デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

だから乗り物にはめっぽう弱いんだってば、力が全く発揮できないんだってば。『デタラメだもの』

よくよく考えてみると、大阪と東京だなんて離れた場所にビジネスの拠点があるということ自体、なんだかおかしな話だなあと感じつつも、仕方ないじゃない、東京にいらっしゃるお客様に呼んでいただけるのですもの、ビジネスの中心地は東京なんですもの、お飯を食べ続けて行くためには、ビジネスの中心地に行く必要があるんだもん。

例の如く、新幹線に乗って、ビュンビュン移動する。
どうやら新幹線みたいな乗り物で高速移動をしていると、人間の体内では、細胞が死んぢまってるみたいやね。
元来、人間の身体というものは、やれ猿から進化しているやら、アダムとイブが禁断の果実をどうやらこうやら、ともかく、新幹線のような俗な物がこの世にない時代に創られているのは間違いなく、粗野で粗暴で原始的な世の中にこそ、本来の人間の身体というものは適正ということになる。新幹線のような俗な物に最適化していけるほど、人間の身体がマルチではないため、新幹線で高速移動をしていると、細胞が死んぢまうみたい。

とある権力者が僕にそう教えてくれたので、僕は方々で、この雑学を披露しているのだけれども、これが嘘だったとしたら、とある権力者をどついてやろうと思ってはいるものの、権力者には僕の拳は全くといっていいほど及ばないはずなので、こちらの説、正誤を確かめず、やはり方々で披露し続けて行く所存である。

そんな余談はさておき、新幹線の高速移動によって細胞が死滅していくということは、どういう状態になるかというと、誤解を怖れず単純に言い切ってしまうと、現地に着いてから疲れる、のである。
もう、この疲れたるや、尋常じゃない。なんでこんなことせなあかんのん、ぐらい尋常じゃない。

ビジネスの中心地であり本拠地である東京に出向くとなれば、前日には、その準備やら出張中に進行できない仕事を前倒しでするやら、余念余念での備えなら、なんやかんやと没入していると、だいたい毎回、ほぼ寝ずの出発となる。
寝ずの出発の上に、高速移動で細胞を殺されてしまっては、そりゃ到着したときに、「あぁ……しんど」となるわけだ。

で、何が言いたいのかというと、「あぁ……しんど」な状態でいざ東京となっているわけで、そうなってくると、東京での打ち合わせ時にも疲労は隠せないし、徹夜によって時差ボケのような現象も起きているわけで、結果的に、本来の自分、元来の自分、ポテンシャルというやつ? それが全くといっていいほどに発揮できないことになり、ビジネスの中心地、本拠地にゴロゴロといらっしゃるビジネスの猛者たちと対峙するときに、やたらめったら能力のない奴、ひ弱な奴、主張のない奴、論理破綻した奴、などの扱いを受けることになる。

こんな愚痴を披露してしまうや否や、ビジネスの中心地、本拠地の猛者たちは、きっとこう言うだろう。
「だったら、前の日から東京入りして、休息してからビジネスに挑んじゃえば?」と。

悲しいかな、ビジネスの中心地、本拠地ではない都道府県の且つ中小企業で働く者たちは、前の日、所謂、前乗りして宿泊できるだけの経費なんぞ、使えないのである。

「一泊するのに、ナンボかかる思うとるんじゃい! その出張で、一泊分の宿泊代をペイできるくらい稼いで来れるんかい! 稼ぎの見込みも立っとらんくせに、何を偉そうに経費使おう思とるんじゃ餓鬼! 日帰りでピャー行ってこんかい! あほんだら」

などと罵倒されて仕舞い。

こんな事情もあって、やはりビジネスの中心地、本拠地に着く頃には、ヘトヘトの状態になっているので、やっぱり本来、元来の自分のパワーというものは、微塵も発揮できないわけである。

これは何もビジネスの世界に限ったことではない。
僕という生き物は、乗り物にめっぽう弱い。すぐに嘔吐してしまう。自分が運転する車を除けば、大半の乗り物で酔ってしまう。
電車はもちろん、バスだって、タクシーだって、なんだって酔う。これについては、自信を持って言う、なんだって酔う。
どれくらい酔うかというと、若かりし頃、お金がないくせに、調子に乗って、大阪から夜行バスで東京に行ってやらんと企み、酔いの不安を若気の至りで蹴散らして、夜行バスに乗り込んでやった時のエピソードがそれである。

天王寺という街からバスに乗り、出発後すぐ、上本町という街で別の乗客を拾う。
さぁ、今から八時間近くのバスの旅ですぜい! と息巻いている乗客たちを尻目に、僕は既に、上本町の段階で酔って吐きかけていた。天王寺から出発して、まだ十五分くらい経ったころである。
これから八時間近くの移動になる人間が、出発後十五分で酔ってしまっているんだ、後の七時間四十五分は、地獄以外の何物でもない。

ともかく、それほどに乗り物に弱い。
なぜに今、殊更に乗り物にめっぽう弱いことを訴えたかと言うと、ビジネスの中心地、本拠地に乗り込んで本領発揮ができないことを思い返しながら、自分が昔、少年野球に所属していた日の苦い思い出が顔をもたげたからである。

少年野球と言えば、ホームグラウンドに敵軍を呼び寄せて試合ができる日ばかりではなく、相手方のチームに呼ばれ、アウェイのグラウンドに出向いて試合をする日もあれば、大会に参加する時などは、問答無用にその大会が実施されるグラウンドに出向く必要がある。
それらの移動は、車だ。
そして、僕は、乗り物にめっぽう弱い。

乗り物に弱い僕は、試合に出向く時にはまず、朝一番で憂鬱が襲ってくることになる。
それは、強豪の敵軍と試合をして完膚なきまでに打ち負かされることを怖れてとか、自分がスランプに陥ってしまっていて、好成績を残す自信がないとか、そういった類の憂鬱ではなく、単純に、移動中の車で酔ってしまうからである。

思い返せば、移動中の車、高速道路を走っている時に、酔いを我慢できずに、おもむろに窓を開け放ち、高速走行中の窓から嘔吐したこともあったし、敵軍のグラウンドに着くや否や、グラウンドの隅に走り寄って、土の上に嘔吐したこともあった。

チームメイトたちは、意気揚々、車を降りてすぐ、アップを始めたり、闘争心を剥き出しにしたり、バットをブンブンとスイングしながら身体を慣らしたり、今日の作戦を立て合ったり、とにかく試合に勝つことだけに集中しているわけだけれども、自分はというと、車での移動で、ほぼ全ての体力を奪われ、目は回っているし、気を抜けば、まだまだ引き続きの嘔吐感が襲ってきそうで、とてもじゃないが、野球どころじゃない。
水やら清涼飲料水やらを口に含みながら、なんとか嘔吐後の臭いやら味やらを消そうと必死に努めながら、霞む視界の中でグラウンドの景色を眺めたものだ。

そんなやむを得ない事情があったからか、三年ほど少年野球を経験したが、出場した全試合を通じて、バットにボールを当てることができたのが、三度ほどだったと記憶している。
ピッチャーゴロが二度と、センターフライが一度、それ以外の打席は、全て三振だったはずだ。
言い訳をさせて欲しい。
バッターボックスに立っても、乗り物酔いをしまくった自分の目には、ピッチャーのボールが二~三個に揺らいで見える始末で、ボールの位置に合わせてバットを振ったとしても、三半規管の感覚がグラングランになっているため、思った位置にバットを振ることなんざ、到底できない。
だって、立っているのがやっとだもの。

ウチの少年野球チームは、弱小チームということもあり、試合中にあまりにも三振打者が続けば、監督が審判にお願いをし、三振したとしても、一塁ベースまでは全力疾走させてもらうという、青春であり且つ、鬼のような辱めを味わうという風習があった。
当の僕はといえば、三振も去ることながら、その直後に、一塁ベースに向かって走ることも苦痛であり、走りながらも嘔吐感に苛まれながら、ひたすら遠くに見える一塁ベースを目指しながら、脳内で考えることはといえば、帰りの車中で、再び車酔いに耐えねばならないという恐怖。

そんな状態で、野球なんかできるわけがない。
その後、僕は、野球をやったり、バスケットボールをやったり、スポーツ以外では、音楽をやったりあれこれとやってはきたものの、よくよく考えてみると、何をするにも、電車やバスの移動は付き物で、それをやっちまうと、僕は僕本来の力を発揮できないことを承知しているため、乗り物酔いというボトルネックが原因で、どれもこれも志半ばのまま、放棄してきた。

だからこそ今、新幹線などという俗な乗り物に乗って、ビジネスの中心地、本拠地である東京に出向き、着いた頃には、酔いに耐え、身体が疲れている中で、さらにビジネスの猛者たちに会って格闘するということは、あの日の少年野球の苦悶の日々を思い起こさせ、ビジネスのチャンスは東京に転がっているなどと言われ続け、事あるごとに、東京に出向け東京に出向けと言われているものの、未だに仕事の一つも取って帰阪できない理由は、そんなところにあるのだと、この場を借りて力強く訴えたい。

付け加えて行っておく。
僕が本来の力、元来のポテンシャルを発揮できる限界の移動距離は、各駅停車で四~五駅程度の場所だ。
それ以上の移動を伴った瞬間、僕の力は半減していく。
もちろん、東京などという遠方な地では、僕の力は、ほぼ皆無に等しい。
そういうことを鑑み、移動の指令は、各駅停車で四~五駅程度に留めていただくよう、会社に申請しようかと思っているが、もしそれが許可されない場合は、もう打つ手なく、黙って一塁ベースまで全力疾走するほか、ないと自覚している。

デタラメだもの。

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妙な記憶力を持ってしまったがために、これほどまでに悩むはめに。『デタラメだもの』

妙に記憶力が良いというのも、困りものである。
かく言う自分は、妙に記憶力が良く、ほとほと困らされる場面が多い。

早速話が脱線して恐縮ではあるが、記憶力も去ることながら、鼻も妙に利く。この、鼻が妙に利くというのも、ほとほと困りものである。
どう考えても、一般人の数倍近くの嗅覚があることは間違いなく、それで何が困るかと言うと、世の中が悪臭に包まれていることである。
公衆便所はもちろんのこと、街の至る所や電車の中。この電車の中なんていうものは、最悪だ。特に夏場。嗅覚が異常に発達している人間からすると地獄以外の何物でもない。
朝の起き抜けの不機嫌な中、満員に近い電車に乗ると、目の前におっさん。それほど身長の高くない自分の鼻は、ちょうどおっさんのうなじ付近に位置することが多く、ただでさえ悪臭が漂っている車内の中、高性能な鼻のまん前におっさんのうなじを近づけられた日には、卒倒しそうになる。
ということもあり、普段、僕はめったと鼻で息をしない。どこに行っても鼻で息をしない。口呼吸のみである。トイレもそう。風呂場もそう。給湯室もそう。どんな場所でも、鼻で息をしない。不意を突いて、鼻腔内部に、悪臭が侵入してくることを極度に恐れるがために、鼻で息をすることをしなくなった。それにより、ニオイ問題は解決されつつあるものの、鼻が極度に利くというのは、本当に困りものなわけだ。

話を元に戻そう。
記憶力についても、妙に発達してしまうと、自分自身を困らせる能力の一つに化してしまう。
じゃあ、いったいどんな記憶力に長けているのかというと、人の顔を覚えすぎてしまうことだ。

軽く接点があった程度の人だろうが、一度街中ですれ違って、何らかの印象に残った程度の人だろうが、ひと度、顔を認識してしまうと、どんなことがあろうが、記憶から消えてくれない。

それのどこが困りものなんだ? きっとそう思うだろう。記憶力が良いってことは、便利なことなんちゃうんかい? そう思う人も多いだろう。それがそうでもないんだなあ。覚え過ぎているってのも、都合が悪い。
なぜか?
それは、こっちが相手の顔を覚えているにも関わらず、相手はこっちの顔を覚えていないというケースに出くわすことが多いからだ。
実際に、相手に対して、「僕のこと覚えてはります?」と確認し、「はて? どなたさんでしょう?」などと、無礼なことを言ってのけられた経験があるわけではない。
だけども、もう生まれてこのかた、長い年月を経て、それなりの経験を積んだ自分なら分かる。絶対に、相手は、こちらのことなど記憶に残してくれてやしない。

僻み根性からなんだろうか? いや違う。自分の妙な記憶力の凄まじさと、他人のそれとを比較した場合、圧倒的に差があるのは歴然で、そうすると、こちらが記憶している相手と言えど、相手はこちらを記憶などしてくれていない。

例えば、街中で、知った顔を目撃することが多い。知った顔と言っても、前述通り、過去に軽い知人であった程度の人から、一度だけ会ったことのある人、こちらが身勝手に認識し印象に残してしまっているだけの人もいるが、それらを総じて知った顔と言って語弊がないとするならば、街中ではよく、知った顔に出くわす。
そうなった場合、もちろんこちらは、知った顔と言ってしまっているくらいなので、記憶に残っているが、向こうは絶対にこちらのことなど、記憶にないはずだ。
となると、「久しぶり!」とか「ご無沙汰してます!」などと、フランクに声をかけるのも歪で、向こうからすると「誰やこいつ?」ってな相手が、突如としてフランクに声をかけてくるもんだから、慌てふためいて仕方がないだろう。
そして、相手に対して、「このフランクな兄ちゃんはこちらのことを覚えてくれているのに、こっちはこの兄ちゃんのことを覚えていない。自分はなんて不覚な奴なんだ。武士の世界ならば、切腹して詫びねばならない失態。どない償って良いものだろうか。すんません、すんません。こんな無礼な自分を許してくださいませ……」と、こちらのことを忘れてしまっている失態について、心の中で、深く陳謝させてしまうことになる。

それを知ってて、「久しぶり!」などと、テヘヘ顔して言ってのけられるわけがない。その軽率な行動が、相手の心を踏みにじってしまうことになるのだ。「久しぶり!」なんてセリフは、口が裂けても言えない。

仮に相手が、「あぁ……。ご無沙汰してますぅー」なんて、超大人な対応で、こちらのフランクな態度に合わせてくれたとしても、相手の口元に、少しでも居心地の悪さが滲み出たりしようもんなら、ああ、やっぱり覚えてはらなかったんだな、悪いことをしたなあ、一生懸命に覚えている風の演技でその場を過ごそうとしてくれてはる、本当に申し訳ないことをしたと、こちらも罰が悪く、足早に立ち去らねばと反省し、猛ダッシュの末、近隣の川にでも飛び込んでしまうしか、身の振り方がなくなってしまうじゃあないの。

だから嫌なんだ、記憶力。
よく、「俺、他人の顔とか、名前とか、覚えられないタイプなんスよぉ」とか、風俗のキャッチの兄ちゃんのようなテンションで言ってのける輩がいるが、そんなことが言えるということが、どれほど恵まれたことかを、しっかりと噛み締めて欲しいもんだ。

妙な記憶力の良さを疎ましく思っている自分が取れる処世術として、知った顔が街中で出現などした場合、道路だったら、逆側の道路へとスピーディーに移動する。電車内だったら、次の停車駅で一瞬だけホームに降り立ち、隣の車両に移動する。どうしてもニアミスしそうな一本道の場合には、人生に何の兆しも見えず、お先真っ暗で未来も見えない極度の憂鬱を抱いた人間の如く、足元を見つめながら歩いている風情を醸し出し、俯き加減ですれ違う。そんな処世術を駆使しながら、知った顔と接触しないようにして生きている。

どうしてそんな処世術を駆使しなければならなくなったかというと、知った顔の人々が、こちらに対して、「久しぶり!」だとか「ご無沙汰です!」とか、声をかけてくれたためしが、一度たりともなかったことに起因する。
一度でもそんな幸福な瞬間を経験していたとしたならば、こんな自分も胸を張って、「久しぶり!」とか言ってのけられる人間になれていたのかもしれないが、悲しいかな、そんな恵まれた瞬間は、一度も訪れなかった。
それほどに、自分という人間は、印象が薄いのだろうか。破天荒に生きているつもりなのに、もしかしたら、誰の目にも映っていないのかもしれない。もしかしたら、透明人間的な要素を兼ね備えているのかもしれない。

そういえば、小学生の遠足のとき、複数の生徒で構成されたチーム制で移動などしている最中、点呼の際に、構成された複数の生徒全員が揃っていないと、チームの不和があるということで、そのチームに対してペナルティが課せられるというルールが採用されていたにも関わらず、ひょんな理由でモタモタと点呼に集合できなかった僕という存在がいたのに、いたのにだ、どのチームに対してもペナルティが課せられた形跡もなく、無事、点呼の際に、複数の生徒で構成されたメンバー全員が集ったという証が残されていたことがある。
僕が点呼に参加できていなかったにも関わらずだ、ペナルティがないとはどういうことだ。それほどに印象にないということか? これほどまでに印象がないと、誰にペナルティを課すことなく、点呼に参加しなくてもいいということなのか?

冒頭の問題定義の主旨が変わってきたことに気づいた人もいるだろう。
妙な記憶力はほとほと困りものだと訴えたい自分がいるのか、自分の印象がとてつもなく薄いという悲しみを訴えたい自分がいるのか、どちらの訴えが自分のソウルから発せられているのか、それさえをも見失いかけている自分がいる。

ただしこれだけは言える、言ってあげることができる。もし、自意識が過剰過ぎて、人前でしゃべることが苦手だと言った人や、人前で何かを披露するときに、極度に緊張し、上手くやってのけられない人、相手に自分がどう映っているのかが不安で、対人関係を上手くこなせない人。そんな人に言ってあげたい。
他人の記憶になんて、そう簡単に残るもんじゃない。他人の記憶に残れるなんて、そんなおこがましい驕りは、今すぐ捨て去ったほうがいい。
心配しなくていい。安心してもらってもいい。君のことなんて、誰も覚えちゃいない。君が他人の前で、いかなる失態をしようとも、他人は君のことなんて、覚えちゃいない。覚えていてくれるほど、他人なんて優しくもない。
だから、他人にどう思われるか分からないから……という理由で臆病になっている君、僕と一緒に、点呼に不参加でいてやろうじゃないか。
きっと、どのチームもペナルティを喰らうことなく、のほほんと、手作りのメダルか何かを首からぶら下げてもらって、のほほんとピースサインで集合写真なんかを撮っちゃってるよ。
安心したまえ、君のことなど、誰も覚えていない。
もちろん、僕のことなんて、もっと、誰も覚えてくれていない。

悲しみから生まれたこの名言は、ぜひとも、記憶の中に留めておいていただきたいものだ。

デタラメだもの。

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いつか連絡を取るかも知らん。そんな奴の連絡先なんぞ、持ってても仕方がないわ、消去消去。『デタラメだもの』

それにしても月日が流れるのは早いもんで、一週間など、あっと言う間に過ぎていきやがる。こんな感じで一週間があっと言う間に過ぎていくようならば、そりゃ一ヵ月だって早く過ぎていくだろうし、一年はもちろんのこと、十年、いや二十年、一生だって早く過ぎてしまい兼ねない。
その証拠に、若かりし頃は、「ああ、早く週末来ねぇかな? 仕事なんてダルくてやってらんねぇぜ。平日、ファック! 週末、最強! 平日マジでダリぃ。早く週末来ねぇかな!」などと、仕事のある平日を毛嫌いし、仕事のない休日を溺愛していたため、嫌な平日はやたらと長く感じ、ウキウキと過ごせる週末はやたらと短く感じ、「もうサザエさんやってるよ…。また明日から仕事だべ。長い平日が始まるわ…」と意気消沈していたものの、それがどうやらここ数年、平日さえもが短く感じているようで、嫌な嫌な仕事が延々と続く平日までもが短くなっているということは、元来短く感じていた休日はもちろん短く、そうなれば一週間というものは非常に短く、そりゃ『いのち短し 恋せよ少女』なんて素敵なフレーズが共感を生むわけだと妙に深く納得している今日この頃である。
こんなスピードで日々が過ぎて行かれた日にゃ、老いや死を意識せざるを得んがな。得んがなまんがな。

話は変わって、自分には、友人というものが居ない。「俺は友だちいないからなぁ」と、涼しげな顔をして言ってのけるような輩の数十倍、いや数百倍、深刻なレベルで友人というものが居ない。
もはや、この歳にもなると、「もう友人とかええわぁ」と達観してしまっているので、殊更に焦る必要もないが、自分という人間は、ほとほと人付き合いが出来ない人間だと痛感する。

ただ、痛感と言っても、痛感とは本来、自分が何かしらしでかしてしまったり、ミスしてしまったり、落ち度があったり、やらかしてしまったりしたその事後、やっぱり自分にはこれは向いていないだとか、やっぱり自分にはこの才能はないなどといった具合に、いわゆる『痛感』するもんだろうが、僕の場合は、周りから『痛感』させられると表現したほうが適切なのかも知れない。

じゃあお前さん、どういった具合に周りからそれを痛感させられているんだいと、多少なりとも興味を持ってくれる人もいるかも知れないので、ひと言でそれを言ってしまおう。つまりは、平素、誰からも連絡というものが入ってこないからである。
またしても、「俺も連絡なんて、平素、誰からも入らんぜ」と、涼しげな顔をして言ってのけるような輩が現れては困るので、先に断っておくけれども、そういった輩の数十倍、いや数百倍、深刻なレベルで、誰からの連絡も入ってこないのである、これ。

先にも書いたように、今ではすっかり達観してしまっているが、僕はその昔、友人知人というものと自分との関係性において、ある法則があるのではということに気づいてしまったのである。
それは何かというと、誰かと友人関係を継続していたとして、それを友人関係だと思い込んでいたとして、こちらからその友人と思い込んでいる人間に対して、ピタッと連絡を送ることを止めてみると、あら不思議、向こうからはこちらに、一切と言っていいほど、連絡を寄越しやがらないのである。
まさかと思い、別の、仮にBさんとしよう、そうなるとつまり、先ほどの誰かさんはAさんということになるので、こちらの誰かさんはBさんとさせていただくが、この友人と思い込んでいるBさんに対しても同様、こちらからの連絡を一切止めてみると、あら不思議、その後、Bさんと連絡を取る機会というものが、全く消滅してしまうのである。

この法則、男女はもちろんのこと、老いも若きも、自分が友人と思い込んでいる人間全てにおいて、この結果になったわけであるからして、となると、僕には友人と呼べる人間が一人も居ないということを意味するわけで、それによって、今では既に、「友人って何? それって旨いのけ?」くらいに達観してしまっているのである。

ただ悲しいかな、浅いお付き合いの人々からは、「友だち多そうですよねぇ」とか「人付き合いが上手いですねぇ」とか「人脈が多そうですよねぇ」などと妙な称賛を受けるので、いちいち否定するのも面倒臭く、「あはは、あはははは、そうですねえ、確かに多くございますわねえ」などと、薄ら笑いを浮かべながら返答もするが、それだけならまだしも、友だちと思い込んでいるような人間から、「お前とおるとオモロイわ!」などと、浪速のレゲエグループが謳う歌詞よろしくの称賛をいただいたりすることもあり、そうなってくると内心、「本心からそうやって称賛してくれてるんやったら、連絡の一つでも寄越してくれるはずやろ……」と、これまた疑心暗鬼に陥る始末。嗚呼、人間なんて、誰も彼も信用できないや。

そうやってすっかり捻くれてしまった結果、携帯電話の機種変更を行う際に、電話帳なるものを、新しい機械に移すということをせず、店員さんから、「電話帳のデータ移しましょうか?」と聞かれたときにも、「いいえ、結構です!」と、クラスメイトから勧められたドラッグをキッパリと断る生徒会長の如く、掌を店員の眼前に突き出し断り続けてきた。
機械的に電話帳を移すことがないので、新しく手にした携帯電話の電話帳は空っぽ。この世界との繋がりが、誰一人として、ない状態を意味する。これがまた気持ちいいんだ。
そうして空っぽの電話帳の中に、この人とは後世、何らかの理由で連絡を送る(もちろん向こうからはかかってはこないが)ことがあるかも知れないと予感させられる人々については、手入力で電話帳に移すという行為を、ここ7~8年続けているが、その数や、年々減少して行く。
これは人間関係を清算していると言うのか、縮小化していると言うのか、スリム化していると言うのか、やっぱり人間関係もエコの時代よね、はははん、電話帳の件数がどんどんと減っているわけである。
でも、そりゃ当然よね。毎年毎年、そのリストは精査されて然るべき。だって、今年も連絡送らなかったな、去年も一昨年も送ってなかったなって、毎年毎年記録を更新しているような人の連絡先なんて、保持してても何の意味もない。万が一、十年先までそいつの連絡先を温めておいて、いざそいつに連絡せねばならないような事態って、よっぽどの緊急事態なような気がして、そんな緊急事態なら、いっそ警察に電話したり、家の前の往来を行くおっさんに声をかけたり、インターネットの知恵袋的な掲示板に投稿したりなどするほうが、よほどの解決に至りそうな気もして、そうなってくると、尚のこと、それは不要、ということになり、削除削除。
今ではすっかり痩せ細った電話帳しかなくなっているという次第である。

ところが先日、仕事で鬱憤が溜まりに溜まり、身元引受人不在の感情が渦巻いてきたため、安酒、世に言うところの缶ビールを大量に流し込んで、おろろおろろと千鳥足で歩いているとき、何の衝動に駆られたのか、その痩せ細った状態の電話帳の中身を、さらに精査したらん! という感情が沸き起こってきたのである。
おもむろにスマートフォンを取り出した僕は、毎回毎回、機種変更を行い電話帳が精査された際にも、その厳正な審査の上、残ってきた精鋭たちに、鬼のようなふるいを加え、迷いのない指の動作と共に、シュンシュシュシュン、次々に消去していったのである。
「ええい、もうええわい、連絡を取るかも知らんって、何やねん。知らんって、何やねん。こっちは、取るかも知らんなんて薄い期待を積み残していたとしても、向こうは連絡を取る気なんざ毛頭無いんじゃ。それだけは明白な事実じゃろがい。それを、いつか取るかも知らんって、わしゃ乙女か! いらんいらん、こんなもん要らんのじゃい!」

結果的に、世の中で僕が能動的に連絡の取れる人間は、ほとんど居なくなってしまった。ががが、気持ち良い。
悦に入りながら、電車の到着を待っていると、やたらめったらリアルが充実してそうな男女二組が、ワイワイと甲高い声を上げながら、同じく電車を待つべく、僕の横あたりにやって来た。
なんじゃい、嫌味のようにワイワイやりやがって、やたらめったらリアルの充実感をアピールしやがってと、鬱蒼とした気持ちを抱いていると、その中の一人の男子が、あろうことか、僕の靴をふとした拍子に思いっきり踏みやがって、こんちくしょう、リアルがやたらめったら充実しているくせに、この我輩の靴までをも踏みやがるなんて下衆の極み、どついてやろうかしらと、その集団にグワッと目をやると、なんと、お連れ様の女子がどちらも、大層ブサイクなお顔をしていらっしゃって、なあんだ、リアルが充実してるってこんな程度か、こんなお顔の女子なんて、連れて歩きたくもないないわな。ぎゃははははと内心喜んでいると、電車が到着したので、ルンルン気分で乗り込んだ。
いいよいいよ、靴踏まれたくらいで僕は怒ったりしないよ、ふふふん、僕は器が大きいからねえ、そんなんでイライラしないよと、酔いも巡り薄ら笑いを浮かべていると、どうやら、下車せねばならん駅には停車しないタイプの急行電車に乗り込んでしまっていたらしく、降りねばならん駅を通過してから二十五分近くも無駄な旅を続けるハメになってしまったことは、少なくともリアルが充実している奴らだけには悟られまいと、ポーカーフェイスを続けてみた。

デタラメだもの。

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歯医者の選定というものは、とても難しいものであるが、軽々しい判断は禁物。『デタラメだもの』

困ったことに、奥歯が疼き出した。
人間ってバカげたことに、歯が疼き出すと、「あっ、これはアカンやつだわ、これは確実にアカンやつだわ」と、その痛みの真の意味に気づきつつも、「でも、もしかしたら、今日一日限定で悪くなっているだけの歯のコンディションなのかも知れないから、深く考えなくてもいいかもよ」と、その不安を掻き消そうとする。
僕もそんな数多の人々の愚行を倣い、その痛みと向き合うことを先延ばし先延ばしにしていたものの、ついにアカン、豆腐を噛んでも歯が疼く、冷たいものがしみるのは当然のことだけれど、温かいものまでしみだす始末。

「これは、歯医者に行くしか他ない」と決断し、歯医者の選定に入るも、過去に、麻酔を効かせる場所を間違え、当の親知らず界隈は、神経が元気ビンビンな状態で、力ずくで親知らずを抜かれた経験、あろうことか、右も左も同様の医療ミスをされ、生死の境を彷徨った経験を持つ僕にとっては、歯医者選びは何よりも重要。
金は無いくせに時間も無いこの身分、土曜も日曜も金を稼がねば暮らして行けぬ経済状況だけに、平日はおろか、土曜だってマメに通える保証はない。

そんな折り、弟が通っていたという近所の歯医者が、日曜日もやっているという情報を入手する。
「日曜日もやってくれているのは心強い。時間の無い僕にはうってつけの歯医者だ。だって、通える日の選択肢が豊富なんだもの、日曜日もやってくれているんだったら」

そんな思いを胸に、インターネットでWebサイトを拝見し、おお、なんだかフリー素材の写真ばっかり使ってて、作られた演出を感じるなぁ、などと職業病を出しつつ、予約の電話をかけてみる。

「すみません。初めてなんですが……」

ひとまず、予約を取り付ける。しかし、一抹の不安が。
それは、受付の電話の女性の応対が、絵に描いたようなダメ受付のそれであり、愛想もなければ、どこかしら高圧的で、「お前、何様やねんボケッ!」と、心の中で呟いてしまうようなタイプのスタンス、そんな横柄な対応をされたもんだから、不安はムクムク。

しかし、こちとら、不安のムクムクよりも、歯のズキズキが耐えられず、皆の前で先生に怒鳴られた後の小学生の如く、テンションが下がった状態で日々を過ごしているのだ、ええい、受付なんて関係ない、愛想なんて関係ない、いざ出陣や。

自転車を医院の前に止め、緊張の面持ちのまま、自動ドアの前に立ち、ドアオープンのボタンをプッシュする。
ドアが開く、一歩を踏み入れる、中を見渡す。

「違和感……」

なんというのだろう、言葉でも文字でも表せないけれど、どこかしらに違和感を覚えた。
医院内はどことなく、インドア系のアミューズメント施設、もしくは繁華街にあるラブホテルを彷彿とさせ、ギラついた受付ブースの内部には、あきらかに品のない若い女性が二名。

「帰ったほうが良さそうな……」

そんな第六感が働くも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
名前が呼ばれるのを、椅子に座りながら待っていると、「お前、なんでそんな怒ってんねん?」と、心の中で呟いてしまうほど腹の立つ声が受付から飛んできた。「奥へどうぞ」、と。

待合フロアと施術フロアの境目は、あろうことか、民族雑貨屋で購入したであろう、大きなサイズのエスニックな布切れで仕切られていて、それをくぐって施術フロアに入ってみると、そこは受付フロア以上に、アミューズメント施設、もしくは繁華街のラブホテルの雰囲気が濃くなり、薄暗い照明、ライムグリーンの壁、無表情に蠢く大勢の歯科助手たち。

「いよいよ、帰ったほうが良さそうだぞ……」

オドオドとしている間に、これまたエスニックな布で仕切られた、薄暗く小狭いスペースに案内された。
待つこと、5分。一人の歯科助手がスペースに入って来て、問診っぽいことをし始める。
スペースが小狭いのと、問診の態度が横柄なのとで、えげつない圧迫感を感じて、何もかもが「近い、近い、近いねん!」と、今すぐにでも逃げ出したくなりながらも、無事、問診が終了。

既にフラフラに疲れきってしまった。帰りたい。歯の痛みなんて、耐えて耐えて耐え抜いてやるから、今すぐに帰してくれ。
施術フロアに名前を呼ばれた僕は、千鳥足の状態で、小狭いスペースを抜け出した。

どうやら僕の担当医は、泉ピン子似のおばさんのようだ。
言われるがまま、アホ面して口を開け、あちらこちらと歯を点検され、「じゃあ、レントゲンお願いします」の一声で、施術台から僕は立たされ、歯科助手に案内されるまま、先ほど通過したエスニックな布を再びくぐり抜け、受付フロアに舞い戻り、そこに設置されているエレベーターへと通された。

2階に上がると、そこは、無機質な宇宙船のようなフロア。
モノトーンの最先端機器たちが、所狭しと並べられている廊下を奥へと案内され、辿り着いたのは、突き当たりの撮影室。
またこれが、どう考えても最先端機器であろうレントゲン。
まるで見たこともない機器、形状、その姿形に、この機器で撮影されているシーンさえ想起できなかった僕は、思いつくまま、窪みに顎をはめ込もうとするも、「あっ、そちらは医院の人間の立ち位置ですので、逆側へご移動お願いします……」と、愛想のない指摘を受けた。そんなん、言うてもらわんと、分からんがな。
どうやら、医院のスタッフが作業する際に手を置く用の窪みに、顎を乗せて準備してしまっていたようだ。帰りたい。

レントゲンの撮影が始まる。
土星の輪っかのようなものが、僕の顔の周りを、円の軌道に沿って回る回る。
プシューッというスペーシーな音と共に回る土星の輪っか。近未来的な拷問を受けているような印象で、まるで、キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』の拷問シーンを頭に思い浮かべながら、レントゲンが終了する。

帰りはお前、来た道をそのまま戻るだけやから、分かるよな、一人で戻れるよな? と言わんばかりな態度で、「施術台にお戻りください」と促され、泉ピン子似を目指す。
施術台に戻った僕は、再び、アホ面して、大口を開けて、尖りに尖った器具で、口内をキュイーンキュイーンされるのであった。

ちなみに、その歯医者には2度通い、あまりに不安だったため、その後、歯医者を変更した。

「もう神経抜いてあるから痛くないからねー」と言われて施術を始められた瞬間、神経が残っていて、脳みそと背骨に稲妻のような激痛が走り、施術台の上で、しゃちほこのように反ってしまったこと。
そんな経験をしているにも関わらず、「次の治療は、さすがにもう神経ないから、麻酔なしで大丈夫だから」と言われるも、信用できるかいな、またしゃちほこなるんちゃうん……といった恐怖。これは後日、他院で治療を受けた際に、やはり神経の取り残しがあったことが判明する。
そして何より、受付の横柄な態度、予約を取ろうにも、「先生のスケジュールが」と言って、10日以上間を開けられそうになること。
先生は「神経の掃除だから、一週間と言わず、週に二度くらい来てもらってもいいから」と言ってくれたにも関わらず、受付でその旨を伝えると、「いえ、治療は必ず一週間の期間を開けた後でないと予約をすることはできませんので」と、ぶっきらぼうな態度で詰められたこと。

最終的には、その歯医者の口コミを見てみたところ、普通の虫歯の治療にも関わらず、歯茎の中に銀歯の破片を埋め込んだまま治療を終わらされ、その後、その破片を除去するために、大学病院に通い、歯茎を切り裂いて除去するという大手術を受けた人のコメントを読み、さすがに他院への通院を決めた。

もう、あの医院で僕がアホ面して、大口を開けることは、二度とないだろう。

『デタラメだもの』

201150705

ネタ帳はパンドラの箱。要は一度書いたら二度と見ないほうが身のためだということ。『デタラメだもの』

ちょっとでも面白い文章を書いてやろうと、意気込んで日々をやり繰りしていると、幸いなことに、奇奇怪怪なこの世の中、滑稽や人や無様な人、情けない人やお調子者、ひょうきんな野郎や無頼者、理解不能な事件や、口角が僅かにつり上がる程度の軽いハプニングなど、それはそれはいたるところにおられるわけで、あられるわけで、となると、それらを見たからには聞いたからには感じたからには、面白い文章にまとめ上げねばならんということになる。

そこで登場するのが、ネタ帳。

調子に乗って芸人然として生きているわけではない。決してそんなわけではない。
この面白き世の中と、面白き世の中を記憶しておく能力のないつまならなき脳みそを繋ぐ栄光の架け橋として、いつぞやネタ帳をつけるようになった。

ネタ帳といっても、一般的にイメージされるような、小さな手帳のようなものに、鉛筆やらシャーペンやらでアイデアを殴り書きするようなタイプのものではなく、あろうことか、現代人気取り丸出しで、アイフォーンのアプリケーション、しかもクラウドなどと呼ばれるタイプのものを駆使して、それをネタ帳と称し使っているのである。

元来、果てしなく面倒臭がりの性分故に、一般的に想起されるタイプのネタ帳を持ち歩いていたときなどは、

「ん? いいアイデア思いついたぞ! 忘れては大変なことだ、忘れてしまっては大変なことだ! 手帳、手帳……。カバンの奥にあり過ぎて取られへんがな……。ペンはどこや? ペンは……? ああ! もうええわい! 面倒臭い! ネタ帳に書き込まな覚えてられへん程度の陳腐なアイデアなんぞ、いっくらでも脳内で忘却して行ってやるわい! 真に価値のあるネタなら、そんなもんに書き込まんでも、心にこびりついて、一生涯、忘れるわけあらへんがな!」

と、思いついたアイデアやネタのほぼ全てを、脳内で消滅させてしまっていた。
何事も、面倒臭さというか、手間というか、そういった類のものを介在させると、途端に、所謂ところの無精者になってしまうことを、誰よりも知っているというか、誰ひとりとして、僕がそんな性分なんだということを知っているどころか、僕自身を知っている人間なんざ、世の中には数名程度しかおらんわけであるが、なんともまぁ、アイフォーンのアプリケーションを使って、僕はネタ帳を書いているんだということを言いたかった。ただそれだけを言わんがために、ここまでの文章量を浪費してしまうという、この筆の無邪気な走り方といったら、全くチャーミングだよ。

さて、ここからが本題なわけだけれども、何が言いたかったかと言うとねぇ、そのネタ帳をじっくりゆっくりと読み返す機会があったわけで、軽く缶ビールなんか仕込みながら。
ネタ帳をめくるのではなく、フフフンと人差し指を使って、アイフォーンの画面を涼しげに上下運動させていると、それはそれは爆笑してしまったわけ。

知識が浅く、学力がなく、一般常識に欠けている自分だからこそ、そういった恥部が露呈せぬよう、極力、短めの文章、能力のなさ、才能のなさがバレてしまわない程度の短い文章を、恥ずかしながら売り物としているだけに、ネタ帳の記述も、ひと言でバサッと切り殺す、殺傷能力の高い短い言葉や短い単語が、ツラツララと書き連ねられていて、これを読み返していると、意味不明なものもあり、記憶から消えているものもあり、情景が全く浮かばんものもあり、自分で言うのも何だけれども、なかなかにこれ美味だったわけである。

ところがどっこい、ふと気づく。酔いが醒める。夜風が目に染みる。

「ネタ帳だけ見て、こんなに爆笑してしもうて、大丈夫か……」

つまりは、一発ギャグのような気配がしてしもうたわけです。
となると、そこには文章は不毛。脚色やら演出やら、ギミックやらオノマトペやら、比喩やら倒置やら、物書きの醍醐味であるそれらのもの一切不要ということになる。
じゃあもはや、僕に対しては、面白い文章を書くという役目は与えられていないわけで、だからと言って、一発ギャグのように、末永く流行りそうなものもない。
言うならば、一瞬ギャグ、のようなものばかりが、ネタ帳に認められていた。

何が恐ろしいってねぇ、タイトルのネタやら超短文のネタで笑ってしまったら、そこにツラツラと文章を乗っけても、自分のそのネタへの初笑い、つまりはリビドー、初期衝動を凌駕することは、不可能なんです。それは、痛いほど知っているんです。
芸人さんが、ギャグをやった後に、理解力のない面白みもないボキャブラリーのセンスもない頭の固い人間から、それってどういう意味ですか? などと聞かれる場面で、

「説明さすんかい!」

と、ツッコミを入れるあれ。
つまるところ、笑いの説明になってしまうわけなんです。
となると、自分のネタ帳に書かれている見出しやら短文を見て、ひとしきり爆笑を済ませてしまった自分にとっては、もうこれらのネタと真正面から向き合って、文章へと昇華させる行為はできなくなってしまったわけです。

やっぱり、世の中で起こる瞬発性の高い面白さというものは、ネタ帳のような保温バッグに入れておくのではなく、その鮮度のまま、うまく調理し、すかさず世に再度提供することが重要なんだと、改めて思いながら、なんでここのキッチン什器保管サービス業者の建物の一階ガレージは、いつもいつも猫の小便臭いんだと小首を傾げながら、駅の方へと向かった。

と、これが本題だと言い張りながら文章を書き進めていたが、実は、これからが本題なのだ。
何が言いたいかっていうと、物事を説明するときに、「要は」とか「極論で言うと」とか、我々日本人、使い過ぎだアホンダラアということを言いたかったんだ、今思い出した。
世の男たちの話が、どれもこれもつまらん、やたらめったらに長いのは、「要は」とか「極論で言うと」などと言いながら、一向に話をまとめられない柔な野郎ばかりだからだってえことを言いたいがために、ネタ帳の中に、凝縮された短文が詰っていたんだよ、殺傷能力が高かったんだよ、それを見て僕は自分で阿呆のようにキャハハと笑っていたんだよってことを、前フリとして使っていたんだった、がはは、すっかり忘れていたよ。

日々こうやって、短文に凝縮することを妙味としている自分から世を見ていると、皆さん、「要はね……」と言いはじめてからの説明が、これまた長い、これまたひとつもまとまっていない。
「極論で言うとなぁ……」とはじまった説明が、全くといっていいほど、極論を語れていない。
自分の本論に自信がないために、説明の頭に、余計な装飾を施して、自分の話は、要点をついていますよ、自分の話は、しっかりと振れ幅を持たせていますよと、アピールしなければ、よう話せんのやろう。
「要は」とか、「極論で言うと」などは、もう少し正しく使ってもらいたいものだ、我々日本人。

「要は僕が年々、脚フェチになってきているということです。極論で言うと、恋人のストッキングを主食にしたいくらいなんです」

こういう文例こそが、正しい使われ方だと信じてやまず、今日も駄文をツラツララ。
しっかし、猫の小便臭いなぁ、ここ。

デタラメだもの。

201150614

お金はないが、愉快な話題ならいくらでもあるぞ、缶ビール。『デタラメだもの』

それにしても、なんでこんなにも慢性的に金がないのだ。
自分が若かりし頃にイメージしていた三十代半ばの人間たちのイメージと、今の自分の像が乖離し過ぎていて、滑稽にもほどがある。

先日も、部下二人を引き連れて、大阪のグランフロントとかいう、まるで大阪に似つかわしくないシャレた商業施設に足を運び、広告の設え、装飾などを拝見し、自分たちの参考にしようやないかとウロウロ練り歩いて小一時間。

ここを訪れている人間たちは、さて、大阪の人間ではないのかな? 田舎に住まう人たちが、大阪を訪れた際に立ち寄る観光スポットなのかしら? それとも、ビル内のオフィスで勤務する関東圏から出張やら転勤やらで来られた人たちが、キザな風情を漂わせて、施設を満喫してるのかしら?
この方たちがもし大阪の人たちだとしたら、シティ派というか、都会派というか、関東に憧れてますねんワイもウチという媚がプンプンと臭うくらいに、飲食店を横切れば、下品な笑みを浮かべながら、パスタにフォークを突き立てて、クルリクルリやってるもんだから、思わず失笑して目を背けたくもなる。

まあ、そんなこたぁ、どうでもいい。
ともかく、金がないのだ。

部下たちは、グランフロントの風情に、「オシャレですねぇ……」などと、感嘆としてやがるもんだから、「あほんだら、東京の真似事ばっかりやるのは、大阪の気質と、ほんまは違うねん。ほら見てみい、グランフロントから一本、道逸れただけで、薄暗い路地ばっかりなるやろ。下町の香りが漂う飲み屋さんとかポツリポツリしよるやろ。これが最近の大阪のカッコ悪いところやねん。表層の皮一枚だけ、東京の真似事してみるけど、ハリボテやから、皮一枚の向こう側には、しっかりと、大阪臭が漂ってて、その臭いを完璧に消されへんのやったら、アホみたいに東京の真似事なんかせんでもええのに。真似事にもなってないレベル、そやなぁ、ママゴトっちゅうレベルやのになぁ、こんなもん。カッコ悪いで、最近の大阪は」

などと、オシャレ商業施設を背中にしながら、デカイ声で、ワイの持論を部下たちに展開しながら、間もなく歩道の信号が青に変わろうとしていたので、勇みながら渡って行くと、ワイだけが横断歩道を飛び出すかたちになって、誰一人、歩を進めやがらない。
「大阪の青信号っちゅうやつは、青の時と、もうすぐ青に変わりそうな赤の時やがな」
と、おとなしそうな群集を威嚇するような目で眺め回してみたりと、忙しない。

「ほな、サクッと缶ビールだけ飲んで、帰ろか」

と、部下たちに声をかけ、近くのコンビニに立ち寄り、缶ビールを購入。
近ごろ、妙な多忙のためか、お昼ご飯と呼ばれるものを食べる機会が、めっきりなくなってしまったため、朝食も食べない僕は、夜分にビールを仕込む際に、あまりの空きっ腹にアルコールを注ぎ込むもんで、それはそれは臓器には刺激的過ぎて、胃袋の細胞が大量に破壊されてしまうことを防ぐべく、その日は固形物として、じゃがりこ、なるスナックを購入した。

「どこで飲みましょ?」

そりゃそうだ。
自分たちのオフィィィィスの界隈なら、行きつけの缶ビールを飲める路地然とした、薄暗くて、粗暴で、スラム臭が漂う良きスポットを知ってはいるが、ここは梅田、多少、勝手は違う。
同類のスポットがあるだろう場所が頭に浮かんでいたので、部下たちを誘導するも、さすがそこは梅田、近い臭いはするものの、どうにも缶ビールを安心して飲めるような風情の一角がない。

しばらく練り歩いてはみたが、あまりに最適な場所が見当たらないので、「もう、どこでもいいんちゃいます?」との部下の号令をきっかけに、服飾専門学校の事務棟の前で且つ、レンタカー兼駐車場になっている施設の前、歩道としては少し広めで、車道としては少し狭めな道路の端で、缶ビールとじゃがりこをオープン。

上手い具合にそれらを置くことのできるテーブル代わりになるコンクリート塀も見当たらず、缶ビールは片手に、もう片手には煙草を、じゃあ、じゃがりこどこ置くねんということになり、足元の下水の溝のところに、じゃがりこを置いて、少々談笑をしていた。

まぁ、梅田を行き交う人間たちは、物の見事に僕たちのことを、「このウスノロたちは、ボロボロのスーツを着込んで、貧乏たらしく缶ビールなんか飲んでやがるぜ、ここどこだと思ってやがんだ? 梅田だぜ? こういった類の連中は、梅田から排除してもらいたいもんだぜ、景観が崩れるわ、臭うわ、気分を害するわで。一刻も早く、こういった害虫は、街から追放して欲しいね。特になんだ? 他の二人は多少若い連中だから仕方がないが、リーダー格の奴は、それなりにオッサンじゃないか、まったくいい年こいて情けない。日本の未来も暗いよ、全く……」

と言わんばかり、否、心中でおっしゃっているのが伝わってくるくらいに、冷たい目、冷ややかな目、冷笑する目、白い目で、僕たちのことを侮蔑して通り過ぎて行かれる、ここ梅田。
僕は元来、そういう仕打ちがめっぽう好きで、「たいしたことのない人間たちが、たいしたことのない人間を見て笑ってらぁ、滑稽、滑稽、ガハハハハ」と愉快な気持ちになる。

そんな風にして缶ビールを垂らしこんでいると、僕らのすぐそばに、民間の清掃員のおっちゃんが、周りを掃除すべく僕たちのほうに近寄ってきた。
僕らは平生、地球が缶ビールの飲み屋と自負しているくらいなので、基本的にゴミは出さん、出したゴミは持ち帰るということを心がけているので、僕らが排出したゴミはひとつもない。
そう思いながら、猥談などを始めようとした瞬間、なんと、清掃員のおっちゃん、火バサミをグイと地面に突き出し、排水溝の上に置いておいた、ワイの大切な大切なじゃがりこを、挟んで捨てようと試みたのだ。

思わずワイは、

「すんません、それ、ゴミちゃいますねん! まだ食べてますねん!」

と、火バサミの手を制止させ、無事に貴重なじゃがりこを守ったわけである。じゃがりこからしたら、ワイは救世主に当たるわけで、じゃがりこ史に未来永劫、語り継がれる名場面になったんじゃなかろうかと有頂天になっていると、急に部下が笑い出した。

「普通、飲食店なんかで、それまだ食べてますねん! って言うときって、店員さんが空いたと勘違いした、食べ物とか飲み物を指差して言いますよね? でも、今、それ、ゴミちゃいますねん! って言いはりましたよね? なんか面白ろ過ぎて……。あと、清掃員にゴミやと勘違いされるもん僕ら食べてるんやって思うと、情けなくなってきて……。」

僕の部下はとても優秀な奴らなので、情けないと思いながらも腹を抱えて笑ってくれている。心からこの情けなさを楽しんでくれている。僕は彼らに、そんな楽しい空間をプレゼントしている。こんな楽しい空間は、クソ高い料金体系を持った飲み屋には用意されていない。

大阪は、やれ府だの、やれ市だの、このままやるやら合体するやら、政でワイワイやっているようだけれど、税金がどうの、公共施設がどうの、サービスがどうの、の前に、中小企業やら零細企業やらが儲かる仕組みを作ってもらって、そこの経営者連中の背中にピストルでも突きつけながら、従業員の給与の向上やら賞与の授与やらを約束させるような政治をやってもらいたい。

あんたらがむしり取る税金の大小を持ち出して、あんたらが無計画に量産する事業の是非を持ち出して、ワシの党のほうが、ワシの党のほうがなど、身勝手なことを言われても、こちとら白々しい気持ちになるばかりで、一人ひとりの生活を良くするためには、取るほうを抑える方法じゃなくて、より多くを与える方法を論じてもらいたいと願うばかり。
そのためなら、府や市に存在する企業の社長を脅してでも、従業員、果ては、府民であり市民の生活を改善するべく、汗と恥をかいて欲しいものである。

そうすれば、オッサンにもなって、梅田の路上で缶ビールを旨そうに飲むコンチクショウの数も減ってくるのではないでしょうか。

もう一度、言おう。
僕にとっては、地球が缶ビールの飲み屋だから。

誰か、店に入れるくらいの金をくれ。

デタラメだもの。

201150503

周りの人々が高貴なのか、それとも自分が孤高なのか、いや、所詮、誰も彼もが人間なんだ。『デタラメだもの』

少しく仲の良い程度の間柄の人には、気色悪がられるので決して言えないが、生まれて元より僕は、草や花、壮大な景色や優雅な建築物などを美しいとか綺麗とか感じず、目がクリックリとした小さな犬や猫などを見ても可愛いとか感じず、さらには、生まれたての赤ちゃんや、おべべを着て這い這いするような幼子を見ても、何ひとつ、可愛いと感じない、意味の分からん閉鎖的な感性を持ち合わせております。

例えばお花畑を訪れたとしても、目の前に広がるお花たちを見ている気分と、道路脇に望まずとも生えてしまった悲しき雑草を見ている気分とは、何ら変わらず、「まぁ、植物図鑑に載っている草花のうち、15ページのやつか、29ページのやつか」程度の違いしか感じられない。

犬や猫だってそうだ、赤子だってそうだ、あんなに手のかかる生き物、今は可憐かも知れないが、その可憐さもやがて数十年したら、老年になっていくんだ、皺だらけになるだろう、目ヤニでカピカピになるだろう、歯槽膿漏になって、たまらん口臭を吐き出すかも知れない、糞尿だって半自動的に漏らし始めるかも知れない。
そんな光景を、その目やその肌やその微笑の向こう側に感じ取ってしまうものだから、アホのひとつ覚えみたいに「かわいぃぃぃぃ」とかほざいて、抱っこやらナデナデやら、できないわけである。

あとよう分からんのが絵画とか書とか建造物とか大自然の景色とか。
こういう類のものを見ても、何が良いのかさっぱり分からん。
そういった作品の展示イベントに行った際なども、「ここに来ているお人たちは、こういった類のものを見て、何かを感じ取ったフリをして、何かを感じている素振りをして、私、感性が豊かなタイプですの、おほほほほ」と、高貴ぶっているだけのような気がして仕方がない。

じゃあお前は感性というものが欠落している人間なのかい、と問われても、逆にそういった類の人たちよりも、むしろ豊かなのではなかろうかとさえ思っている。

なぜならば、僕は平生、音楽を大変好んで聴いている。本を大変好んで読んでいる。お笑いやらユーモアを大変好んで視聴している。食うことを嬉々として楽しんでいる。人間を大変好んで観察している。
それらの好みかたは偏執的で、こういったジャンルの音楽が好きだの、こういったアーティストが好きだのといった陳腐な好み方ではなく、もう、音楽の全てが好きで、本の全てが好きで、そこに、すごく好きとか、ちょっと好きとか、これは嫌いとかっていう差異は存在せず、それそのものの全てを好んでいる。

それに比べて、先に書いたような、俄か何でもかんでも人が好きそうなものを好む類の人たちは、やれこの作品は違うとか、やれこの年代は違うとか、やれここのこだわりが薄くて好かんとか、これは嫌いだ、これは趣味と違うとか、好いたり嫌ったり忙しい様子が見てとれる。

「お前、ほんまにそれ、好きなんかい?」

と、哀れんだ目で逆に問いたくもなるわけだ。

人々が一様に好んでいるフリをしているものを、何も無理矢理好む必要もなく、人々が一様に好んでいる価値観が正しいという事実なんてものも、ないんだし。

周りの人々が一様に好んでいるものと、自分との間に大きな隔たりがあろうとも、周りの価値観に染まれずに、大きな隔たりを感じようとも、大した問題ではないと思うんだな。
大切なのは、自分の好きなものを、たとえ周りから白い目で見られようが、いつだってどこだって、大きな声でもって、「好きだ!」と貫けるかどうかなんだと思う。

ほうらほうら、わけのわからない話題でも、こうしてきちんとまともなお話に流れて行くじゃあないの。進んで行く筆のほうが、ゴール地点を知っているじゃあないの。
万歳、万歳、マイノリティ、万歳。

ただ自分が浅ましくて狡猾で嫌になる瞬間は、これだけの大それた問題提起をしておきながら、いざ、美術館に訪れた際や、歴史的建造物を前にした際、絶景の景色を目の当たりにした際などに、「ふふふん」と鼻息を鳴らして、「素晴らしいやね、ほんと素晴らしいやね」などと、こんな絵画に触れている俺って何て高貴な人間なんだ、この場にいない奴らめ、ざまあみやがれ、俺は今、高貴だ、高貴過ぎて敵うまいと、振る舞いが大きくなって、「見てごらん、この油絵の具の重ね塗りなんて、とても情熱がこもっているよねぇ」とか、まるで自分がジェントルマンにでもなったかのような涼しげなボイスで、絵を寸評しやがるもんだから、あまりの滑稽さに、ヘドが出そうになる。

「今回の作品は、ぜひ家に置いておきたいよね。作品集、買って帰ろうかな。あっ、でも、現物で見るのと、作品集で見るのは雲泥の差。立体感とか陰影とか、やっぱり作品集じゃ表現できないしなぁ。買っても仕方ないかなぁ。でも、やっぱ、家に置いておきたいから、買って帰ろう!」

などと、クソ腹の立つことを得意げに放ちながら、意気揚々と作品集を購入して帰る瞬間など、さらに自分の醜さが増長してきて吐きそうになる。

そうして買って帰った作品集を本棚にしまい、その後、二度と手に取ることもなく、見開くこともなく、ただただホコリまみれになってしまい、お部屋のレイアウトを変える刹那や、引っ越し準備の荷造りの刹那に、ホコリまみれの作品集と久方ぶりの対面を果たし、購入時の愚かな記憶を脳内に蘇らせ、苦い汁が心に充満した際などに、改めて自分の人間臭さに気づかされ、ほっと一息、安心したりもするのである。

デタラメだもの。

201150412

物づくりを志す人よ、記録にも記憶にも残る仕事をしようじゃないか。『デタラメだもの』

日夜、広告屋として働いていると、いろんな人に助けられて、豪勢とは到底呼べなくとも、こうして日々、細々と食いつないでいけている。
僕たち広告屋が、デザインやらコピーやらを仕立てたとしても、それを実際の広告物に仕立ててくれるのは、印刷屋さんなわけで、その印刷屋さんも、紙屋さんで紙を仕入れなかったら、印刷をすることもできなかったりと、日々、いろいろな人が動いて、僕のような若輩者が仕立てたデザインやらコピーなどを現実の形にしてくれている。

印刷屋さんの方々には、日ごろより、感謝の意を表しても表し尽くせないほどの気持ちを抱いているのだけれども、そのなかで、いつでも、どんなときでも、アイデアと知恵と工夫と、そしてなにより、ボーイズの気持ちを忘れずに物づくりを続けている、ある小さな印刷屋の社長がいる。

僕が今よりも若かりし頃、Webの分野でうつつを抜かして、「これからはWebの時代でしょ」「ふふふん、Webやってれば、そのうち財産築けるんでしょ」「ははん、Webの仕事、ウマウマ」などと、涼しい顔をして、Webを生業としていた僕に、その後の生き方を変えるひと言をプレゼントしてくれた人だ。

ある日、クライアントの要望により、自立式のバナースタンドを制作せねばならなくなった。
Web以外の不慣れな仕事を請けてしまったことにより、途方に暮れながらも、物づくりのおっちゃんがいるということは、社内の情報により知っていたため、半ばSOSを出す気持ちで、その社長に電話をした。

心の底からの敬意を込めて、ここでは、おっちゃんと呼ばせてもらおう。
そのおっちゃんはとても謙虚で温厚な方で、二回り近くも年下であろう僕に、それはそれは腰の低い応対で、僕のSOSの要望を聞き入れてくれた。
普段、パソコンのモニターばかりを見て、パチパチ打っては、カチカチ押して、小気味良い機械ばかりをこねくりまわしている僕に、「たまには、ホンモノの世界にも来てくださいねえ」と言葉を投げかけてくれた。

ホンモノの世界?
おっちゃんは、別にWebの世界を、ニセモノと思っているわけではない。そういう意味で言ったんじゃない。
確かにWebの世界も物づくりに違いないが、のぼりやら印刷物の加工やらターポリンのバナースタンドやら屋外看板やら、ホンモノの物づくりのように、汗をかくことも、怪我をすることも、血を流すことも、ない。
クライアントを思えばこそ大切なことなのかも知れないが、0.1%だの1.3%だのと、ハナクソのように細かい過去の数値ばかりを追いかけて、過去にとらわれて、未来に蓋をするようなWebのマーケティングなどとは、やはり、物づくりの世界は、決定的に違う。

その後、僕は、おっちゃんのひと言に胸を打たれ過ぎて、ホンモノの世界でも勝負してみることにした。
いわゆるWeb以外のもの、そんななんでもを、作ってやろう、世に送り出してやろう、そう決意した。もちろん、それらを形にするためには、おっちゃんをはじめ、多くの人たちの協力は不可欠だけれども、次々と新しい広告物を作っていった。

さすがホンモノの世界やなと痛感したのは、おっちゃんが作るもの、そこには、独自のアイデアや工夫や知恵や、そしてボーイズの魂が込められているので、それは世に言う、一点ものとなるわけ。
一点ものとなった広告物は、世の中からも重宝され、どれもこれもが注目を浴びた。
それらを見て、別の大きな代理店が、ソックリそのままパクりにかかるというような事件まで起こった。

これが、おっちゃんの言うてた、ホンモノの世界かあ。
仕上げていただく広告物に、いちいち興奮したし、いちいち感動した。
それが世に出た際の写真をクライアントから送ってもらったりなどした際には、涙も出た。

そんなおっちゃんが、病に伏して、しばらくが経つ。
すぐに復帰すると吉報を聞いてからというもの、まだ仕事には戻れる状態じゃないという凶報ばかりが続く。

印刷屋さんにても広告屋にしても、クライアントから見れば業者になる。
僕たちから見ても、印刷屋さんというのは、業者さんになる。
でも、業者さんだろうが、広告屋だろうが、代理店だろうが、クライアントだろうが、物づくりをしていると人は、すべて、物づくりの担い手で。そこに、上も下も、ない。

それにも関わらず、物づくりの尊厳を無視するかの如く、「発注先の業者が減った」とか「選択肢がひとつ消えた」とか、ただの外注としての選択肢としか見ない人間が、ことごとく多い。
こんな奴らに、物づくりの素晴らしさなど、わかるはずもない。こんな奴らが日々やっていることは、飯を喰らうためだけに、お金をコロコロと転がしているだけに過ぎない。

分かっているのか、世の中の連中よ。
物づくりを志している人と、そうでない人とは、存在価値そのものが、全く違っているのだ。
なぜなら、「その人がいなければ、これまでの数々は、世に出ることがなかったからだ」
ということはつまり、「その人がいなければ、これから世に出ることのない数々があるということだ」

ああ、最近、なんだか眠たい。
日々の仕事に追われ、長渕剛の言葉を借りるとするならば、「暮らしにまみれた」状態が、ずっとずっと続いている。無気力に呆けた奥歯が、噛んだスルメに苛められて悲鳴を上げている。

広告屋の日々は、今日もこうして、物づくりに焦がれながらも、四面楚歌のしがらみに囚われながら、足をすくわれ、転びそうになりながらも、なんとかオンボロの杖で心を支え、少しばかりの赤色をクリエイティブに足したり、煤けた用紙に文字を書き入れたりしている。

社長ともう一度、一緒に仕事ができる日が、待ち遠しい。
なにやら、今日のカラスは、必要以上に鳴きやがる。

デタラメだもの。

201150208

何もかもが捏造された世界だとしても、力強い僕たちは楽しんで生きて行く。『デタラメだもの』

ごろんと寝転びながら、特段やることもないわと、ぼんやりテレビなんぞを眺めていると、ごくごく稀に、「この番組、意外に面白いやん」と、普段はテレビなんぞめったに見ないのだけれども、少しばかり心躍らせて見入ってしまうことがある。

その、たまたま見ていた番組が、たまたま面白かったときの優越感というか、日々テレビに齧りついて血眼になって見ているわけでもないのに、その偶然を引き寄せる自分の強運と言いましょうか、特段やることもないということは、不毛に時を消化してしまうところだったものを、有意義に、フフフンと鼻歌混じりにテレビを見ている自分の優雅さったら、並みのブルジョアジーなら、涙ながらに羨ましがるに違いない、フフフン。

ただ、このたまたま見ていた番組が面白かったときの優越感には、ある落とし穴がある。
生まれも育ちもいたって平々凡々な中産階級の臭いが染み付いた自分などが、ブルジョアジーたちに羨ましがられるわけもない現実が、一瞬にして襲ってくることになるのだ。

「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
この類のテロップが、いきなり表示された瞬間だ。

その瞬間、それまでフフフンと、陽気に番組を楽しんでいた自分のピュアな心が、ハンマーで打ち砕かれる。
「そしたら何かい!ワシは、数年前の番組を、ごくごく最新の番組であるかのように楽しんでおったわけかい!じゃあ何かい!目の前に繰り広げられている、例えばグルメ番組やったら、その店、もう潰れてるかもしらんし、旅番組やったら、その宿、もう潰れてるかもしらんし、おしどり夫婦特集やったら、その夫婦、もう離婚してるかもしらんし、お笑い番組やったら、その漫才コンビ、もう解散してるかもしらんし、例えば女優やアイドルやったら、そのお顔は、もう整形されて変わっとるかもしらんし、もっと言うなら、目の前でキャッキャッしている芸能人、もう引退してるかもしらんし、死んでしまってるかもしらん、ということになるやん」
こんな大恥、あるいかな。

しかも、純粋な再放送ならまだしも、東京で放送された番組が、我々大阪という田舎に、タイムラグを持って運ばれてきたがために、初回放送にも関わらず、えらい年月が経ってしまっている場合など、複雑な心境過ぎて、画面を直視できなくなる。

そこでふと、こう思うわけだ。
目の前にある光景、景色、映像、いつ何時、自分たちは、捏造されたそれを見せつけられているかわからないということ。これまでバカ正直に当たり前のように信じていた光景、景色、映像も、実は捏造されたものだったかもしれないとうこと。

金閣寺とか、ないかもしらんぞ。あれ、プロジェクションマッピングで、映像が投影されているだけかもしらん。
ジョニーデップとか、おらんかもしらんぞ。あれ、巧妙に作られた次世代ロボットかもしらん。
美しい美しいと騒がれる女優さんとか、ひとりもおらんかもしらんぞ。あれ、精巧に加工されたCG映像を見せつけられてるのかもしらん。
税金とか、正しい用途で使われてないかもしらんぞ。あれ、使途不明のまま、どこかに消えてるのかもしらん。まぁ、それはほんまやろう、きっと。

近ごろ、若くして死んでしまった僕の好きなミュージシャンが、十二年ぶりに新曲を出すことになったそうな。
もちろん、十二年前に他界してしまっているので、本人が歌ってギター弾いてなど、できるわけがない。
どうやら、本人の過去の歌声を細かく千切って、それをボーカロイドと呼ばれる技術と融合させることによって、あたかも本人が歌っているかのような雰囲気でもって、楽曲を創り上げたそうだ。

いざ、それを聴いてみる。
これがまた、めちゃ良い。
「やったー!新曲やー!新曲なんか聴けるなんて思ってなかったから、嬉し過ぎるー!」
と素直に思っている自分がいる。
心底、それを聴いて、嬉しく思った。

しかしこれも同じだ。
この喜びは、他界してしまったアーティストに向いているのか、十二年の時を経て、存在しないミュージシャンの楽曲を新曲としてリリースできるほどの、最先端技術に向いているのか、どっちだ。

円形脱毛症ができるほどに悩んだ末、あるひとつの答えに辿り着いた。
それを聴いて、嬉しく思っているんだから、もうええやん、と。もう、その嬉しいという感情が全てやん、と。
楽しいとか嬉しいとかに、理屈を捏ねても仕方がないんだ、結局。

そうなんだ、僕たちは本来、とてもロマンチックな生き物で、ミッキーマウスの中には、人なんて入っていないと思って楽しめて、サンタクロースだって、実在するってドキドキできて、宝くじは、いつか当たるかもって信じれられて、奇跡は起こるものじゃなくて、起こすものだって信じている。

晴れの日も雨の日も満遍なくあるだろうに、たまたまイベントの際などに晴れの回数が少し多いだけで、俺は晴れ男だ!なんてドヤ顔もやってのけられるし、ボウリングのスコアが伸びなかったときには、手首をコキコキと捻りながら、今日は手の調子が悪いわ……などと、自分の実力ではなく、自分の手に責任を押してつけてプライドを保つこともできるし、街なかで異性と目が合うだけで、この人もしかしてだけど、自分に気があるのでは?なんて、身分不相応な勘違いもできる。

何もかもが、楽しいことばかりなんだ。

これで、プロジェクションマッピングで創られた金閣寺を見ても、次世代ロボットであるジョニーデップを見ても、これまで通り感動できるし、使途不明のまま問答無用に徴収される血税にも、納得できる。

わけがない、税金だけは納得しない。
選挙ポスターの笑顔も、選挙演説も、党のマニフェストも、何もかもが捏造じゃ、笑えないし、ひとつも楽しくない。
同じような顔ぶればかりで変わらない政治、変わらない選挙を繰り返して、そのうち国会中継を見ている最中にでも、画面下にテロップで、
「この番組は、2012年4月に放送されたものです」
などと、表示され出すんじゃ、あるまいな。

デタラメだもの。

201141228

初対面の印象なんてもんは、人間の何をも語ってはいない、もっと中身を見なければ。『デタラメだもの』

初対面のときの印象っていうものは、なかなか面白いもんだ。

ほら、今ではすっかり既知の仲になっている人たちの、初対面のときの印象を思い起こしてみるといい。きっと、全然初対面のそれと、今のそれとは違っていて、中には、初対面のときにあんな印象を、たとえばクールな奴だとか学のある奴だとかおしとやかな奴だとか、今の本人とはずいぶんとかけ離れた印象を、持ってしまったことが悔やまれるような奴もいるに違いない。

きっと人は、初対面と呼ばれる機会が訪れる瞬間、幾ばくかの緊張を持ってして、人と接するんやろうな。
その緊張によって、普段から他人に対してサービス精神旺盛に接している人と、そうでない人とで、初対面の印象と本人の実像との間に、二極化した乖離が生まれるんやろうと思う。
なんや難しい話をし過ぎて、偏頭痛になってきた。ちょっと、頭痛薬でも飲んで来なければ。

他人に対してサービス精神旺盛に接していない人、もしくは他人に対してサービス精神旺盛に接するのが苦手な人というものは、初対面のときの緊張などと相まって、本人の実像以上に、クールに見えたり、おとなしく見えたり、暗く見えたり、恐く見えたり、近づき難い印象を他人に与えてしまうんやろうな。

「初めて会ったとき、めっちゃおとなしいタイプの人やと思ってたもーん!」

こういう会話は、居酒屋では、「Hey! What's Up Bro?」ぐらいに乱用される会話である。

その逆で、普段から他人に対してサービス精神旺盛に接している人というものは、初対面のときの緊張が、さらにそのサービス精神に拍車をかけることで、本人の実像以上に、何も考えていない人、チャラい人、無責任な人といった印象を他人に与えてしまいがちだ。

「初対面のときのチャラさからは想像できひんなぁ」

弱ったり、真面目になったり、責任感を発揮したり、泣いたり、落ち込んだり、勇敢な姿を見せると、そういう評価を下されることになる。

ほうらほうら、こんな文章を読んでいると、身近にいる人、周りにいる人の初対面のときの印象を思い浮かべて、ちょっとニタニタしてみたくなるでしょう?相変わらず、影響力のある文章書くじゃあない、私。
あかん、偏頭痛、取れへんがな。薬、効けへんがな。

それじゃあ、お前はどんな印象を持たれる人間なんじゃいと、眉間に皺を寄せて睨みつけてくる紳士もいるでしょうから、僕の場合はどうかというと、「真面目」という印象ばかりをありがたくいただいておりましたので、その評価が胸糞悪くて、もう自らその印象を変えてやろうじゃないということになり、やれ髪の毛の色を滑稽な色に染めてみたり、やれ滑稽な洋服やら履物を身につけてみたり、やれ奇をてらった発言を繰り返してみたり、大声を出してみたり、人に迷惑をかけるような場所で立ちションベンをしたりして、その印象というやつを破壊してみた。

結果は、成功。
トリッキーな人間に成り果ててしまい、他人からいただく印象というものに統一性がなくなり、挙句の果てに、「お前さん、何を考えているのかようわらかん人間じゃけえ、怖いわ、近寄りがたいわ」などと、ノーベル賞以上に光栄な評価をいただくまでに至った。

しかし、世に出て社会に出て、いろんな人と対峙してみると、人間のことをしっかりと見ようとする人は、初対面のときでさえ、そんな上っ面の印象に振り回されずに、ちゃんとその人の、根っこの部分を見抜いてくれるということを知った。

得意先様の中で、たいそう出来上がった人物で、多大な影響をいただいた人物がひと方おりまして。
既に今では、花の都大東京でご活躍され、身分も相当に手の届かぬ存在になられているので、もう気軽に会ったりはできないけれども、駆け出しのころのハナ垂れ小僧のような僕を、しかも大企業にお勤めのその方が、遊びに連れ出してくれたり、飲みに連れて行ってくれたりと、とてもとてもよくしていただいたことがある。
身分や地位といったしょうもないことで、つまりは、生まれたところや皮膚や目の色で、人間のことを決めつけない、器の大きな男の人で、もちろんその人と僕との間にも、初対面と呼ばれる瞬間があった。

「君の顔面は、卑猥やなぁ!顔面秘密倶楽部やでぇ!きゃははははは」

といった評価をいただいた。
ちなみに、秘密倶楽部というのは、大阪界隈にある、M性感を好む男性たちが集う風俗店の呼び名である。
そのお方は、初対面の僕の顔面を見て、秘密倶楽部に例えたというわけである。
僕の中身をしっかりと見極め、初対面の印象を刷り込んでくれるような、大胆で愛に溢れた人は、後にも先にも出会ったことがない。
大半が、「君は真面目そうやねぇ」の繰り返しばかりの、面白みのない世の中で、そんな愛に溢れた接し方を、初対面のときから繰り広げてくれる人が、世で認められないわけがない。

その出来事があった以来、自分に影響を与えてくれる人というものは、初対面のときから、やはりファンキーな対面になるということが、得てして多い。

じゃあ、今の自分は、身近な人間にどんな風に映っているのだろうか?と問うてみたくなり、後輩に問うてみた。

「ウチの会社に出入りしてるような、会計士か税理士かなんや知らんけども、そういった類の真面目腐った連中と、この僕とは、やはり、人として、異なって見えてるもんやろうか?」と。

事務所に出入りしている、所謂、士業の人、真面目を絵に描いたような人物がいて、そういった類の真面目そうな連中というものは、いざ真面目に見えているものの、どうせ手鏡で女子高生のスカートの中身とか覗き見てそうやし、犯罪とか犯して捕まった後に、近隣の住人から、「あんな真面目そうな人がそんなことするやなんて…」などと、通り一辺倒なコメントを寄せられそうで、だいたい人間としての凄さ、凄まじさ、そういったものが兼ね備えられているかどうかもわからんのに、周りの人間から、「先生!先生!」などと呼ばれて、殊更に否定もせず、「はい」などと、眼鏡の位置を正しながら応答できる人間にロクな人間なんかおるわけがない。
僕だったら、どんなに偉くなったとしても、まぁならんけれど、なったとしても、周りから、先生などと呼ばれた日には、条件反射的に、「先生など、おこがましいです。クソ野郎とか、カス野郎って呼ばれたほうが、気が楽です」なんて言ってのけて、「じゃあ、クソ野郎。あっ、さん付けしたほうがいいでしょうかねぇ?クソ野郎、さん?」とか光栄にも呼んでいただき、「このあほう、どのツラ下げて、人のこと、クソ野郎さんなんて呼んどるんじゃい!冗談を間に受けるボケがどこにおるんじゃい!」とか、咆哮してしまいそうで、何ともアットホームやね。
それはそうと、士業は、侍業じゃ、とかヌカしてるボケがおるけれど、そういった類の連中たちは、真面目過ぎるか、胡散すぎるかのどちらかで、それを侍などと称してしまった日にゃ、ご先祖さまに怒鳴られるで、と思っている次第で、なんやろね、あの、士業ってやつは。

そうそう、話は逸れましたが、そうして問うたわけですわ。
「ああいうクソ真面目な先生とか呼ばれてる人間と、僕とは、やはり、異なって見えるもんかのう?」と。

すると、僕のデキの良い後輩は、「ぜんぜん違いますねぇ」と答えてくれるもんだから、さすが俺の後輩、グッジョブ、なんて思っていると。

「だって、先輩、アホッぽいっすもん。異なって見えるというか、先輩、学歴も何もないじゃないですか。そりゃ違いますよ。こんなクソ寒いのに、Yシャツで外ウロウロしてるのなんて、先輩ぐらいですよ。いい加減、近く歩いてるの、恥ずかしいんですよね。同類やと思われるんで」

おう。後輩よ。そこまで、皆まで、エンドロールまで語ってくれとは言うとらんぞ。
まぁ、それだけ人間の中身、否、僕という人間をしっかりと理解してくれているからこそ出てくるフレーズの数々、その暴言を聞きながら、俺、生き方間違ってなかったなぁと、しみじみ夜空を見上げてみると、強風に煽られた木々の葉が猛スピードで顔面に飛んできて、目と眼鏡の隙間に飛び込んできたと思った瞬間、葉の鋭利な部分が目尻に突き刺さり、浮世を憂いたからか、あまりの痛みに耐えかねてか、自然と涙が、ツーツララと流れ出た。

デタラメだもの。

201141207
著者

常盤 英孝

3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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