デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

人間観察をするなら、他人の流麗な箸の捌きを邪魔しない程度の配慮をお願いする。『デタラメだもの』

それにしても、人間観察というのは、少々厄介な悪趣味だ。
自分も性格上、人間観察というものを、暇さえあればのツールとさせていただいてはいるものの、あれは非常に厄介だと思う。
観察はいいんだ、観察は。だって、人間という生き物は、それぞれ皆、特異で、興味の対象となるのも頷ける。だから、そんな旨みのあるものを観察するなとは言わん、やり方の問題なわけである。

飲食店でゆったりとご飯などを頬張っていると、ふと視線を感じることがある。さぁ、始まった、やり方の誤った人間観察。
連れ合いと食事に来たものの、自分だけが先に飲食を済ませてしまい、手持ち無沙汰になってしまったのか、やたらめったら、あちらこちらの人間に視線を投じる輩がおる。
視線というものは、人間に備わった第六感によって、意外と感じ取ってしまうものなんだよ、そこの輩。おい、そこの輩。
輩にとっては、何気なく、ぼう、っと人間を眺めているだけなんかも知らんが、こちらからしたら、目の前の食材を美味しく召し上がることに命を懸けて、誠心誠意、箸を流麗に動かしつつ、お上品に御膳を召し上がっているところだっつうのに、輩の視線が気になって気になって仕方がないじゃあ、ないか。

えげつなく酷いケースがあった。
たまたま入った飲食店が、一人ぼっちはもちろんのこと、ファミリーもいれば、カップルもおるような風情の店。
通例通り、誠心誠意、箸を流麗に動かしつつ、お上品に御膳を召し上がっていたところ、少しく離れた席に座っていたカップルの女、まだ飲食中ともあろうに、人間観察をおっぱじめやがった。

普通、人間観察と言やぁ、数多の興味と共に、視線も移動していくもんだが、その輩ときたら、こちらにほぼ固定的に視線を投じてきやがる。
さすがに、ぐぬぬ、と我慢も限界に来たため、じゃあこちらもチラリ刹那、輩のほうを睨んでやり、無言の抵抗と、拒否反応と、てめえのやっていることがどれほどに悪質かということを教授するという教育行為に出てやらんと思い、眉間に皺を寄せながら、目をやってみた、輩のほうに。
するとどうだ、輩、ビクともしない。

こちらはそもそも、輩に対しては何の興味もないどころか、むしろ、教育的観点から眉間に皺を寄せつつ、視線を投じたに過ぎないため、輩がビクともしないことを確認した刹那、すぐに目の前の御膳に視線を戻した。
なんじゃあ、こいつは、ふてぶてしい。
輩の人間観察、しかも、こちらに対してロックオン的な人間観察は尚も続く。

イライラがピークに達しながらも、雑念に乱されながらの飲食では、目の前の御膳に大層失礼だと気を落ち着かせつつも、敏感な自分は、あることを邪推してしまう。
その飲食店は、数多あるおかずをセルフサービスよろしく、自分で盆の上に取りやり、その独自のラインアップによって、レジで会計をしてもらうというタイプのもの。
ということは何か、僕が取りやった盆の中身が酷くケッタイだったため、その輩は、そのラインアップを誹謗中傷するが如く、観察をしてやがるということか?

「こいつバカじゃね? 小鉢取り過ぎてね? こんなしょぼくれた大衆食堂で、和洋折衷楽しもうとしてね? 貧乏根性丸出しじゃね? しかも、この店で一番旨いとされている、鯖の味噌煮を取ってやがらねえよ、モグリかこいつ? キモくね?」

と、心の中で罵倒しながら、こちらに対して人間観察の視線を投じているのではなかろうかと、一抹の不安を覚えた僕は、箸の捌きに流麗さを欠き始めながらも、いかんいかん、輩なんぞに心中を掻き乱されてしまっては、まるで私が小者のようではないか、ええい、飲食に集中せい。

にしてもこいつ、どれだけ、ぼう、っと、こっちを眺めてきやがるんじゃい。
あまりにも腹が立ったので、今一度、眉間にフルで皺を寄せながら、輩に視線を投じてやった。きっと僕の眉間のシワに擬音をつけるならば、ガルルルルル、だったはずだ。

しかし輩、今一度のガルルルルルにも、ビクともせず、並の人間観察人間なら、対象となる人間からの逆視線、いわゆる、見ている人から見返されるという状態に陥った場合、刹那に視線を外し、「ふふふん、別に何も見ていませんでしたわよ、本日のお献立を何にしようかと、お脳みその中で、お献立をおイメージしておりましただけよ、はははん。周りのお人々なんかには興味ござーませんのよ、ぬふふふん」と、弱気にも真空を見つめ直したり、指先をモジモジとイジくってみたりするものだが、この輩だけは違う、一切視線を外そうともしやがらない。

ぐぬぬ、二敗目。
そのうち、カップルのうちの男のほうに対して、怒りが沸いてきた。

「おい、お前の恋人、どうかしてるんとちゃうか? 飲食店にお前と二人で来ているにも関わらず、しかもまだ飲食の途中だってえのに、飲食も放ったらかして、人間観察始めとるぞ。お前の求心力、大丈夫か? 恋人はお前にちゃんと惚れてくれてるのんけ? というか、お前の恋人やろがい、ちゃんと管理せいや! お前の恋人が今こうして、箸を流麗に動かしながら、目の前の御膳を誠心誠意召し上がろうとしている中年男性の飲食タイムを邪魔せんばかりか、箸の流麗さを欠いてしまうほど、その楽しみを阻害してくれとんねん、恋人の過失はお前の過失でもある。男やったら、「おいおい、俺だけを見てろよ」なんて、歯の抜くようなキザな言葉でもって、恋人の意識を自分に集中させ、真っ当な生き方のできる人間に矯正せいや、ワシに今、吹き矢を持たせたら、確実にお前の恋人の額に向けて、一息に矢を吹き飛ばすぞ、それくらいに腹が立っとるんやぞ、「おい、何見とんねん、このボケ!」と言うたろか、そちらに向かって。なぜ、それをやらんのかって? それはなぁ、カップルで飲食店に来とるということは、きっとデート中か何かやろう、そんなハッピーなデートを、こんな薄汚れた中年の一喝で、ブチ壊したったら可哀想やろうという慈悲深い気持ちから黙ったってんねん。できればこの飲食店を出た後も、ハッピーにデートの続きを楽しんでもらいたいと願う器の大きさからくる優しさが、そうさせとるねん。頼むから男よ、お前の恋人を管理したってくれよ……」

と心の中でぼやきながら、期待を託すべく、男のほうに目をやると、衝撃的な光景が目に飛び込んできた。
なんと男、スマートフォン片手に飲食しとるではないか。
自分の恋人が飲食そっちのけで、わけのわからん方向に気もそぞろ、視線をフラつかせてる間、男の視線はスマートフォンに釘付けになっとるやんけ。

あかん、日本、あかん。政治家も、マイナンバーの導入とか、金、金、金、金のことばっかり考えていないで、若者たちがこういった輩に育たぬよう、教育、育成の方向に力を入れるべきだぜ、きっと。

こんな輩を相手していては、せっかくのランチタイムを無駄にしてしまうと諦め、不貞腐れた素振りで、輩たちに思いっきり背中を向けるように、グワッと身体の方向を転換させた。
すると、斜め向かいに座っていた、ほぼパンチパーマのおばさんと思いっきり目が合ってしまい、「何やの? この中年。アタシに因縁つけてきやがって。気色悪いわぁ……」と、まるで害虫を見るような目で蔑まされてしまう始末。

八方塞がり、四面楚歌状態になった僕は、すっかり箸の流麗さも失い、雑念に時間を費やしてしまったがために放置された鮭の塩焼きを、ぶっきらぼうに頬張ると、喉の奥に鋭い痛み、骨、刺さった。そんな時に限って、茶碗の中には、白米なし。あかん、白米、おかわりして来なければ。白米をかき込んで、骨を蹴散らさねば。

茶碗を持ち上げ、慌てて立ち上がった瞬間、「こいつ、どんだけ白米好きなんだよ? そんなに慌てておかわり行かなくても、誰も取らねえっつうの。卑しいにも程があるわ」といった誹謗中傷の声が、脳内に突き刺さった。鋭い痛み。

デタラメだもの。

201151231

人の成長は成長じゃなくって退化なんだってばよ。『デタラメだもの』

近ごろ、生き急いでいるのか、自動ドアに肩をぶつけることが多くなった。
その都度、「俺様の生きるスピードに、自動ドアの開くスピードが付いてこれてないぜ、ふふふん」と得意げになったりしているものの、よくよく考えてみると、自動ドアの開くスピードさえ待てずに焦っている自分の愚かな様を思い、情けなくなりながら、ぶつけた肩を揉みつつ、落ち葉をパリパリと踏みつけながら歩く。

そういえば、電車に乗る際など、改札機に交通系非接触型ICカードをかざすとき、ピッという認証音を待たずして、焦り気味に身体が改札をくぐろうと前進しているもんだから、改札機も迷ったあげく、ピッという認証音ではなく、切符を持たない人間が通過しようとしていると判断し、警告音であるピコンピコンを鳴らし、そうかと思えば、やはり交通系非接触型ICカードがかざされていることを感知し、慌ててピッという認証音を鳴らし、ゲートを開けてくれるという、改札機に迷惑をかける日々、一旦は警告音を浴びながら、改札機を通過する日々が続く。
やはり、生き急いでいるのだろうか、我輩、ふふふん。

それはそうと、先日の真夜中近く、事務所から帰宅しようと帰路をテクテク、缶ビール片手に歩きながら、ふと空を見上げて、チラホラと星が見えていたもんだから、しばらく星でも見上げていようと、おおよそ四十五分ほど、立ち止まって星空を見上げていたとき、ふと考えたわけだ、人の成長って、むしろ退化だってことを。

これまでの自分が持っていた概念では、人はどんどんと成長する、どんな苦難や試練にも耐えられるようになり、一年前の自分じゃ、とうてい耐えられないほどの恐怖やプレッシャーも、今の自分なら屁でもないわとタフになり、日に日に成長していく、嗚呼、人間ってなんて素晴らしいんだ、そない思っていたものの、どうやら違うぞこれは、成長ってやつは、なんかキナ臭いぞ、そんな風に考えたわけ。

なぜそんな思考に至ったのかというと、僕は元来、乗り物酔いが激しく、乗車後、ものの数分で乗り物酔いし、十数分後には、嘔吐感に襲われるというほど、三半規管がデリケートで、胃や腸も繊細な生き物だったにも関わらず、近ごろでは、めったと乗り物酔いをしなくなった。
缶ビールなどを飲みまくった挙句、地方のぐねんぐねんの路線などに乗った際には、さすがに乗り物酔いをするときもあるけれど、それ以外なら、ほぼ酔わなくなった。

仕事の面だってそうだ。
それまでなら、ビビッてしまうような案件や、悲壮感漂うほどにタイトなスケジュールの案件など、数年前なら、胃に穴を開け、ヒイヒイ言いながらやり過ごしていたものの、今では、何の感情の乱れもなく、右から左へと受け流せている。

おそらく人はこれを成長というのだろう。
あちらこちらと仕事で移動するもんだから、乗り物にも慣れ、酔わない身体が仕上がっただとか、数々のピンチやプレッシャーを潜り抜け、仕事も達者にこなせるようになっただとか、お前さん、立派に成長したねぇと、拍手の一つでも送ってくれそうなもんだが、いや、違うんだ、これは成長じゃないんだ、きっと、これは、退化なんだよ、人間としての。

こう思うわけ。
脳も退化、身体も退化、心も退化、それゆえ、若かりし頃に敏感に反応していた物や事に対して、反応できなくなっているんだってばよ。
だって、事の行き違いで激怒したお客さんが「お前! ええ加減にしとかんと、殺してまうど!」などと恫喝してきたとしても、脳内は涼しげ、ふふふん、なんでラッツアンドスターのメンバーの中で、桑野信義だけ、顔のメイクが薄かったんだろ、なんでだろ、なんて考えながら、その場を適当にやり過ごせるようになっている。

今まで、こういったことを成長と呼んでいた僕は、星空を見上げながら、こっ恥ずかしくなった。だって、それは、退化だったんだもん、結果的に。
だから、若い人たちにアドバイスするような機会があれば、「早く成長なさい」などとは言わず、「早く退化なさい」と言わねばならない。
もし若い人たちから、「どうして諸先輩方は、大舞台でも緊張せず、大きなプレゼンテーションでも物怖じせず、堂々と振舞えるのですか?」などと質問をされたとしても、「ええとねぇ、それはねぇ、退化しとるからだよ」と答えねばならない。

ということは、これから益々、退化していくわけだから、どんどんと大きな物や事を成し遂げられる人間になる可能性があるということだわなあ。退化、万歳。どないしよう、来年あたり、いきなり、総理大臣に任命でもされたら。「まだ、ちょっと退化が追いついていませんので、今回は辞退させていただきます」なんて断ってしまうことになるのだろうか。

ということは、あれか、数年前までは、「そないぎょうさんお酒飲んで、よう眠くなりませんなぁ」などと言われ、「そうですねん。飲んだら、気分が高揚して、眠くなるどころか、ギンギンになりますねん」などと答えていた自分の姿が懐かしいほどに、今ではすっかり、「あかん……。飲んだら眠くなる」と、残りの仕事も手につかず、ポテチンと眠ってしまっている。
そういえば、自称、例えツッコミを生業としているにも関わらず、例えが脳内に浮かんでいるものの、その名前が出てこずに、「それは、まさにアレやなぁ! 自分、それはアレやで! さすがに、アレがソレやで!」などと、ツッコミの際に、代名詞を使ってしまうという不甲斐なさ、それもまさに退化やな。

ほんなら何かい、食べたら食べた分、飲んだら飲んだ分、お腹周りの脂肪となって、燃焼されることもなく、ただただダラしないプロポーションに成り果ててしまっているのも退化で、かかとが磨り減って、地面と平行に立てないほどに靴がボロボロになっているのにも関わらず、お金がなくて新しい靴を買えないのも退化で、乾燥の季節になると、指の皺がパックリと割れて、痛い痛いイタイってなっているのも退化で、ごくまれに、会社帰り、電車に乗る際、逆方面行きの電車に乗ってしまっている天然っぷりも、退化ということになる。

そういえば、僕たちがこの目で見ている星の光は、はるか過去に放たれた光を、今僕たちが、この地球の上で見ているそうだが、ということは、今現在のあの星も、はるか宇宙の彼方で、退化してしまっているのかも知れないなあ。

そんな気持ちで引き続き、空を見上げていると、風に吹かれた落ち葉が、僕の顔の上にひらり舞い落ちてきた。
あろうことか、その落ち葉、眼鏡と頬の隙間にスッと侵入し、その尖った葉の先が、瞳に突き刺さった。
この野郎、なんてこった、あぐぐぐぐ、痛い痛いイタイ。
早よう退化せねば。これしきの痛みで、痛い痛いイタイとなっているようじゃ、まだまだ青二才や。退化すれば、こんな痛みも感じなくなるのに。

デタラメだもの。

201151129

こんな深夜の時間に一億円もの金が動くの?『デタラメだもの』

酸っぱいサラリーマンの体臭と、酒臭い溜息に埋もれながら、最終電車に揺られて、家に帰る。
人間、年齢や経験を重ねて、やれることが増えてくると同時に、やらなければいけないことも増えてきて、やらされることも増えてきて、やってみなければならないことも増えてきて、一日に詰め込まれたそれらの行事を半ば追われるようにして消化していると、一日なんて、あっという間に終わる。

その昔、友部正人が一本道という曲で歌った「しんせい一箱分の一日を 指でひねってゴミ箱の中」という歌詞が脳裏に浮かび、しんみりした気分で電車を降りる。駅前に辿り着き、ストリートミュージシャンが歌うヘタクソな斉藤和義の歌うたいのバラッドを背中に聴きながら、家路に着く。

家に入ると、鞄を放り投げ、と書くとトレンディドラマのようで物語性があるが、その実、鞄の中には、お仕事の大事で大切なデジタルデータが入っているため、乱暴に放り投げでもして、そのデータが消えてしまったり、その記録媒体が破損でもしてしまおうものなら、方々から怒鳴られたりどつかれたりするはめになるので、細心の注意を払いながら、そっと、フローリングの上に置く。

そして、テレビをつける。無音は嫌だ。だから、テレビをつける。

近ごろ、テレビ番組が鬱陶しい。テレビ番組の内容が鬱陶しいとか、バラエティ番組の企画が鬱陶しいとか、テレビに出ているタレントが鬱陶しいとか、そういうんじゃなくて、テレビの向こう側から人々の笑い声が聞こえてくるのが鬱陶しくて、バラエティ番組の類が見れなくなった。
無味乾燥な今日という一日を送ってきた後に、人々が嬉々として楽しんでいる声を聞かされると、そのコントラストがきつ過ぎて、参ってしまうようになったから。
かと思いきや、報道番組も見れなくなった。テレビの向こう側から、事実だの真実だの意味のあること、そういった言葉や音声が流れてくることが鬱陶しくなって、報道番組も見れなくなった。

だったら、何を見てるん? お前、テレビ見てる言うて、何を見てるん? となるわけだけれども、何を見ているのかと言うと、二十四時間放送されている、通販番組。

通販番組には癒されるよ。とことん癒されるよ。
もともと、夜更かしせんければならんかったり、朝早起きせんければならんかったりと、時間の定まらぬ仕事が多い中、仮眠を取ることも多く、早朝に向けて早々に寝ていなければ仕事が破綻したり、まだ夜かと見紛うような時間帯から早よう起きねば仕事が破綻してしまうこともあるため、深い眠りを避け、電気は煌々と点けたまま、寝心地の悪いフローリングの上で、且つ、テレビはつけっぱなしで、という生活を送ることがよくあるが、その際には、いつも通販番組を延々と垂れ流していた。

一つの商品に対して、さまざまな切り口から、それを褒め倒し、絶賛し、称賛し、時には冷静に商品のスペックを語り、再びまた仰々しく、商品を褒め千切る。
そんな音声がとても心地良く、川のせせらぎとか、鳥のさえずりとか、あっち系の癒しを与えてくれるのである。

これまでは、仮眠の際に垂れ流していただけだったけんども、近ごろでは、家に帰れば、すぐさま通販番組をつけ、それをボーッと見ながら、時に聞きながら、深い癒しを求めるようになった。

ぬふふ、果たして、この欲望に正直で、貪欲でハングリーな自分が、たったの癒しだけで満足していると思うなかれ、癒しだけを求めて、単調な時間を過ごしていると思うなかれ、その通販番組には、血湧き肉踊る興奮が待っているのである。

それは、ただ今のオーダー数として、リアルタイムで、注文状況の数字がカウントアップされていくというもの。
それの何がすごいかと言うと、その上昇スピードが、あまりにも速いんだ。みるみるオーダー数は上昇し、それを見て視聴者たちは連鎖反応を起こしてか、さらに注文が殺到し、ますますその上昇スピードは加速し、もはや青天井なわけだ。

ほんで、何が血湧き肉踊るのかと言うと、基本的には、どの商品も、数千個、多いときには、一万数千個程度売れることになるわけだけれども、単純に商品単価とオーダー数を掛け算してみると、時に、一億円近く売れている商品もあるわけで、おいおい、ほんまかい? こんな深夜に、何気ないアウターのコートとか、豚の角煮を作れる機械とか、何の変哲もない化粧品など、そんな類の商品が一億円近くの売上を上げるなんて事態があってええんか? そして、ほんまに一万個とかの在庫を用意してるんか? おいおい、深夜に一億円やぞ、アウターのコートで一億円稼ぐことなんかあるか? しかも一瞬にしてやぞ、もはやアメリカンドリームですやん、マドンナが夢を追い求めて、小銭だけを手にニューヨークの地に降り立って、その後、スターに登りつめる系の夢物語やん、ほらほら、そない言うてたら、どこにでもあるような普通のネックレスが、また一億円近く売り上げてるで、オーダー数も六千とか七千とかなってるで、こんな深夜に、そないぎょうさん、この通販番組見てる人おるんかいな、社会に疲弊した自分みたいな人間が、癒しを求めて見てる程度の視聴数ちゃうのん? みんなそんなこの時間に、自分の物欲を満たそう思うて、この通販番組見てるのん? というか、こんな夢のように紹介した物が売れるんなら、どいつもこいつも、この通販番組で商品を紹介したらええやん。ほんなら、みんな、億万長者なれるんやから。

広告屋として、もしかしたらこの手法は、購買意欲を掻き立てるマーケティング手法なのではと、その演出を冷静に分析したがる自分もいるものの、いやしかし、世の中、しょうもない目線で、何でもクールに判断すべきじゃない、こういう腰を抜かすような事態が目の前で起こるのが世の中かも知らん、この通販番組で商品を紹介したことによって、大金持ちになった社長さんだっているかも知れない、それほどに、この番組は、商品を売るための力を持っているのかも知れない。

ぎゃあ。興奮してきた。また一人、美容サプリメントをこの番組で紹介したことによって、億万長者になろうとしている社長さんがおるぞ、興奮してきた。オーダー数がどんどん上昇していく、僕の血圧も、どんどんと上昇していく、あかん、明日はめっぽう早く起きねばならんのに、到底眠れない、寝付けるわけがない、あかん、この商品の紹介がひと段落したら、この興奮を抑えるために、上半身裸で、冬目前のお外をジョギングでもしてきてやろうかしらん、ほうら、一億円達成したぞ、在庫は大丈夫か? この番組に出るにあたり、ケタ違いの在庫を用意してきたか? 在庫切れなんて損だぜ、パチンコでチューリップが開いているのに、玉がなくなっちゃったくらいに損だぜ。

癒しと興奮の波を不規則に味わいながら、気づけばグッタリと寝落ちしている。知らないうちに、寝落ちして果てている。そうして朝、いつものように目を覚ます。またしても、鬱陶しいことばかりが待ち受けている一日の始まりなわけだけれども、こうして清々しい気持ちで目を覚ませるのは、毎夜毎夜、億万長者になる夢物語を目の当たりにしながら、良質な睡眠を取っているからなのかも知れない。

デタラメだもの。

201151114

こんなにももの悲しいスピンオフストーリーが、オフィス街の片隅で日晒しになっていても良いものだろうか。『デタラメだもの』

事務所の近くには、三階がヨガのダンスレッスンのスタジオ、二階がアメリカンでスポーティーなお姉さま方がホールを務める飲み屋、一階が丼屋のチェーン店という、不思議な層を成したビルがある。
ちょうど、人が信号待ちで立ち止まる正面に位置しているビル。

これほどにターゲッティングが分かれたビルも珍しく、信号待ちをしている人々の視線は興味によって散り散りなわけだ。
女性に関しては、ヨガのダンスレッスンのスタジオには興味があるかも知れないが、普通、人って、信号待ちでビルの三階を眺めるってことはしないよね。
だから、隣にいる同僚社員などとおしゃべりしながら、楽しく信号待ちのひとときを過ごすことになる。

問題は、男性陣である。

三階のヨガのダンスレッスンのスタジオは、なかなか罪深いやつで、三階部分が総ガラス張りになっていて、きっとこれには、女性は見られれば見られるほど美しくなるからというような原理も働いているのだろうが、とにかく総ガラス張りで、これがなんと、冬場には、室内のヨガの熱気と、外気の冷たさとが相まみえて、結露っつうのか、曇るっつうのか、とにかく、室内の熱気を曇りガラス状に伝えてきやがるわけで、この様子がオフィス街に淫靡なテイストを放散するらしく、こういった類にご興味のある男性陣は、信号待ちの最中に、日常ではペコペコと下げ慣れた頭を思いっきり上にもたげ、三階を凝視するわけである。

そして二階はというと、アメリカンでスポーティーなお姉さま方が、タイトなスポーツウェアのようなものを着込みながら接客をするという、ハッピーでパーティーピーポーな飲み屋が、快活で且つ淫靡なエナジーをオフィス街に放散しているため、こういった類にご興味がある男性陣は、得意先や上司から怒られたり詰められたりして消失しきっている心を満たそうと、信号待ちの最中に、日常では項垂れ慣れた首をやや上にもたげ、二階を凝視するわけである。

そして、一階。こちらは言うまでもない。腹をすかせた男性陣たちが、丼屋のチェーン店前に掲出されているポスターの中で燦燦と輝くカツ丼やらにヨダレを垂らしながら視線を注いでいる。
きっと、日常の飛び込み営業に疲弊した気の弱い人たち、丼屋の店内には、とても強気で飛び込んで行けるのだろう。得意先や上司には、果てるほどに気を使っている日常ゆえに、丼屋のスタッフに対しては、多少、横柄な態度を取るのかも知れない。
そんな男性陣が、丼の中に注ぐタレの如く、真っ直ぐでピュアな気持ちを丼屋に対して注いでいるわけである。

そんな様子を見ていながら、はははんと思う。はははははんと思う。何をははははんと思っているかと言うと、人それぞれで欲望の種類が違えば、欲望の優先順位も違うという様子に、はははんなわけである。

二階よりも三階を見る男性っちゅうのは、比較的高額な料金が発生する、コンセプト重視の二階の飲み屋は、自分とは無縁だと感じ、三階の清らかな淫靡さを求め、少々小金を持ったような連中、夜な夜な繁華街で飲み歩けるような小金を持ったような連中は、三階のような純真で無垢な中に潜む淫靡さよりも、ストレートな欲望という風なものに惹かれる。
そして何より、男性によっては優先順位高いんじゃね? と思われる淫靡さ、邪淫さよりも、食うことに飢え、食欲第一で丼屋を睨みつける男性の、何たる勇ましいことか。何たる原始性、男性的シンボル、無骨、無頼、はははん、その姿はまるで勇者。

というように、その人のステータスまでもが透けてみえるようで、はははんなわけだ。

そして、もう一つ、このビルから感じるコメディさが、三階から一階までを眺め下ろした場合、三階で汗かいて、二階で酒飲んで、一階でメシ食うて帰ーえろ、とでも言わんばかりに、麻雀で言うところの、一気通貫している様が、何とも痛快で、ストレスだらけのオフィス街の中、何とも単純で明快で、笑ってしまうわけなんだ。

しかし実は、このビルを取り巻くストーリーには、スピンオフがあるので、ここではそれを語りたいがために、この文章を書いているにも関わらず、既にこの文字量を消費してしまっているという体たらく、おしゃべり。

で、何がスピンオフかと言うと、このビルの対面には、大きな老舗のビルディングがあり、そのビルディングの地上二階部分には、社会で働く人たちが休息できるような、公開空地がある。
真四角のブロックで設えられた椅子が数個、ゴミ箱が数個、灰皿が数個あるような、庭とも言えない公開空地。

ここには、仕事や社会に疲れきったような社会人たちが、それぞれの心の休め方を求めて集ってくる。
項垂れながらスマホに目を落としているような人もいれば、一人無言で菓子パンを貪っているような人もいる。
所在無げにタバコの煙を見つめている人もいれば、単純に項垂れたまま、考え事をしているような人もいる。
まぁもちろん、快活な笑い声があったり、単純な休憩で訪れている人はいるものの、そんな現代社会の陰鬱なパーツを凝縮したような空間がここにありながら、どよんと悲しみが鬱積したような風情に包まれたこの空間はビルの二階部分にあるわけで、なんと、そこからふと目を流すと、例のビルが、例のビルが対面に一望できるわけである。

その景色たるや、人間の心情を虚無にさせてしまうほどの破壊力があるんだな。
汚れ無き淫靡さという欲望や、アメリカンで闊達な欲望や、原始性のある勇ましい欲望などを直視した瞬間、こちら側の自分とのギャップ、欲望の一切合財を、社会という無機質なモンスターに刈り取られてしまい、ロボットと化してしまった自分の空虚な心に、劇物を捻じ込み注ぎ込まれるような感覚。
信号待ちの時には、あれを欲望として捉えられるのだろうが、この二階の公開空地、世の中のストレスを一手に浴びたような沈鬱な場所からあれを眺めると、君の人生にはこの先、何一つ喜びも悦びも慶びも歓びもないんだよ、欲しがるなよ、求めるなよ、望むなよと、欲望から突き放されるような気持ちになる。
特に、陽が落ちた後は、それぞれの店が放つネオンが、余計に欲望のコントラストを強め、公開空地とのギャップを嫌味なほどに演出してしまう。

こんなにももの悲しいスピンオフストーリーが、オフィス街の片隅で日晒しになっていても良いものだろうか。
そんなことを思いながら、深夜残業を終え、最寄のコンビニで、缶ビールとから揚げ棒を買い込み、さてパンクロックでも爆音で聴きながら、プラプラ帰ろうかしらんと、もぞもぞとイヤホンを探したり、上着に袖を通したりしながら、例の場所で信号待ちをしていると、もぞもぞと上着に袖を通す仕草が大袈裟だったためか、大手を挙げているように見えたらしく、一台のタクシーが僕の前で停車。
後部座席のドアーがシューと開いたので、恐縮しながら、「あっ、止めてませんので……」と伝えると、運転手のあからさまな舌打ちだけを残し、客を乗せるために喜んで開いた風情のドアーが、冷笑するようにバタムと閉じた。

切な過ぎて、信号待ち。
僕が見上げたのは、二階でも三階でもなく、頭上に輝く月だったとさ。

デタラメだもの。

201151107

だから乗り物にはめっぽう弱いんだってば、力が全く発揮できないんだってば。『デタラメだもの』

よくよく考えてみると、大阪と東京だなんて離れた場所にビジネスの拠点があるということ自体、なんだかおかしな話だなあと感じつつも、仕方ないじゃない、東京にいらっしゃるお客様に呼んでいただけるのですもの、ビジネスの中心地は東京なんですもの、お飯を食べ続けて行くためには、ビジネスの中心地に行く必要があるんだもん。

例の如く、新幹線に乗って、ビュンビュン移動する。
どうやら新幹線みたいな乗り物で高速移動をしていると、人間の体内では、細胞が死んぢまってるみたいやね。
元来、人間の身体というものは、やれ猿から進化しているやら、アダムとイブが禁断の果実をどうやらこうやら、ともかく、新幹線のような俗な物がこの世にない時代に創られているのは間違いなく、粗野で粗暴で原始的な世の中にこそ、本来の人間の身体というものは適正ということになる。新幹線のような俗な物に最適化していけるほど、人間の身体がマルチではないため、新幹線で高速移動をしていると、細胞が死んぢまうみたい。

とある権力者が僕にそう教えてくれたので、僕は方々で、この雑学を披露しているのだけれども、これが嘘だったとしたら、とある権力者をどついてやろうと思ってはいるものの、権力者には僕の拳は全くといっていいほど及ばないはずなので、こちらの説、正誤を確かめず、やはり方々で披露し続けて行く所存である。

そんな余談はさておき、新幹線の高速移動によって細胞が死滅していくということは、どういう状態になるかというと、誤解を怖れず単純に言い切ってしまうと、現地に着いてから疲れる、のである。
もう、この疲れたるや、尋常じゃない。なんでこんなことせなあかんのん、ぐらい尋常じゃない。

ビジネスの中心地であり本拠地である東京に出向くとなれば、前日には、その準備やら出張中に進行できない仕事を前倒しでするやら、余念余念での備えなら、なんやかんやと没入していると、だいたい毎回、ほぼ寝ずの出発となる。
寝ずの出発の上に、高速移動で細胞を殺されてしまっては、そりゃ到着したときに、「あぁ……しんど」となるわけだ。

で、何が言いたいのかというと、「あぁ……しんど」な状態でいざ東京となっているわけで、そうなってくると、東京での打ち合わせ時にも疲労は隠せないし、徹夜によって時差ボケのような現象も起きているわけで、結果的に、本来の自分、元来の自分、ポテンシャルというやつ? それが全くといっていいほどに発揮できないことになり、ビジネスの中心地、本拠地にゴロゴロといらっしゃるビジネスの猛者たちと対峙するときに、やたらめったら能力のない奴、ひ弱な奴、主張のない奴、論理破綻した奴、などの扱いを受けることになる。

こんな愚痴を披露してしまうや否や、ビジネスの中心地、本拠地の猛者たちは、きっとこう言うだろう。
「だったら、前の日から東京入りして、休息してからビジネスに挑んじゃえば?」と。

悲しいかな、ビジネスの中心地、本拠地ではない都道府県の且つ中小企業で働く者たちは、前の日、所謂、前乗りして宿泊できるだけの経費なんぞ、使えないのである。

「一泊するのに、ナンボかかる思うとるんじゃい! その出張で、一泊分の宿泊代をペイできるくらい稼いで来れるんかい! 稼ぎの見込みも立っとらんくせに、何を偉そうに経費使おう思とるんじゃ餓鬼! 日帰りでピャー行ってこんかい! あほんだら」

などと罵倒されて仕舞い。

こんな事情もあって、やはりビジネスの中心地、本拠地に着く頃には、ヘトヘトの状態になっているので、やっぱり本来、元来の自分のパワーというものは、微塵も発揮できないわけである。

これは何もビジネスの世界に限ったことではない。
僕という生き物は、乗り物にめっぽう弱い。すぐに嘔吐してしまう。自分が運転する車を除けば、大半の乗り物で酔ってしまう。
電車はもちろん、バスだって、タクシーだって、なんだって酔う。これについては、自信を持って言う、なんだって酔う。
どれくらい酔うかというと、若かりし頃、お金がないくせに、調子に乗って、大阪から夜行バスで東京に行ってやらんと企み、酔いの不安を若気の至りで蹴散らして、夜行バスに乗り込んでやった時のエピソードがそれである。

天王寺という街からバスに乗り、出発後すぐ、上本町という街で別の乗客を拾う。
さぁ、今から八時間近くのバスの旅ですぜい! と息巻いている乗客たちを尻目に、僕は既に、上本町の段階で酔って吐きかけていた。天王寺から出発して、まだ十五分くらい経ったころである。
これから八時間近くの移動になる人間が、出発後十五分で酔ってしまっているんだ、後の七時間四十五分は、地獄以外の何物でもない。

ともかく、それほどに乗り物に弱い。
なぜに今、殊更に乗り物にめっぽう弱いことを訴えたかと言うと、ビジネスの中心地、本拠地に乗り込んで本領発揮ができないことを思い返しながら、自分が昔、少年野球に所属していた日の苦い思い出が顔をもたげたからである。

少年野球と言えば、ホームグラウンドに敵軍を呼び寄せて試合ができる日ばかりではなく、相手方のチームに呼ばれ、アウェイのグラウンドに出向いて試合をする日もあれば、大会に参加する時などは、問答無用にその大会が実施されるグラウンドに出向く必要がある。
それらの移動は、車だ。
そして、僕は、乗り物にめっぽう弱い。

乗り物に弱い僕は、試合に出向く時にはまず、朝一番で憂鬱が襲ってくることになる。
それは、強豪の敵軍と試合をして完膚なきまでに打ち負かされることを怖れてとか、自分がスランプに陥ってしまっていて、好成績を残す自信がないとか、そういった類の憂鬱ではなく、単純に、移動中の車で酔ってしまうからである。

思い返せば、移動中の車、高速道路を走っている時に、酔いを我慢できずに、おもむろに窓を開け放ち、高速走行中の窓から嘔吐したこともあったし、敵軍のグラウンドに着くや否や、グラウンドの隅に走り寄って、土の上に嘔吐したこともあった。

チームメイトたちは、意気揚々、車を降りてすぐ、アップを始めたり、闘争心を剥き出しにしたり、バットをブンブンとスイングしながら身体を慣らしたり、今日の作戦を立て合ったり、とにかく試合に勝つことだけに集中しているわけだけれども、自分はというと、車での移動で、ほぼ全ての体力を奪われ、目は回っているし、気を抜けば、まだまだ引き続きの嘔吐感が襲ってきそうで、とてもじゃないが、野球どころじゃない。
水やら清涼飲料水やらを口に含みながら、なんとか嘔吐後の臭いやら味やらを消そうと必死に努めながら、霞む視界の中でグラウンドの景色を眺めたものだ。

そんなやむを得ない事情があったからか、三年ほど少年野球を経験したが、出場した全試合を通じて、バットにボールを当てることができたのが、三度ほどだったと記憶している。
ピッチャーゴロが二度と、センターフライが一度、それ以外の打席は、全て三振だったはずだ。
言い訳をさせて欲しい。
バッターボックスに立っても、乗り物酔いをしまくった自分の目には、ピッチャーのボールが二~三個に揺らいで見える始末で、ボールの位置に合わせてバットを振ったとしても、三半規管の感覚がグラングランになっているため、思った位置にバットを振ることなんざ、到底できない。
だって、立っているのがやっとだもの。

ウチの少年野球チームは、弱小チームということもあり、試合中にあまりにも三振打者が続けば、監督が審判にお願いをし、三振したとしても、一塁ベースまでは全力疾走させてもらうという、青春であり且つ、鬼のような辱めを味わうという風習があった。
当の僕はといえば、三振も去ることながら、その直後に、一塁ベースに向かって走ることも苦痛であり、走りながらも嘔吐感に苛まれながら、ひたすら遠くに見える一塁ベースを目指しながら、脳内で考えることはといえば、帰りの車中で、再び車酔いに耐えねばならないという恐怖。

そんな状態で、野球なんかできるわけがない。
その後、僕は、野球をやったり、バスケットボールをやったり、スポーツ以外では、音楽をやったりあれこれとやってはきたものの、よくよく考えてみると、何をするにも、電車やバスの移動は付き物で、それをやっちまうと、僕は僕本来の力を発揮できないことを承知しているため、乗り物酔いというボトルネックが原因で、どれもこれも志半ばのまま、放棄してきた。

だからこそ今、新幹線などという俗な乗り物に乗って、ビジネスの中心地、本拠地である東京に出向き、着いた頃には、酔いに耐え、身体が疲れている中で、さらにビジネスの猛者たちに会って格闘するということは、あの日の少年野球の苦悶の日々を思い起こさせ、ビジネスのチャンスは東京に転がっているなどと言われ続け、事あるごとに、東京に出向け東京に出向けと言われているものの、未だに仕事の一つも取って帰阪できない理由は、そんなところにあるのだと、この場を借りて力強く訴えたい。

付け加えて行っておく。
僕が本来の力、元来のポテンシャルを発揮できる限界の移動距離は、各駅停車で四~五駅程度の場所だ。
それ以上の移動を伴った瞬間、僕の力は半減していく。
もちろん、東京などという遠方な地では、僕の力は、ほぼ皆無に等しい。
そういうことを鑑み、移動の指令は、各駅停車で四~五駅程度に留めていただくよう、会社に申請しようかと思っているが、もしそれが許可されない場合は、もう打つ手なく、黙って一塁ベースまで全力疾走するほか、ないと自覚している。

デタラメだもの。

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妙な記憶力を持ってしまったがために、これほどまでに悩むはめに。『デタラメだもの』

妙に記憶力が良いというのも、困りものである。
かく言う自分は、妙に記憶力が良く、ほとほと困らされる場面が多い。

早速話が脱線して恐縮ではあるが、記憶力も去ることながら、鼻も妙に利く。この、鼻が妙に利くというのも、ほとほと困りものである。
どう考えても、一般人の数倍近くの嗅覚があることは間違いなく、それで何が困るかと言うと、世の中が悪臭に包まれていることである。
公衆便所はもちろんのこと、街の至る所や電車の中。この電車の中なんていうものは、最悪だ。特に夏場。嗅覚が異常に発達している人間からすると地獄以外の何物でもない。
朝の起き抜けの不機嫌な中、満員に近い電車に乗ると、目の前におっさん。それほど身長の高くない自分の鼻は、ちょうどおっさんのうなじ付近に位置することが多く、ただでさえ悪臭が漂っている車内の中、高性能な鼻のまん前におっさんのうなじを近づけられた日には、卒倒しそうになる。
ということもあり、普段、僕はめったと鼻で息をしない。どこに行っても鼻で息をしない。口呼吸のみである。トイレもそう。風呂場もそう。給湯室もそう。どんな場所でも、鼻で息をしない。不意を突いて、鼻腔内部に、悪臭が侵入してくることを極度に恐れるがために、鼻で息をすることをしなくなった。それにより、ニオイ問題は解決されつつあるものの、鼻が極度に利くというのは、本当に困りものなわけだ。

話を元に戻そう。
記憶力についても、妙に発達してしまうと、自分自身を困らせる能力の一つに化してしまう。
じゃあ、いったいどんな記憶力に長けているのかというと、人の顔を覚えすぎてしまうことだ。

軽く接点があった程度の人だろうが、一度街中ですれ違って、何らかの印象に残った程度の人だろうが、ひと度、顔を認識してしまうと、どんなことがあろうが、記憶から消えてくれない。

それのどこが困りものなんだ? きっとそう思うだろう。記憶力が良いってことは、便利なことなんちゃうんかい? そう思う人も多いだろう。それがそうでもないんだなあ。覚え過ぎているってのも、都合が悪い。
なぜか?
それは、こっちが相手の顔を覚えているにも関わらず、相手はこっちの顔を覚えていないというケースに出くわすことが多いからだ。
実際に、相手に対して、「僕のこと覚えてはります?」と確認し、「はて? どなたさんでしょう?」などと、無礼なことを言ってのけられた経験があるわけではない。
だけども、もう生まれてこのかた、長い年月を経て、それなりの経験を積んだ自分なら分かる。絶対に、相手は、こちらのことなど記憶に残してくれてやしない。

僻み根性からなんだろうか? いや違う。自分の妙な記憶力の凄まじさと、他人のそれとを比較した場合、圧倒的に差があるのは歴然で、そうすると、こちらが記憶している相手と言えど、相手はこちらを記憶などしてくれていない。

例えば、街中で、知った顔を目撃することが多い。知った顔と言っても、前述通り、過去に軽い知人であった程度の人から、一度だけ会ったことのある人、こちらが身勝手に認識し印象に残してしまっているだけの人もいるが、それらを総じて知った顔と言って語弊がないとするならば、街中ではよく、知った顔に出くわす。
そうなった場合、もちろんこちらは、知った顔と言ってしまっているくらいなので、記憶に残っているが、向こうは絶対にこちらのことなど、記憶にないはずだ。
となると、「久しぶり!」とか「ご無沙汰してます!」などと、フランクに声をかけるのも歪で、向こうからすると「誰やこいつ?」ってな相手が、突如としてフランクに声をかけてくるもんだから、慌てふためいて仕方がないだろう。
そして、相手に対して、「このフランクな兄ちゃんはこちらのことを覚えてくれているのに、こっちはこの兄ちゃんのことを覚えていない。自分はなんて不覚な奴なんだ。武士の世界ならば、切腹して詫びねばならない失態。どない償って良いものだろうか。すんません、すんません。こんな無礼な自分を許してくださいませ……」と、こちらのことを忘れてしまっている失態について、心の中で、深く陳謝させてしまうことになる。

それを知ってて、「久しぶり!」などと、テヘヘ顔して言ってのけられるわけがない。その軽率な行動が、相手の心を踏みにじってしまうことになるのだ。「久しぶり!」なんてセリフは、口が裂けても言えない。

仮に相手が、「あぁ……。ご無沙汰してますぅー」なんて、超大人な対応で、こちらのフランクな態度に合わせてくれたとしても、相手の口元に、少しでも居心地の悪さが滲み出たりしようもんなら、ああ、やっぱり覚えてはらなかったんだな、悪いことをしたなあ、一生懸命に覚えている風の演技でその場を過ごそうとしてくれてはる、本当に申し訳ないことをしたと、こちらも罰が悪く、足早に立ち去らねばと反省し、猛ダッシュの末、近隣の川にでも飛び込んでしまうしか、身の振り方がなくなってしまうじゃあないの。

だから嫌なんだ、記憶力。
よく、「俺、他人の顔とか、名前とか、覚えられないタイプなんスよぉ」とか、風俗のキャッチの兄ちゃんのようなテンションで言ってのける輩がいるが、そんなことが言えるということが、どれほど恵まれたことかを、しっかりと噛み締めて欲しいもんだ。

妙な記憶力の良さを疎ましく思っている自分が取れる処世術として、知った顔が街中で出現などした場合、道路だったら、逆側の道路へとスピーディーに移動する。電車内だったら、次の停車駅で一瞬だけホームに降り立ち、隣の車両に移動する。どうしてもニアミスしそうな一本道の場合には、人生に何の兆しも見えず、お先真っ暗で未来も見えない極度の憂鬱を抱いた人間の如く、足元を見つめながら歩いている風情を醸し出し、俯き加減ですれ違う。そんな処世術を駆使しながら、知った顔と接触しないようにして生きている。

どうしてそんな処世術を駆使しなければならなくなったかというと、知った顔の人々が、こちらに対して、「久しぶり!」だとか「ご無沙汰です!」とか、声をかけてくれたためしが、一度たりともなかったことに起因する。
一度でもそんな幸福な瞬間を経験していたとしたならば、こんな自分も胸を張って、「久しぶり!」とか言ってのけられる人間になれていたのかもしれないが、悲しいかな、そんな恵まれた瞬間は、一度も訪れなかった。
それほどに、自分という人間は、印象が薄いのだろうか。破天荒に生きているつもりなのに、もしかしたら、誰の目にも映っていないのかもしれない。もしかしたら、透明人間的な要素を兼ね備えているのかもしれない。

そういえば、小学生の遠足のとき、複数の生徒で構成されたチーム制で移動などしている最中、点呼の際に、構成された複数の生徒全員が揃っていないと、チームの不和があるということで、そのチームに対してペナルティが課せられるというルールが採用されていたにも関わらず、ひょんな理由でモタモタと点呼に集合できなかった僕という存在がいたのに、いたのにだ、どのチームに対してもペナルティが課せられた形跡もなく、無事、点呼の際に、複数の生徒で構成されたメンバー全員が集ったという証が残されていたことがある。
僕が点呼に参加できていなかったにも関わらずだ、ペナルティがないとはどういうことだ。それほどに印象にないということか? これほどまでに印象がないと、誰にペナルティを課すことなく、点呼に参加しなくてもいいということなのか?

冒頭の問題定義の主旨が変わってきたことに気づいた人もいるだろう。
妙な記憶力はほとほと困りものだと訴えたい自分がいるのか、自分の印象がとてつもなく薄いという悲しみを訴えたい自分がいるのか、どちらの訴えが自分のソウルから発せられているのか、それさえをも見失いかけている自分がいる。

ただしこれだけは言える、言ってあげることができる。もし、自意識が過剰過ぎて、人前でしゃべることが苦手だと言った人や、人前で何かを披露するときに、極度に緊張し、上手くやってのけられない人、相手に自分がどう映っているのかが不安で、対人関係を上手くこなせない人。そんな人に言ってあげたい。
他人の記憶になんて、そう簡単に残るもんじゃない。他人の記憶に残れるなんて、そんなおこがましい驕りは、今すぐ捨て去ったほうがいい。
心配しなくていい。安心してもらってもいい。君のことなんて、誰も覚えちゃいない。君が他人の前で、いかなる失態をしようとも、他人は君のことなんて、覚えちゃいない。覚えていてくれるほど、他人なんて優しくもない。
だから、他人にどう思われるか分からないから……という理由で臆病になっている君、僕と一緒に、点呼に不参加でいてやろうじゃないか。
きっと、どのチームもペナルティを喰らうことなく、のほほんと、手作りのメダルか何かを首からぶら下げてもらって、のほほんとピースサインで集合写真なんかを撮っちゃってるよ。
安心したまえ、君のことなど、誰も覚えていない。
もちろん、僕のことなんて、もっと、誰も覚えてくれていない。

悲しみから生まれたこの名言は、ぜひとも、記憶の中に留めておいていただきたいものだ。

デタラメだもの。

201150813

いつか連絡を取るかも知らん。そんな奴の連絡先なんぞ、持ってても仕方がないわ、消去消去。『デタラメだもの』

それにしても月日が流れるのは早いもんで、一週間など、あっと言う間に過ぎていきやがる。こんな感じで一週間があっと言う間に過ぎていくようならば、そりゃ一ヵ月だって早く過ぎていくだろうし、一年はもちろんのこと、十年、いや二十年、一生だって早く過ぎてしまい兼ねない。
その証拠に、若かりし頃は、「ああ、早く週末来ねぇかな? 仕事なんてダルくてやってらんねぇぜ。平日、ファック! 週末、最強! 平日マジでダリぃ。早く週末来ねぇかな!」などと、仕事のある平日を毛嫌いし、仕事のない休日を溺愛していたため、嫌な平日はやたらと長く感じ、ウキウキと過ごせる週末はやたらと短く感じ、「もうサザエさんやってるよ…。また明日から仕事だべ。長い平日が始まるわ…」と意気消沈していたものの、それがどうやらここ数年、平日さえもが短く感じているようで、嫌な嫌な仕事が延々と続く平日までもが短くなっているということは、元来短く感じていた休日はもちろん短く、そうなれば一週間というものは非常に短く、そりゃ『いのち短し 恋せよ少女』なんて素敵なフレーズが共感を生むわけだと妙に深く納得している今日この頃である。
こんなスピードで日々が過ぎて行かれた日にゃ、老いや死を意識せざるを得んがな。得んがなまんがな。

話は変わって、自分には、友人というものが居ない。「俺は友だちいないからなぁ」と、涼しげな顔をして言ってのけるような輩の数十倍、いや数百倍、深刻なレベルで友人というものが居ない。
もはや、この歳にもなると、「もう友人とかええわぁ」と達観してしまっているので、殊更に焦る必要もないが、自分という人間は、ほとほと人付き合いが出来ない人間だと痛感する。

ただ、痛感と言っても、痛感とは本来、自分が何かしらしでかしてしまったり、ミスしてしまったり、落ち度があったり、やらかしてしまったりしたその事後、やっぱり自分にはこれは向いていないだとか、やっぱり自分にはこの才能はないなどといった具合に、いわゆる『痛感』するもんだろうが、僕の場合は、周りから『痛感』させられると表現したほうが適切なのかも知れない。

じゃあお前さん、どういった具合に周りからそれを痛感させられているんだいと、多少なりとも興味を持ってくれる人もいるかも知れないので、ひと言でそれを言ってしまおう。つまりは、平素、誰からも連絡というものが入ってこないからである。
またしても、「俺も連絡なんて、平素、誰からも入らんぜ」と、涼しげな顔をして言ってのけるような輩が現れては困るので、先に断っておくけれども、そういった輩の数十倍、いや数百倍、深刻なレベルで、誰からの連絡も入ってこないのである、これ。

先にも書いたように、今ではすっかり達観してしまっているが、僕はその昔、友人知人というものと自分との関係性において、ある法則があるのではということに気づいてしまったのである。
それは何かというと、誰かと友人関係を継続していたとして、それを友人関係だと思い込んでいたとして、こちらからその友人と思い込んでいる人間に対して、ピタッと連絡を送ることを止めてみると、あら不思議、向こうからはこちらに、一切と言っていいほど、連絡を寄越しやがらないのである。
まさかと思い、別の、仮にBさんとしよう、そうなるとつまり、先ほどの誰かさんはAさんということになるので、こちらの誰かさんはBさんとさせていただくが、この友人と思い込んでいるBさんに対しても同様、こちらからの連絡を一切止めてみると、あら不思議、その後、Bさんと連絡を取る機会というものが、全く消滅してしまうのである。

この法則、男女はもちろんのこと、老いも若きも、自分が友人と思い込んでいる人間全てにおいて、この結果になったわけであるからして、となると、僕には友人と呼べる人間が一人も居ないということを意味するわけで、それによって、今では既に、「友人って何? それって旨いのけ?」くらいに達観してしまっているのである。

ただ悲しいかな、浅いお付き合いの人々からは、「友だち多そうですよねぇ」とか「人付き合いが上手いですねぇ」とか「人脈が多そうですよねぇ」などと妙な称賛を受けるので、いちいち否定するのも面倒臭く、「あはは、あはははは、そうですねえ、確かに多くございますわねえ」などと、薄ら笑いを浮かべながら返答もするが、それだけならまだしも、友だちと思い込んでいるような人間から、「お前とおるとオモロイわ!」などと、浪速のレゲエグループが謳う歌詞よろしくの称賛をいただいたりすることもあり、そうなってくると内心、「本心からそうやって称賛してくれてるんやったら、連絡の一つでも寄越してくれるはずやろ……」と、これまた疑心暗鬼に陥る始末。嗚呼、人間なんて、誰も彼も信用できないや。

そうやってすっかり捻くれてしまった結果、携帯電話の機種変更を行う際に、電話帳なるものを、新しい機械に移すということをせず、店員さんから、「電話帳のデータ移しましょうか?」と聞かれたときにも、「いいえ、結構です!」と、クラスメイトから勧められたドラッグをキッパリと断る生徒会長の如く、掌を店員の眼前に突き出し断り続けてきた。
機械的に電話帳を移すことがないので、新しく手にした携帯電話の電話帳は空っぽ。この世界との繋がりが、誰一人として、ない状態を意味する。これがまた気持ちいいんだ。
そうして空っぽの電話帳の中に、この人とは後世、何らかの理由で連絡を送る(もちろん向こうからはかかってはこないが)ことがあるかも知れないと予感させられる人々については、手入力で電話帳に移すという行為を、ここ7~8年続けているが、その数や、年々減少して行く。
これは人間関係を清算していると言うのか、縮小化していると言うのか、スリム化していると言うのか、やっぱり人間関係もエコの時代よね、はははん、電話帳の件数がどんどんと減っているわけである。
でも、そりゃ当然よね。毎年毎年、そのリストは精査されて然るべき。だって、今年も連絡送らなかったな、去年も一昨年も送ってなかったなって、毎年毎年記録を更新しているような人の連絡先なんて、保持してても何の意味もない。万が一、十年先までそいつの連絡先を温めておいて、いざそいつに連絡せねばならないような事態って、よっぽどの緊急事態なような気がして、そんな緊急事態なら、いっそ警察に電話したり、家の前の往来を行くおっさんに声をかけたり、インターネットの知恵袋的な掲示板に投稿したりなどするほうが、よほどの解決に至りそうな気もして、そうなってくると、尚のこと、それは不要、ということになり、削除削除。
今ではすっかり痩せ細った電話帳しかなくなっているという次第である。

ところが先日、仕事で鬱憤が溜まりに溜まり、身元引受人不在の感情が渦巻いてきたため、安酒、世に言うところの缶ビールを大量に流し込んで、おろろおろろと千鳥足で歩いているとき、何の衝動に駆られたのか、その痩せ細った状態の電話帳の中身を、さらに精査したらん! という感情が沸き起こってきたのである。
おもむろにスマートフォンを取り出した僕は、毎回毎回、機種変更を行い電話帳が精査された際にも、その厳正な審査の上、残ってきた精鋭たちに、鬼のようなふるいを加え、迷いのない指の動作と共に、シュンシュシュシュン、次々に消去していったのである。
「ええい、もうええわい、連絡を取るかも知らんって、何やねん。知らんって、何やねん。こっちは、取るかも知らんなんて薄い期待を積み残していたとしても、向こうは連絡を取る気なんざ毛頭無いんじゃ。それだけは明白な事実じゃろがい。それを、いつか取るかも知らんって、わしゃ乙女か! いらんいらん、こんなもん要らんのじゃい!」

結果的に、世の中で僕が能動的に連絡の取れる人間は、ほとんど居なくなってしまった。ががが、気持ち良い。
悦に入りながら、電車の到着を待っていると、やたらめったらリアルが充実してそうな男女二組が、ワイワイと甲高い声を上げながら、同じく電車を待つべく、僕の横あたりにやって来た。
なんじゃい、嫌味のようにワイワイやりやがって、やたらめったらリアルの充実感をアピールしやがってと、鬱蒼とした気持ちを抱いていると、その中の一人の男子が、あろうことか、僕の靴をふとした拍子に思いっきり踏みやがって、こんちくしょう、リアルがやたらめったら充実しているくせに、この我輩の靴までをも踏みやがるなんて下衆の極み、どついてやろうかしらと、その集団にグワッと目をやると、なんと、お連れ様の女子がどちらも、大層ブサイクなお顔をしていらっしゃって、なあんだ、リアルが充実してるってこんな程度か、こんなお顔の女子なんて、連れて歩きたくもないないわな。ぎゃははははと内心喜んでいると、電車が到着したので、ルンルン気分で乗り込んだ。
いいよいいよ、靴踏まれたくらいで僕は怒ったりしないよ、ふふふん、僕は器が大きいからねえ、そんなんでイライラしないよと、酔いも巡り薄ら笑いを浮かべていると、どうやら、下車せねばならん駅には停車しないタイプの急行電車に乗り込んでしまっていたらしく、降りねばならん駅を通過してから二十五分近くも無駄な旅を続けるハメになってしまったことは、少なくともリアルが充実している奴らだけには悟られまいと、ポーカーフェイスを続けてみた。

デタラメだもの。

201150719

歯医者の選定というものは、とても難しいものであるが、軽々しい判断は禁物。『デタラメだもの』

困ったことに、奥歯が疼き出した。
人間ってバカげたことに、歯が疼き出すと、「あっ、これはアカンやつだわ、これは確実にアカンやつだわ」と、その痛みの真の意味に気づきつつも、「でも、もしかしたら、今日一日限定で悪くなっているだけの歯のコンディションなのかも知れないから、深く考えなくてもいいかもよ」と、その不安を掻き消そうとする。
僕もそんな数多の人々の愚行を倣い、その痛みと向き合うことを先延ばし先延ばしにしていたものの、ついにアカン、豆腐を噛んでも歯が疼く、冷たいものがしみるのは当然のことだけれど、温かいものまでしみだす始末。

「これは、歯医者に行くしか他ない」と決断し、歯医者の選定に入るも、過去に、麻酔を効かせる場所を間違え、当の親知らず界隈は、神経が元気ビンビンな状態で、力ずくで親知らずを抜かれた経験、あろうことか、右も左も同様の医療ミスをされ、生死の境を彷徨った経験を持つ僕にとっては、歯医者選びは何よりも重要。
金は無いくせに時間も無いこの身分、土曜も日曜も金を稼がねば暮らして行けぬ経済状況だけに、平日はおろか、土曜だってマメに通える保証はない。

そんな折り、弟が通っていたという近所の歯医者が、日曜日もやっているという情報を入手する。
「日曜日もやってくれているのは心強い。時間の無い僕にはうってつけの歯医者だ。だって、通える日の選択肢が豊富なんだもの、日曜日もやってくれているんだったら」

そんな思いを胸に、インターネットでWebサイトを拝見し、おお、なんだかフリー素材の写真ばっかり使ってて、作られた演出を感じるなぁ、などと職業病を出しつつ、予約の電話をかけてみる。

「すみません。初めてなんですが……」

ひとまず、予約を取り付ける。しかし、一抹の不安が。
それは、受付の電話の女性の応対が、絵に描いたようなダメ受付のそれであり、愛想もなければ、どこかしら高圧的で、「お前、何様やねんボケッ!」と、心の中で呟いてしまうようなタイプのスタンス、そんな横柄な対応をされたもんだから、不安はムクムク。

しかし、こちとら、不安のムクムクよりも、歯のズキズキが耐えられず、皆の前で先生に怒鳴られた後の小学生の如く、テンションが下がった状態で日々を過ごしているのだ、ええい、受付なんて関係ない、愛想なんて関係ない、いざ出陣や。

自転車を医院の前に止め、緊張の面持ちのまま、自動ドアの前に立ち、ドアオープンのボタンをプッシュする。
ドアが開く、一歩を踏み入れる、中を見渡す。

「違和感……」

なんというのだろう、言葉でも文字でも表せないけれど、どこかしらに違和感を覚えた。
医院内はどことなく、インドア系のアミューズメント施設、もしくは繁華街にあるラブホテルを彷彿とさせ、ギラついた受付ブースの内部には、あきらかに品のない若い女性が二名。

「帰ったほうが良さそうな……」

そんな第六感が働くも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
名前が呼ばれるのを、椅子に座りながら待っていると、「お前、なんでそんな怒ってんねん?」と、心の中で呟いてしまうほど腹の立つ声が受付から飛んできた。「奥へどうぞ」、と。

待合フロアと施術フロアの境目は、あろうことか、民族雑貨屋で購入したであろう、大きなサイズのエスニックな布切れで仕切られていて、それをくぐって施術フロアに入ってみると、そこは受付フロア以上に、アミューズメント施設、もしくは繁華街のラブホテルの雰囲気が濃くなり、薄暗い照明、ライムグリーンの壁、無表情に蠢く大勢の歯科助手たち。

「いよいよ、帰ったほうが良さそうだぞ……」

オドオドとしている間に、これまたエスニックな布で仕切られた、薄暗く小狭いスペースに案内された。
待つこと、5分。一人の歯科助手がスペースに入って来て、問診っぽいことをし始める。
スペースが小狭いのと、問診の態度が横柄なのとで、えげつない圧迫感を感じて、何もかもが「近い、近い、近いねん!」と、今すぐにでも逃げ出したくなりながらも、無事、問診が終了。

既にフラフラに疲れきってしまった。帰りたい。歯の痛みなんて、耐えて耐えて耐え抜いてやるから、今すぐに帰してくれ。
施術フロアに名前を呼ばれた僕は、千鳥足の状態で、小狭いスペースを抜け出した。

どうやら僕の担当医は、泉ピン子似のおばさんのようだ。
言われるがまま、アホ面して口を開け、あちらこちらと歯を点検され、「じゃあ、レントゲンお願いします」の一声で、施術台から僕は立たされ、歯科助手に案内されるまま、先ほど通過したエスニックな布を再びくぐり抜け、受付フロアに舞い戻り、そこに設置されているエレベーターへと通された。

2階に上がると、そこは、無機質な宇宙船のようなフロア。
モノトーンの最先端機器たちが、所狭しと並べられている廊下を奥へと案内され、辿り着いたのは、突き当たりの撮影室。
またこれが、どう考えても最先端機器であろうレントゲン。
まるで見たこともない機器、形状、その姿形に、この機器で撮影されているシーンさえ想起できなかった僕は、思いつくまま、窪みに顎をはめ込もうとするも、「あっ、そちらは医院の人間の立ち位置ですので、逆側へご移動お願いします……」と、愛想のない指摘を受けた。そんなん、言うてもらわんと、分からんがな。
どうやら、医院のスタッフが作業する際に手を置く用の窪みに、顎を乗せて準備してしまっていたようだ。帰りたい。

レントゲンの撮影が始まる。
土星の輪っかのようなものが、僕の顔の周りを、円の軌道に沿って回る回る。
プシューッというスペーシーな音と共に回る土星の輪っか。近未来的な拷問を受けているような印象で、まるで、キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』の拷問シーンを頭に思い浮かべながら、レントゲンが終了する。

帰りはお前、来た道をそのまま戻るだけやから、分かるよな、一人で戻れるよな? と言わんばかりな態度で、「施術台にお戻りください」と促され、泉ピン子似を目指す。
施術台に戻った僕は、再び、アホ面して、大口を開けて、尖りに尖った器具で、口内をキュイーンキュイーンされるのであった。

ちなみに、その歯医者には2度通い、あまりに不安だったため、その後、歯医者を変更した。

「もう神経抜いてあるから痛くないからねー」と言われて施術を始められた瞬間、神経が残っていて、脳みそと背骨に稲妻のような激痛が走り、施術台の上で、しゃちほこのように反ってしまったこと。
そんな経験をしているにも関わらず、「次の治療は、さすがにもう神経ないから、麻酔なしで大丈夫だから」と言われるも、信用できるかいな、またしゃちほこなるんちゃうん……といった恐怖。これは後日、他院で治療を受けた際に、やはり神経の取り残しがあったことが判明する。
そして何より、受付の横柄な態度、予約を取ろうにも、「先生のスケジュールが」と言って、10日以上間を開けられそうになること。
先生は「神経の掃除だから、一週間と言わず、週に二度くらい来てもらってもいいから」と言ってくれたにも関わらず、受付でその旨を伝えると、「いえ、治療は必ず一週間の期間を開けた後でないと予約をすることはできませんので」と、ぶっきらぼうな態度で詰められたこと。

最終的には、その歯医者の口コミを見てみたところ、普通の虫歯の治療にも関わらず、歯茎の中に銀歯の破片を埋め込んだまま治療を終わらされ、その後、その破片を除去するために、大学病院に通い、歯茎を切り裂いて除去するという大手術を受けた人のコメントを読み、さすがに他院への通院を決めた。

もう、あの医院で僕がアホ面して、大口を開けることは、二度とないだろう。

『デタラメだもの』

201150705

ネタ帳はパンドラの箱。要は一度書いたら二度と見ないほうが身のためだということ。『デタラメだもの』

ちょっとでも面白い文章を書いてやろうと、意気込んで日々をやり繰りしていると、幸いなことに、奇奇怪怪なこの世の中、滑稽や人や無様な人、情けない人やお調子者、ひょうきんな野郎や無頼者、理解不能な事件や、口角が僅かにつり上がる程度の軽いハプニングなど、それはそれはいたるところにおられるわけで、あられるわけで、となると、それらを見たからには聞いたからには感じたからには、面白い文章にまとめ上げねばならんということになる。

そこで登場するのが、ネタ帳。

調子に乗って芸人然として生きているわけではない。決してそんなわけではない。
この面白き世の中と、面白き世の中を記憶しておく能力のないつまならなき脳みそを繋ぐ栄光の架け橋として、いつぞやネタ帳をつけるようになった。

ネタ帳といっても、一般的にイメージされるような、小さな手帳のようなものに、鉛筆やらシャーペンやらでアイデアを殴り書きするようなタイプのものではなく、あろうことか、現代人気取り丸出しで、アイフォーンのアプリケーション、しかもクラウドなどと呼ばれるタイプのものを駆使して、それをネタ帳と称し使っているのである。

元来、果てしなく面倒臭がりの性分故に、一般的に想起されるタイプのネタ帳を持ち歩いていたときなどは、

「ん? いいアイデア思いついたぞ! 忘れては大変なことだ、忘れてしまっては大変なことだ! 手帳、手帳……。カバンの奥にあり過ぎて取られへんがな……。ペンはどこや? ペンは……? ああ! もうええわい! 面倒臭い! ネタ帳に書き込まな覚えてられへん程度の陳腐なアイデアなんぞ、いっくらでも脳内で忘却して行ってやるわい! 真に価値のあるネタなら、そんなもんに書き込まんでも、心にこびりついて、一生涯、忘れるわけあらへんがな!」

と、思いついたアイデアやネタのほぼ全てを、脳内で消滅させてしまっていた。
何事も、面倒臭さというか、手間というか、そういった類のものを介在させると、途端に、所謂ところの無精者になってしまうことを、誰よりも知っているというか、誰ひとりとして、僕がそんな性分なんだということを知っているどころか、僕自身を知っている人間なんざ、世の中には数名程度しかおらんわけであるが、なんともまぁ、アイフォーンのアプリケーションを使って、僕はネタ帳を書いているんだということを言いたかった。ただそれだけを言わんがために、ここまでの文章量を浪費してしまうという、この筆の無邪気な走り方といったら、全くチャーミングだよ。

さて、ここからが本題なわけだけれども、何が言いたかったかと言うとねぇ、そのネタ帳をじっくりゆっくりと読み返す機会があったわけで、軽く缶ビールなんか仕込みながら。
ネタ帳をめくるのではなく、フフフンと人差し指を使って、アイフォーンの画面を涼しげに上下運動させていると、それはそれは爆笑してしまったわけ。

知識が浅く、学力がなく、一般常識に欠けている自分だからこそ、そういった恥部が露呈せぬよう、極力、短めの文章、能力のなさ、才能のなさがバレてしまわない程度の短い文章を、恥ずかしながら売り物としているだけに、ネタ帳の記述も、ひと言でバサッと切り殺す、殺傷能力の高い短い言葉や短い単語が、ツラツララと書き連ねられていて、これを読み返していると、意味不明なものもあり、記憶から消えているものもあり、情景が全く浮かばんものもあり、自分で言うのも何だけれども、なかなかにこれ美味だったわけである。

ところがどっこい、ふと気づく。酔いが醒める。夜風が目に染みる。

「ネタ帳だけ見て、こんなに爆笑してしもうて、大丈夫か……」

つまりは、一発ギャグのような気配がしてしもうたわけです。
となると、そこには文章は不毛。脚色やら演出やら、ギミックやらオノマトペやら、比喩やら倒置やら、物書きの醍醐味であるそれらのもの一切不要ということになる。
じゃあもはや、僕に対しては、面白い文章を書くという役目は与えられていないわけで、だからと言って、一発ギャグのように、末永く流行りそうなものもない。
言うならば、一瞬ギャグ、のようなものばかりが、ネタ帳に認められていた。

何が恐ろしいってねぇ、タイトルのネタやら超短文のネタで笑ってしまったら、そこにツラツラと文章を乗っけても、自分のそのネタへの初笑い、つまりはリビドー、初期衝動を凌駕することは、不可能なんです。それは、痛いほど知っているんです。
芸人さんが、ギャグをやった後に、理解力のない面白みもないボキャブラリーのセンスもない頭の固い人間から、それってどういう意味ですか? などと聞かれる場面で、

「説明さすんかい!」

と、ツッコミを入れるあれ。
つまるところ、笑いの説明になってしまうわけなんです。
となると、自分のネタ帳に書かれている見出しやら短文を見て、ひとしきり爆笑を済ませてしまった自分にとっては、もうこれらのネタと真正面から向き合って、文章へと昇華させる行為はできなくなってしまったわけです。

やっぱり、世の中で起こる瞬発性の高い面白さというものは、ネタ帳のような保温バッグに入れておくのではなく、その鮮度のまま、うまく調理し、すかさず世に再度提供することが重要なんだと、改めて思いながら、なんでここのキッチン什器保管サービス業者の建物の一階ガレージは、いつもいつも猫の小便臭いんだと小首を傾げながら、駅の方へと向かった。

と、これが本題だと言い張りながら文章を書き進めていたが、実は、これからが本題なのだ。
何が言いたいかっていうと、物事を説明するときに、「要は」とか「極論で言うと」とか、我々日本人、使い過ぎだアホンダラアということを言いたかったんだ、今思い出した。
世の男たちの話が、どれもこれもつまらん、やたらめったらに長いのは、「要は」とか「極論で言うと」などと言いながら、一向に話をまとめられない柔な野郎ばかりだからだってえことを言いたいがために、ネタ帳の中に、凝縮された短文が詰っていたんだよ、殺傷能力が高かったんだよ、それを見て僕は自分で阿呆のようにキャハハと笑っていたんだよってことを、前フリとして使っていたんだった、がはは、すっかり忘れていたよ。

日々こうやって、短文に凝縮することを妙味としている自分から世を見ていると、皆さん、「要はね……」と言いはじめてからの説明が、これまた長い、これまたひとつもまとまっていない。
「極論で言うとなぁ……」とはじまった説明が、全くといっていいほど、極論を語れていない。
自分の本論に自信がないために、説明の頭に、余計な装飾を施して、自分の話は、要点をついていますよ、自分の話は、しっかりと振れ幅を持たせていますよと、アピールしなければ、よう話せんのやろう。
「要は」とか、「極論で言うと」などは、もう少し正しく使ってもらいたいものだ、我々日本人。

「要は僕が年々、脚フェチになってきているということです。極論で言うと、恋人のストッキングを主食にしたいくらいなんです」

こういう文例こそが、正しい使われ方だと信じてやまず、今日も駄文をツラツララ。
しっかし、猫の小便臭いなぁ、ここ。

デタラメだもの。

201150614

お金はないが、愉快な話題ならいくらでもあるぞ、缶ビール。『デタラメだもの』

それにしても、なんでこんなにも慢性的に金がないのだ。
自分が若かりし頃にイメージしていた三十代半ばの人間たちのイメージと、今の自分の像が乖離し過ぎていて、滑稽にもほどがある。

先日も、部下二人を引き連れて、大阪のグランフロントとかいう、まるで大阪に似つかわしくないシャレた商業施設に足を運び、広告の設え、装飾などを拝見し、自分たちの参考にしようやないかとウロウロ練り歩いて小一時間。

ここを訪れている人間たちは、さて、大阪の人間ではないのかな? 田舎に住まう人たちが、大阪を訪れた際に立ち寄る観光スポットなのかしら? それとも、ビル内のオフィスで勤務する関東圏から出張やら転勤やらで来られた人たちが、キザな風情を漂わせて、施設を満喫してるのかしら?
この方たちがもし大阪の人たちだとしたら、シティ派というか、都会派というか、関東に憧れてますねんワイもウチという媚がプンプンと臭うくらいに、飲食店を横切れば、下品な笑みを浮かべながら、パスタにフォークを突き立てて、クルリクルリやってるもんだから、思わず失笑して目を背けたくもなる。

まあ、そんなこたぁ、どうでもいい。
ともかく、金がないのだ。

部下たちは、グランフロントの風情に、「オシャレですねぇ……」などと、感嘆としてやがるもんだから、「あほんだら、東京の真似事ばっかりやるのは、大阪の気質と、ほんまは違うねん。ほら見てみい、グランフロントから一本、道逸れただけで、薄暗い路地ばっかりなるやろ。下町の香りが漂う飲み屋さんとかポツリポツリしよるやろ。これが最近の大阪のカッコ悪いところやねん。表層の皮一枚だけ、東京の真似事してみるけど、ハリボテやから、皮一枚の向こう側には、しっかりと、大阪臭が漂ってて、その臭いを完璧に消されへんのやったら、アホみたいに東京の真似事なんかせんでもええのに。真似事にもなってないレベル、そやなぁ、ママゴトっちゅうレベルやのになぁ、こんなもん。カッコ悪いで、最近の大阪は」

などと、オシャレ商業施設を背中にしながら、デカイ声で、ワイの持論を部下たちに展開しながら、間もなく歩道の信号が青に変わろうとしていたので、勇みながら渡って行くと、ワイだけが横断歩道を飛び出すかたちになって、誰一人、歩を進めやがらない。
「大阪の青信号っちゅうやつは、青の時と、もうすぐ青に変わりそうな赤の時やがな」
と、おとなしそうな群集を威嚇するような目で眺め回してみたりと、忙しない。

「ほな、サクッと缶ビールだけ飲んで、帰ろか」

と、部下たちに声をかけ、近くのコンビニに立ち寄り、缶ビールを購入。
近ごろ、妙な多忙のためか、お昼ご飯と呼ばれるものを食べる機会が、めっきりなくなってしまったため、朝食も食べない僕は、夜分にビールを仕込む際に、あまりの空きっ腹にアルコールを注ぎ込むもんで、それはそれは臓器には刺激的過ぎて、胃袋の細胞が大量に破壊されてしまうことを防ぐべく、その日は固形物として、じゃがりこ、なるスナックを購入した。

「どこで飲みましょ?」

そりゃそうだ。
自分たちのオフィィィィスの界隈なら、行きつけの缶ビールを飲める路地然とした、薄暗くて、粗暴で、スラム臭が漂う良きスポットを知ってはいるが、ここは梅田、多少、勝手は違う。
同類のスポットがあるだろう場所が頭に浮かんでいたので、部下たちを誘導するも、さすがそこは梅田、近い臭いはするものの、どうにも缶ビールを安心して飲めるような風情の一角がない。

しばらく練り歩いてはみたが、あまりに最適な場所が見当たらないので、「もう、どこでもいいんちゃいます?」との部下の号令をきっかけに、服飾専門学校の事務棟の前で且つ、レンタカー兼駐車場になっている施設の前、歩道としては少し広めで、車道としては少し狭めな道路の端で、缶ビールとじゃがりこをオープン。

上手い具合にそれらを置くことのできるテーブル代わりになるコンクリート塀も見当たらず、缶ビールは片手に、もう片手には煙草を、じゃあ、じゃがりこどこ置くねんということになり、足元の下水の溝のところに、じゃがりこを置いて、少々談笑をしていた。

まぁ、梅田を行き交う人間たちは、物の見事に僕たちのことを、「このウスノロたちは、ボロボロのスーツを着込んで、貧乏たらしく缶ビールなんか飲んでやがるぜ、ここどこだと思ってやがんだ? 梅田だぜ? こういった類の連中は、梅田から排除してもらいたいもんだぜ、景観が崩れるわ、臭うわ、気分を害するわで。一刻も早く、こういった害虫は、街から追放して欲しいね。特になんだ? 他の二人は多少若い連中だから仕方がないが、リーダー格の奴は、それなりにオッサンじゃないか、まったくいい年こいて情けない。日本の未来も暗いよ、全く……」

と言わんばかり、否、心中でおっしゃっているのが伝わってくるくらいに、冷たい目、冷ややかな目、冷笑する目、白い目で、僕たちのことを侮蔑して通り過ぎて行かれる、ここ梅田。
僕は元来、そういう仕打ちがめっぽう好きで、「たいしたことのない人間たちが、たいしたことのない人間を見て笑ってらぁ、滑稽、滑稽、ガハハハハ」と愉快な気持ちになる。

そんな風にして缶ビールを垂らしこんでいると、僕らのすぐそばに、民間の清掃員のおっちゃんが、周りを掃除すべく僕たちのほうに近寄ってきた。
僕らは平生、地球が缶ビールの飲み屋と自負しているくらいなので、基本的にゴミは出さん、出したゴミは持ち帰るということを心がけているので、僕らが排出したゴミはひとつもない。
そう思いながら、猥談などを始めようとした瞬間、なんと、清掃員のおっちゃん、火バサミをグイと地面に突き出し、排水溝の上に置いておいた、ワイの大切な大切なじゃがりこを、挟んで捨てようと試みたのだ。

思わずワイは、

「すんません、それ、ゴミちゃいますねん! まだ食べてますねん!」

と、火バサミの手を制止させ、無事に貴重なじゃがりこを守ったわけである。じゃがりこからしたら、ワイは救世主に当たるわけで、じゃがりこ史に未来永劫、語り継がれる名場面になったんじゃなかろうかと有頂天になっていると、急に部下が笑い出した。

「普通、飲食店なんかで、それまだ食べてますねん! って言うときって、店員さんが空いたと勘違いした、食べ物とか飲み物を指差して言いますよね? でも、今、それ、ゴミちゃいますねん! って言いはりましたよね? なんか面白ろ過ぎて……。あと、清掃員にゴミやと勘違いされるもん僕ら食べてるんやって思うと、情けなくなってきて……。」

僕の部下はとても優秀な奴らなので、情けないと思いながらも腹を抱えて笑ってくれている。心からこの情けなさを楽しんでくれている。僕は彼らに、そんな楽しい空間をプレゼントしている。こんな楽しい空間は、クソ高い料金体系を持った飲み屋には用意されていない。

大阪は、やれ府だの、やれ市だの、このままやるやら合体するやら、政でワイワイやっているようだけれど、税金がどうの、公共施設がどうの、サービスがどうの、の前に、中小企業やら零細企業やらが儲かる仕組みを作ってもらって、そこの経営者連中の背中にピストルでも突きつけながら、従業員の給与の向上やら賞与の授与やらを約束させるような政治をやってもらいたい。

あんたらがむしり取る税金の大小を持ち出して、あんたらが無計画に量産する事業の是非を持ち出して、ワシの党のほうが、ワシの党のほうがなど、身勝手なことを言われても、こちとら白々しい気持ちになるばかりで、一人ひとりの生活を良くするためには、取るほうを抑える方法じゃなくて、より多くを与える方法を論じてもらいたいと願うばかり。
そのためなら、府や市に存在する企業の社長を脅してでも、従業員、果ては、府民であり市民の生活を改善するべく、汗と恥をかいて欲しいものである。

そうすれば、オッサンにもなって、梅田の路上で缶ビールを旨そうに飲むコンチクショウの数も減ってくるのではないでしょうか。

もう一度、言おう。
僕にとっては、地球が缶ビールの飲み屋だから。

誰か、店に入れるくらいの金をくれ。

デタラメだもの。

201150503
著者

常盤英孝(ときわひでたか)

《3分後にはもう、別世界。》 3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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