デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

僕はこれを、胸を張って、獄中ダイエットと呼ぼう。『デタラメだもの』

くはははは、ついに痩せることができた。ついに痩せることができた。

年齢を重ねると人間、わずかばかりの小金を持つようになり、そうなると、うまいもん喰いたいと、生意気にお店などを選びはじめ、舌鼓を打ちはじめたりする。
その結果が、だらしないボディライン。ハングリーとはほど遠い仕上がり。貪欲さの欠片もないプロポーション。意識はすれど、痩せるはずもなく、醜くなる一方。
長渕剛のSTAY DREAMの歌詞を、自分に置き換えて、心に染み込ませながら聴き入っている最中も、「くよくよするなよ あきらめないで Just Like a Boy その痩せこけた頬のままで」というサビの部分で、痩せこけているどころか、無駄な贅肉に覆われた自分の頬を思い、流れていた感涙も逆流するような苦々しさを噛み締めはじめて、もうどれくらいが経つだろう。

それがだ、くはははは、ついに痩せることができた。ついに痩せることができた。

ロクに仕事もようできない自分のような人間が、なまじっか大きな規模の案件に手を出すと、痛い目に遭うわな。お客さまはプロジェクト成功の夢を見ていらっしゃるので、その夢を覚ますような醜態を演じてしまうと、そりゃ寝起きも悪くなられるゆえ、要するに、「何をしとるんじゃおのれ! 中途半端なことしとったらいてまうぞ! 不眠不休絶食絶飲で、ワシにもう一度、夢見せたらんかい!」と、胸ぐらを掴まれつつ、そのまま持ち上げられつつ、足先が宙に浮きつつ、そんな状態の折り、舌を巻きながら申されたわけで、「ひいいい、すみません。不眠不休絶食絶飲でやらせていただきやすぅぅ」と、脊髄反射で返答。

気づけば、九十時間、不眠不休で仕事をしていた。事務所から帰宅も許されず。その間、お食事に関しては、早朝、人の目がない時間帯に、牛丼チェーンで二度だけ食べた。髭は放置。風呂も入れない。歯も磨けない。まるで、ひと昔前の大都会東京の繁華街。栄華が終焉を迎えた朝方に、路上に散財した黒いゴミ袋。それをついばむカラスたち。カラスの嘴にこじ開けられ、路上に散ったゴミ。そのゴミを車が踏みつける。地面にめり込むゴミ。ちょうど、その地面に埋め込まれたゴミのような風体に成り果てていた。
最終的には、PHPと呼ばれるWebプログラミングをしている最中、意識が飛んだ。キーボードに両の手を置いた状態で、首をもたげて死んだ、否、寝落ちした。そんな不自由な態勢にも関わらず、三時間近く寝落ちしていた。眠っているにも関わらず、エチケットを気にしてか、お口エチケット用のタブレットを口に放り込んでいたらしい。

まあ、そんなことはどうでもいい。無能な人間からすれば、こんな事態は、二ヶ月に一回あってもおかしくはない。そんなもんだ。人様が帰る時間帯に帰れることなんてない。人様が休んでいる間に休息できることなんてない。人様が大型連休を満喫している間に、ようやくタバコの一本でも吸えるってなもんだ。

言いたいのは、そんなことじゃない。よう働いた自慢や徹夜アピール、休日出勤アピールなんかしている時点で半人前。そんなことはどうでもいい。
地獄のような数日を過ごした結果、痩せた。痩せたんだ。ふと目をやると、お腹まわりの贅肉が姿を消している。ズボンがブカブカになっている。顎のラインがシャープになっている。身体が軽くなっている。ちょっとジャンプするだけで、メリーポピンズのように、フワフワと浮かんで行ってしまいそうだ。体重計に乗ってみる。なんと、三キロも痩せているじゃあないの。くはははは、笑いが止まらん。

これは便乗すべきだ、この機会を活かすべきだ、一斉に畳み掛けよう。そう考えた僕は、その日以降、毎日毎日、チェーン店のかけ蕎麦だけを食べ続けた。二百十円だ。しかも、汁は飲まない。麺だけを喰らう。とてもひもじい。食べた直後から、もうお腹が減っている。満腹感などない。でも、だらしないボディラインは嫌だ。「くよくよするなよ あきらめないで Just Like a Boy その痩せこけた頬のままで」の部分で、感涙が逆流するのだけはごめんだ。しかも、お昼代を削ることで、財布からお金が飛ぶこともない。なんという完璧なプランなんだ。

そんな日々をひたすらに続けた結果、一ヶ月弱で五キロも痩せた。すべてのズボンは廃棄処分せねばならない。これまで履いていたズボンとウエストの間には大きな空間ができる。カンガルーの子どもくらいだったら、きっと入れてあげられることだろう。身体が軽すぎる。全盛期のマイケルジョーダンの踏み込み位置よりも、少し手前からジャンプして、軽やかなスラムダンクをぶち込めるくらいに軽い。

何のことはない。ダイエットに成功したという話だ。地獄のような数日間を経て、ダイエットに成功したという話だ。思い返せば悲壮な数日だった。僕はこれを、胸を張って、獄中ダイエットと呼ぼう。あんな数日は、二度と経験したくない。
でも、ダイエットには成功した。鏡で自分の顔を眺めてみると、以前よりもスラッとして、まるで昭和のアイドルのような微笑みをたたえている。

そんな調子で、ふふふんと鼻歌を歌いながら日々を過ごしていると、どうやらお客さま、まだまだ仕上がりに不満足だったようで、依然、憤慨している模様。再びあの怒声。「約束してたもんとちゃうやろが! このボンクラ! さっさとやり直さんかい! 数日間猶予を与えたるから、さっさとやり直せボケ!」と、胸ぐらを掴まれつつ、そのまま持ち上げられつつ、足先が宙に浮きつつ。しかし気づいたかい、お客さんよ。今、あんたが胸ぐらを掴みつつ、そのまま持ち上げつつ、足先を宙に浮かせている男、以前よりも軽くなっているだろう。気づいたかい? この麗しき変化に気づかないようじゃ、まだまだ俺のほうがうわてだぜ。その証拠にほら、胸ぐらを掴んでいるその手を離してごらん。地に降り立つ俺の身体の滞空時間は、誰よりも長いぜ。まるで綿毛だぜ。フワフワと地に足をつけるぜ。気づいたかい?

胸ぐらを掴まれながら、得意気にそんなことを考えた僕は、「くはははは、俺様はダイエットに成功したのじゃー!」と叫んだ。というところまで妄想を終えると、四十回近く小刻みに首を振りながら謝罪し、「ひいいい、すみません。不眠不休絶食絶飲でやらせていただきやすぅぅ」と、涙目になりながら仕事を進めた。こんな苦い涙は、ぜひとも、瞳へと逆流して欲しいもんだ。

デタラメだもの。

20160326

「かんぱ~い!」とか、赤面せず言える? 無理無理、無理だわ。『デタラメだもの』

「かんぱ~い!」
とかいう光景は、あちこちでよく見かけるもの。大人になれば、定例行事やら祝い事やらも多くなり、半ば強制的にそれらに参加せざるを得なくなるため、殊更にそういう光景を目にしがち。

しかし、なんなんだろうね、ああいう儀式っていうものは。
元来、人と同じことをやることが嫌いな性分もあって、またさらに、人と同じことを同時にやることが嫌いな性分でもあるため、「かんぱ~い!」とか、一本締めやら三本締めやらは、もってのほか。自分の中で忌避したくなる儀式なわけである。

とは言え、大勢で何かをやることそのものが嫌いかと言われれば、そうでもない。ライブハウスでもみくちゃになってパンクロックを嗜むことも大好きだし、祭りで地車やら神輿やら、そういうものも大好きなわけで、何でもかんでもを拒んでいるわけではない。

じゃあ、「かんぱ~い!」とか、一本締めに関しては、何が忌避すべきポイントなのだろうかと考えてみる。すると、ものの数秒で答えが出た。きっと、やりたくないことだからだ。もっと言うと、やりたくないことを、やりたくない人たちと一緒にいながら、やらされるからだ。簡単だった。もう、原稿、終わらせるべきだろうか。文量足りてないぞ。こんな貧相なネタでは、撮れ高的にアウトだぞ。よっしゃ分かった、もうちょっと書こう。

ライブやら祭りやらには、別に強制感がない。自分の好きなときに叫ぶもよし、好きなときに地車を引くもよし、飛ぶもよし、泣くもよし、吐くもよし、帰るもよし。とにかく自由なわけだ。
それに比べて、「かんぱ~い!」のシーンでは、まず、一緒にいたくもない連中といる時点で、解せん。そして、そいつらと和気あいあい、同じ程度の高さにグラスなどを持ち上げ、聞きたくもない演説調のセリフを聞かされる。ここで、演説を指名されたおっさんなどが、「おいおい! えらい急やないか。なーんも言葉考えとらんぞ! 六甲おろしやったら、すぐにでも歌えるけどなあ! ギャハハハハ」などと、モジモジし始め、会場が愛想笑いに包まれる瞬間などは、思わず、握りしめたグラスを握力で木っ端微塵にしたくなる。

そうして、いざ、「かんぱ~い!」となるわけであるが、もとより、一緒にいたくも何ともない人間たち。その行事が目出度い会だとしても、隣に存在する人間とCheers!する仲ではないゆえ、そいつらとグラスをコツンとやる義務も義理もない。
そういう刹那、興味本位でいつも、瞬時に会場中の人間たちを観察してしまう。もとより、一緒にいたくもない連中と、Cheers!するわけだから、グラスをコツンコツンやる挙動に込められた気持ちも浅く、何席隣までの人間と、コツンコツンをやればいいのか微妙で狼狽している人間もいれば、コツンとやるのか、コツンとやったジェスチャーをエアーで済ませるだけでいいのかの礼儀に迷って狼狽している人間もいれば、コツンを要求されているにも関わらず、気づかずにクイッと飲み始めちゃった刹那、コツンを要求されていることに気づいちゃって、慌ててグラスを口元から外し、数センチ飲んじゃったグラスを要求元の人間にコツン、なんて滑稽な景色もあるわけで。

そんな滑稽な景色の一つになりたくない僕は、グラスもおへそのあたりで構え、同じように人間観察をしている人間にロックオンされた場合、「こいつ、まさかグラスを持ち上げてないんじゃ!? なんて強者!」と思わせるべく、限りなくテーブル付近にグラスを構えている。イメージで言えば、和田アキ子が「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌うとき、絶好調にビブラートを伸ばす際、自身の身体とマイクとを限りなく離しますわね。あれくらいの位置のイメージですわ。
ちなみに余談ですが、ダイナミックマイクと呼ばれる、ライブなどで使用されるマイクは、マイクの集音部にできるだけ口を近づけないと音を拾わない特性を持っているため、あれほどまでにマイクを離してしまっては、本来、音が拾えない。なので、絶好調にビブラートを伸ばす際、あれほどまでにマイクを離されてしまってはアウト。きっと、ミキサーブースでは、マイクのボリュームを手作業でグウィィィィンと上げてやり、微かにしか集音できていない声を、ミキサー側の調整で、最大限に大きくするなどの作業を、和田アキ子のマイクの挙動に合わせて、やってのけているだろうことが予想される。いかん、脱線した。

なんの話してたっけ? シフォンケーキって、あんまり甘くないから食べやすいよねって話やったっけ? 違う違う、乾杯の話や。

乾杯のときに、グラスをおヘソあたりで構え、「かんぱ~い!」の掛け声はもちろん発さず、周りの人たちからのコツンコツン要求には、いち早く、エアーのみで対応し、すぐさまグラスを口につけ、一気に飲み干す。その後に巻き起こる拍手などの儀式には、一切参加せず、といった反抗期の中学二年生のような態度、素振りを、未だに続けている。

そういえば、某企業様のビッグイベントに裏方で参加させてもらった際にも、毎朝、イベントに参加する全社員が一同に介し、最もエナジーを持っている営業マンが壇上に上がり、「やるぞー!」「行くぞー!」などと、目も当てられないほどのステレオタイプなヤル気を見せていたわけで、それに呼応するが如く、他の社員たちも、「おー!」なんて、拳を突き上げたりなんかして、なんじゃこのうそ臭いノリは……と、裏方ゆえ、末席で見ていた僕であるが、興ざめも興ざめ、もしかしたら片側の口角が上がってしまっていたかも知れない。

祝い事が嫌なわけじゃないし、ビッグイベントをみんなで盛り上げることが嫌と言っているわけじゃない。やり方があるだろうよ、と。紋切型ではなく、強制ではなく、一人ひとりが自発的に動ける空間を、作ってみようじゃあないの。やりたくない人は、やらなくていいじゃないの。言いたくない人は、言わなくていいじゃないの。コツンコツンしたくない人は、エアーでもいいじゃないの。大切なのは、形式じゃなく、気持ちでしょうが。

形式ばった強制的な会が嫌い過ぎて、いついつでも、締めの挨拶の声の響きが乾かぬうちに、会場を後にするということをモットーにしている。
しかしそれにはリスクがある。店側に預けている例えば傘とか上着とかの類を、返してもらわぬまま、会場を後にしてしまうことが頻発するわけだ。

エレベーターや階段を降りている最中に、それに気づく。しまった、折り畳み傘を忘れてきた。あれ、ちょっとエエやつやったのに、クソッ。でも、もう後には退けん。そう思い、折り畳み傘への未練を振り払う。そして、屋外に出る。予想を遥かに超える豪雨。店から駅までちょと遠い。折り畳み傘は、あの忌々しき会場の中。

そんな夜、男は、無意味にびしょ濡れになって帰るわけです。

デタラメだもの。

20160214

ああ、こんな出来事があった日は、いったい、何記念日になるのだろうか?『デタラメだもの』

世間では、人気急上昇のバンドのヴォーカリスト兼ギタリストと、ハーフで好感度バツグンのバラエティタレント兼歌い手の禁断の愛が報じられて幾日が経ち、個人的には、どうせテレビの向こう側の人たちやし、そもそもミュージシャンで成り上がるということもそう、タレントで成り上がるということもそう、それを達成できた人たちっていうのは、ある種のジャパニーズドリームの体現者でもあるわけだし、特にバンドマンなんていうのも、「モテたい」が端を発しているケースも多く、それがこうやって見事に叶えられた好事例を目の当たりにすると、陽の目を見ないバンドマンたちにも、再び大きな夢を与えられるってもんじゃないのかねえ。

スポンサーとの絡みなどになると、一気にビジネスのニオイがしてくるため、ただの男女の問題などと言って散らすだけじゃ済まないというのもよく分かるけれど、当事者のことを重んじるならば、水面下でコソッと、イメージキャラクターを差し替えるなり、表沙汰にしない対応をするほうが、企業に取っても遺恨なく済むし、そう考えると、こういうビッグバン風な芸能界のトラブルには、もっともっと大きな黒い影が潜んでいると思われて仕方がない。
そう、それを口にするだけで、存在が消されかねないような、大きな影。
芸事で飯を喰らう人たちは、何らかのきっかけで、その大きな黒い影の逆鱗に触れることをしてしまい、それによって、半自動的に、ビッグバンが起され、人気稼業としての生命が絶たれてしまう、と。

そんなことを邪推しながら、世論に目をやっていると、ふと、一つの句が目に留まった。
優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球が来る
(俵万智)

好感度バツグンに芸能界で生きてきた当該バラエティタレント兼歌い手の、今回の騒動の件での心境にピッタリなんじゃなかろうかと、インターネットの中の誰かさんが、コメント。

それを見た瞬間、足の動きが止まった。朝の通勤時間だったにも関わらず、足の動きが止まってしまったもんだから、その日の朝は遅刻した。ちなみに、足の動きが止まってしまわない日も、たいてい遅刻している。
見込み残業などと腐った制度に言いくるめられ、帰社時間には定時なんつう概念もないくせに、なぜに朝だけ縛るのだ。朝を縛る権利があるなら、夜も就業規則に則って縛る義務があるだろう。まぁええわ。

何が言いたいかというと、俵万智。
小学生の頃の教科書によく出ていた人。今だにどんな人かはよく知らないものの、よくこんな話って聞きません? 「教科書の問題で出た作家の本だから読んでみた」とか、「教科書で紹介されてたから読んでみたら好きになった」とかいうお話。
僕は全くの逆で、勉学の中で取り扱われてしまったものは、所詮、勉学の味方だ、出来損ないの敵だ、ということで、軒並み避けてしまうという性分を持っている。
ちなみに、朝の目覚ましにミュージシャンの楽曲を使ってみようと、好きなアーティストの楽曲を鳴らす習慣をつけてしまうと、その楽曲は、確実に嫌いになるよね。平生時に聴いても、朝起きる際の、忌まわしき気持ちが蘇り、反吐が出そうになるよね。

そんなことから、俵万智と、代表作のサラダ記念日は、恐らく教科書に載っていたのだろう、それ故に、意識して避けてきた記憶がある中で、先の句。
衝撃的だった。人間の中身を、ここまで正確に謳えるのか。謳えて且つ言い当てられるのか。しかも、こんなにも短い言葉の中で。なんだろう、この人は、いったい。
とかく優等生ぶって生きてしまいがちな自分にとって、身をつまされる思いを抱くとともに、そういえば過去、そんな一球が飛んできた瞬間もあったなぁと、それをかっとばしてやらんと、半ばヤケクソな情熱で、豪快なスイングをかましてやったこともあったなぁと、やけにノルタルジックな気持ちになりながら、そんな気持ちを代弁してくれる句に脱帽した。

そんな句に胸をぶち抜かれて数日、ほぼぼんやりと宙を見つめながら生きてしまっていた最中、習慣となっている帰り道の缶ビールが、その日は、やけに心中穏やかじゃない、のっぴきならない事情があったのか、いつもより本数多く、歩数多く帰っていると、ふと、「俵万智って、他に名言ないのかしらん?」と、アイフォーンをチクチクとイジり出す。すると、またしても衝撃的な事件が。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
(俵万智)

死ぬかと思った。大袈裟な表現を使わずに表現するならば、身体中の毛穴という毛穴が、鳥肌となって、凸化した気配を確かに感じた。
世の中には、まだこんなにも素晴らしいものがあるんじゃあないの。しかも、「名前は知ってるよ」的な知識に留めておいてしまっていた世界のなかにも、こんなにも素晴らしいものがあるんじゃあないの。
なんか、生きてると嫌なこともたくさんあるけれど、こんなにも素晴らしい体験もできるんだと、感謝の気持ちで溺れ死にそうになった。

そんな淡くメロウな気分に浸りながら、帰路の終着から逆算すると、ラスト一本になるであろう缶ビールをコンビニで買ってやろうと、意気揚々と入店。
サラダ記念日で完全に高揚している僕は、豪快に缶ビールをグワシ、掴むと、レジに突き出した。
レジの中には、イッセー尾形を思わせる中年男性。
平生、夜な夜な、コンビニのレジで働いている中年男性を見かけると、すかさず名札を確認する習慣がある。店長、もしくは、オーナーと書かれている場合、夜の時給の高い時間は、自らが店舗に出て、人件費を節約しているのだな、もしくは、働き者の店長なんだな、と感心するし、店長やらオーナーと書かれていない中年男性の場合には、どういった事情があって、こんな夜な夜なにコンビニで働いていらっしゃるのだろうと勘ぐってしまう。のっぴきならない事情から、生活が貧窮しているのかしらん? 独身なのかしらん? 昼間の仕事をリストラされたのかしらん? などと、下世話な想像を浮かべてしまう。

そんななか、イッセー尾形の名札には、店長ともオーナーとも、記載がない。所謂、後者ということになる。
いつもと変わらないレジのつもりだったのが、イッセー尾形のひと言で、様相が一変する。

「缶ビール派ですかぁ? グヘヘ」

イッセー尾形は、キャラクターもイッセー尾形風で、どこか芝居がかっており、イッセー尾形がよく演じていた、少しく他人を小バカにしたようなキャラクター。いきなり声をかけられたもんだから、こちとら狼狽。

そもそも、缶ビール派以外の派閥って何だ? 人を貧乏人とでも言いたいのか? こちらにどういったコメントを期待しているのだ?
レジで足止めをし、そないゆっくり相手している時間もない、端的に答えてさっさと退去しようと思い、「節約、ですねぇ」と答えたところ、なんとイッセー尾形は、「せーーーーつやく、ですよぇ?」と、僕のコメントと丸っぽ被せるようにして、且つ、「せーーーーー」のところをフェードインで且つグラインドさせるような風情で、被せてきやがった。
またしても、なんか小バカにされているみたいな気になって、早よう帰らせてくれといった風情のジェスチャーをしていると、イッセー尾形はさらに、「帰り道に飲みながら帰られる派っすか?」と、さらに軽い調子で、再び新たな派閥に属しているかどうかの尋問を続けてきた。

毒を食らわば皿まで、こうなったら、ちゃんと返事してやろうじゃあないの、そうやってちゃんと答えて、それで立派に帰らせてもらおうじゃあないの、そう腹を括った僕は、「そうですね。仕事帰りに飲みながら帰る派です!」と、好青年よろしく、答えてやった。
イッセー尾形は、「わかるなぁ~」など、一人で得心しているもんだから、レジを済ませた僕には帰る権利もあるんだし、イッセー尾形の対面から、歩を進め、帰らんとしたところ、イッセー尾形が、その特有の他人を小バカにしたような笑みを浮かべながら、「と・も・だ・ちぃ~」と、両の人差し指を僕に差し向けながら、チャラ男のようなジェスチャーで、且つ、大声で妙なことを口走ってきた。
きっと、イッセー尾形は、自分とビール関連の派閥が酷似している人物が現れてテンションが上がってしまったのだろう。
しかしだ、しかしだ、レジを待っている他の客にとって、店員の中年男性から、しかも、レジ中から、両の人差し指を差し向けられながら、「と・も・だ・ちぃ~」などというふざけた言葉を浴びている人間のことは、どう映るのだろう。被害者と見られるのだろうか、それとも、同類と見られるのだろうか。

脳内が、「と・も・だ・ちぃ~」の音節で埋め尽くされて、残りの帰路は、複雑な心境でいっぱいになった。
先ほどまでの、清く澄んだ感謝の気持ちはどこへやら、イッセー尾形の顔しか浮かばなくなった。

ああ、こんな出来事があった日は、いったい、何記念日になるのだろうか?

デタラメだもの。

20160117

電車の中でこんな瞬間に立ち会えるなんて、光栄以外の何物でもない。『デタラメだもの』

お客さまとお仕事などをご一緒していると、あちらこちらと外出していく機会も多く、小市民な私たちは、お車などと呼ばれるハイカラなものに乗って移動できるわけもなく、公共交通機関の電車に乗って移動するわけ。

しっかしこの電車というものには、なんともまあ、玉石混交、雑多な人々が入り乱れていると感じて仕方がない。
世の中の怪しいことこの上ない素性の縮図と言いましょうか、世の中の実は奇妙奇天烈な実態を暴露していると言いましょうか、おかしい人間が多いこと多いこと。

東京に出かけていくため、朝早くに電車を利用した際、六人掛けのシートに、のんべんだらりん、まるで自分ちのベッドの如く、シートを私物化してグーグー眠っている兄ちゃんがおって、これはいかんと危惧したのが、その兄ちゃんの対面の椅子に、これまた恐らく早朝から、勉学のために遠方の優良な学校へ通うのであろう、立派な角帽を被った小学生が座っており、思わず、「アカンアカン、こういう非模範的な成人は目にしたらアカン、ほら、目を背けて、学習帳を注視しようね、熟視しようね……」と、身を乗り出したくもなった。

映画の舞台ともなり、どちらかと言うと、高級感の漂う阪急電車に、生まれて初めて乗車した際にも、作業着を着た大柄のおっちゃんが、シートのど真ん中にドシン、一人大股開いて鎮座。
グーガーグーガーとイビキをかいている様子が見てとれたので、なんか嫌な感じやなと嫌悪感を抱いた瞬間、おっちゃんの股間に違和感を覚え、ふと目をやってみると、小便を漏らしている。垂れ流している。薄緑の作業着ズボンの股間部分は、小便で変色。しかも、垂れ流した小便が、車両の床を流れ流れ、次の車両まで流れ行かんとばかりに、大河を作っている。
「なんじゃ、この電車」
そう思ってしまったのも、仕方があるまい。

スマートフォンを片手に、何やら急にニヤけ顔を浮かべるサラリーマンや、急に両隣の乗車客にアメちゃんを配り出す、大阪ならではのおばちゃん、目の前で高齢のおばあちゃんが杖を持って立っているのにも関わらず、子供三人を平気でシートに座らせ続けている、モラルのない若い母親、Bluetoothの接続が上手く行っていないことに気づかず、周りに大音量の音楽を垂れ流し始める男など、電車内の人間模様を見ていると、日替わり定食の如く、趣が移り変わって行くから、驚きだ。

そんな折り、仕事で新大阪駅界隈に用事があり、御堂筋線に乗っていたある日のこと。
相変わらず、悪臭多めのおっさん連中の中で、鼻息を止めつつ、中津駅を過ぎたあたりから地下鉄の車両が地上に這い出るため、窓外の景色に目をやり時間を過ごしていたところ、ふと目に留まったのが、読書に耽る小学生と思しき女学生。

近ごろの子供も大人も、やれ活字離れだの、やれゲーム機をピコピコやってみたり、スマートフォンを指でシュンシュンやってみたりと、本というものに視線を落としている人が少なくなっている昨今、読書に耽っている様子がとても微笑ましく、大きな文字フォントで印刷された子供向けの本を読んでいるその姿に、今後の日本もまだまだ安泰ぜよ、と、使ってみた試しさえない土佐弁を使ってみたくもなった。

その実、自分が小学生の頃、好きだった映画インディー・ジョーンズの文庫本を見つけ、それを手に取り、夢中になって読み漁ったのが、読書好きになるキッカケの一つだったため、子供たちが本を読むということはとても素晴らしいことぜよ、と、再び土佐弁を使いたくもなるわけである。

そんなことをぼんやり考えながら窓外の流れる景色を眺めていると、何気なく小学生が読む本のページに目が吸い寄せられた。
それはなぜかと言いますと、最後のページに差し掛かっていたからなのです。つまりは、ページタイトルが「おわりに」と、ひときわ大きな文字フォントで印字されているのが目に留まったからなのです、本の最後のページですよ、ショートショートだったら、オチが書かれている最後のページ、群像劇なら、無関係に思われていた全ての登場人物たちが、実は全て関係者同士だったということが判明するページ、推理小説なら、犯人と思われていた物語をひっくり返さんとする真犯人逮捕の瞬間、一冊の本を読み進めてきて、最も固唾を飲むページ、それが、最後のページである場合が多く、今、小学生は、その最後のページ、「おわりに」の章を読んでいるわけで、一冊の本単位で言えば、今まさに、歴史的瞬間に立ち会っているという感覚に襲われたわけです。

僕は感情移入し過ぎたり、キャラクターの心理を深読みしたりして読書するほうなので、一冊の本を読むのに、人よりも時間がかかってしまう上に、読了する際には、かなりの疲労感に襲われることになる。
そのため、一冊の本の最後のページを読み終わった瞬間には、まずは大きく深呼吸を一つ、それから小さな声で、「なるほどね」とか「やられたわ」とか「すごっ」とか、端的な感想をポツリ呟き、そして、大満足の表情を浮かべながら、改めて大きく息を吸い込み、その作品の世界と僕のいる世界も実は繋がっているよね、なんて空想しながら、空の見える場所に居ようが居まいが、上を見上げながら大きな空を思い浮かべる。

仮に周りに人がいたとしたら、そういう僕の様子を見て、さぞ奇怪にも思うだろうけれど、本を一冊読み終わるという偉業を成し遂げた瞬間くらい、誰にどう思われようが、自分なりの達成感に酔いしれたいので、気にもしない。

とまぁ、僕のことなどどうだっていいんだよ。今、目の前で、「おわりに」の章が終わろうとしているじゃあないの。他人が本を読了した瞬間、どのような快楽に襲われたり、どのような達成感の表現方法でもって、恍惚と舞い出すのかは知らないが、ともかく、「おわりに」が終わろうとしている。

そう思った刹那、「おわりに」のページがついにめくられ、片方のページは白紙、もう片方のページに、出版社や印刷会社などが記載された真に最後のページが現れ、そしてついに、本がパタムと閉じられた。
さらに本が閉じられたその刹那、本の表紙がチラリと見え、小学生が読んでいた本が、スヌーピーだったことが分かった。

ああ、なんだかいいよなぁ。隣で鼻くそをほじくりながら、車内吊り広告のうそ臭い見出しを追いかけ続けている、薄毛のサラリーマンなんかより、よっぽどいいよな。
小学生が本を読んでいるんだぜ。しかも、今、一冊、読了したんだぜ。残念ながら、その小学生が、本を読了した瞬間に、僕と同じような奇怪な行動や表情を見せなかったことを考えると、どうやらそういった変態的な行動は、僕一人か、もしくは、ごく少数の人間しか取り得ない行動ということで、理解しておこう。皆が皆、そんな風にするもんだという先入観は、今後、捨てながら生きようと思う。

そんなことより、とてもいい光景を見させてもらった。とてもいい瞬間に立ち会わせてもらった。

別にどんな本を読もうがいい。卑しくも物を書く身分として、活字から脳内に自分勝手で理想的な映像を描画できる本という存在を、一人でも多くの若者たちに味わって欲しいと思うし、それが別に電子書籍だっていい、誰かが作ったイラストやグラフィック、音楽なんかの一切を排除して、自らが役者たちに演出を施し、バックグラウンドミュージックをイメージしながら、情景や風景のディテールを再現していく、読書という夢のある行為の虜になって欲しいと思う。

思慮をグングンと深めながら、半ば満たされた気持ちでお客さまを訪問し、プレゼンテーションをする時間になったものの、脳内が「本っていいよね」という思考で染められてしまっていたため、会話のほぼ全てを同行していた者に任せ、自分は一人、ぽつねん、薄ら笑みを浮かべながら、一冊の本を読了したわけでもないのに、恍惚な表情を浮かべていたのであった。

文学界の明日は明るいのかも知れないが、この仕事っぷりじゃあ、僕の明日は決して明るくないかも知れない。

デタラメだもの。

20160111

人間観察をするなら、他人の流麗な箸の捌きを邪魔しない程度の配慮をお願いする。『デタラメだもの』

それにしても、人間観察というのは、少々厄介な悪趣味だ。
自分も性格上、人間観察というものを、暇さえあればのツールとさせていただいてはいるものの、あれは非常に厄介だと思う。
観察はいいんだ、観察は。だって、人間という生き物は、それぞれ皆、特異で、興味の対象となるのも頷ける。だから、そんな旨みのあるものを観察するなとは言わん、やり方の問題なわけである。

飲食店でゆったりとご飯などを頬張っていると、ふと視線を感じることがある。さぁ、始まった、やり方の誤った人間観察。
連れ合いと食事に来たものの、自分だけが先に飲食を済ませてしまい、手持ち無沙汰になってしまったのか、やたらめったら、あちらこちらの人間に視線を投じる輩がおる。
視線というものは、人間に備わった第六感によって、意外と感じ取ってしまうものなんだよ、そこの輩。おい、そこの輩。
輩にとっては、何気なく、ぼう、っと人間を眺めているだけなんかも知らんが、こちらからしたら、目の前の食材を美味しく召し上がることに命を懸けて、誠心誠意、箸を流麗に動かしつつ、お上品に御膳を召し上がっているところだっつうのに、輩の視線が気になって気になって仕方がないじゃあ、ないか。

えげつなく酷いケースがあった。
たまたま入った飲食店が、一人ぼっちはもちろんのこと、ファミリーもいれば、カップルもおるような風情の店。
通例通り、誠心誠意、箸を流麗に動かしつつ、お上品に御膳を召し上がっていたところ、少しく離れた席に座っていたカップルの女、まだ飲食中ともあろうに、人間観察をおっぱじめやがった。

普通、人間観察と言やぁ、数多の興味と共に、視線も移動していくもんだが、その輩ときたら、こちらにほぼ固定的に視線を投じてきやがる。
さすがに、ぐぬぬ、と我慢も限界に来たため、じゃあこちらもチラリ刹那、輩のほうを睨んでやり、無言の抵抗と、拒否反応と、てめえのやっていることがどれほどに悪質かということを教授するという教育行為に出てやらんと思い、眉間に皺を寄せながら、目をやってみた、輩のほうに。
するとどうだ、輩、ビクともしない。

こちらはそもそも、輩に対しては何の興味もないどころか、むしろ、教育的観点から眉間に皺を寄せつつ、視線を投じたに過ぎないため、輩がビクともしないことを確認した刹那、すぐに目の前の御膳に視線を戻した。
なんじゃあ、こいつは、ふてぶてしい。
輩の人間観察、しかも、こちらに対してロックオン的な人間観察は尚も続く。

イライラがピークに達しながらも、雑念に乱されながらの飲食では、目の前の御膳に大層失礼だと気を落ち着かせつつも、敏感な自分は、あることを邪推してしまう。
その飲食店は、数多あるおかずをセルフサービスよろしく、自分で盆の上に取りやり、その独自のラインアップによって、レジで会計をしてもらうというタイプのもの。
ということは何か、僕が取りやった盆の中身が酷くケッタイだったため、その輩は、そのラインアップを誹謗中傷するが如く、観察をしてやがるということか?

「こいつバカじゃね? 小鉢取り過ぎてね? こんなしょぼくれた大衆食堂で、和洋折衷楽しもうとしてね? 貧乏根性丸出しじゃね? しかも、この店で一番旨いとされている、鯖の味噌煮を取ってやがらねえよ、モグリかこいつ? キモくね?」

と、心の中で罵倒しながら、こちらに対して人間観察の視線を投じているのではなかろうかと、一抹の不安を覚えた僕は、箸の捌きに流麗さを欠き始めながらも、いかんいかん、輩なんぞに心中を掻き乱されてしまっては、まるで私が小者のようではないか、ええい、飲食に集中せい。

にしてもこいつ、どれだけ、ぼう、っと、こっちを眺めてきやがるんじゃい。
あまりにも腹が立ったので、今一度、眉間にフルで皺を寄せながら、輩に視線を投じてやった。きっと僕の眉間のシワに擬音をつけるならば、ガルルルルル、だったはずだ。

しかし輩、今一度のガルルルルルにも、ビクともせず、並の人間観察人間なら、対象となる人間からの逆視線、いわゆる、見ている人から見返されるという状態に陥った場合、刹那に視線を外し、「ふふふん、別に何も見ていませんでしたわよ、本日のお献立を何にしようかと、お脳みその中で、お献立をおイメージしておりましただけよ、はははん。周りのお人々なんかには興味ござーませんのよ、ぬふふふん」と、弱気にも真空を見つめ直したり、指先をモジモジとイジくってみたりするものだが、この輩だけは違う、一切視線を外そうともしやがらない。

ぐぬぬ、二敗目。
そのうち、カップルのうちの男のほうに対して、怒りが沸いてきた。

「おい、お前の恋人、どうかしてるんとちゃうか? 飲食店にお前と二人で来ているにも関わらず、しかもまだ飲食の途中だってえのに、飲食も放ったらかして、人間観察始めとるぞ。お前の求心力、大丈夫か? 恋人はお前にちゃんと惚れてくれてるのんけ? というか、お前の恋人やろがい、ちゃんと管理せいや! お前の恋人が今こうして、箸を流麗に動かしながら、目の前の御膳を誠心誠意召し上がろうとしている中年男性の飲食タイムを邪魔せんばかりか、箸の流麗さを欠いてしまうほど、その楽しみを阻害してくれとんねん、恋人の過失はお前の過失でもある。男やったら、「おいおい、俺だけを見てろよ」なんて、歯の抜くようなキザな言葉でもって、恋人の意識を自分に集中させ、真っ当な生き方のできる人間に矯正せいや、ワシに今、吹き矢を持たせたら、確実にお前の恋人の額に向けて、一息に矢を吹き飛ばすぞ、それくらいに腹が立っとるんやぞ、「おい、何見とんねん、このボケ!」と言うたろか、そちらに向かって。なぜ、それをやらんのかって? それはなぁ、カップルで飲食店に来とるということは、きっとデート中か何かやろう、そんなハッピーなデートを、こんな薄汚れた中年の一喝で、ブチ壊したったら可哀想やろうという慈悲深い気持ちから黙ったってんねん。できればこの飲食店を出た後も、ハッピーにデートの続きを楽しんでもらいたいと願う器の大きさからくる優しさが、そうさせとるねん。頼むから男よ、お前の恋人を管理したってくれよ……」

と心の中でぼやきながら、期待を託すべく、男のほうに目をやると、衝撃的な光景が目に飛び込んできた。
なんと男、スマートフォン片手に飲食しとるではないか。
自分の恋人が飲食そっちのけで、わけのわからん方向に気もそぞろ、視線をフラつかせてる間、男の視線はスマートフォンに釘付けになっとるやんけ。

あかん、日本、あかん。政治家も、マイナンバーの導入とか、金、金、金、金のことばっかり考えていないで、若者たちがこういった輩に育たぬよう、教育、育成の方向に力を入れるべきだぜ、きっと。

こんな輩を相手していては、せっかくのランチタイムを無駄にしてしまうと諦め、不貞腐れた素振りで、輩たちに思いっきり背中を向けるように、グワッと身体の方向を転換させた。
すると、斜め向かいに座っていた、ほぼパンチパーマのおばさんと思いっきり目が合ってしまい、「何やの? この中年。アタシに因縁つけてきやがって。気色悪いわぁ……」と、まるで害虫を見るような目で蔑まされてしまう始末。

八方塞がり、四面楚歌状態になった僕は、すっかり箸の流麗さも失い、雑念に時間を費やしてしまったがために放置された鮭の塩焼きを、ぶっきらぼうに頬張ると、喉の奥に鋭い痛み、骨、刺さった。そんな時に限って、茶碗の中には、白米なし。あかん、白米、おかわりして来なければ。白米をかき込んで、骨を蹴散らさねば。

茶碗を持ち上げ、慌てて立ち上がった瞬間、「こいつ、どんだけ白米好きなんだよ? そんなに慌てておかわり行かなくても、誰も取らねえっつうの。卑しいにも程があるわ」といった誹謗中傷の声が、脳内に突き刺さった。鋭い痛み。

デタラメだもの。

201151231

人の成長は成長じゃなくって退化なんだってばよ。『デタラメだもの』

近ごろ、生き急いでいるのか、自動ドアに肩をぶつけることが多くなった。
その都度、「俺様の生きるスピードに、自動ドアの開くスピードが付いてこれてないぜ、ふふふん」と得意げになったりしているものの、よくよく考えてみると、自動ドアの開くスピードさえ待てずに焦っている自分の愚かな様を思い、情けなくなりながら、ぶつけた肩を揉みつつ、落ち葉をパリパリと踏みつけながら歩く。

そういえば、電車に乗る際など、改札機に交通系非接触型ICカードをかざすとき、ピッという認証音を待たずして、焦り気味に身体が改札をくぐろうと前進しているもんだから、改札機も迷ったあげく、ピッという認証音ではなく、切符を持たない人間が通過しようとしていると判断し、警告音であるピコンピコンを鳴らし、そうかと思えば、やはり交通系非接触型ICカードがかざされていることを感知し、慌ててピッという認証音を鳴らし、ゲートを開けてくれるという、改札機に迷惑をかける日々、一旦は警告音を浴びながら、改札機を通過する日々が続く。
やはり、生き急いでいるのだろうか、我輩、ふふふん。

それはそうと、先日の真夜中近く、事務所から帰宅しようと帰路をテクテク、缶ビール片手に歩きながら、ふと空を見上げて、チラホラと星が見えていたもんだから、しばらく星でも見上げていようと、おおよそ四十五分ほど、立ち止まって星空を見上げていたとき、ふと考えたわけだ、人の成長って、むしろ退化だってことを。

これまでの自分が持っていた概念では、人はどんどんと成長する、どんな苦難や試練にも耐えられるようになり、一年前の自分じゃ、とうてい耐えられないほどの恐怖やプレッシャーも、今の自分なら屁でもないわとタフになり、日に日に成長していく、嗚呼、人間ってなんて素晴らしいんだ、そない思っていたものの、どうやら違うぞこれは、成長ってやつは、なんかキナ臭いぞ、そんな風に考えたわけ。

なぜそんな思考に至ったのかというと、僕は元来、乗り物酔いが激しく、乗車後、ものの数分で乗り物酔いし、十数分後には、嘔吐感に襲われるというほど、三半規管がデリケートで、胃や腸も繊細な生き物だったにも関わらず、近ごろでは、めったと乗り物酔いをしなくなった。
缶ビールなどを飲みまくった挙句、地方のぐねんぐねんの路線などに乗った際には、さすがに乗り物酔いをするときもあるけれど、それ以外なら、ほぼ酔わなくなった。

仕事の面だってそうだ。
それまでなら、ビビッてしまうような案件や、悲壮感漂うほどにタイトなスケジュールの案件など、数年前なら、胃に穴を開け、ヒイヒイ言いながらやり過ごしていたものの、今では、何の感情の乱れもなく、右から左へと受け流せている。

おそらく人はこれを成長というのだろう。
あちらこちらと仕事で移動するもんだから、乗り物にも慣れ、酔わない身体が仕上がっただとか、数々のピンチやプレッシャーを潜り抜け、仕事も達者にこなせるようになっただとか、お前さん、立派に成長したねぇと、拍手の一つでも送ってくれそうなもんだが、いや、違うんだ、これは成長じゃないんだ、きっと、これは、退化なんだよ、人間としての。

こう思うわけ。
脳も退化、身体も退化、心も退化、それゆえ、若かりし頃に敏感に反応していた物や事に対して、反応できなくなっているんだってばよ。
だって、事の行き違いで激怒したお客さんが「お前! ええ加減にしとかんと、殺してまうど!」などと恫喝してきたとしても、脳内は涼しげ、ふふふん、なんでラッツアンドスターのメンバーの中で、桑野信義だけ、顔のメイクが薄かったんだろ、なんでだろ、なんて考えながら、その場を適当にやり過ごせるようになっている。

今まで、こういったことを成長と呼んでいた僕は、星空を見上げながら、こっ恥ずかしくなった。だって、それは、退化だったんだもん、結果的に。
だから、若い人たちにアドバイスするような機会があれば、「早く成長なさい」などとは言わず、「早く退化なさい」と言わねばならない。
もし若い人たちから、「どうして諸先輩方は、大舞台でも緊張せず、大きなプレゼンテーションでも物怖じせず、堂々と振舞えるのですか?」などと質問をされたとしても、「ええとねぇ、それはねぇ、退化しとるからだよ」と答えねばならない。

ということは、これから益々、退化していくわけだから、どんどんと大きな物や事を成し遂げられる人間になる可能性があるということだわなあ。退化、万歳。どないしよう、来年あたり、いきなり、総理大臣に任命でもされたら。「まだ、ちょっと退化が追いついていませんので、今回は辞退させていただきます」なんて断ってしまうことになるのだろうか。

ということは、あれか、数年前までは、「そないぎょうさんお酒飲んで、よう眠くなりませんなぁ」などと言われ、「そうですねん。飲んだら、気分が高揚して、眠くなるどころか、ギンギンになりますねん」などと答えていた自分の姿が懐かしいほどに、今ではすっかり、「あかん……。飲んだら眠くなる」と、残りの仕事も手につかず、ポテチンと眠ってしまっている。
そういえば、自称、例えツッコミを生業としているにも関わらず、例えが脳内に浮かんでいるものの、その名前が出てこずに、「それは、まさにアレやなぁ! 自分、それはアレやで! さすがに、アレがソレやで!」などと、ツッコミの際に、代名詞を使ってしまうという不甲斐なさ、それもまさに退化やな。

ほんなら何かい、食べたら食べた分、飲んだら飲んだ分、お腹周りの脂肪となって、燃焼されることもなく、ただただダラしないプロポーションに成り果ててしまっているのも退化で、かかとが磨り減って、地面と平行に立てないほどに靴がボロボロになっているのにも関わらず、お金がなくて新しい靴を買えないのも退化で、乾燥の季節になると、指の皺がパックリと割れて、痛い痛いイタイってなっているのも退化で、ごくまれに、会社帰り、電車に乗る際、逆方面行きの電車に乗ってしまっている天然っぷりも、退化ということになる。

そういえば、僕たちがこの目で見ている星の光は、はるか過去に放たれた光を、今僕たちが、この地球の上で見ているそうだが、ということは、今現在のあの星も、はるか宇宙の彼方で、退化してしまっているのかも知れないなあ。

そんな気持ちで引き続き、空を見上げていると、風に吹かれた落ち葉が、僕の顔の上にひらり舞い落ちてきた。
あろうことか、その落ち葉、眼鏡と頬の隙間にスッと侵入し、その尖った葉の先が、瞳に突き刺さった。
この野郎、なんてこった、あぐぐぐぐ、痛い痛いイタイ。
早よう退化せねば。これしきの痛みで、痛い痛いイタイとなっているようじゃ、まだまだ青二才や。退化すれば、こんな痛みも感じなくなるのに。

デタラメだもの。

201151129

こんな深夜の時間に一億円もの金が動くの?『デタラメだもの』

酸っぱいサラリーマンの体臭と、酒臭い溜息に埋もれながら、最終電車に揺られて、家に帰る。
人間、年齢や経験を重ねて、やれることが増えてくると同時に、やらなければいけないことも増えてきて、やらされることも増えてきて、やってみなければならないことも増えてきて、一日に詰め込まれたそれらの行事を半ば追われるようにして消化していると、一日なんて、あっという間に終わる。

その昔、友部正人が一本道という曲で歌った「しんせい一箱分の一日を 指でひねってゴミ箱の中」という歌詞が脳裏に浮かび、しんみりした気分で電車を降りる。駅前に辿り着き、ストリートミュージシャンが歌うヘタクソな斉藤和義の歌うたいのバラッドを背中に聴きながら、家路に着く。

家に入ると、鞄を放り投げ、と書くとトレンディドラマのようで物語性があるが、その実、鞄の中には、お仕事の大事で大切なデジタルデータが入っているため、乱暴に放り投げでもして、そのデータが消えてしまったり、その記録媒体が破損でもしてしまおうものなら、方々から怒鳴られたりどつかれたりするはめになるので、細心の注意を払いながら、そっと、フローリングの上に置く。

そして、テレビをつける。無音は嫌だ。だから、テレビをつける。

近ごろ、テレビ番組が鬱陶しい。テレビ番組の内容が鬱陶しいとか、バラエティ番組の企画が鬱陶しいとか、テレビに出ているタレントが鬱陶しいとか、そういうんじゃなくて、テレビの向こう側から人々の笑い声が聞こえてくるのが鬱陶しくて、バラエティ番組の類が見れなくなった。
無味乾燥な今日という一日を送ってきた後に、人々が嬉々として楽しんでいる声を聞かされると、そのコントラストがきつ過ぎて、参ってしまうようになったから。
かと思いきや、報道番組も見れなくなった。テレビの向こう側から、事実だの真実だの意味のあること、そういった言葉や音声が流れてくることが鬱陶しくなって、報道番組も見れなくなった。

だったら、何を見てるん? お前、テレビ見てる言うて、何を見てるん? となるわけだけれども、何を見ているのかと言うと、二十四時間放送されている、通販番組。

通販番組には癒されるよ。とことん癒されるよ。
もともと、夜更かしせんければならんかったり、朝早起きせんければならんかったりと、時間の定まらぬ仕事が多い中、仮眠を取ることも多く、早朝に向けて早々に寝ていなければ仕事が破綻したり、まだ夜かと見紛うような時間帯から早よう起きねば仕事が破綻してしまうこともあるため、深い眠りを避け、電気は煌々と点けたまま、寝心地の悪いフローリングの上で、且つ、テレビはつけっぱなしで、という生活を送ることがよくあるが、その際には、いつも通販番組を延々と垂れ流していた。

一つの商品に対して、さまざまな切り口から、それを褒め倒し、絶賛し、称賛し、時には冷静に商品のスペックを語り、再びまた仰々しく、商品を褒め千切る。
そんな音声がとても心地良く、川のせせらぎとか、鳥のさえずりとか、あっち系の癒しを与えてくれるのである。

これまでは、仮眠の際に垂れ流していただけだったけんども、近ごろでは、家に帰れば、すぐさま通販番組をつけ、それをボーッと見ながら、時に聞きながら、深い癒しを求めるようになった。

ぬふふ、果たして、この欲望に正直で、貪欲でハングリーな自分が、たったの癒しだけで満足していると思うなかれ、癒しだけを求めて、単調な時間を過ごしていると思うなかれ、その通販番組には、血湧き肉踊る興奮が待っているのである。

それは、ただ今のオーダー数として、リアルタイムで、注文状況の数字がカウントアップされていくというもの。
それの何がすごいかと言うと、その上昇スピードが、あまりにも速いんだ。みるみるオーダー数は上昇し、それを見て視聴者たちは連鎖反応を起こしてか、さらに注文が殺到し、ますますその上昇スピードは加速し、もはや青天井なわけだ。

ほんで、何が血湧き肉踊るのかと言うと、基本的には、どの商品も、数千個、多いときには、一万数千個程度売れることになるわけだけれども、単純に商品単価とオーダー数を掛け算してみると、時に、一億円近く売れている商品もあるわけで、おいおい、ほんまかい? こんな深夜に、何気ないアウターのコートとか、豚の角煮を作れる機械とか、何の変哲もない化粧品など、そんな類の商品が一億円近くの売上を上げるなんて事態があってええんか? そして、ほんまに一万個とかの在庫を用意してるんか? おいおい、深夜に一億円やぞ、アウターのコートで一億円稼ぐことなんかあるか? しかも一瞬にしてやぞ、もはやアメリカンドリームですやん、マドンナが夢を追い求めて、小銭だけを手にニューヨークの地に降り立って、その後、スターに登りつめる系の夢物語やん、ほらほら、そない言うてたら、どこにでもあるような普通のネックレスが、また一億円近く売り上げてるで、オーダー数も六千とか七千とかなってるで、こんな深夜に、そないぎょうさん、この通販番組見てる人おるんかいな、社会に疲弊した自分みたいな人間が、癒しを求めて見てる程度の視聴数ちゃうのん? みんなそんなこの時間に、自分の物欲を満たそう思うて、この通販番組見てるのん? というか、こんな夢のように紹介した物が売れるんなら、どいつもこいつも、この通販番組で商品を紹介したらええやん。ほんなら、みんな、億万長者なれるんやから。

広告屋として、もしかしたらこの手法は、購買意欲を掻き立てるマーケティング手法なのではと、その演出を冷静に分析したがる自分もいるものの、いやしかし、世の中、しょうもない目線で、何でもクールに判断すべきじゃない、こういう腰を抜かすような事態が目の前で起こるのが世の中かも知らん、この通販番組で商品を紹介したことによって、大金持ちになった社長さんだっているかも知れない、それほどに、この番組は、商品を売るための力を持っているのかも知れない。

ぎゃあ。興奮してきた。また一人、美容サプリメントをこの番組で紹介したことによって、億万長者になろうとしている社長さんがおるぞ、興奮してきた。オーダー数がどんどん上昇していく、僕の血圧も、どんどんと上昇していく、あかん、明日はめっぽう早く起きねばならんのに、到底眠れない、寝付けるわけがない、あかん、この商品の紹介がひと段落したら、この興奮を抑えるために、上半身裸で、冬目前のお外をジョギングでもしてきてやろうかしらん、ほうら、一億円達成したぞ、在庫は大丈夫か? この番組に出るにあたり、ケタ違いの在庫を用意してきたか? 在庫切れなんて損だぜ、パチンコでチューリップが開いているのに、玉がなくなっちゃったくらいに損だぜ。

癒しと興奮の波を不規則に味わいながら、気づけばグッタリと寝落ちしている。知らないうちに、寝落ちして果てている。そうして朝、いつものように目を覚ます。またしても、鬱陶しいことばかりが待ち受けている一日の始まりなわけだけれども、こうして清々しい気持ちで目を覚ませるのは、毎夜毎夜、億万長者になる夢物語を目の当たりにしながら、良質な睡眠を取っているからなのかも知れない。

デタラメだもの。

201151114

こんなにももの悲しいスピンオフストーリーが、オフィス街の片隅で日晒しになっていても良いものだろうか。『デタラメだもの』

事務所の近くには、三階がヨガのダンスレッスンのスタジオ、二階がアメリカンでスポーティーなお姉さま方がホールを務める飲み屋、一階が丼屋のチェーン店という、不思議な層を成したビルがある。
ちょうど、人が信号待ちで立ち止まる正面に位置しているビル。

これほどにターゲッティングが分かれたビルも珍しく、信号待ちをしている人々の視線は興味によって散り散りなわけだ。
女性に関しては、ヨガのダンスレッスンのスタジオには興味があるかも知れないが、普通、人って、信号待ちでビルの三階を眺めるってことはしないよね。
だから、隣にいる同僚社員などとおしゃべりしながら、楽しく信号待ちのひとときを過ごすことになる。

問題は、男性陣である。

三階のヨガのダンスレッスンのスタジオは、なかなか罪深いやつで、三階部分が総ガラス張りになっていて、きっとこれには、女性は見られれば見られるほど美しくなるからというような原理も働いているのだろうが、とにかく総ガラス張りで、これがなんと、冬場には、室内のヨガの熱気と、外気の冷たさとが相まみえて、結露っつうのか、曇るっつうのか、とにかく、室内の熱気を曇りガラス状に伝えてきやがるわけで、この様子がオフィス街に淫靡なテイストを放散するらしく、こういった類にご興味のある男性陣は、信号待ちの最中に、日常ではペコペコと下げ慣れた頭を思いっきり上にもたげ、三階を凝視するわけである。

そして二階はというと、アメリカンでスポーティーなお姉さま方が、タイトなスポーツウェアのようなものを着込みながら接客をするという、ハッピーでパーティーピーポーな飲み屋が、快活で且つ淫靡なエナジーをオフィス街に放散しているため、こういった類にご興味がある男性陣は、得意先や上司から怒られたり詰められたりして消失しきっている心を満たそうと、信号待ちの最中に、日常では項垂れ慣れた首をやや上にもたげ、二階を凝視するわけである。

そして、一階。こちらは言うまでもない。腹をすかせた男性陣たちが、丼屋のチェーン店前に掲出されているポスターの中で燦燦と輝くカツ丼やらにヨダレを垂らしながら視線を注いでいる。
きっと、日常の飛び込み営業に疲弊した気の弱い人たち、丼屋の店内には、とても強気で飛び込んで行けるのだろう。得意先や上司には、果てるほどに気を使っている日常ゆえに、丼屋のスタッフに対しては、多少、横柄な態度を取るのかも知れない。
そんな男性陣が、丼の中に注ぐタレの如く、真っ直ぐでピュアな気持ちを丼屋に対して注いでいるわけである。

そんな様子を見ていながら、はははんと思う。はははははんと思う。何をははははんと思っているかと言うと、人それぞれで欲望の種類が違えば、欲望の優先順位も違うという様子に、はははんなわけである。

二階よりも三階を見る男性っちゅうのは、比較的高額な料金が発生する、コンセプト重視の二階の飲み屋は、自分とは無縁だと感じ、三階の清らかな淫靡さを求め、少々小金を持ったような連中、夜な夜な繁華街で飲み歩けるような小金を持ったような連中は、三階のような純真で無垢な中に潜む淫靡さよりも、ストレートな欲望という風なものに惹かれる。
そして何より、男性によっては優先順位高いんじゃね? と思われる淫靡さ、邪淫さよりも、食うことに飢え、食欲第一で丼屋を睨みつける男性の、何たる勇ましいことか。何たる原始性、男性的シンボル、無骨、無頼、はははん、その姿はまるで勇者。

というように、その人のステータスまでもが透けてみえるようで、はははんなわけだ。

そして、もう一つ、このビルから感じるコメディさが、三階から一階までを眺め下ろした場合、三階で汗かいて、二階で酒飲んで、一階でメシ食うて帰ーえろ、とでも言わんばかりに、麻雀で言うところの、一気通貫している様が、何とも痛快で、ストレスだらけのオフィス街の中、何とも単純で明快で、笑ってしまうわけなんだ。

しかし実は、このビルを取り巻くストーリーには、スピンオフがあるので、ここではそれを語りたいがために、この文章を書いているにも関わらず、既にこの文字量を消費してしまっているという体たらく、おしゃべり。

で、何がスピンオフかと言うと、このビルの対面には、大きな老舗のビルディングがあり、そのビルディングの地上二階部分には、社会で働く人たちが休息できるような、公開空地がある。
真四角のブロックで設えられた椅子が数個、ゴミ箱が数個、灰皿が数個あるような、庭とも言えない公開空地。

ここには、仕事や社会に疲れきったような社会人たちが、それぞれの心の休め方を求めて集ってくる。
項垂れながらスマホに目を落としているような人もいれば、一人無言で菓子パンを貪っているような人もいる。
所在無げにタバコの煙を見つめている人もいれば、単純に項垂れたまま、考え事をしているような人もいる。
まぁもちろん、快活な笑い声があったり、単純な休憩で訪れている人はいるものの、そんな現代社会の陰鬱なパーツを凝縮したような空間がここにありながら、どよんと悲しみが鬱積したような風情に包まれたこの空間はビルの二階部分にあるわけで、なんと、そこからふと目を流すと、例のビルが、例のビルが対面に一望できるわけである。

その景色たるや、人間の心情を虚無にさせてしまうほどの破壊力があるんだな。
汚れ無き淫靡さという欲望や、アメリカンで闊達な欲望や、原始性のある勇ましい欲望などを直視した瞬間、こちら側の自分とのギャップ、欲望の一切合財を、社会という無機質なモンスターに刈り取られてしまい、ロボットと化してしまった自分の空虚な心に、劇物を捻じ込み注ぎ込まれるような感覚。
信号待ちの時には、あれを欲望として捉えられるのだろうが、この二階の公開空地、世の中のストレスを一手に浴びたような沈鬱な場所からあれを眺めると、君の人生にはこの先、何一つ喜びも悦びも慶びも歓びもないんだよ、欲しがるなよ、求めるなよ、望むなよと、欲望から突き放されるような気持ちになる。
特に、陽が落ちた後は、それぞれの店が放つネオンが、余計に欲望のコントラストを強め、公開空地とのギャップを嫌味なほどに演出してしまう。

こんなにももの悲しいスピンオフストーリーが、オフィス街の片隅で日晒しになっていても良いものだろうか。
そんなことを思いながら、深夜残業を終え、最寄のコンビニで、缶ビールとから揚げ棒を買い込み、さてパンクロックでも爆音で聴きながら、プラプラ帰ろうかしらんと、もぞもぞとイヤホンを探したり、上着に袖を通したりしながら、例の場所で信号待ちをしていると、もぞもぞと上着に袖を通す仕草が大袈裟だったためか、大手を挙げているように見えたらしく、一台のタクシーが僕の前で停車。
後部座席のドアーがシューと開いたので、恐縮しながら、「あっ、止めてませんので……」と伝えると、運転手のあからさまな舌打ちだけを残し、客を乗せるために喜んで開いた風情のドアーが、冷笑するようにバタムと閉じた。

切な過ぎて、信号待ち。
僕が見上げたのは、二階でも三階でもなく、頭上に輝く月だったとさ。

デタラメだもの。

201151107

だから乗り物にはめっぽう弱いんだってば、力が全く発揮できないんだってば。『デタラメだもの』

よくよく考えてみると、大阪と東京だなんて離れた場所にビジネスの拠点があるということ自体、なんだかおかしな話だなあと感じつつも、仕方ないじゃない、東京にいらっしゃるお客様に呼んでいただけるのですもの、ビジネスの中心地は東京なんですもの、お飯を食べ続けて行くためには、ビジネスの中心地に行く必要があるんだもん。

例の如く、新幹線に乗って、ビュンビュン移動する。
どうやら新幹線みたいな乗り物で高速移動をしていると、人間の体内では、細胞が死んぢまってるみたいやね。
元来、人間の身体というものは、やれ猿から進化しているやら、アダムとイブが禁断の果実をどうやらこうやら、ともかく、新幹線のような俗な物がこの世にない時代に創られているのは間違いなく、粗野で粗暴で原始的な世の中にこそ、本来の人間の身体というものは適正ということになる。新幹線のような俗な物に最適化していけるほど、人間の身体がマルチではないため、新幹線で高速移動をしていると、細胞が死んぢまうみたい。

とある権力者が僕にそう教えてくれたので、僕は方々で、この雑学を披露しているのだけれども、これが嘘だったとしたら、とある権力者をどついてやろうと思ってはいるものの、権力者には僕の拳は全くといっていいほど及ばないはずなので、こちらの説、正誤を確かめず、やはり方々で披露し続けて行く所存である。

そんな余談はさておき、新幹線の高速移動によって細胞が死滅していくということは、どういう状態になるかというと、誤解を怖れず単純に言い切ってしまうと、現地に着いてから疲れる、のである。
もう、この疲れたるや、尋常じゃない。なんでこんなことせなあかんのん、ぐらい尋常じゃない。

ビジネスの中心地であり本拠地である東京に出向くとなれば、前日には、その準備やら出張中に進行できない仕事を前倒しでするやら、余念余念での備えなら、なんやかんやと没入していると、だいたい毎回、ほぼ寝ずの出発となる。
寝ずの出発の上に、高速移動で細胞を殺されてしまっては、そりゃ到着したときに、「あぁ……しんど」となるわけだ。

で、何が言いたいのかというと、「あぁ……しんど」な状態でいざ東京となっているわけで、そうなってくると、東京での打ち合わせ時にも疲労は隠せないし、徹夜によって時差ボケのような現象も起きているわけで、結果的に、本来の自分、元来の自分、ポテンシャルというやつ? それが全くといっていいほどに発揮できないことになり、ビジネスの中心地、本拠地にゴロゴロといらっしゃるビジネスの猛者たちと対峙するときに、やたらめったら能力のない奴、ひ弱な奴、主張のない奴、論理破綻した奴、などの扱いを受けることになる。

こんな愚痴を披露してしまうや否や、ビジネスの中心地、本拠地の猛者たちは、きっとこう言うだろう。
「だったら、前の日から東京入りして、休息してからビジネスに挑んじゃえば?」と。

悲しいかな、ビジネスの中心地、本拠地ではない都道府県の且つ中小企業で働く者たちは、前の日、所謂、前乗りして宿泊できるだけの経費なんぞ、使えないのである。

「一泊するのに、ナンボかかる思うとるんじゃい! その出張で、一泊分の宿泊代をペイできるくらい稼いで来れるんかい! 稼ぎの見込みも立っとらんくせに、何を偉そうに経費使おう思とるんじゃ餓鬼! 日帰りでピャー行ってこんかい! あほんだら」

などと罵倒されて仕舞い。

こんな事情もあって、やはりビジネスの中心地、本拠地に着く頃には、ヘトヘトの状態になっているので、やっぱり本来、元来の自分のパワーというものは、微塵も発揮できないわけである。

これは何もビジネスの世界に限ったことではない。
僕という生き物は、乗り物にめっぽう弱い。すぐに嘔吐してしまう。自分が運転する車を除けば、大半の乗り物で酔ってしまう。
電車はもちろん、バスだって、タクシーだって、なんだって酔う。これについては、自信を持って言う、なんだって酔う。
どれくらい酔うかというと、若かりし頃、お金がないくせに、調子に乗って、大阪から夜行バスで東京に行ってやらんと企み、酔いの不安を若気の至りで蹴散らして、夜行バスに乗り込んでやった時のエピソードがそれである。

天王寺という街からバスに乗り、出発後すぐ、上本町という街で別の乗客を拾う。
さぁ、今から八時間近くのバスの旅ですぜい! と息巻いている乗客たちを尻目に、僕は既に、上本町の段階で酔って吐きかけていた。天王寺から出発して、まだ十五分くらい経ったころである。
これから八時間近くの移動になる人間が、出発後十五分で酔ってしまっているんだ、後の七時間四十五分は、地獄以外の何物でもない。

ともかく、それほどに乗り物に弱い。
なぜに今、殊更に乗り物にめっぽう弱いことを訴えたかと言うと、ビジネスの中心地、本拠地に乗り込んで本領発揮ができないことを思い返しながら、自分が昔、少年野球に所属していた日の苦い思い出が顔をもたげたからである。

少年野球と言えば、ホームグラウンドに敵軍を呼び寄せて試合ができる日ばかりではなく、相手方のチームに呼ばれ、アウェイのグラウンドに出向いて試合をする日もあれば、大会に参加する時などは、問答無用にその大会が実施されるグラウンドに出向く必要がある。
それらの移動は、車だ。
そして、僕は、乗り物にめっぽう弱い。

乗り物に弱い僕は、試合に出向く時にはまず、朝一番で憂鬱が襲ってくることになる。
それは、強豪の敵軍と試合をして完膚なきまでに打ち負かされることを怖れてとか、自分がスランプに陥ってしまっていて、好成績を残す自信がないとか、そういった類の憂鬱ではなく、単純に、移動中の車で酔ってしまうからである。

思い返せば、移動中の車、高速道路を走っている時に、酔いを我慢できずに、おもむろに窓を開け放ち、高速走行中の窓から嘔吐したこともあったし、敵軍のグラウンドに着くや否や、グラウンドの隅に走り寄って、土の上に嘔吐したこともあった。

チームメイトたちは、意気揚々、車を降りてすぐ、アップを始めたり、闘争心を剥き出しにしたり、バットをブンブンとスイングしながら身体を慣らしたり、今日の作戦を立て合ったり、とにかく試合に勝つことだけに集中しているわけだけれども、自分はというと、車での移動で、ほぼ全ての体力を奪われ、目は回っているし、気を抜けば、まだまだ引き続きの嘔吐感が襲ってきそうで、とてもじゃないが、野球どころじゃない。
水やら清涼飲料水やらを口に含みながら、なんとか嘔吐後の臭いやら味やらを消そうと必死に努めながら、霞む視界の中でグラウンドの景色を眺めたものだ。

そんなやむを得ない事情があったからか、三年ほど少年野球を経験したが、出場した全試合を通じて、バットにボールを当てることができたのが、三度ほどだったと記憶している。
ピッチャーゴロが二度と、センターフライが一度、それ以外の打席は、全て三振だったはずだ。
言い訳をさせて欲しい。
バッターボックスに立っても、乗り物酔いをしまくった自分の目には、ピッチャーのボールが二~三個に揺らいで見える始末で、ボールの位置に合わせてバットを振ったとしても、三半規管の感覚がグラングランになっているため、思った位置にバットを振ることなんざ、到底できない。
だって、立っているのがやっとだもの。

ウチの少年野球チームは、弱小チームということもあり、試合中にあまりにも三振打者が続けば、監督が審判にお願いをし、三振したとしても、一塁ベースまでは全力疾走させてもらうという、青春であり且つ、鬼のような辱めを味わうという風習があった。
当の僕はといえば、三振も去ることながら、その直後に、一塁ベースに向かって走ることも苦痛であり、走りながらも嘔吐感に苛まれながら、ひたすら遠くに見える一塁ベースを目指しながら、脳内で考えることはといえば、帰りの車中で、再び車酔いに耐えねばならないという恐怖。

そんな状態で、野球なんかできるわけがない。
その後、僕は、野球をやったり、バスケットボールをやったり、スポーツ以外では、音楽をやったりあれこれとやってはきたものの、よくよく考えてみると、何をするにも、電車やバスの移動は付き物で、それをやっちまうと、僕は僕本来の力を発揮できないことを承知しているため、乗り物酔いというボトルネックが原因で、どれもこれも志半ばのまま、放棄してきた。

だからこそ今、新幹線などという俗な乗り物に乗って、ビジネスの中心地、本拠地である東京に出向き、着いた頃には、酔いに耐え、身体が疲れている中で、さらにビジネスの猛者たちに会って格闘するということは、あの日の少年野球の苦悶の日々を思い起こさせ、ビジネスのチャンスは東京に転がっているなどと言われ続け、事あるごとに、東京に出向け東京に出向けと言われているものの、未だに仕事の一つも取って帰阪できない理由は、そんなところにあるのだと、この場を借りて力強く訴えたい。

付け加えて行っておく。
僕が本来の力、元来のポテンシャルを発揮できる限界の移動距離は、各駅停車で四~五駅程度の場所だ。
それ以上の移動を伴った瞬間、僕の力は半減していく。
もちろん、東京などという遠方な地では、僕の力は、ほぼ皆無に等しい。
そういうことを鑑み、移動の指令は、各駅停車で四~五駅程度に留めていただくよう、会社に申請しようかと思っているが、もしそれが許可されない場合は、もう打つ手なく、黙って一塁ベースまで全力疾走するほか、ないと自覚している。

デタラメだもの。

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妙な記憶力を持ってしまったがために、これほどまでに悩むはめに。『デタラメだもの』

妙に記憶力が良いというのも、困りものである。
かく言う自分は、妙に記憶力が良く、ほとほと困らされる場面が多い。

早速話が脱線して恐縮ではあるが、記憶力も去ることながら、鼻も妙に利く。この、鼻が妙に利くというのも、ほとほと困りものである。
どう考えても、一般人の数倍近くの嗅覚があることは間違いなく、それで何が困るかと言うと、世の中が悪臭に包まれていることである。
公衆便所はもちろんのこと、街の至る所や電車の中。この電車の中なんていうものは、最悪だ。特に夏場。嗅覚が異常に発達している人間からすると地獄以外の何物でもない。
朝の起き抜けの不機嫌な中、満員に近い電車に乗ると、目の前におっさん。それほど身長の高くない自分の鼻は、ちょうどおっさんのうなじ付近に位置することが多く、ただでさえ悪臭が漂っている車内の中、高性能な鼻のまん前におっさんのうなじを近づけられた日には、卒倒しそうになる。
ということもあり、普段、僕はめったと鼻で息をしない。どこに行っても鼻で息をしない。口呼吸のみである。トイレもそう。風呂場もそう。給湯室もそう。どんな場所でも、鼻で息をしない。不意を突いて、鼻腔内部に、悪臭が侵入してくることを極度に恐れるがために、鼻で息をすることをしなくなった。それにより、ニオイ問題は解決されつつあるものの、鼻が極度に利くというのは、本当に困りものなわけだ。

話を元に戻そう。
記憶力についても、妙に発達してしまうと、自分自身を困らせる能力の一つに化してしまう。
じゃあ、いったいどんな記憶力に長けているのかというと、人の顔を覚えすぎてしまうことだ。

軽く接点があった程度の人だろうが、一度街中ですれ違って、何らかの印象に残った程度の人だろうが、ひと度、顔を認識してしまうと、どんなことがあろうが、記憶から消えてくれない。

それのどこが困りものなんだ? きっとそう思うだろう。記憶力が良いってことは、便利なことなんちゃうんかい? そう思う人も多いだろう。それがそうでもないんだなあ。覚え過ぎているってのも、都合が悪い。
なぜか?
それは、こっちが相手の顔を覚えているにも関わらず、相手はこっちの顔を覚えていないというケースに出くわすことが多いからだ。
実際に、相手に対して、「僕のこと覚えてはります?」と確認し、「はて? どなたさんでしょう?」などと、無礼なことを言ってのけられた経験があるわけではない。
だけども、もう生まれてこのかた、長い年月を経て、それなりの経験を積んだ自分なら分かる。絶対に、相手は、こちらのことなど記憶に残してくれてやしない。

僻み根性からなんだろうか? いや違う。自分の妙な記憶力の凄まじさと、他人のそれとを比較した場合、圧倒的に差があるのは歴然で、そうすると、こちらが記憶している相手と言えど、相手はこちらを記憶などしてくれていない。

例えば、街中で、知った顔を目撃することが多い。知った顔と言っても、前述通り、過去に軽い知人であった程度の人から、一度だけ会ったことのある人、こちらが身勝手に認識し印象に残してしまっているだけの人もいるが、それらを総じて知った顔と言って語弊がないとするならば、街中ではよく、知った顔に出くわす。
そうなった場合、もちろんこちらは、知った顔と言ってしまっているくらいなので、記憶に残っているが、向こうは絶対にこちらのことなど、記憶にないはずだ。
となると、「久しぶり!」とか「ご無沙汰してます!」などと、フランクに声をかけるのも歪で、向こうからすると「誰やこいつ?」ってな相手が、突如としてフランクに声をかけてくるもんだから、慌てふためいて仕方がないだろう。
そして、相手に対して、「このフランクな兄ちゃんはこちらのことを覚えてくれているのに、こっちはこの兄ちゃんのことを覚えていない。自分はなんて不覚な奴なんだ。武士の世界ならば、切腹して詫びねばならない失態。どない償って良いものだろうか。すんません、すんません。こんな無礼な自分を許してくださいませ……」と、こちらのことを忘れてしまっている失態について、心の中で、深く陳謝させてしまうことになる。

それを知ってて、「久しぶり!」などと、テヘヘ顔して言ってのけられるわけがない。その軽率な行動が、相手の心を踏みにじってしまうことになるのだ。「久しぶり!」なんてセリフは、口が裂けても言えない。

仮に相手が、「あぁ……。ご無沙汰してますぅー」なんて、超大人な対応で、こちらのフランクな態度に合わせてくれたとしても、相手の口元に、少しでも居心地の悪さが滲み出たりしようもんなら、ああ、やっぱり覚えてはらなかったんだな、悪いことをしたなあ、一生懸命に覚えている風の演技でその場を過ごそうとしてくれてはる、本当に申し訳ないことをしたと、こちらも罰が悪く、足早に立ち去らねばと反省し、猛ダッシュの末、近隣の川にでも飛び込んでしまうしか、身の振り方がなくなってしまうじゃあないの。

だから嫌なんだ、記憶力。
よく、「俺、他人の顔とか、名前とか、覚えられないタイプなんスよぉ」とか、風俗のキャッチの兄ちゃんのようなテンションで言ってのける輩がいるが、そんなことが言えるということが、どれほど恵まれたことかを、しっかりと噛み締めて欲しいもんだ。

妙な記憶力の良さを疎ましく思っている自分が取れる処世術として、知った顔が街中で出現などした場合、道路だったら、逆側の道路へとスピーディーに移動する。電車内だったら、次の停車駅で一瞬だけホームに降り立ち、隣の車両に移動する。どうしてもニアミスしそうな一本道の場合には、人生に何の兆しも見えず、お先真っ暗で未来も見えない極度の憂鬱を抱いた人間の如く、足元を見つめながら歩いている風情を醸し出し、俯き加減ですれ違う。そんな処世術を駆使しながら、知った顔と接触しないようにして生きている。

どうしてそんな処世術を駆使しなければならなくなったかというと、知った顔の人々が、こちらに対して、「久しぶり!」だとか「ご無沙汰です!」とか、声をかけてくれたためしが、一度たりともなかったことに起因する。
一度でもそんな幸福な瞬間を経験していたとしたならば、こんな自分も胸を張って、「久しぶり!」とか言ってのけられる人間になれていたのかもしれないが、悲しいかな、そんな恵まれた瞬間は、一度も訪れなかった。
それほどに、自分という人間は、印象が薄いのだろうか。破天荒に生きているつもりなのに、もしかしたら、誰の目にも映っていないのかもしれない。もしかしたら、透明人間的な要素を兼ね備えているのかもしれない。

そういえば、小学生の遠足のとき、複数の生徒で構成されたチーム制で移動などしている最中、点呼の際に、構成された複数の生徒全員が揃っていないと、チームの不和があるということで、そのチームに対してペナルティが課せられるというルールが採用されていたにも関わらず、ひょんな理由でモタモタと点呼に集合できなかった僕という存在がいたのに、いたのにだ、どのチームに対してもペナルティが課せられた形跡もなく、無事、点呼の際に、複数の生徒で構成されたメンバー全員が集ったという証が残されていたことがある。
僕が点呼に参加できていなかったにも関わらずだ、ペナルティがないとはどういうことだ。それほどに印象にないということか? これほどまでに印象がないと、誰にペナルティを課すことなく、点呼に参加しなくてもいいということなのか?

冒頭の問題定義の主旨が変わってきたことに気づいた人もいるだろう。
妙な記憶力はほとほと困りものだと訴えたい自分がいるのか、自分の印象がとてつもなく薄いという悲しみを訴えたい自分がいるのか、どちらの訴えが自分のソウルから発せられているのか、それさえをも見失いかけている自分がいる。

ただしこれだけは言える、言ってあげることができる。もし、自意識が過剰過ぎて、人前でしゃべることが苦手だと言った人や、人前で何かを披露するときに、極度に緊張し、上手くやってのけられない人、相手に自分がどう映っているのかが不安で、対人関係を上手くこなせない人。そんな人に言ってあげたい。
他人の記憶になんて、そう簡単に残るもんじゃない。他人の記憶に残れるなんて、そんなおこがましい驕りは、今すぐ捨て去ったほうがいい。
心配しなくていい。安心してもらってもいい。君のことなんて、誰も覚えちゃいない。君が他人の前で、いかなる失態をしようとも、他人は君のことなんて、覚えちゃいない。覚えていてくれるほど、他人なんて優しくもない。
だから、他人にどう思われるか分からないから……という理由で臆病になっている君、僕と一緒に、点呼に不参加でいてやろうじゃないか。
きっと、どのチームもペナルティを喰らうことなく、のほほんと、手作りのメダルか何かを首からぶら下げてもらって、のほほんとピースサインで集合写真なんかを撮っちゃってるよ。
安心したまえ、君のことなど、誰も覚えていない。
もちろん、僕のことなんて、もっと、誰も覚えてくれていない。

悲しみから生まれたこの名言は、ぜひとも、記憶の中に留めておいていただきたいものだ。

デタラメだもの。

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