デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

新幹線で窓側の席から順に指定席が埋まって行く原理が分からない。『デタラメだもの』

新幹線の座席が、窓側から順に埋まって行く原理が分からない。
左側にシートが3列あって、中央に通路を挟み、右側にシートが2列。それぞれにアルファベットが付されていて、左の窓側から順に、A、B、C、通路があって、D、Eってな具合。AとEが窓側で、CとDが通路側。B席は、窓側と通路側の座席に挟まれている。

そこにニーズが集中しているからなのだろうが、なぜ、窓側から順に指定席が埋まっていくのかが分からない。まったくもって意味が分からない。

何を隠そう、僕は、奥まった座席が大嫌いだ。新幹線はもちろんのこと、居酒屋でも映画館でもそう、とにかく奥まった座席が大嫌いだ。その理由はひとつ、自由が奪われるから。

居酒屋などでも、奥まった座席に座ってしまうと、自由にトイレに行けなくなる。行きたいと思ったときに行けなくなる。
自分が尿意を催してトイレに立とうとしたとき、手前側の座席の連中の話が大いに盛り上がっているとする。それを遮ってトイレに立つことが罪悪に感じる。さすがにそれはできないや、ということで、尿意を我慢する。しかし、そんなときに限って、話の盛り上がりが鎮まる気配がない。尿意は増すばかり。膀胱が破裂しそうになる。
もう、あかん。さすがに座席で小便を漏らすわけにも行かないので、限界が来たところで、衝動的に立ち上がる。すると、タイミング悪く、連中たちの話の流れが、今まさに、大オチを言わんとする瞬間だったりする。完全に水を差してしまう。空気の読めない奴。小便を漏らす代わりに、ため息を漏らされる始末。

だから、奥まった席は、大嫌いだ。

その昔、ある恋愛系の映画を映画館に観に行ったことがある。奥まった座席しか空いていなかったこともあり、観ることを躊躇したが、「まぁ、2時間ちょっとぐらいなら、なんとかなるでしょ」と、気軽に考えたのが運の尽き。映画がスタートするや否や、自分の奥まった席への苦手感、恐怖感を強く意識してしまい、その意識が尿意へと直結。開始数分後から、尿意を催す事態に。

物語の進行に伴い、尿意もどんどんと進行。膀胱は破裂せんばかりに膨れ上がっている。体を前後左右に揺らして気を紛らわせていないと、耐えられないほどに。おそらく、後ろの座席のお客さんは、僕のことを、さぞかし不審な人間だと感じていただろう。

しかし人間には限界というものがある。もはや、尿が尿道の先までせり上がってきており、それを自らの親指と人差し指でつまみ、物理的に尿道を閉じている状態にまでなっていた。おしっこを我慢しているんじゃあ、ないんだぜ。おしっこが出やんとしているのを、指でつまんで栓をしているんだぜ。どれほど限界か分かるだろう?

もう、あかん。さすがに座席で小便を漏らすわけにも行かないので、衝動的に立ち上がる。奥まった座席に座っていたので、10人近くのお客さまの眼前を、手刀を切りながら横切る。
皆さん、リラックスして観賞していらっしゃるため、前の座席の背に足を伸ばしていたり、人によっては靴を脱いでいたり、もちろん足元には皆々様のカバンやらが据え置かれている。
小声で「すみません……」を連呼しながら横切っているとき、ふと、スクリーンに目が行った。すると、そこに映し出されていたのは、あろうことか、中盤のクライマックスと思しき場面。主人公とされる二人が乗った飛行機が南の島に不時着し、孤独感や不安感やらが二人の絆と愛をさらに深め、今まさに接吻しようと顔を寄せ合うシーン。
おそらく制作サイドは、この場面に、中盤のすべての力を注いだであろうシーン。ふはははは、こんな大事な場面で、小便を漏らす寸前のクソ野郎が、観覧者たちの眼前を横切るとは、誰ひとりとして予想もできなかったであろう。ふははははは。

今思えば、10人近くのお客さまの眼前を横切るとき、4度ほど、舌打ちされた気がする。ロマンチックな気分に水を差すクソ野郎。舌打ちだけで済んで幸いだった。

トイレに行くということは、トイレから戻ってくるという行為もつきまとう。となると、もう一度、あの10人近いお客さまの眼前を、今後は反対側から横切らねばならない。こいつ、何回邪魔したら気が済むねん。そう思われるのは間違いない。恐すぎる……。想像するだけで、小便がちびりそうになる。あっ。小便は今、出してきたところか。

恐怖に縮み上がり切った僕は、もう館内には戻らない、という選択肢を採った。だから、あの後、物語がどうなったのか、僕は知らない。知りたくもない。

後日、ガヤガヤしたコメディー映画なら、メンタル的な影響も少ないだろうということで、「ヨハネ・クラウザーII世」という神がかったキャラクターに仕上げられた草食系シンガーソングライターが、あろうことか、デスメタルバンドで活躍してしまうという痛快愉快な映画を観に行った。
客たちもガヤガヤ、映画そのものも、爆音激音が流れる激しいもの。何ひとつ気にすることなんてない。今回も奥まった座席だったけれど、何の問題もない。

気づけば、ラストシーンのちょうど手前で、手刀を切りながら、お客さまの前を横切る僕がいた。

そんなこともあって、僕は、奥まった座席が大嫌いだ。
新幹線なんて、窓側に何のメリットがあるんだ? 理解できない。寝たいと思ったときに、肘をついて眠れるからか? 上着をかける簡易フックが利用できるからか? 壁に設置されたコンセントでスマートフォンが充電できるからか?

いやいやいや。そんなしょうもないことで、数多の自由を奪われてなるものか。私は通路側にしか座らない。通路側以外に座らされようもんなら、連結部分のあたりに立ったまま目的地まで踏ん張ることを選択する。窓側なんて、死んでもいやだ。

だって、トイレに行きたくなったとき、得意先から携帯が鳴ったために、連結部分まで移動し電話を折り返さねばならないとき、喫煙室でタバコを吸いたくなったときに、通路側の奴や、AとCに挟まれた座席であるB席の奴が、簡易棚を下ろして食事していたらどうするんだ? 簡易棚の上にノートパソコンを広げて仕事をしていたらどうするんだ? 手刀を切ってその作業を中断させ、横切るのかい? もし、通路側の奴の足元にありえないくらい大きな荷物が置かれていた場合、もしくは、B席の足元にも通路側の足元にも、どちらにもありえないくらい大きな荷物が置かれていた場合、どうやって席を立つんだい? もしそいつらが寝入ってしまっていた場合、どうやってそれをどかすんだい? 手刀だけじゃ済まないぜ。最悪の場合、B席とC席、どちらの席の奴も、足元に巨大なカバンを置いていて且つ、簡易棚を下ろしその上にノートパソコンを開いた状態で、さらにそいつらが熟睡してしまっている場合は、どうするんだい? それらすべての難題を解決した上で、トイレに行く勇気と覚悟があるのかい?

僕には、ない。

だから僕は、新幹線の指定席で、窓側を選ぶ人の気持ちが分からないし、窓側から順に席が埋まっていく原理も分からない。常に同じ現象が起きていることを考えると、僕のほうがマイノリティだってことも分かる。だけど、なぜ、こちら側がマイノリティになるのかの原理が分からない。

僕にとっては、金を失うことや地位や名誉を失うことよりも、行きたいときにトイレに行ける自由を失うことのほうが、よっぽど恐怖なんだ。

デタラメだもの。

20170514

おっさんが我慢しても抗えないものそれは、えずく、という忌まわしき生理現象。『デタラメだもの』

若い頃には、なにを大げさな、と思っていた。そんなわけあるかいな、と思っていた。芝居じみて、誇張した所作だと思っていた。それが今や、当たり前になった。とにかく、えずく。

おっちゃんたちが、歯を磨くとき、歯ブラシを奥歯のほうに突っ込み、「おえっ!」と言って、えずく。「おえぇぇっ!」と言って、えずく。あれは大げさな芝居だと信じていたのに、気づけば、毎朝えずいている自分がいる。そして、とかく、口の中、奥が弱くなった。

ただ、えずいているだけなら、それほど生活に支障はでないものの、あからさまに支障をきたす場面がある。それが、歯医者。
子どものころは、「あの音が嫌だ」「痛いから嫌だ」などと、直接的なことに嫌悪感を抱いていた歯医者も、今では、「えずくから恐い……」に変わってしまった。人間、痛みには耐えられても、えずくことには耐えられないんだな、これが。

ちょっとばかり以前の話。奥歯に不具合が出たため、歯医者に通うことに。初日からやっちまった。
奥歯の様子を撮影するとのことで、「これを噛めば局部の写真が撮れるんです」なんてハイテクノロジーなフィルム型のアイテムを口の奥に突っ込まれた。もちろん、えずく。「おぇぇぇっ!」。
撮影は滞る。できの悪いグラビアアイドルの如く、時間ばかりを食わせてしまう。恐縮する。焦る。でも、えずく。シャッターは一向に切られる気配がない。なぜなら、えずいていることが原因で、うまくそのハイテクノロジーな機械を、上下の奥歯で噛めていないからだ。

涙目になりながら、なんとか局部の撮影を終え、初日の治療は終えた。
しかし、その後の治療が地獄だった。奥歯を削り、型を取り、銀歯をはめ込む作業。どの工程が地獄かっていうと、型を取る、それである。

虫歯の治療をしたことがある人はご存知かと思うが、型を取るためには、なにやらゴムみたいなガムみたいなやつを噛まねばならん。そいつが固まるまでの間、ずっと噛んでおかねばならん。こんなにも科学や技術が進歩した今の日本にいながら疑問に思う。あのゴムみたいなガムみたいなやつ、なんであんなにデカいの?

診察台はフラットな状態。ゴムみたいなガムみたいなやつを噛みながら、僕は天井を見つめる。ゴムみたいなガムみたいなやつは、大胆に喉の奥に触れている。今にも吐き出してしまいそうだ。でも、ここでこれを吐き出してしまっては、治療が滞るどころか、ゴムみたいなガムみたいなやつを無駄にしてしまう。医師は怒り出すかもしれない。どつかれるかもしれない。でも、今にも吐き出してしまいそうなほど、えずくのを我慢している。

あまりの苦しさに、目には涙。天井で灯る電灯の光が涙で滲み霞んでくる。もうあかん。いや、まだ行ける。そう自分に言い聞かせ、吐きそうになるのを我慢する。心の中で、大事MANブラザーズバンドの『それが大事』を口ずさむ。負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと。ゴムみたいなガムみたいなやつを吐き出すなとは、大事MANブラザーズバンドも言ってない。ってことは、吐き出して、楽になってもいいのか。俺はやる。俺は、もうやる。吐き出してやる。限界だ。こんなもの噛ませやがって。俺は噛ませ犬じゃないぞ。下らん。

そのとき、医師の声がした。
「起き上がって、うがいしましょう」
その言葉に僕は突き動かされた。目にもとまらぬ速さで起き上がり、ゴムみたいなガムみたいなやつを吐き捨てた。そして、喉の奥にたまっていた大量の唾液を垂れ流す。不幸にもその日僕は、ベージュの綿パンを履いていた。吐き出した唾液は、ちょうど股間のあたりに。完全に尿漏れだ。その量からして、残尿じゃあない。本尿だ。恥ずかしい。恥ずかしい。

そのトラウマを抱えた僕は、別の奥の銀歯が老朽化に伴い取れてしまった状態を、もう二か月も放置している。歯は治したい。しかし、えずくのだけはごめんだ。当面、当該箇所を治療する予定は、ない。

そうやって、えずきから遠ざかっていたある日。風邪をこじらせ、抗生物質をもらいに耳鼻科に行くことになった。普段はめったと病院には行かないものの、生活に支障が出るほどに症状が悪化していたし、他人に伝染してしまっては迷惑だとも思い、診てもらうことに。地域で信頼を集めている耳鼻科は、朝から強烈に混雑していたため、近所に最近できた行ったことのない耳鼻科へと向かう。その時の無垢な僕は、喉の診察にも、えずきが付き物だってこと、地獄のようなショーが待っていることを知る由もなかった。

自転車を止め、病院のなかに入る。待っている患者さんの姿はない。受付には、暇そうな看護師さんが3人ほど。最近できたばかりの病院だからか、外装も内装もとてもきれい。その新築っぽさが、なんだかこの病院の信頼度の低さを感じさせた。

待合室でかばんから小説を取り出した瞬間に、診察室に入れと名前を呼ばれる。待っている患者さんがいないためだ。すこすこと診察室に入る。するとそこには妙な光景が。それなりに年配でとても背が低く、それでいて色黒のスキンヘッドの先生が、そのツルツルの頭に、なんていうの、ハチマキみたいに頭に巻くタイプのカメラをセッティングして待ち構えていた。それだけでも違和感があったのに、診察室内には、先生のほかに看護師が3人。しかも、3人のうち2人は、机に座る先生の奥へと連なるように、並んで座っている。すっごく狭い診察室のなかに。意味がわからん。帰りたい。帰りたい。だから病院は嫌なんだ。帰りたい。

帰りたい願望はあっけなく無視され、丸椅子に座れと促される。「どうされましたぁ?」と先生。なんと、低身長、スキンヘッド、色黒、年配、頭にはスポーツカメラ的なやつ。特徴の海鮮丼的なキャラクターに加えて、おねえ口調という特徴まで持っていらっしゃった。恐い。帰りたい。なんで、おねえっぽいくせに、小狭い診察室に、若い看護師を3人も従えてやがるんだ。帰りたい。奇妙過ぎる。なんか医療ミスされそう。

かつてないほどの不信感に襲われながらも、喉のチェックをされることに。
まずは定番。銀色をしたアイスの棒のようなもので、舌の奥を押さえられながら、喉の炎症をチェックされるやつね。子どもが嫌がるやつね。あれね。子どもは嫌がるだろうが、こっちは大人だぜ。社会の荒波に揉まれて、日々戦ってるんだぜ。子どもとの違いを見せつけてやんよ。
誤算。この年齢になった僕は、舌の奥に異物を入れられることを、子ども以上に嫌がる人間に成り下がっていたのだ。

銀の棒が挿入される。舌の奥に触れる。条件反射的に、えずく。口を閉じる。口を大きく開けて「えーっ」て言ってくださいねと促される。再挿入。再接触。えずく。再閉口。それを数度繰り返すうち、チラッとだけ症状が目視できたのか、次のフェーズへと進んだ。赤茶色した薬品みたいなやつを、炎症部に塗るというやつ。今しがた繰り返したやり取りを再度行う。さすがに先生も痺れを切らしたのか、局部に塗るというよりも、まるで喉の奥にスイッチがあって、それを瞬間的にツンッと押し込むような程度に薬品を塗るという高等技術、要約すると、面倒臭さを全面に押し出したような処置でもって、局部に薬品を塗る工程は終了した。

そして、ついにはじまった地獄のショータイム。
これまでの工程で、極度にえずく体質の人間、要約すると、おっさん体質だということが判明したにも関わらず、あろうことか、喉の奥に細長いカメラを通して、局部を撮影します、なんて言い出しやがる。おいおい、こいつ正気か? あんたの顔面に、吐しゃ物ぶっかけちまうぞ?

あの丸椅子に座ると、もはや拒否権はない。黙秘権を行使しても、診察は続く。年配のおねえ色黒スキンヘッドの先生が、僕の前に立つ。顔を上げさせられる。「はい、大きく口を開けて、えーって言ってください」。細長いカメラが口のなかに。その時点で、えずく。脳はカメラを拒もうとするため、口を閉じさせる。「口は閉じないでください。大きく開けて、えーって言って」。それは理解している。充分過ぎるほど理解している。頭で理解できていても、体が動かないってこともあるだろうよ。頭のなかで100メートルを8秒で走りたいと念じても、体はそれをやってくれないだろうよ。だから、僕にはそれができないんです。勘弁してください。

何度いっても言うことをきかない相手に、苛立ちはじめたのか、徐々におねえ口調が、お叱り口調に変化してきた。「だからぁ……。口は閉じないでっ! えーって声に出したら、口は勝手に開くからさぁ」。そのとき僕は、えずくのを我慢するのと、目の前の低身長年配おねえ色黒スキンヘッドの先生の指示に従わねばという義務感とに板挟みになっていた。あらん限りの力で瞳を閉じ、目じりには涙が溜まっていたことだろう。そしてついに声を絞り出した。

「あーーーーーっ」

ひとつの発見があった。えずくのを我慢しながら口を大きく開けた状態では「え」の母音は言えない。「え」の口の形にしたとしても、発音されるのは「あ」になる。すごい発見だ。怪我の功名とはこのことか。
「だからぁ……。あ、じゃなくて、え、だってば! アッカンベーってできる? アッカンベーしたら、勝手に、え、って言えるからさぁ……。あとさぁ、別に目は閉じなくていいから」
新たな発見に酔いしれていた僕に、とんでもない侮辱が降り注いできた。きっと、先生はもちろんのこと、周りにいるであろう3人の看護師たちも、僕のことを見下しているに違いない。こいつ、え、も言えないでやんの。え、って言えって言われてんのに、あ、なんて言いやがんの。アッカンベーもできないでやんの。恐くて目を閉じてやんの。

腹を括らねば帰れない。吐しゃ物出てもええわい。そして絞り出した「えーっ」と「あーっ」の中間の音。英語のappleのaの音。あんな感じの、汚ねぇ音が出た。そこに勝機を見出した先生は、即座にカメラを喉の奥に押し込み、シャッターを切った。それはそれは、一瞬の出来事だった。
「はい、終わりです」
助かった。解放された。吐しゃ物出さずに済んだ。

丸椅子に正しく着座する。改めて先生と対峙する。先生は僕に症状やらを伝えてくれている。と同時に、先生の奥に腰掛ける2人の看護師のうち手前の人が、先生の前に設置してあるパソコンのキーボードに、おそらく僕の症状であろうフレーズを打ち込んでいる。なんかおかしくないか?
たとえば、ピアノの中央に看護師1名、高音の鍵盤付近にもう1名、低音の鍵盤付近に先生が座っているとしよう。普通、低音の鍵盤付近に座っているのは先生だから、低音パートは先生だよね。でもって、パソコンとキーボードは、低音の鍵盤付近にある。それなのに、ピアノの中央に着座した看護師がキーボードを打つもんだから、なんていうのか、先生が邪魔で邪魔で低音弾けません的な、ものすごく窮屈そうに入力している。恐い恐い。なにここ? ほんで、高音の鍵盤付近の看護師は、なんでそこに座ってるの。一般的な事務デスクくらいのサイズしかないのに、なんで、先生と看護師2人とがギュウギュウになって一緒に座ってるの。こんな滑稽な光景、生まれてはじめて見た。恐い。帰りたい。

「扁桃腺が腫れて炎症起こしてますね」

でしょうね。扁桃腺が腫れて炎症を起こしていると思って診察に来た者ですと、遅ればせながら自己紹介してやろうかと思ったが、おとなげないのでやめた。このひと言を聞くために、あんなに大それた、えずき、との対決を経なければなかったのか。あんなにも地獄のような時間を過ごさねばならなかったのか。割に合わない。やっぱり病院なんて、二度と来たくない。そして、喉の奥に異物を入れられる系の施術も、二度と受けたくない。と、心に誓った。

が、ここ数日、再び熱い戦いに出ろと俺様に言わんばかり、銀歯が取れた奥歯がズキズキと痛みやがる。

デタラメだもの。

20170430

こんなにも大将がスタッフを怒鳴りつける飲食店はかつて見たことがないぞ。『デタラメだもの』

頑固な大将がやってる寿司屋で、センスのない食べ方をした客が喝を入れられる。こだわり派の大将がやってるラーメン屋で、ペチャクチャおしゃべりしながら食べていた客が喝を入れられる。こういうのは、たまに聞く話。客は、そんな大将の態度よりも、余りあるほどの美味な食を求めて通う。これほどの味を提供してくれるんだから、大将の態度も仕方ないよね。むしろ、頑固な大将、こだわりの大将の存在も、店の価値を高めてるって、客自身が、自分の解釈で、店を良しとする。そんな話は、たまに聞く話。

職場近くに、お昼どき、サラリーマンたちがごった返す、焼きスパゲティの店がある。数種の限られたメニューしか提供せず、オフィス街の昼どきとあって、豪快で且つ、目にもとまらぬ速さで調理してくれる店。働き盛りのサラリーマンたちの胃袋を、十二分に満たしてくれる店。安く、そして量が多い。とてもありがたい店なのである。

ところがだ、その焼きスパゲティ屋、なにが曲者かって、大将が恐すぎる。どう恐いかって、店のスタッフに対する態度が、度を超してひど過ぎる。
「シバく」「殺す」「ボケ」「カス」は当たり前、狭い店内の中、ぎっしりの客の中にいて、店のスタッフさん、おばちゃんのときもあれば、おねえちゃんのときもあるが、これらの暴言を吐かれまくり、半泣きになりながら働いている。それはそれは異様な空間。さすがにそういったパワーハラスメントに耐えきれず、同じスタッフさんを二度は見ないほどに、入れ替わりが激しい。

皿を片付けようと、大将の後ろを通れば、「お前、邪魔なんじゃ、ボケ!」と言われ、皿洗いをしている最中に、大将から調味料を取れと指示を受け、それを優先で対応していると、水が流しっぱなしにしていたため、「水くらい止めろや、どアホ! 殺すぞ!」と言われ。とうてい、飲食店内で聞けるフレーズではない。

また大将、小声でやればいいものの、豪快な調理スタイルに任せて、そのままの勢い、大声でスタッフさんを怒鳴る。スタッフさんの顔が強張る。それを見て、「ボケッとすんなや! シバくぞ!」と、またしても怒鳴られる。それがいつもの流れ。

その店には、たまに後輩と訪れる。うどんやら安い定食やらを中心に食している昼どきに、焼きスパゲティを提供してもらえるため、本来ならばもっと重宝したい。
後輩と二人、焼きスパゲティを食することに、いつもちょっぴりワクワクしながら店内に入る。数種しかない限られたメニューのなかから、どれを食すか選んでいる間、さらにワクワクは高まる。注文した焼きスパゲティが運ばれ、ひと口。これがまた、なかなかうまい。気分を弾ませていると、今日もやっぱり、大将の暴言。スタッフさんが怒鳴られ、辱められ、貶められ、凌辱される。そのBGMを耳にしていると、だんだんと心が痛んでくる。後輩と二人、無言になる。悲しい気持ちになる。「やめてあげて……!」と、悲痛な叫びを、心の中で響かせる。焼きスパゲティの味が分からなくなる。

いたたまれない気持ちになり、ただただ無心で焼きスパゲティを胃袋に押し込み、椅子から立ち上がる。「ごちそうさまでした」。大将とスタッフさんにお礼を言うと、「いつも、あっりがとうございやすー!」と、満面の笑みを浮かべ、腰を低くして返礼する大将。いやいや、その笑顔には騙されないぜ。だって、あんた、そんな人間じゃあ、ないだろ。僕たちの目の前で、スタッフさんに怒鳴るわ、キレるわ、暴言吐くわ、そっちのほうがあんたの本性だろうよ、そんな付け焼刃のお客様第一主義的な笑顔には、騙されないぜ。だってさぁ、「あの人、ニコニコしてるけど、裏があるよね」とはよく聞くが、裏の顔を、表の顔以上にたっぷりと見せつけられたら、もはやどっちが裏か表か分からなくなるズラ。そう思いながら、いつも店を後にする。

ところがだ、ここ数回、スタッフさんは変わらず、同じ女性。ということは、大将という厳しい試練に耐えているのだろう。もちろん、大将の性分が丸くなったわけでもなく、そのスタッフさんが、殊更に優秀なため、大将の怒りに触れないということもない。
焼きスパゲティを平らげる時間のうちに、平均して四~五回は怒鳴られている。仮に焼きスパゲティを注文して平らげるまでの時間を、二十分としよう。二十分のうちに約五回怒鳴られていると仮定して、ランチの営業時間が三時間と仮定すると、都合、一日のバイト中に、四十五回は怒鳴られていることになる。僕がもしそこでバイトしたなら、初日は耐えられたとしても、翌日は店には足が向かないだろう。もしかすると、初日の途中で、逃げ出すかもしれない。もしくは、手近にあるフライパンで、大将の頭をどつきまわしているかもしれない。

それがだ、ここ数回、スタッフさんが変わっていない。暴言の精神的苦痛は、変わらず続いている。それなのにだ、その女性スタッフは辞めていない。なぜだ。なぜだ。考えろ俺。それがなぜかを、目から血が出るほどに考え抜け、俺。

そして思いついたのが、こりゃ大将、閉店後に抱いとるな。

その昔、学生の頃、不良と呼ばれる男子たちが、ふとした瞬間に優しい素振りなんかを見せると、女子たちはキュンキュンして、「めっちゃ優しい!」と、一気に胸をときめかせていたことはなかっただろうか。
日ごろ恐い奴、悪い奴が、急に優しくすると、レバレッジが効いて、極端に優しい人間に見える。そして、それに惚れる女子が、なんと多いことか。
ちなみに、日ごろから優しくしている奴は、ある瞬間、その優しさを欠いてしまうと、「偽善者」だの「本性はクズ」だの「終わってる」だの言われる。ちなみに、僕は圧倒的に後者。合計すると、優しさの回数は、恐くて悪い連中より多いにも関わらず、あっちは加点方式、こっちは減点方式。日ごろから人に優しくしている人間は、そうやって損をするケースがある。お分かりだろうが、焼きスパゲティの大将は、もちろん前者。

だからだ。店を閉めた後に、スタッフさんを抱きしめているんだぜ、きっと。抱きしめる以上のことをやってるんだぜ、きっと。その刹那、スタッフさんは、営業中に受けた恐怖やら悔しさのすべてを、テコに乗せ、原理を利用し、バッチーン! と、逆サイドに振るわけだ。そりゃもう、大将が魅力的に見えて仕方がないわな。法律で規制されている、やっちゃあいけないお薬を服用しながら、性交渉などをすると、平常時よりも快感が味わえるとはよく耳にするが、そういう類の現象と同種のものだろう。普通の人では受けることのない仕打ちをさんざん受けきったあとの、男の優しさ。かなりの快感と、中毒性が予想される。もちろん、次の日も、スタッフさんの足は、店へと向かうだろう。否。店ではなく、閉店後の大将の優しさへと向かっているのかもしれない。
家庭内暴力を受け、どれほどダメ男と分かっていても、そいつと離れられない女性がいると聞く。そんなタイプの女性も、同種の価値観を持っているのかもしれない。きっとそういう男は、打ちのめした後の女性に対し、「あれもこれも、ぜんぶ、お前のため」なんて撫でた声で言ってのけ、それに対し女性は「うれしい……」なんて、涙を流したりするんだろうなあ。

ということで、何が言いたいかってえと、基本的には、店側がスタッフ同士の揉め事を、客に聞かせるのはご法度だと思う。気分も害されるし、せっかくの食事が、マズくなる。しかし、閉店後に抱いてる場合は、良しとしよう。需要と供給が成り立っているから、こっちだって、心を痛める必要がないんだもん。それは、一種のプレイということだろ。僕らは、ある種のプレイを見せつけられながら、焼きスパゲティを食しているということで納得できる。良かった。これで、なんら気を遣わずに店を訪れることができる。

そんなことを考えながら、ナポリタンを食べていると、急にスタッフさんがおそるおそる大将に声をかけた。

「24番さん、ナポリタンじゃないです。明太子です」

どうやら、あまりの忙しさに、大将が24番テーブルのお客さんのオーダーを聞き間違え、違ったメニューで調理し切ってしまった様子だ。焼きスパゲティとは言え、調理には、それなりの時間を要する。待ってる側からすれば、今から作り直されるのはかなりの迷惑だ。なんせ、時間のないお昼どき。さぁ、どうする、大将。

「おい! とりあえず、24番に、作り直すから時間くれって言え!」

でました、逆ギレ。自分がミスしたにも関わらず、スタッフさんに怒りをぶつける。そして、何より、狭い店内。大将がスタッフさんに怒り交じりで発したその指示、当然のように、24番さんの耳にも入っている。耳を塞いでいたとしても、きっと聞こえていただろう。

スタッフさん自身が指摘してあげたのに逆ギレされたことで、スタッフさん、「え?」と、一瞬、理解ができない、といった表情に。それを見た大将。「はよ言いに行けよ! カス!」。こんな華麗な逆ギレ、かつて見たことがない。あまりの迫力に、スタッフさんは、即座に24番さん卓へ。

「すみません。作り直しますので、お時間いただけませんでしょうか?」

24番さんからすると、それ、さっき大将の口から聞いた。否。聞こえた。
もはや24番さんは、「はい……」としか言いようがない。しかも、なんか僕が明太子をオーダーしてしまって、店の調和を濁し、大将のミスを誘発し、それによってスタッフさんが怒鳴られるという、悲惨な事態を巻き起こしてしまって、なんかすみません。自分のせいじゃないのに、謝罪を強制されるような空気。

スタッフさんは、怒鳴られたこと、辱められたこと、お客さんを気まずい空気に巻き込んでしまったこと、それらを気にして、今にも泣き出しそうな表情。恐かったんだろう。辛かったんだろう。悔しかったんだろう。でもね、これだけは言ってあげたい。今日の閉店後は、うんと気持ちいいことが待っているぜ。

デタラメだもの。

20170311

結局、センスあるヤツが大勝する。それすなわち、倍音を持っているかどうかなのだ。『デタラメだもの』

倍音。
辞書で調べるとそれは、『振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音。ハーモニックス。』とある。
歌がうまい人とカラオケなどに行けばわかる。もしくは、プロの歌手の生歌を、すぐ近くで、できればマイクを通さず、生声のまま聴いてみれば分かる。その声に、多分に倍音が含まれていることを。

端的に言うと、「ド」の音を出したとして、その音の周りに、なにやらぼんやりと、オーラというか雰囲気というか色気というか、「ド」を取り巻く謎の音群が存在していて、それが「ド」をよりどっしりと響かせ、まるで周りの音、「レ」や「シ」までをも包含せんとする音の広がりを感じさせる。すなわちそれ、安定感。
だから、倍音を持つ人の歌声を聴いていると、音を外すということが滅多とないことに気づく。それは音感がいいって類のもんじゃあなく、もしかしたら微妙に音が外れているのかも知れないが、その微妙なズレさえも、倍音の幅がカバーして止まない。だから、すごく安心して歌に聴き惚れることができる。

一方、倍音の持ち主でない人の歌声は、聴いていて不安になる。その代表格が俺。倍音を持たぬ人間は、か細い槍のようなもので音を捉えに行くため、安定もしないし、音のズレも目立ってしまう。倍音を持っている人の音のズレは、倍音で補正してくれるが、倍音を持たぬ人の音のズレは、誰も補ってくれない。孤軍奮闘。もう、そうなれば、歌うのなんてやめちまって、倍音を持つ人の歌声をただただ聴くに限る。あの倍音が、聴く人を酔わせるのであって、倍音を持つ人の歌声は、多くの女性たちはもちろんのこと、男性さえもうっとりさせることだろう。

ふと考えた。倍音は、音だけにあらず。それを総じて、センスと言ってみようと思った。
たとえば、ファッション。「何着ても似合うよね、あんた」と言われる人がいる。そういう人は、ファッション的な倍音の持ち主なんだと思う。ファッションの倍音が、多少のズレをも「アリ」にしてくれる。だから、どんなジャンルの服を着ても、似合って見えるし、魅力的に映る。

一方、ファッションにおける倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であるが、その場合、「なんか着せられてる感がハンパないよねぇ」とか「無理してるぅ」とか「ダサい」とか「臭い」とか散々言われる。それは、ファッション的な倍音を持っていないがため、自分に似合う服装というのが、幅ではなく、か細い槍の如く、突く際に多少のズレさえも許されない。そういう人間は、自分磨きや服そのものに金をかけても無駄。さっさと、自分に似合うか細い槍の突き先、要するに、このTシャツにこのジーパンにこの靴、といった固定の組み合わせを見出し、永遠にそれを身に着けるほかない。

髪型だってそうなんだ。髪型的な倍音を持っている人間は、伸ばしてもよし、ナナメに別けてもよし、短くしてもパーマをあてても、坊主にしたって似合う。倍音がその魅力を補ってくれるから。
一方、髪型的な倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であり、そういった人間が、倍音を持っている人間と同じような髪型にしたところで、「なんか違和感」とか「似合ってない」とか「古臭い」とか「臭い」とか散々言われる。悪かったなあ! と啖呵を切ってみたところで、髪型的な倍音を持っていない自分に非がある。

そう言えば、中学生の頃、ハリウッドスターに憧れ、ハリウッドスターのような髪型にすればモテるだろうと、映画雑誌を買い込んで、レオナルド・ディカプリオの髪型を自分なりに真似てみたところ、極度のクセ毛の持ち主である俺の髪型は、レオナルド・ディカプリオどころか、昭和の漫才師のような仕上がりに。しかし、その仕上がりの粗末さにも気づかず、自分がレオナルド・ディカプリオになったつもりで、ふふふんと鼻歌を歌いながら、街を闊歩していた。今思えば、抹殺したい、そんな奴。
その後、青春パンクに憧れ、髪を無造作に伸ばし、無頼者のパンクロッカーを気取っていたところ、周りから、昭和のフォークシンガーがいるだのなんだの噂され、これまた抹殺したい衝動を、今この瞬間、抑えきれない自分がいる。

あれもこれもすべて、自分に倍音がないがため。髪型の倍音を持ち合わせていないだけでなく、自分を客観視する倍音さえもないがゆえ、こんな恥さらしな生き様を露呈してしまう結果になるのである。

倍音を持ち合わせていない代表格の俺が、倍音の持ち主を見分ける方法を教えてやろう。もちろん、歌を聴いたり、服装や髪型を見れば一目瞭然なわけであるが、もっと単純な見分け方がある。それは、倍音の持ち主に対し、「倍音の持ち主ですねぇ」と伝えること。つまりは、「めっちゃ歌がうまいですねぇ!」とか、「めっちゃ服似合ってますねぇ!」とか、「どんな髪型しても似合いますねぇ!」と、賛辞を提供してあげる。
ひとつも倍音を持たない自分のようなクソ野郎は、その瞬間、「え? やっぱりそう思う?」感が出てしまうのである。顔が一瞬、緩むというか、下品な照れが出るというか、なんかそんな類の反応が見てとれるわけ。

一方、倍音を持つ人というのは、賛辞の言葉に対しても謙虚な対応を取れるという倍音まで持ち合わせているため、そんな賛辞の言葉を受け取ったとしても、「そんなことないんですよぉ」とか「適当にやってるだけなんですけどねぇ」と、こちらが用意したトロフィーを受け取ることを辞退しようとする。これこそが、倍音の持ち主かどうかの簡単な見分け方。トロフィーを辞退する人か、ぬへへと下卑た笑いを浮かべるタイプか。ちなみに、後者の代表格が俺。

そんな害虫のような俺が、唯一、倍音を響かせていると噂される場所がある。それは、生ビールが二百円代の居酒屋でベラベラと喋っているときだ。どうやら、生ビールが二百円代を超え、三百円代に突入する店になると、その倍音は消えてしまうらしいが、二百円代のリーズナブルでコストパフォーマンスだけがやたらと高い居酒屋では、倍音が出ているようだ。要するに、安い店で安酒を呷っていると、意気揚々と倍音が出るらしい。むろん、安い店じゃなければ、委縮して、その倍音は鳴りを潜めてしまう。究極に条件つきの倍音があるんだそうだ。

トークの倍音というものも、確かに存在する。同じ話でも、彼がしゃべると爆笑、ヤツがしゃべると沈黙、そういう状況に出くわしたことのある人も少なくないだろう。ネタ振りや声の抑揚、音の高低など、トークにもしっかりとセンス、すなわち倍音は存在する。

そんなこんなで、本日も安居酒屋。お得意の倍音を響かせ、我、トークの覇者なり、と言わんばかり、大声を張り上げ、唾を飛ばしながら、快活に語る。後輩相手に、我こそ、トークの覇者なり、と言わんばかり大げさに語る。安酒を呷りながら、ふと自分を冷静に見つめてみる。この年齢にもなると、ようやく自分を客観視できる類の倍音を身につけはじめたらしく、時に冷ややかな目で自分をPDCAサイクルできるときがある。

ん? ちょっと待てよ? 俺の倍音、低くないか? 下のほうの音ばかりが響いているぞ。下のほう? そうか、下ネタか。さっきから俺、下ネタしか喋ってへんがな。下のネタしか響かん倍音。安居酒屋で且つ下ネタでしか響かない倍音。果たしてそれが、人の心に響くと言うのだろうか。まあ、ええわ。人は人、俺は俺。なんにもないよりマシか。

そう思いながら、チャプチャプになったお腹へと、さらに安酒を流し込む、場末の居酒屋。そろそろ、一軒につき、アテ一品の経済状況から卒業し、アテの二品でも注文できるくらいの収入が欲しいところだ。

デタラメだもの。

20170128

当たり前を疑うには、まずは泣き寝入りして払っている料金からはじめてみるべきだ。『デタラメだもの』

当たり前というのは、いつからそれが当たり前になったのか不明だ。もはや当たり前になり過ぎていて、なんら疑いも持たんけれども、その実、それが当たり前のことじゃあない場合だってあるんだなってことが、たくさんあり過ぎて、今日も仕事をしながら終始、別のことを考えながら業務に従事する。

テレビのせいなのか、親のせいなのか、教師のせいなのか、兄弟のせいなのか、友人のせいなのか、恋人のせいなのか、本のせいなのか、自分のせいなのか、思考の中に当たり前という概念を作り上げてしまった僕たち私たちは、今日も疑うことなく毎日を過ごす。

よくよく考えてみれば、これほどまでに謎の多い身体の仕組みを持っている人間。怪我をしたらやがて治ったり、アルコールを飲めばやがて分解してくれたり、眠った後はしっかり目覚めてくれたり、快感を覚えれば出るものもでる。ふと臓器のある部分に不可思議な痛みを感じたとしても、それをすぐに忘れてしまえるほど、身体の中では、何かが起こり何かを治癒してくれているんだな、当たり前のようでいて、それがほんまに当たり前のことなんか? 疑ってもみたくなる。

と、そんなスケールのデカい話をしたかったわけじゃあないんだ。僕のように矮小な人間にとって、そんなスケールのデカいことを考えている余裕なんてない。もっとちっぽけなことを考えるほうが性に合っている。僕が疑いはじめている当たり前は、料金について。ほら、もうテーマが小さい。

世の中、料金設定というものがなされているよね。これを購入するためには、いくらの料金を支払わねばならないという、アレ。これをレンタルするためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められているし、これを飲むためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められている。あれに疑問を感じてしゃあない。

たとえば、ファストフードのポテト。美味しいよね、アレ。本品のバーガーを凌駕するほどの魅力を持っていると言っても過言ではないポテト。なんだったら、ポテトセットなる商品ラインアップを追加し、ポテトを主役、その他、バーガーやらナゲット的なやつやらを脇に添えても、人気メニューとして成立するんじゃあないだろうかとさえ思うほど美味しい。

しかしそのポテト、しなっしなの状態で提供されるときあるよね。作ってからかなりの時間が経過したのだろう、油が染み込みきってしまい、揚げた感も損なわれ、醍醐味のカリカリの部分は既に消失してしまっている。外装の紙パッケージだって、油がしゅんでベトベトになっている。あれに定価を支払う理由が分からん。あのポテト、全力で仕事してないよね? ポテト本来のポテンシャルを活かしきれてないよね? それやのに、なんで定価なん? ちょっとした値引きあってもええんちゃうのん? 当たり前のように定価を支払うことに、悔しさを隠しきれない。

しなっしなだけじゃあない。塩加減だってそうだ。まれに、ぜんぜん塩がまぶされていないポテトが提供されるときもあるし、逆に、塩のかたまりがゴリゴリに付着しているときだってある。味付けが人任せなので仕方がない部分もあると思うが、ちょっとしたイレギュラーな要求には、「マニュアル上、無理なんで!」と、なにもかも突っぱねているんだったら、ポテトの塩加減もマニュアル通り、しっかり対応してもらいたいもんだ。塩加減がデタラメなポテトが提供されてきたら、「マニュアル通りの塩加減じゃあなかったので、本品は受け取ることができません!」と、受け取り拒否する権利だって、あるんだぜ、こっちには。

ただ、そんなクレームをつけたいために物申しているんじゃあない。要するに、商品本来の魅力の80%しか発揮できていない仕上がりの商品は、料金だって80%にするのが世の常ってもんじゃあないのってこと。当たり前のように、文句を言わず、しなっしなのポテトを食べてきたけれど、あれは全部、泣き寝入りの類だってことに気づいてしまった。

生ビールだってそうなんだ。駆けつけ一杯の生ビールを楽しみにし、直前の水分補給を一切絶ち、店が混んでいて入れなかったらどうしようという不安とも戦いながら、ようやく入店、着座し、あらんほどの清々しいボイスで、「とりあえず、生!」と叫び、ご褒美がテーブルにもたらされることを、少年のような気持ちで待つ。ようやく提供された生ビール。ジョッキを豪快に持ち上げ、さぁ飲むぞ! ぐびぐびぐびび。「ん、なんか、ぬるくない?」。これである。

冷えていて且つ喉越しを楽しめるのが生ビールの醍醐味。それを欲してここまで来たんだ。それを手に入れるため、その他の欲には目もくれず、あらゆるものを我慢してきたんだ。それやのに、生ビールが冷えてないって、どういうことなん?

またしてもそう。クレームをつけたいわけじゃあない。店が混んでいるときは、生ビールがオーダーされる数も飛躍的に増え、ジョッキを冷やす時間もないなど、最高のパフォーマンスを発揮できない理由も分かるんだ。だから言いたいのは、生ビールの温度が最高潮の時と比べ、二割減していたんだから、料金だって二割減になるのが世の中ってもんじゃあないのかい。それをなぜに、最高潮で味わえたときと、同額のマネーを支払わねばならんのだ。当たり前のようにやり過ごしてきたが、よくよく考えてみると、解せん。

世の中の一般的な仕事の場合、100%の満足を提供できなかった場合、「今回、商品がイマイチやったから、ちょっと値引きしてえやぁ」と、減額を要求される。それに対し僕たちは、「すんません。すんません。ほんま申し訳ございません。しっかりと値引き対応させてもらいますんで!」と、料金から、満足に至らなかった部分を考慮し、値引く。満足度が100%で提供できなかった理由が、その商品の制作時、納品時に、親が死んだからとて、財布を落としたからとて、恋人と別れたからとて、指名手配を受けたからとて、決して許されない。激怒されるか減額させられるかの二つにひとつ。

それなのに、ポテトも生ビールも。と思うと、泣けてきやしないだろうか。
もっとあり得ないのが、レンタルDVD。レンタルだからある程度は我慢せい、というスタンスなのかも知れないが、ある一部のガサツな連中の手によって、DVDの盤面にキズがつけられていること、あるよね。あのキズってもれなく、その映画の名画面で、音飛びやらコマ落ちを発生させやがる。自分が最も感情移入し、さぁ泣くぞ、さぁこの映画から人生の大切なものを授かるぞ、そんな場面で、必ず音飛びやらコマ落ちが起こる。すべて台無しじゃ。酷いときには、そのままDVDプレイヤーの動作が停止し、それ以降のシーンへと再生できなくなってしまったこともある。しかも何が大罪って、音飛びやらコマ落ちが一度起こってしまうと、その後もまた起こるんじゃないかと、意識の何割かがそちらへ向いてしまい、作品に集中できなくなってしまう。

それでも、定価。映画を最大限に味わい満喫し、人生の大切なものをしっかりと授かった場合と、同じ料金。なんでなん。映画監督が、その場面で、効果的に音飛びやらコマ落ちを画策し、仕込んでいたんなら仕方がない。それも演出のひとつだから。でも、ある一部のガサツな連中のせいよね。それなのに、定価って、あり得ますか? せめて、コマ落ちした分の料金も、定価から落としてもらわないと割に合わない。

そういったケースで最も泣きを見る瞬間が、ライブハウス。動くアーティストを目に焼き付け、生ならではの音を感じ、盛り上がるライブ。それなのに、身長の決して高くない僕、前に背の高い男子が来た暁には、醍醐味のうち、動くアーティストを目に焼き付けることの一切の権利が奪われてしまうの。オールスタンディングだったなら、ある程度、自由に場所を移動できるため、権利を掠奪されるのを回避もできるが、指定席の場合、終わる。指定席にも関わらず、アーティストがステージに登場した瞬間、暗黙の了解で会場中が総立ちになり、立ち見と化すパターンのライブの場合である。
身長の高い男子の肩越しに、なんとか、動くアーティストを目に焼き付けようと工夫をするものの、そうした結果、妙な姿勢でライブを見るハメになり、ライブ後、左右いずれかの首の関節を痛めてしまい、やれ鍼灸やら、やれ整骨やらに通わねばならなくなり、健康保険が適用されるからまだ良いものの、それなりの出費を伴うことになる。

背の高い男子に非がないことはもちろん承知している。彼らだって、望んで高身長に生まれたわけじゃあない。そんなちっぽけなことを言っているんじゃあない。こっちは醍醐味の半分を奪われているんだ。料金だって、半額でいいじゃあないの。それを言いたいわけである。

どこまでの低身長の人が減額対象になるのか議論が面倒臭いと言うのなら、小学校時代よろしく、ライブハウスの指定席では、背の順で席を割り振るとか、チケット購入の際、申し込みフォームで自身の身長も申告する制度とし、決して、背の低い人の前には、背の高い人が来ないようにプログラミングされた上で席順を決定づけるとか、方法はいっくらでもあるはずなんだ。当たり前のように、背の高い男子の背中だけを眺めるライブを楽しんできたが、やっぱりこれは当たり前のことじゃあないよね。

あかんあかん。書けば書くほど、自分が小さな人間に思えてきた。だって、そんなことを声高に叫んでみたところで、サービス業というものは、「だったら食うな」「だったら飲むな」「だったら来るな」と突き放してくるに決まっている。僕みたいな人間を相手にしてくれるわけがない。だから泣き寝入りするしかないの。

そんなしょうもないことを考えながら、地下鉄の電車内。さっきから、やたら座席が窮屈だなって思っていたところ、シートの中央に目をやると、めちゃめちゃ巨漢な男が着座していた。一般人の二人分のスペースは確保している。しかも、あろうことか、股を開き気味でリラックスして座っていやがる。それのせいで、僕は座席の端、追いやられ、肩身の狭いを思いをしながら、窮屈さを押し付けられていたのである。これは解せん。

そう思い僕は、すっくと立ち上がり、「それだけ大きい図体で且つリラックスした状態で着座されているということは、二人分のスペースを確保してはりますよね。だったら、料金も倍支払ってもらいますか。もしくは、半人分ほどのスペースに追いやられていた僕の料金を半額にしてもらえるよう、大阪市営地下鉄に交渉してもらえませんか」と言ってやった。

言ってのけた刹那、巨漢男のグーパンチが、僕の頬をヒットした。ふっ飛ばされる僕。車内の乗客から嘲笑される。はずい。はずい。余計なことをした。さっさと席に戻ろう。頬の痛みに耐えながら、赤ちゃんみたく床を這い、席に戻ろうとしたところ、元々僕が座っていた席は、別の誰かに取られてしまっていた。それはそれは、半人分のスペースでも充分に座席の醍醐味を味わえるほど、痩せ細った男子だった。

デタラメだもの。

20170108

何もかもが早い。そんな時代を楽しむための手段をじっくりと考えてみる。『デタラメだもの』

2017年、はじまる。2016年もあっという間に終わってしまったことを考えると、2017年も同じように、あっという間に終わってしまうのだろうか。

2016年のスタートと同時に、今年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだの、誓いめいたことを語っていた気もするが、それがつい最近のことに感じる。実現できたのか、実行に移せたのかさえ振り返る間もなく、またしても、2017年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだのと語ってしまいそうで閉口してしまう。

年をとると一年が早くなるとはよく言うが、あまりにも早すぎやしないだろうか。早いというか、もはや、速い。
どうせ、「もうすぐお花見のシーズンだね」なんて言い合いながら、あっと言う間に桜のシーズンを追い越してしまう。「やっぱり夏だよね」なんて言い合いながら、すぐに秋の気配を感じてしまう。「今年も紅葉の季節がやってきたね」なんて言い合いながら、気づけば紅葉はみな、散ってしまう。「肌寒くなってきたね」なんて言い合いながら、クリスマスも大晦日も横目に、あけましておめでとう、なんて言ってのける始末。想像に難くない。

クリスマスやら大晦日やらにしたってそうだ。不景気のせいか、イベント感が薄いように思う。昔はもっと、街がクリスマス一色になったり、お正月ムード一色になったりしていた気がする。テレビCMだって、バラエティ番組だって、もっと季節感を押し付けてくるようなものが多かったように思う。それがどうだろう。あまりにも一年、メリもハリもなさ過ぎる。

電化製品だってそうだ。製品購入と新製品登場のイタチゴッコは昔から変わらないかも知れないが、パソコンやスマートフォンなんて、機種の世代交代が早すぎやしないか。キャリアの二年契約があるからとか、不具合はまだバッテリーくらいのものだからと、人並みの物持ち良い精神で買い替え渋っていたとしても、いざようやく最新機種を買ったや否や、即座に新機種登場のニュースを耳にしたりで辟易。

ともかく、なんでもかんでも早すぎる。便利すぎる。のんびりしていない。こんな便利さに慣れてしまった人間は、既に不便だったあの頃にはもう戻れないのかも知れないが、徐々に、スローダウンさせて行くのも粋な気がする。

俳優やタレント、芸人やミュージシャンだって、流行り廃りが早すぎる。せっかく世に出られたとしても、次から次へ、ニューカマーが世に送り出されるもんだから、目まぐるし過ぎて記憶にも残らない。人々の記憶に残らないということは、歴史的な記録にも残らないということだ。それじゃあ、伝説的な人物やグループなんて、後世、出てくるわけがないだろう。機械だけならまだしも、人間をも使い捨てする時代になってしまったということか。

ほんま、なんでこんなにも、何もかも早く感じてしまうのだろう。休みの日が過ぎるのは早い。それだけならまだしも、気乗りしない平日さえも早く過ぎて行く。饒舌に語る楽しげなお酒の場は、なんであんなにも時間が早く過ぎるのだ? 夜中のタクシーのメーターは、なぜあんなにも早く料金を刻んで行くのだ? 二割増しってレベルちゃうやろ? ゆっくり身体を休めたいと思って眠りについても、朝はなぜあんなにも早く訪れるのか? それなのになぜ手の込んだインスタントラーメンは、湯を入れてからの待ち時間が五分もかかるのか? あれはより高度な技術で三分に短縮できないのか?

そこでこう思う。2017年は、そろそろ便利さを一枚ずつ剥いで行こうじゃあないかと。
たとえば、スマートフォン片手でできるような、そうやね、銀行振込なんかも、わざわざ銀行に足を運んで行うとか。銀貨をチャリンと投入すれば、自動で車を洗浄してくれるようなハイテクマシーンは使わずに、車を手でゴシゴシ洗うとか。家のお風呂に入らず銭湯に行く。インターネットで音楽などを採取せず、CDショップで購入したり、レンタル屋に借りに行く。助平な動画だって、観たいと思えば、ブラウザを起動するんじゃあなくって、レンタル屋の然るべきコーナーに行けばいい。

それらの風情な行為を、便利さの名の下に時短させ、時短したことによって作り出した時間に、その他の行為や用事を詰め込むことによって、それらの風情な行為を味わいながらやる心の余裕を欠いてしまっているってことに気づいた。自らその首を締めているということに。

今年は、便利さから遠い場所で生きて行くことをテーマとしよう。これだったら、今からでもできるし、やれ達成できただのどうだのと、下世話な会話も生まれてこない。ビールは瓶ビール。グラスに注ぐって行為を大切にしよう。その時間を大切にしよう。じゃあ、生ビールしかない店だったらどうするか。そりゃ、生ビールとグラスひとつをオーダーし、ジョッキから注いでやろうじゃあないの。いかんいかん、これじゃあ作為的で人為的過ぎる。もっと自然に無駄を楽しみたい。答えは出た。瓶ビールが飲める店に行きゃいいじゃあないの。

それはそうと、話は逸れるが、近頃、物忘れが激しい。友人知人と会話をしていて、やれ得意げに、「最近、おもしろい話があったんですよ」と、話の導入を自ら設け、意気揚々とオチへと向かって話していると、その中途で、話のオチを失念してしまうことしばしば。
すごく秀逸なエピソードトークを用意していたために、話を持ちかけたのである。それは真実。最終的な抱腹絶倒ポイントへと、しっかりアテンドしようとおもてなしていたのも事実。なのにだのに、どんなオチだったのかを忘れてしまう。前半から中盤にかけて、あまりに得意げだったため、「何の話か忘れてしまいまして……」などと後ずさることも許されぬ。オーディエンスたちは、その勢いのまま、ゴールまで駆け抜けてもらうことしか期待していない。

そんな窮地に陥ってしまうと、これ致し方がない、話ながら別の脳みそで、別のオチを捏造するほかない。右脳でしゃべっていたら、左脳でオチを、左脳でしゃべっていたら、右脳でオチを創るほかない。しかし、そこは即席のオチ。インスタントなオチ。出来栄えが良いわけがない。前半から中盤にかけての話との整合性だって怪しい。結果的に、ウケない。ウケないばかりか、期待を持たせ意気揚々と語り始めた分、変な空気になる。

こんな失念っぷりが最近目立つ。ともかく、話を途中で忘れたときの恐怖感は尋常じゃないんだよ。冷や汗だって、大量に出る。まさに失念ダイエットというところか。みなさん、期待を持たせて話はじめたくせに、おいまいなオチで、尻すぼみになったと感じた場合は、「あっ! こいつ、話忘れよったな?」と、大目に見てくだせえ。そんな寛大さも、心に余裕があってこそ。家電も人間の交流も、もっとのんびり行きましょうや。

もっと人々の心に余裕があった頃の、昭和のレガシーを訪ねるべく、懐古的に生きて、どんどん鈍くさく、どんどん鈍感に、スローライフ、すなわち、不便な毎日を送って行こうと思う。

今年は、酉年だそうだ。心にも、ゆとり、を持って生きたいものだ。

デタラメだもの

20170101

パソコンのデータが消えてしまうと、お金も大量に消えてしまうし、物の価値まで見失ってしまうよ。『デタラメだもの』

まさか、こんな日が来るなんて。信じられない。大切にしてきたのに。無理させずに、負荷もかけずに、穏やかに過ごして来たつもりなのに。まさか、こんな日が来てしまうなんて。信じられない。自宅のパソコンが壊れた。電源さえつかなくなった。厳密にいうと、電源ボタンを押せば、ファンは動き出す。起動しようと頑張るものの、二秒ほどすると力尽きて諦めてしまう。もう、ただただその動作を繰り返すばかり。何度やっても、繰り返すばかり。そんな事態が、ある日、いきなりやってきた。

やばい、データ消えてしもたがな。

これまでにもパソコンが故障したことはある。経年劣化により、オペレーションシステムなるパソコンの中心的存在のソフトウェアが故障したものの、さまざまな手法を駆使して、データを救出し、まるでバトンリレーの如く、一切のデータを失わずに、今日まで生きてこれた。初代のパソコンの調子が悪くなった後に、データを救出し、二代目へ。二代目のパソコンの調子が悪くなった後には、再びデータを救出し、三代目へとJ Soulしてきたわけである。

ところが今回は違う。だって、電源が入らないんだモン。

電源が入らないということは、なんの手法も試みることができない。つまりは、パソコンがただの箱と化してしまっているということ。これまで生きてきた中で身につけてきた技やら術やらの一切を、もはや受け付けてはくれない。ということはつまり、データが救出できないということ。あかんがな。

これまでにもデータを失いそうになったことは、ある。そんな経験から、たくさんのことを学んだ。重要なデータは、パソコンの内部に保存しないってこと。そうすることで、パソコンが故障したときはもちろんのこと、パソコンを買い替えたときにも、データの移行がめちゃめちゃ楽なんだぜ。だから、重要なデータは、完全に外付けハードディスクに保存してあるから、今回のトラブルとは無縁だ。

しかし盲点だった。重要なデータとはつまり、仕事に支障をきたすデータたち。それなしでは、継続的な仕事ができなくなってしまうデータや、自分にとってのレガシー的なデータ。そいつらは、外付けハードディスクの中だ。ところが、やや重要なデータたち。つまりは、仕事に支障はきたさないものの、生活にやや支障が出るものや、ないと死ぬわけではないが、ないと困るもの、なくなってしまうのは寂しすぎるものたちなど、重要のランク付けからワンランク下げられてしまったデータたちは、ゴッソリとパソコンの中にある。そいつらは、ただの箱の中に永遠に閉じ込められたままになってしまう。あかんあかん、それはあかん。生活が不便になるだけでなく、過去のノスタルジックな思い出たちの一切合切を捨ててしまうことになる。

そうだ、業者さんに、相談しよう。

思い立ったらすぐ電話。直近で対応いただける時間で、家に来てもらうことに。結局、次の日の朝から、自宅に来てもらうことに。さぁ、早う、パソコンの電源、直してくださいな。それが無理なら、データを復旧してくださいな。僕のかわいいパソコンを治療してやってくださいな。

「これ、もう、無理っすね」

え? 無理とかあるん? 業者さんってパソコン界でいうところのお医者さんちゃうん? そんな簡単に諦めたりするもんなん?

「修理とか出されるんでしたら、部品類はすべて海外製なので、戻ってくるのに一ヶ月以上はかかりますね。費用的にも二十万くらいかかるんちゃいますかね?」

はぁ? その間の仕事、どうするん? っていうか、購入した金額の倍以上の修理費かけて、一ヶ月以上、パソコンなしで暮らして、どうやっておマンマ食えばいいの?

「それか、データの復旧しましょか?」

パソコンを修理するのは諦めるしかない。背に腹は代えられん。というか、もはや、データ復旧の一択やん。それでお願いします。新しいパソコンは、なんとか工面しよう。それなら、話は早い。早うデータ復旧してくださいな。

業者さんは、おもむろに自分のノートパソコンを取り出し、今、ただの箱と化した僕のパソコンの内部から取り出されたハードディスクとつなぎ込む。ジョイント。すると、彼のパソコンの画面内に、これまで僕が手塩をかけてきた、見慣れたフォルダやファイルたちがズラズララララと表示された。おぉ、なんだこの、もう二度と出会えないと諦めていた友人、知人に再び会えたときのような感動は。涙が出そうじゃないか。

なにやら、その業者さんの料金システム的には、ある一定の容量の復旧は基本料金で、その後、十ギガ復旧ごとに追加で料金が発生するというもの。
先にも述べたが、あくまで、やや重要となるファイルたち。仕事がめっぽうできるタイプの僕くらいになると、仕事に支障をきたすデータ、命を脅かす類のデータは、すべて外付けハードディスクの中。やや重要となるファイルなんて、そんなにもないだろう。もしかしたら、基本料金内で収まる程度かも知れない。

気楽な気持ちで、「このデータも復旧お願いします。あ、あと、このデータも。それと、このフォルダもお願いします。それと、こっちのフォルダもっすね。あ、そうや、このフォルダもお願いします」と、業者さんのノートパソコンの画面を指差しながら、復旧希望のファイルやらフォルダを指定していく。

こんなもんかな。救えないデータもあるのはあるけれど、そこは諦めよう。費用が高くなってしまっては困る。だから、必要最低限にしておこう。
「以上です!」と業者さんに伝える。彼は電卓を取り出し、パチパチチと打ち出す。「新しい保存用の外付けハードディスクもご用意させていただきまして、復旧費用、合計八万五千円っすね。へへ」

聞き間違いだと思った。データだよ。無形物だよ。しかも、重要なデータじゃないんだよ。やや重要なデータたちだよ。なんでそんなに高いん?
まだ見積もり段階ということもあり、思わず、

「知人や友人で、パソコンのハードウェアに詳しい人間だったら、頼めばデータ復旧って、してもらえるもんなんですかね?」と尋ねてみた。
「まぁ、システムいじれる人だったらやれるかも知れないっすけど。どうされます? その人に頼まれます?」

実はそんな知人も友人もいない。それどころか、普通の友人さえいない。完全に僕の回答待ちになった。二択だ。目の前の業者さんにお願いするか、てめぇでなんとかするか。その回答を、彼は待っている。

「データ復旧だけを専門にやってらっしゃる業者さんっていますよね? そんな業者さんに頼めば、もうちょっと費用って安くなるもんなんですかねぇ……?」あがいてみた。
「同じくらいじゃないですかねぇ。だいたい、どこも同じ方法でデータレスキューしますんで。どうされます? 他の業者さん、探します?」

またしても僕の回答待ちになった。二択だ。目の前の業者さんにお願いするか、まだ見ぬ業者さんにお願いするか。その回答を、彼は待っている。

「復旧、お願いします……」

僕は諦めた。僕は負けた。目の前の彼に依頼する以外、方法はない。あれやこれやと動き回っているような時間もない。
結果的に、作業は六時間ほどかかった。無事に、僕が指定したデータたちは復旧された。超高額な費用をかけて守られた貴重な、やや重要なデータたちだ。なにが悔しいって、業者さんのパソコンの画面には、僕の失われたデータたちのすべてが表示されていたこと。僕が指定したデータだけを選択し、プイッと外付けハードディスクにドラッグアンドドロップ。彼はパソコンを救う立場だよね。パソコン界の医者だよね。画面内に出ていたんだよ、僕の失った、全ファイルが。でも、僕に指定されたかったデータは、救出されない。みんなはこう思うだろう。お前が指定しなかったから、救えなかったんだろうが、ボケが、と。でもね、指定すればするほど、お金がどんどん積み上がって行くんだもん。ファイルが選択されればされるほど、お金が積み上がって行くんだもん。諦めるしかないよね。

僕が彼の立場だったらね。会社に出す見積書とかには、お客様が指定されたデータ容量だけを書き込み、その実、すべてのデータを復旧してあげるね。だって、真実は分かんないじゃん。作業は一緒なんやもん。ドラッグアンドドロップだけやもん。そのほうがお客様、いや、患者様は喜ぶに決まってるもの。それが営利団体の通念違反だっていうなら、僕のことをブラックジャックと呼べばいい。そうまでしてでも、お客様のデータは、すべて救ってあげたい。だって、作業は、ドラッグアンドドロップだけやから。

まぁ、無事、僕のやや重要なデータたちは復旧されました。パソコンがなくては仕事ができないため、業者さんが帰られたあと、すぐにパソコンを購入した。便利な世の中だわな。スマートフォンで購入したよ。ただね、聞いておくれよ。何が悲しいってねぇ、新しく購入したパソコンが、五万円強だったのさ。やや重要なデータの復旧に、八万五千円を投じた後に、五万円強でパソコンを購入。物の価値ってものを見失っちゃいそうだな。

って戯言を、今、こうやって書いているのは、もちろん、五万円強のパソコンなのである。

デタラメだもの

20161203

立ち飲み屋でおっちゃん二人寄れば喧嘩になる。しかし、結果的にパンクロックを学べる機会でもある。『デタラメだもの』

先日、天六商店街で取材があり、予定よりも早く終わったため、フラリと天満の立ち飲み屋に寄り一杯。まだ、夕方に差し掛からんとする時間だったため、先客は若いおっちゃんと、おっちゃんの二人。まだ事務所に帰って仕事もあるため、息抜きに気軽なお酒でも楽しもうと、たこぶつと瓶ビールをオーダー。しんみりと、ひとり飲む。

おっちゃんが二人寄れば、議論が始まる。立ち飲み屋ともくれば、尚、当然こと。若いおっちゃんと、おっちゃんは、例に漏れず、議論をおっぱじめた。話しのネタは、どうやらセクハラに対する倫理観のようだ。

おっちゃんのほうは典型的な定年退職後でいらっしゃる風体。もうひとりの若いおっちゃんは、スラリとした身なりにキャップを被り、オレンジのフリースを着るなど、まだまだ現役を匂わせる風体。場末の岩城滉一といったところか。
おっちゃんのほうがイキリ立つ。最近の女は、やれすぐにセクハラだのと叫びやがると。けしからんと。それに対し反論する若いおっちゃん。

「おっちゃん、そりゃ27年前の価値観と、今とじゃ、大いに違いがありまっせ……」

おっちゃんはどうやら、27年前の倫理感を持って、セクハラ問題を斬らんとしているご様子。なんでも、嫌がる女性職員(定年退職後でいらっしゃる風体のため、現役時代の話をしているのか、元同僚たちとの最近の飲み会の話をしているのかは定かではない)に対し、飲み屋で歌を唄うのを強要したところ、拒否。その態度が気に食わんと、激昂。女は男の言うことを聞くのが社会の常。それを、やれセクハラだなんだと、身の程を知れとの発言。それに対し、若いおっちゃんは呆れた様子。昔と今じゃ時代が違う。今では、発言の受け手が不快に感じた時点で、セクハラ、パワハラ、アルハラの文化。そんな大昔の倫理観を持ち出されても、話になりまへんで、と反論。

おっちゃんは、若いおっちゃんの正論に腹を立てたのか、「自分、学校どこや?」と、詰問。話は逸れるが、不良たちが「自分、学校どこや?」と詰問するときは、「どこどこ中学のモンなのか?」を確かめるためであり、相手の中学が荒んでいればいるほど、身構えねばならないし、どれほど荒んだ学校に身を置いているかで、そいつの身分を測らんとする。しかし、おっちゃんたちの会話で、「自分、学校どこや?」と詰問された場合は、出身大学を答えるのが常。すると、若いおっちゃんが冷静に答えた。

「僕ねぇ、関大(関西大学)出てますねんやわぁ」

それを聞くや否や、おっちゃんが一瞬、怯んだ。若いおっちゃんが、「先輩は大学どこですのん?」と詰問するも、おっちゃんは、「それは言えまへん!」と、口をヘの字に曲げる始末。この時点で、本日の立ち飲み屋での身分の上下が明確になった。

関大が発する意見だと怯んだためか、おっちゃんは先ほどのセクハラ議論に対し、「そないでっか……。もう時代がちゃいまんのやなぁ」と、しおらしく認める始末。なんという学歴社会。立ち飲み屋にも、確かにヒエラルキーはあった。

しばらく穏便に会話をしていた二人。すると、話の流れが給料のネタに。僕はオーディエンスとしてまだまだ席を立ちたくなくて、もう一本だけ瓶ビールを注文。アテも切れてしまったので、たことキュウリの酢の物をオーダー。どれだけたこ好きやねんと自分で苦笑しながら、おっちゃんたちの会話に耳を澄ませる。

おっちゃんはどうやら、現役時代、公務員だった模様。若かりし頃、先輩に連れて行ってもらった北新地の話を始めた。先輩がその日奢ってくれた飲み代が、自分の一ヶ月の給料以上だったとのこと。会計の金額を見て、世の中狂っていると憤慨したそうだ。若いおっちゃんはそれを聞くや否や、「その先輩は、接待費で落としてはりますて」と諭す。おっちゃんはその意味が掴めていないらしく、「あの先輩、どれだけ給料貰っとったんじゃい……」と、数十年の時を経て肩を落とす。「だから、接待費で落としてはりますて」と何度も諭すも、おっちゃん、酔がまわっているためか、耳を貸さない。

そこから給料の話が続く。公務員だったおっちゃん、残業や休日出勤の制度に不満があったのか、定時以外の勤務には、もっと手厚い時間外報酬があるべきだと主張。若いおっちゃんが、「そない不満不満言いますけど、どれくらい貰ろてましたん?」と質問。するとおっちゃん、「時給2,500円足らずしか出まへんねん!」と回答。それを聞くや否や、若いおっちゃん、「そない貰ろてんの? 考えられへんわ……。税金でっせ!」と、眉間に皺を寄せ、少し声を荒らげる。「もっと貰わなあきまへん!」と、おっちゃん。「民間企業のこと考えてみなはれや、そんな時間外報酬なんて、どこも出まへんで!」と、若いおっちゃん。

すると、おっちゃん、公務員の待遇がもっと優れているんだと主張し始めた。退職する職員には、餞別代として、現金を支給するとのこと。それも数万円。何に係る費用かを明記しない領収書を発行した上で、餞別代を支給すると暴露し始めた。若いおっちゃんは、どうやら自分の弟が公務員らしく、そんな制度はないと反論。おっちゃんは、「僕の頃はあったんですわ。餞別代がね!」と豪語する。すると、若いおっちゃんは、「何が餞別代じゃ!我々から絞り取った税金を、何に使ことんねん! 信じられへんわ!」と、ブチ切れ。「それが公務員なんです!」と、意味の分からん反論をするおっちゃん。「ほんま、信じられへん!」と呆れ返る若いおっちゃん。「ほんま、信じられまへんなぁ……」と、おっちゃんも同調。お前はどの立場で若いおっちゃんに同調してるねんと、キュウリの酢を感じながら、心の中でツッコむ。

かなり険悪なムードになり、しばし二人、無言で酒を飲む。ちょっとの間、それが続いた後、若いおっちゃんが、「いやぁ、しかし餞別代って、とんでもない制度でんなぁ……」と、おっちゃんに話しかけた。するとおっちゃん、何を思ったのか、「僕ねぇ、餞別代なんて、ひと言も言うてないよ」と、坊っちゃんのように恍ける。

「さっき、言いましたやん……」
「僕、そんなこと言うてないよ」
「ハッキリと、餞別代、言いましたっ!」
「僕、言うてない」

おっちゃん、暴露してはマズいことを口外してしまったことに気づき、その事実を揉み消そうとしているのか、それとも、酔っ払い過ぎて、単に覚えていないだけか、とにかく、餞別代という言葉を口にしていないと主張する。

「退職する人間に、餞別代出すって言いましたやん!」
「僕、そんなこと、いつ言うた? 僕は言うてない!」
「おっちゃんなぁ、いくら酒場やからて、そんな適当な話したらあきまへんで。そんなん酒場でも許されへんで!」
「酒場も何も、僕は餞別代で領収書切るなんて言うてません!」
「ほらっ! 領収書とか言うてしもてるやん。俺、今そんなこと言うてへんのに、おっちゃん自分で、領収書って言うてしもたやん!」

おっちゃん、相手からの王手飛車取りを感じたのか、「ごめん! おあいそっ!」と叫び、ポケットから千円札を数枚抜き取り、支払うや否や、小走りで店を出ていった。

店の雰囲気は重く、にはとてつもない険悪なムードが漂っていた。若造の僕は居心地の悪さを少し感じていた。店内には、最前の喧嘩の最中に来店した、新客のおっちゃんが二名増員。
まだ半分以上残っている瓶ビールを眺めながら、グイッと飲んで帰ろうか、雰囲気も悪いことやし。でも、なんか損した気になるよなぁ。いやいや、でも、この雰囲気、気を使うしなぁ。

と悩んでいたところ、隣の新客のおっちゃんのひとりが口を開いた。

「ここって、メニュー変わるの、月一回やったっけ? 週一回やったっけ?」

と酔っぱらいながら、大将に発する。それとは別で、もうひとりの新客のおっちゃんも口を開く。

「今日なぁ、腰痛ぁてな。なんか、パイプ椅子ひとつだけなかったっけ? あったら貸してくれへん?」

最前の喧嘩を受け、居心地の悪さを感じていたのは、僕ひとりだった。やはり、昼間っから飲み屋に来るおっちゃんたちは、少々のことじゃ動じない。マイウェイを駆けている。すぐ隣で喧嘩があろうがなかろうが、メニュー変更のタイミングを気にし、腰の痛みからパイプ椅子を探している。人は人だ。自分は自分だ。周りがどうなろうが、自分は自分だ。まさに、パンクロックだ。よっしゃ、僕もおっちゃんたちのアティチュードを見習って、腰を据えて残りの瓶ビールを楽しんでやろう。フフフンと鼻歌混じりに、瓶ビールを謳歌してやろう。

予定より早く終わった取材。しかし、腰を据えて飲んでしまったために、当初の予定をはるかに超してしまった。事務所に戻る時間が遅くなる。本番公開せねばならない案件が遅れそうになる。予定より仕事が詰まる。帰宅が遅くなる。中途半端に酔ったもんだから、身体が怠くなる。眠くなる。眠くなる。だけれども、後悔はない。おっちゃんたちの真髄を見たから。またひとつ、成長できたから。時間外報酬なんて一円も出ないけれど、まだまだ頑張れる。キッズたちよ、教科書に乗っていない学習カリキュラムは、天満の立ち飲み屋に行けば出会えるぞと、わけのわからんことを考えながら、酔の名残りから、二文字打ちゃ一文字はタイピングミスしてしまう、覚束ない指先を眺めた。

20161105

ナメクジとプロ意識と明かりをテーマにしたらこんな小咄になるだろう。『デタラメだもの』

夏の終わり、秋のはじまりの頃には、夏が最後にもがいているような雨がしばし降ることがある。そんな雨もやみ、「まるで今日、夏日やね」と言われる数日を経た直後、肌寒さが訪れ、秋を感じはじめる。

夏のもがき雨がやんだある日、仕事終わりに部下と缶ビールを飲んでいた。オフィス街の植え込みのレンガに缶ビールを据え置き、談笑しながら雨上がりのビールを満喫する。酔も手伝って、ふにゃふにゃしながら、缶ビールを口に押し当て、流し込もうとすると、なぜか飲み口まで、ふにゃふにゃしてやがる。まだそんなにも飲んでいないのに、こんなに感覚がおかしくなることあるかねぇ。と、何度も何度も、飲み口を押し当てる。直近で下唇を火傷でもしたかしらん? そんなアホなことはあるまい。そんな不便を感じた記憶はないし。
そう思い、飲み口から缶ビールをスーッと離してみると、飲み口の円形に沿うようにして、ナメクジがへばりついてやがった。ギャプッ! ナメクジに対して下唇をやや強めに押し当てていたのかと、発狂寸前。もう一度、ジロリと缶ビールを眺めてみると、なんと、缶ビールを握りしめている自身の薬指と缶ビールの隙間にもナメクジ。薬指でナメクジを押さえつけながら、下唇でナメクジを押しやりながら、ビールを飲もうとしていたのである。ギャプッ! 発狂寸前。体内の水分が欠乏してしまうほどに全力で一心不乱に唾を吐き続けた。自分の感覚の中に残る、ナメクジ感のすべてを吐き出したくて、唾を吐き続けた。

忌まわしきものとして、植え込みのレンガの上にポツネンと据え置かれた缶ビールの上を、二匹のナメクジがうにゃうにゃと這い回る。横を走りすぎる車のヘッドライトが照らした僕の缶ビール。缶ビールと同時に、スラリと長く伸びたナメクジの二本の触角まで照らし出されて、それを見た僕はさらに発狂。その具体性、要らん。感覚だけでも参っているのに、その具体性、ひとつも要らん。車のヘッドライトは、道路だけを照らしておいてくれ、ナメクジの具体的な部分を照らし出さんでよろしい。しばし発狂した後、落ち込んで帰る。自分の中の処女を汚された気がした。もう、処女である証は二度と自分に戻ってこないという事実が、これほどまでに辛苦の思いを味わわせるのか。

と、冒頭、季節の小粋な文章を挿し込んでみたのですが、いかがでしたでしょうか?
それにしてもこの季節、無駄に歩いて帰りたくなるよね。仕事していようが飲んでいようが、終電までに帰るというよりも、いっそ、終電なくなったし歩いて帰ろ、となる季節ですよね。そんなこんなで、日付が変わったくらいの時間からでも、平気で一時間やら二時間やらかけて歩いて帰っています。

そうやって長い時間歩いて帰っていると、たいていの人は、プロ意識について考えるよね。僕も例に漏れず、ぷらりぷらりと歩きながら、プロ意識について考える。サラリーマンがこれほどまでにプロ意識を欠いている、プロである意識を持ち合わせずに仕事をしているのはなんでだろうか、と考える。そうか、固定給貰ってるからか、と答えを導き出す。その間、およそ十秒。答えは出た。さて、残りの道中は何について考えようかと思案。いやいや、プロ意識について、もうちょい深掘りしなはれと自分でツッコミ。しゃーない、考えよか。

プロであるとうことは、対価を貰って仕事をしているということ。基本的に失敗が許されないということ。たとえ失敗したとしても、プロ意識を持ってリカバリに努める必要があるということ。リカバリの際は、プロとしての付加価値を添えなければならないということ。そして、需要がなければ、不要の烙印を押されてしまうこと。敗北してしまえば、不要のレッテルを貼られること。それらすべてを総括するならば、対価を支払ってくれる人が求めることに対し、常に、期待以上で返せること。

サラリーマンは、そんな小難しいこと考えなくとも、固定給は貰えるし、クビになることはないし、不要の烙印を押されることもない。増してや、そんなことを意識して仕事したとて、給料が上がることもないし、ボーナスなんて貰える時代じゃあない。そりゃあ、プロ意識も欠けるわな。しょうもない。

近ごろ、年齢のせいもあってか、歩いて帰っていると、足も痛くなるし、腰も痛くなる。タクシーに乗るのも勿体なく、歩くにしても身体が悲鳴を挙げてしまい、自ら選んだ選択にも関わらず、道中、辛くなって泣きそうになることがある。まったく情けない。
泣き顔になりながら、こんな風に思ったわけです。金に焦点を当ててしまうから、サラリーマンはプロ意識を持たずにやり過ごせる。だったら、時間に焦点を当ててみようじゃないかと。金は固定的に貰えるかも知らんけれど、間違いなく、残された寿命というものは、相対的に目減りしているんだぞ、と。相対的ってえ由縁は、寿命の長さは人それぞれで違うから。時間を犠牲にして働いている。時間を犠牲にして仕事をしている。それをなあなあな気持ちでやり過ごすなんて、なんてバチ当たりな。病床に伏した未来の自分がタイムマシンに乗って現代にやってきて、お前と対峙したとしたなら、点滴の管を引きちぎりながら、豪腕パンチ一発。頬をぶん殴られるに決まってる。

未来の自分にぶん殴られないように、プロ意識をしっかりと持って、日々の仕事と向き合いたいと、改めて思った。あかん、夜も更けてきて、小腹が減った、とも思った。

道中の牛丼屋にでも寄って、小腹の減りを満たすか。新たな目標ができたことに喜々として、遥か前方に見える牛丼屋の看板を目指す。ようやく辿り着き、入店しようとした刹那、ふと、「お金、持ってたかなぁ?」と心配になり、やや分厚い財布をカバンから取り出す。やや分厚かったために、お札の数枚でも入っているだろうと過信していたが、その実、ぜんぶ不要なレシートの束だった。まったくもって不要なレシートの束が、無駄に財布を分厚くさせていやがった。あかんあかん。お札を諦め、小銭入れのジッパーを開く。中を除く。牛丼屋の店内の明かりに照らされた僕の小銭入れの中には、十五円しか入っていなかった。しゃあない。牛丼は諦めよう。小腹の減りと仲良くしながら、残り半分の道のりを帰るか。

明かりというものは、ナメクジの触角も照らし出してくれるし、無銭の財布の中身も、しっかりと照らし出してくれる。そして時に、自分の未来も照らし出してくれるもんだから、なかなか粋な奴である。グゥゥゥゥゥ(空かした腹が泣いた)。

デタラメだもの。

20161010

今宵、モンスターボールで華麗にゲットされる。『デタラメだもの』

ここ数週間、大きなお仕事をいただけたことにより、やってもやっても仕事が終わらず、タクシーで帰宅する日々。ドロンドロンにくたびれた、と表現してしまうほどにヘロヘロしながら、すがる思いで右の手を挙手、止まっていただいたタクシーに、すがる思いで乗り込む。

元来、タクシーに乗車した際は、人との貴重なトークの場だと、しゃべりたそうにしている運転手さんの雰囲気を察知するや否や、会話をおっぱじめ、できるだけたくさんの笑いを生もうとしゃかりきになってきたものの、さすがに疲労も極み、ふと、黙っていても家まで運んでくれる、この時間も休息として活用せねば、体がくたばってしまうということに気づき、しゃべらなくなったばかりか、いっそ眠ってしまおうと、瞳を閉じるほどに堕落した今日この頃。

が、ある日、その沈黙を破るようにして、運転手さんのひと言が、車内にこだました。「お客さん、ポケモンGOってやりはりますか?」と。

乗車した会社付近から家までの、ちょうど半分くらいの道のりを来たあたり。こっちとしては、降車までこのまま沈黙が続くであろうと思って当然のタイミングで、ビクッ、怯えるほどに驚いてしまった。しかし、しゃべりたそうにしている様子を察知した僕は、そのフレーズを機に、会話を始めた。

「そうですねぇ、ボチボチやってますよ」と返事。するとタクシーの運転手さん、「いやねぇ、僕らタクシー運転手って、ある意味、ポケモンGOをやってるようなもんなんですよ。街なかで手を挙げているポケモンを探す旅っちゅうか。言ってみれば、タクシーGOですよねぇ、なははは」
タクシー運転手さんの平均年齢からすると、少し若め。真面目そうな人柄のタクシー運転手さんは、そう語り始めた。むむむ、なかなかハードルの高い会話。これをどう料理するのか、腕が試されている。タクシーGOというボケに対して、そのネタを広げて行くのか、それともそのフレーズに早々と限界を見出し、ポケモンGOに関する一般的な時事ネタに逃げるのか、かなり悩んだ末、一旦はそのネタに付き合ってみる、そして、天井が見えそうなら、時事ネタに逃げてみる、という選択肢を選んだ。

しっかりと戦略を立てた結果、話はかなり盛り上がり、愉快に笑ってくれる運転手さんだったことも手伝って、車内はとても和やかなムードのまま、降車位置に辿り着いた。
疲れきって沈黙していた僕に対し、渾身のネタを放り込んでくれた運転手さんへの感謝の意味も込めて、降車の際、「じゃあ、気をつけて次のポケモン探してくださいね! レアポケモンをゲットできること期待してますよ!」と言い残し、タクシーを降りた。ドアが閉まるまで、車内には運転手さんの愛想のいい笑い声が響いていた。

和やかなポケモン話に花を咲かせた翌日、またしてもタクシー帰宅。同じようにくたびれ、昨晩と同じ場所で右の手を挙手。何日こんな日が続くんだと、肩を落としながら、停車したタクシーに乗り込む。本日も、休息させてもらおう。しばし瞳を閉じて、仮眠させてもらおう。走行するタクシーの軽い振動に身を任せながら、ウトウトしていたところ、昨日とほぼ同じ場所で、急に運転手さんが口を開いた。

「お客さん、ポケモンGOってやりはりますか?」
え? 昨日と同じフレーズ!? でも、昨日とは違う運転手さん。どういうこと!? 道中、昨日とほぼ同じ場所で全く同じフレーズが、沈黙の車内にこだました。
面食らってしまったものの、しゃべりたそうな雰囲気をしている運転手さんに無礼がないよう、「ボチボチやってますねぇ」と返事。するとタクシーの運転手さん、「昨日ねぇ、南森町のスナックの界隈で、常連のお客さんを待って停車してたんですわ」と話し始めた。

「対向車が通れないくらい細い道に車を止めて、お客さんが来るのを待ってたんですね。そしたらね、道の向こうから二十代中盤くらいの女性が歩いてきましてねぇ。ポケモンGOやりながら、こっちに車が止まってるのを見もせず、気づきもせず、真っ直ぐ歩いて来はったんですわ。私ねぇ、危ないと思ったもんだから、軽くクラクション鳴らしたんですわ。夜道で車の存在に気づいてないのかなって思ったからねぇ。そしたらね、私の車の横を通り過ぎるときにね、その女性ね、クラクション鳴らさんでも分かってるんじゃボケッ! って暴言吐きよったんですよ。私ねぇ、腹立ってねぇ! 今でもまだ腹の虫が治まらないんですわぁ……」

九州弁で静かに怒りを露わにする運転手さん。プロの運転手として、その暴言はやはり悔しいものだろう。歩行者とモメてしまっては、呼び出してくれているお客さんにも迷惑をかけてしまう。その思いから、腹に力を込めて、怒りを飲み込んだそうだ。言葉の端々から、あまりにも根深い怒りが伝わってきたので、その怒りをほぐしてあげる意味も込めて、「でも、それって、ポケモンGOやってたとは限りませんよねぇ…(笑)」と合いの手を入れてあげ、「よく考えたら、ほんとですねぇ。ポケモンGOのせいにしたらダメですねぇ(照)」と、和む場面も作ってあげた。

近ごろの若者は礼儀が全くなっていない。若い乗客でも、降車時にお札を放り投げるような輩もいる。中には丁寧にお礼を言ってくれる若者もいるが、ガラの悪い連中もたくさんいると、かなり愚痴っておられました。九州訛りが余計に、大阪に出てきた男の侘び寂びを物語っているようで、単純な愚痴話にも関わらず、一人の男の人生を垣間見ているようで、とても興味深く聞き入ってしまった。

タクシーの降車時、「この話ねぇ、誰にもするまいと決めていたんですけど、しゃべってしまいましたわ。でも、ちょっとスッキリしました。怒りもちょっと収まってきました。ありがとうございます」と、丁寧に礼まで言ってくだすった。すごくいいことをした気分になった。タクシーで帰宅せねばならん時間まで働く日々は、笑顔で許容するにはまだ器の大きさが足りていないかも知れないが、こんなサプライズがあるなら、まだまだなんとか頑張れそうだと、小さく拳を握りしめる自分もいた。

しかし、ふと、こんな風に思った。タクシー組合なるものがあって、タクシーだより的な回覧板なるものがあるなら、こんな風に書かれていたんじゃなかろうかって。
話したいネタがあって、お客さんに耳を貸してもらいやすくするための今月の定番フレーズは、「お客さん、ポケモンGOってやりはりますか?」ですよ、と。

デタラメだもの。

20160912
著者

常盤 英孝

3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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