

そんなアホな……。朝も若干早よう起きて、ワックスなるものをベタベタと頭髪に塗りたくっていた日々は、いったい何だったというのか? マメ粒大を手のひらに取り、薄っすら薄っすらと伸ばしながら、頭髪に練りこみ、ネジネジと指先で毛先を遊ばせようとしていた日々は、いったい何だったというのか?

頭髪じゃインパクトが弱かったのかと思い、これまで大事に大事に伸ばしてきた顎鬚を思い切って剃ってみた。これがあるからこそ、ダンディでハードボイルドな演出が顔面に施されていた、その貴重な顎鬚を、ツルッツルになるまで剃ってみたわけで。

こないな覚悟で本日、顔面を決め込んできた我輩の猛烈な意志を、しかと受け取ってくれるかいな、お前たち。
そんな期待を胸に、ヘラヘラと出社し、これまたヘラヘラと業務を始め、お昼にはランチなどを召し上がり、陽もすっかり暮れ、「すっかり陽が落ちる時間も早くなったのう」などと、ビルのエントランス前でタバコをプカプカやりながら、業務を終了させ、いざ退社時間という頃になり、おかしなことに気づく。

そう、誰ひとりとして、トレードマークの顎鬚がなくなっていることに気づかず、とどのつまりは、そんな話題に触れようとする人間がひとりもいないのである。

おかしいやないかい……。俺は今、スペックの捏造も何も施していない、剥き出しのままの姿でもって、君たちの前にいるんやよ、おかしい姿でしょうに? 今なら写真映りが悪くったって、気にしない状態なんだよ、僕は。だって、スペックの捏造をしていないからこそ、写真の映りも悪くて当然、スペックの捏造時に写真の映りが悪いからこそ、僕は楊枝で歯茎をブッ刺してしまうくらいに頭を悩ませていたんだよ、今なら、写真映りなんて気にしないんだよ僕は、だって、ありのままの姿でいるんだもん。

どうやら人間というものは、悲しい生き物のようである。
日々、せっせせっせとやっている、自分を煌びやかに見せようとする努力なんざ、誰の目にも映っていないわけである。そんなもん、やるだけ時間の無駄で、金の無駄で、そりゃそうよな、よく考えてみれば、てめぇの顔面が煌びやかだろうが煌びやかじゃなかろうが、他人にとってはどうでもいいことで、なんら関係のないことなのだから。

そんなことを、立ち飲み屋の帰り道にぼんやりと考えていると、自分のスペックを捏造するという行為は、何も顔面に限ったことではなく、身につけた権力やら地位やらにおいても同じで、そんなものを捏造したところで、誰ひとりの心にも響いていないだけでなく、それはそれはひとり上手な、悲しい芝居のようであること。
ほら、ツルッツルになった顎鬚の如く、ハリボテの権力やら地位も、剃り落としてしまってはどうだろうか、社会に蔓延る紛い物の皆さん。

上手いこと時世の憂いへと話を結びつけられた自分の能力に自惚れていたものの、結局、写真映りを良くする手段には何ら近づいていないことに焦りを覚え、取りあえずのその場凌ぎ、次回、写真に撮られるような機会が訪れるならば、その時には、芸能人の物まねの如く、笑顔を作る瞬間に、唇と唇の間から、うっすら歯でも覗かせてやろうと企みながら、疲れきった最終電車に飛び乗った。

デタラメだもの。

201141125

過剰サービスが惨事を招くこともあるってことを、もっと重く受け止めるべきだ。『デタラメだもの』

過剰サービスというやつは、何とも苦手だ。
サービスというものは、適度に気がきくという程度で充分なはずである。にも関わらず、世の中、過剰サービスが横行していて解せない。

最近、特に思う過剰サービスが、居酒屋での灰皿交換。
あの、灰皿交換のタイミングの悪さったら、天下一品である。

僕にとってのお酒を飲むという行為は、大いに語らうということと同義であり、それ故に僕は、何軒もお店をハシゴしたりだとか、ホステスさんがいるようなお店に行くだとか、そういうことはせず、場末の居酒屋などに、どっしりと腰を据え、やれ夢だとか、やれパンクロックだとか、やれ笑いとは何ぞやとか、とにもかくにも、語って笑って、泣いたり叫んだり、得てして、年甲斐もなく、そういうことをやるのが好きだ。
語るにせよ、笑わせるにせよ、ある種、熱を帯びてくると、何かしらが自分に憑依し、饒舌になったり、愉快になったりしているわけで、それはある種、酔狂ながら舞台に立ち、わっしょいわっしょいと演じているわけだ。

そこへ来て、その酔狂の芝居に水を差すのが、灰皿交換なんだわ。

「おうおう、仕事っちゅうもんはなぁ、お客さんの期待に応えてなんぼやぞ!」
「なるほど」
「ただなぁ、お客さんの期待に応えるよりももっと大切なことがあるんやぁぁぁ!」
「え!?いったい、それは何ですか、先輩!」
「それはなぁ…じ」
ここで突如現れる店員。
「灰皿交換しまーす」
店員の灰皿交換の所作を、ただただ見つめる男ども。
「……。」
「……。」
「……。」
「あ、ありがとうございました」
灰皿交換サービスに対して、礼を述べる男ども。
「で、先輩。さっきの話、どこまで話してはりましたっけ?ってか、何の話してはりましたっけ?」
灰皿交換に水を差され、話の状況はおろか、何の話をしていたのかさえ脳内から吹き飛んでいる後輩。
「そやなぁ。さっきの話はなぁ。仕事っていうもんは……。っていうか、もうええわ!」
熱演を中断させられ、先ほどと同じような熱さ、同じようなテンション、同じような熱量で話もできず、だったら、その熱量を必要とする語らいなんざ、こんなにも冷え切った熱量でやっても意味ないわ!と投げやりになり、キレ倒す俺。

誰を責めるべきか。灰皿交換サービスじゃろ。あの、空気も読めずに割り込んでくる、灰皿交換サービスじゃろうがい。灰皿は火を消すためのものであって、心の炎まで消し去って行くっちゅうのは、どういうこっちゃい。

何も熱い話をしてる時だけやない。あいつらは、笑いのネタを話してる時にも、いけしゃあしゃあと割り込んできよる。
計算されつくしたネタを饒舌に喋りながら、まずはフリや、ネタっちゅうもんはフリが命や、フリのリアルさが、そのネタの後半で活きてきよるんや。話のつまらん奴っちゅうのは、このネタフリが下手クソで、早よう早よう話の核心を突きたがるよって、話が尻つぼみになりよるんじゃ。俺のフリは天下一品やど、見とけ見とけ、よう聞いとけ、そのフリからどないな話の展開になるか、お前ら楽しみでしゃーないやろ、もうちょっと待っとれよ。

などと、我、笑いの覇者なり、といったようなバカげた様子で、恥ずかしげもなく話を進めている最中、ようやく話も終盤、さぁ、ボルテージが上がって参りました、ラージヒルで言うたら、既に滑降を開始、グングンとスピードが乗る乗る、さぁ、やって来ましたで皆さん、ついについに、お待ちかねのオ……!
「灰皿交換しまーす」
でたっ!またしても、このタイミングで来るか。どういう神経しとるんや。あとオチを残すのみやったんやぞ、ワシのネタは。このオチまでに、どれだけ焦らして焦らして、丁寧にネタフリを話しとったと思うとるんや。こっちのそんな苦労も露知らず、よう能天気に灰皿交換なんかしに来やがったのう。

そして、同じパターンになる。
「先輩、それで、その話って、最終的に、オチどないなんですか?」
「え?オチ?」
灰皿交換で中断された話の、オチだけを話させられるパターン。
「オチはなぁ……。結局、携帯と間違えて、テレビのリモコンで電話かけよう思うとったんじゃーー!」
場は白ける。
「ははは……。そうやったんですね……。面白いやないっすか……。ははは……」

そりゃそうなるわな。灰皿交換サービスまでの熱量は、すっかり冷めてしもとるもんなぁ。それで笑えるほど、笑いは甘くないわな。
吉本新喜劇で、島木譲二が、「しまった、しまった……」言うたタイミングで、「灰皿交換しまーす」などと割り込んで来ようもんなら、さすがに、ネタの中断後に、「島倉千代子」などと叫んでみたところで、客席はクスリともしないだろう。

ようよう考えてみると、居酒屋や飲み屋というものは、熱く語りたい、アホになって笑いたい、惚れた異性を落としたいなど、それなりに本気の連中が、大いなる熱量を持ち合わせて集っている場といっても過言ではない。
となると、いずれの客席にも、様々なストーリーがあり、ひとりひとり、その場に賭ける思いや勝負、戦いがあるはずである。
それを思うと、本来、その場に提供する灰皿交換サービスは、ある種の命懸け、戦場で鉄砲玉が飛び交う間を縫うが如く、死に物狂いでサービスを提供する必要があるんじゃないだろうか。

例えば、熱い話がひと段落した様子を見せたタイミング、オチがイマイチで語り手がスベッたタイミング、異性への下心が見透かされ冷え切ってしまったタイミング、そういったタイミングを、プロの視線、プロの視点から察知し、「灰皿交換しまーす!ついでに、冷え切った空気も交換しまーす!」くらいの粋なサービス精神で持って、割り込んでくるべきじゃないのか。

それほどのサービス精神がないのなら、あの例の灰皿交換サービスというやつは、過剰なサービス、不毛なサービスと思えて仕方がない。そもそも、交換して欲しいときは、声をかけるから。

そうやって過剰サービスを思い浮かべてみると、世の中にあるわあるわ。
服屋にて、のんびりと服を見ている時に、横から話しかけてくる店員の、「この服ねぇ、今人気で、買って行く人多いんですよー!」といったアドバイス。
こちとら、誰も買ってないような特異な服を探しとるんじゃい。誰でも買って帰るような、分かりやすい服なんぞ、要らんねん。そのアドバイス聞いて、買うのやめるわ。
他にも店員、「これ、いいっすよねー!僕も気にいって、一着持ってるんですよ!」といった情報。
お前が持ってるんなら、お前とカブるの嫌やから、買うのやめるわ。
美容院でもそう。髪の毛を染めたりパーマネントを当てたりする際、待ち時間をぼんやりと空想でもしながら過ごそうとウキウキしているところに、「良かったら読んでくださいねー!」などと、ファッション雑誌を4~5冊も用意されるサービス。
わしゃ視力悪過ぎて、裸眼じゃ、本など読めんし、MEN'S NON-NOなど手渡されても、この田舎モン丸出しのワシの服装を見てみれば、どう考えてもお門違いだと分かるだろうに。嫌味かい。

ほんまに世の中には過剰サービスが多すぎて困るわ、などとブツブツと文句を言いながら、得意先様との商談中、ちょっとした冗談で、いつもいつもお世話になっていますので、今回は無料で2~3点くらいならデザインいたしますよー!なんてケラケラとほざいていたら、お客様ご満悦のご様子で、その冗談を真剣に受け止めていただき、まさかまさか、グラフィックを2~3点ほど無料でデザインをせねばならんようになってしまった。

どうやら、ビジネスの世界では、サービスは、過剰であればあるほど、望まれるらしい。

『デタラメだもの』

201141116

合理的に考えると、出したものをいちいち片付けるという行為は、ナンセンスに思えてこないだろうか。『デタラメだもの』

出したものをいちいち片付けるというのが、なかなか解せなくて、反抗的になって、幼少の頃などは、部屋など、身の回りがグチャグチャになっていたものだ。

そういえば、小学生の頃から感じていた、そういう違和感。
明日も使う教科書を、なぜに今日、家に持ち帰らねばならぬのだ。すぐまた使うであろう鉛筆や消しゴムを、なぜにいちいち筆箱になおさねばならぬのだ。すぐにまた読むであろう読みかけの本を、なぜに本棚にいちいち仕舞わねばならぬのだ。解せない解せない、非効率過ぎて、解せない。

そう感じていた僕は、徹底的に、収納を指導してくる大人たちと抗い、権力やら腕力やらで押さえつけられ、それでも抵抗をやめなかった僕は、通知表と呼ばれる、人間を評価する下らない紙面の備考欄とやらに、アレやらコレやら文句をツラツラと書かれて、お前たち大人は、なんじゃい、聖人かい?完璧な人間なんかい?だとしたら、ロボットかいお前らは?ひとつもミスを犯さないような天空人のような存在なのかい?崇拝すれば気が済むのか?と毒づき、やたらめったら、路上に唾などを吐き散らしていたけれど、成人して果てしなく歳を取った今でも、変わらず、収納というものは解せない。

「出したものは片付けなさい!」
「うるさいわい!すぐにまた使うんじゃい!出したものをいちいち収納しては、またいちいち取り出して使って、ちょいと使い終わったと思った刹那、またしても収納するような無駄な時間を浪費するほど、人間の人生は短くないんじゃい!」

となるわけである。

この考えに異論のある人は、おそらく僕よりも、余命が二倍くらい長い人なんじゃないだろうか。
僕も、余命が今の二倍近くあるとするならば、出したものを収納することも粋なこととして取り組むかも知れない。
しかし余命が二倍ない今の現状、僕には収納している余裕はない。

そんな風な僕には特異な性質があり、これが、前述を主張するに胸を張れる所以なのである。
それはつまり、使わないものに関しては、徹底的に収納するという性分を持ち合わせているというところ。
なので、僕の身の回りは、散らかっているどころか、閑散と見えるほどに整頓されている。
要するに、超合理的なのである。
すぐ使うもの、よく使うものに関しては、徹底的に片付けず、これは使わないだろうと踏んでいるものに関しては、徹底的に片付ける。

この性分の自分で面白いと思うところに「これはよく使うよなぁ」と決め込んだものが多いシーズンには、想像に易いが、身の回りが異常なくらいに散らかることになる。合理に囲まれることになるのである。
その状態を見て人は、「ほんまにお前、それらの全部を使う予定あるんかい!」となるのであるが、当の本人にしてみれば、「使うから出しとるんじゃい!」となるために、他人との間に、意見の相違が生まれ衝突、となってしまうわけである。

そしてまた自分の中で特異だと感じる性分のひとつに、つい先ほどまで、「これ、近々使う予定あるよねー!」と感じ、身の回りに出しっぱなしになっていたものたちが、一瞬にして、「ん?やっぱりこれもあれもそれもどれもこれも使わんのちゃうやろか?」と極端に感じ、収納するどころか、全てを捨ててしまうことがある。

往々にしてこういう予感は正しかったりするもので、パソコンのアプリケーションやファイルやフォルダなどを例にとってみると、頭に浮かぶのが、少しく以前、職業柄、パソコンをさまざまカスタマイズしたり、いろんなソフトウェアをインストールしたりなど、パソコンの内部をゴテゴテにして使用していた頃があった。

これほどまでに使い込んだパソコンは、買い換えることも難しく、生涯このパソコンを使わねば、容易くは内部の移動などもできず、困ったもんだと頭を抱えていたある日、予期せぬ事故で、パソコンが故障し、一切の復旧も認めぬ悲惨な状況に陥った。

死んだ……。

そう思った。これで俺は仕事ができぬ、趣味もできぬ、今まで培ってきたものの全てが消えうせてしまった、もうオワタ。
一時はそんな絶望に苛まれたものの、ふと、自分の特異な性分が顔を持ち上げ、

「待てよ?ほんまにアレもコレもソレもドレも、俺に必要なもんやったのか?ほんまは使わんもんやったんとちゃうんけ?ほんまは要らんもんやったんとちゃうんけ?」

そう思い、何のソフトもインストールすることなく、前のパソコンから、何ら移設することもなく、ほぼ購入したままの状態でパソコンを使い始めてみた。
するとどうだろう。
そのまま、一切パソコンをイジることなく、今日までそれを使い続けている。特に何も困らない。不便もないわ、問題もないわ、むしろ動作が軽くて快適で、ルンルンしながら、真っ昼間っからシャンソンなんか聴いたりして、紅茶を飲んだり、鼻歌歌ったり、以前の生活よりも優雅に生きることができているではないか。

そんな経験に味を占めた僕は、これら本棚にクソ詰まっている書籍たちの大半も不要なのではないだろうか?
そう思い、読まなくなったビジネス本など、実用的な書籍の全てを処分することに決めた。
ビジネスなんか、我に関係なし、我に関係のあるものは、ファンタジーのみ、ファンタジー系の書籍さえ家にあれば、我はどこまでも生きていける。そう思い、大量のビジネス本を紐で縛り、集合的な意味合いのあるゴミ捨て場に持ち込んだ。

部屋に戻り、スリムになった本棚を眺めながら、はははぁ、身が軽くなった、俺の中からビジネスという四文字が消え去り、浮世離れの生活を歩めるぞ、ぎゃはははと楊枝片手に高笑いしていると、ふとあることに気づいた。

「あれらの書籍、古本屋と呼ばれるサービスに持ち込めば、それ相応の対価を貰えるのではないだろうか?結構、高価な書籍もあり、別荘のひとつでも購入できるかもしらん!」

天才的な閃きに、猛烈な勢いで部屋を飛び出し、集合的な意味合いのあるゴミ捨て場に駆けつけた。
その間、ものの五分程度。
世間とは、猛スピードで流れているもので、閃き、駆けつけたその五分の間に、ゴテゴテと闇鍋の如く散らかっていたゴミ捨て場から、先ほど我が捨てた高価な書籍類のみを丁寧に運び出し、持ち去っていた猛者がいたのである。
なんとまぁ、損をした。自分の持ち物を、計らずも他人に分け与えてしまい、それだけならまだしも、そいつはきっと今頃、僕が分け与えたその財産で、別荘のひとつでも買っていることだろう。

その事実に、トボトボと肩を落としながら家に帰り、気分転換に読みかけのマンガでも読もうと本棚に目をやると、先ほど捨てた実用書群の中に混ざって、読みかけのマンガまで捨ててしまっていることに気づき、憤怒憤怒激怒激怒の末、煮えきらぬ気分のまま古本屋に足を運び、読みかけのマンガを購入。

必死の思いで自宅に戻り、マンガをペラペラとめくると、ひとつ前の巻を購入していることに気づき、「一巻の終わりだ……」と呟いたかどうかは、当時、部屋で買っていた金魚のみが知る事実である。

デタラメだもの。

201141102

麗しき常連という響きに誘われて、危険な蜜に群がる僕たち。『デタラメだもの』

常連客というものは、一見さんからすると、憧れの存在であり、羨望の眼の対象なわけである。
そして、自分がその店の常連になれたと感じる瞬間は、何よりも優越感があり、ふふふん、俺はここの常連だぜ、君たちとはひと味もふた味も違うぜなんて、鼻先にそよ風を吹かせたりもできる。

入店時、通常であれば、「いらっしゃいませ」と言われるところを「まいど!」と声をかけられる。
まいどやで、まいど。俺にはまいどって言うてくれるねんど、ほらみろ、今この店の中にいるお客様方々の中で、まいどって言われた人いてはる?仲間やね。ちなみに、いらっしゃいませって言われた人いてはる?はははぁ、君たちは、いらっしゃいませ組なわけやね、そうかそうか、まぁこの店、よろしゅうしたってえなぁ。

と、僕のように、恐ろしく性分の歪んだ常連客が登場するわけである。

先日も、そんな僕は、某立ち飲み屋にて、常連化した。
なかなかに美味しく、果てしなく安く、居心地もよく、仕事帰りに愛用させていただいている立ち飲み屋で、何度も通ううちに、オーダーも固定化されはじめ、先日、気分よく注文した際に、「いつものですね!」と声をかけていただき、有頂天。
いつものですねと言っていただけるということは、僕が注文するオーダーを記憶していただいており、もっと言えば、僕というような希薄な存在をも記憶していただいていることであり、それはつまりは、常連になっていると言ってしまっても良いんじゃあないでしょうか。

ヘラヘラと常連になれたことに浮き足立っているだけと思うなかれ。
常連という響きをこよなく愛しているからこそ、常連の怖さ、恐ろしさ、恐怖、ある種の不自由さをも、僕は身に染みて知っているつもりだ。

以前、仕事の昼休みに、部下と足しげく通っていた、チェーン店の喫茶店。
僕は旧来の面倒臭がりの性分から、毎回毎回同じ品を注文していた。(面倒臭がりの性分というか、その店で最安値のドリンクだという理由からだが)
すると、店員さん、いつしか「今日もいつものですね」と、注文を口にせずとも、オーダーを受け付けてくれるという、いわゆる常連へと格上げしてくれたわけ。
そしてさらには、店外のガラス越しに我々の姿を捉え、入店を予期した瞬間から、そのドリンクを準備し出すというほどに、特別待遇な存在になれたわけである。

当初はこの扱いに、部下共々、わははわはは、我々すっかり常連になったもんじゃ、これは天下統一の日も近いぞ近いぞ、バカヤロウ。と浮かれに浮かれていた。

が、日々飲んでいたドリンクが冷たい種別の飲み物であったため、冬も本番という季節になってくると、「この季節、ちょっと冷たい種別のドリンクは控えさせていただきたいのですがボス。いつものノリでいくと、確実に冷たい種別のドリンクが出されますよね、僕たち常連ですから。でも、僕はそろそろ冷たい種別のドリンクじゃあなくって、温かい種別のドリンクを飲みたいのですが、如何いたしましょうか、ボス」
などと、部下の野郎がふざけたことを言い出した。

一抹の不安が脳内を疾走する。
「いつものですね!」という掛け声は、常連が、いつもいつもお馴染みの品を飽きもせずオーダーするが故に、それを特別待遇のショートカットでもって「いつものですね!」になるわけで、その、いつもの感を逸脱するということは、常連条例に違反することになるのではないだろうか。
そして、ひと度、その掟を破り、常連の道を逸脱してしまうと、店員さんは、こいつらは、大抵はいつもの品をオーダーしやがるくせに、たまにフェイントで、違う品をオーダーする危険性もある。こちらが、いつもの感を出して接していると、不定期にそれを裏切る可能性のある要注意人物たちだ。いつもの感を出して接していると、恥をかかされる危険性がある。一杯食わされる危険性がある。こんな奴らは常連扱いすべきではない。常連扱いどころか、人畜無害なその他のお客様よりも、愚として扱うべきである。
そう思われるに決まっている。

案の定だった。
少し食い気味に「いつものですね!」とオーダーを受付ようとする店員さんを制し、「今日は温かい種別のドリンクをお願いします」と言ってのけた部下。その顔面を、畏怖と軽蔑の念で呆然と見つめる店員さん。
カウンターを挟みながら、とてつもなく気まずい空気が流れ、それはやがて濁り、うねり、いてもたってもいられないような状況に陥ってしまった。

もう想像していただけるだろう。
その日を境に、「いつものですね!」は消滅し、「ご注文をお伺いいたします」という、一見さんと同じ掛け声をいただくようになり、それだけならまだしも、今まで常連であった者たちが、格下げされたという妙な関係性から、気まずさは継続し、そういった居心地を嫌う僕は、以降、その店に足を運べなくなってしまった。

そんな風にして、常連というものは、馴染みの店をひとつ失ってしまうかもしれないという危険と隣り合わせな存在だと、常に意識していなければいけない。
本当にその店が好きならば、常連にならないよう、極力の気を配りながら、お店と接する必要があるのかもしれない。

常連でふと頭に浮かんだのだけれど、僕がまだ若かりし頃、高校生くらいの頃だったろうか、父親と一杯やる機会があり、父親、息子と飲むというたまの機会に、たいそう気分を良くし、ぬはははぬははと酒を煽り、しまいにはこう言ってのけたわけである。

「坊ちゃん。我輩が常連とされている飲み屋に連れてってやろうか」と。

連れてこられたのは、少し場末で、日本国籍ではない国の方々がカウンターの向こう側にいる風情のお店。
常連扱いされていることを息子に誇示したかったのか、カウンターの向こう側でニコニコする異国の女性たちと、やたらめったらデレデレする父親。
今も昔も、そういう風情のお店を好まない僕は、それをひどく冷めた目で見て過ごしていたのだが、その後、衝撃の事態を目の当たりにすることになる。

父親、お会計の段階になり、カウンターの向こう側からこちら側にやってきた店を仕切っているであろう年長の女性と、何やらモメ出したのである。

「僕は、常連だよね?」
「ごめんなさい」
「常連のはずだよね。それなのに、何、この会計」
「ごめんなさい。お会計間違った」
「常連に何してくれてるの?」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「もう常連の僕、二度と来ないよ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

何故か標準語で激高する父親と、片言の日本語で必死に謝罪する年長の女性。
その様子を見て若かりし僕は、大人というものは、とても醜い存在であると辟易し、自分はこういった類の店には近づかないような人間になろうと意を固め、モメている大人の間を縫って、そそくさお暇させていただいた記憶がある。

今思えば、その様子から学べる教訓があるということ。
そう、お店によっては、入った瞬間から常連化してくれる店もあり、常連客だと洗脳してくる店もあり、その常連から容赦なくぼったくりを計ろうと企む店もあり、店によっては、それら常連を、カモと呼んでいる店もあるということ。

常連、怖ろしや。
されど憧れる、常連という響き。

デタラメだもの。

201141026

牛丼、並、つゆだく。先人の雄姿が切り開いたその道に、僕らはただ従うのみである。『デタラメだもの』

つゆだく。

皆さんご存知の方も多いとは思うけれども、このつゆだくというシステム。システムというか注文方式。
いわゆる牛丼を食すことのできるお店では、一般的に注文の際に、

「牛丼、並」

などと、食べたいメニューと、サイズを伝え、それでオーダーは終了。あとは、希望の品が運ばれてくるのを待つだけといった塩梅であるが、これが何やら、

「牛丼、並、つゆだく」

と店員様に申し付ければ、なんということでしょう、牛丼の汁が多めの状態で、牛丼の並が運ばれてくるという、何ともお得な注文方式があるということを知って早二十余年。

この、つゆだくシステムなる注文方式には、とてもお得感があってたまらんわけである。
なんと言っても、普通に注文していたならば、牛丼の並盛だけが運ばれてきたところ、この注文方式を申請して注文すれば、多めの汁がサービスとして付加されているわけだもの。なんとお得。

そこでふと疑問に思うわけである。
一番最初に、これを注文した人は、誰なんだ?ということ。

だって、よく考えてみれば、当店のメニューには、「つゆだくシステム有り舛」などと、ご丁寧な解説文は書かれていない。メニューのどこを見てみても、書かれていない。にも関わらず、前人未到のこの注文方式を試みた猛者が、この世にはいるということだ。
そうして、その猛者の雄姿に続かんとばかりに、続々とつゆだくを注文する後陣が現れ、そして今や、誰しもが知るほどに、その注文方式は有名になったわけである。

となると、この猛者は、とてつもない功績を後世に残したということになる。

そしてもうひとつ疑問に思うことがある。
それは、他の飲食店やらサービス店などで、どこまでだったら、この、つゆだく注文方式を、ズケズケと申し付けてもいいものか?ということ。

牛丼には、汁というものが付き物。なので、つゆだくが来れば、お得感がある。では、ラーメン屋の場合で行くと、肝心要の麺、ほぼメインと言っても過言ではないチャーシュー、汁はもともと、器にたっぷり入っているので増量する必要がないとすれば、それらを除くもの、すなわち、葱、もやしなどの、その他の具材。これらを、つゆだくシステムを申し付けることによって、増量することなどは、果たして可能なのだろうか。

可能なのである。

ちょくちょく顔を出すラーメン屋の場合においては、葱多めや、野菜多めといった具合に、その他の具材に対して、多めという指示を予め出すことによって、運ばれてきた器の中には、その指示通り、その他の具材がてんこ盛りになって運ばれてくるといったハレンチな現象が。
ここにも、つゆだくシステムが。

そしてメニューを見てみると、またしても、そのラーメン店のメニューには、「葱多めでき舛」や「野菜多めでき舛」などといった良心的な記載はないのである。

じゃあ、なぜそのラーメン店において、僕がつゆだくシステムを申し付けることができたのかというと、単純である、そう、先人を切ってそれらを申し付けていた猛者がいたからである。
ただの真似事だ。ちゃっちい人間だ。真似事しかできないでいやがる。しかしだ、葱多めは魅力的、野菜多めは魅力的、僕だってその他の具材が多いほうがいい、多いほうがいい。多いほうがいいに決まっている。
そうやって悶々した問答の末、無事、つゆだくシステムを申し付けることができた。

これまたラーメン店において、一番最初に、「葱多め」や「野菜多め」なる、つゆだくシステムを試みた猛者がいるわけで、その猛者の心中たるやいかに。どのようにして、一見すると、たいそう厚かましいような、そんな暴挙に出ることができたのか。

「店員さん、ひとつお願いがあって……」
「なんすか?」
「あの……」
「なんすか?」
「私の注文の件でござんすが、どうにか、葱を多めにしてもらうわけにはいかないだろうか?」
「お客さぁーん、バカ言ってんじゃないよ。そんなサービスしてたら、ウチの店、潰れちゃうに決まってんじゃなーい。お行儀の悪いこと言わんでくださいや」

などと、決死の覚悟も、軽くバカにされてあしらわれてしまう可能性だってあるはずなのに。
プライドも誇りも地位も名誉も、その人が築き上げてきた全てが崩壊してしまう危険性だってあるはずなのに、それなのに猛者は、いや、先駆者は、ありったけの勇気を振り絞って、葱多めを申請したわけである。
それを思うと、日本人というのは、やはり侍の魂を持った人種であると、感涙だ、感涙。

ただ、そうなってくると、先人というものは、全てが全て、成功の道を辿るとは限らない。
多くの猛者たちが挑み、生き延びる者もいれば、志半ばにして倒れる者もいる。そうして、生き延びた者の轍こそが、道となり、道となるわけだ。
となると、中には、

「牛丼、並、牛多めで」
「は?」
「あ、つゆだくシステムを申し付けさせていただきますので、僕、牛丼、並、牛多めで」
「大盛りですね?」
「いや、牛丼、並、牛多めで」
「警察呼びますよ」
「すみません。牛丼、並で……」

と、果敢にも、牛を多めにしてくれと懇願し、命を奪われかけた先人もいただろう、可哀想に。

そうなってくると、何が可で、何が否なのか、さっぱりわからなくなってくる。
キムチが食べ放題のラーメン店もあれば、キムチは買わねば食べられないラーメン店もある。
葱入れ放題のラーメン店もあれば、葱はトッピングだからと、お金を払わねばならないラーメン店もある。
空気はタダで吸えるのに、自転車に吸わせる空気には、数十円が必要で、試食として出されているスーパーの食べ物は、ひとつだけ食べれば見込み客扱いなのに、二十個も三十個も食べれば、警察を呼ばれそうになる。

僕は元来の内気な性格も手伝って、先人が注文しているのを盗み聞きしたお得サービスしか、よう注文などできないし、試みた結果、それを却下などされようもんなら、あまりの恥ずかしさに、身ぐるみを自ら剥がしてその場から逃走でもし兼ねない。
そんな風にして、知らぬところで、お得を享受し損ねて生きているのかも知れない。

そう言えば以前、八山なる僕の人生の後輩と、良いお酒を楽しんだ後、カラオケでも行ってワイワイやろうやということになり、駅近くの、某格安カラオケチェーン店に入ったものの、繁華街の店であったがため、長蛇の列となっており、到底そんなには待てないやということで、退店。

でも、どうしても、大声で歌でも歌ってさいならしたいよなぁと相成って、その某格安カラオケチェーン店の向かい側にある、高価で有名なカラオケチェーン店に入店。

「いらっしゃいませ」と受付で声をかける店員に対して八山は、
「向かいの某格安カラオケチェーンなんかには一切なびかずに、こっちのカラオケに来ましたねん!そやから、ルーム料金安くしてやぁー!」
と、つゆだくシステムを逸脱したような、暴挙、暴君、愚行に出たわけである。
その様子を見て、あほなこと言いないや!と横からつっこもうとした瞬間、
「はい!では、ルーム料金、20%オフとさせていただきます!」
と店員は、その八山の暴挙に戸惑うこともなく、あっさりと、室料の値引きを快諾したのである。

これはいったい、何システムが働いたことによるサービスだったのだろうか。
世の中、何が可で、何が否か、余計にさっぱりわからなくなった。

デタラメだもの。

201141019
著者

常盤英孝(ときわひでたか)

《3分後にはもう、別世界。》 3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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