デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

結局、センスあるヤツが大勝する。それすなわち、倍音を持っているかどうかなのだ。『デタラメだもの』

倍音。
辞書で調べるとそれは、『振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音。ハーモニックス。』とある。
歌がうまい人とカラオケなどに行けばわかる。もしくは、プロの歌手の生歌を、すぐ近くで、できればマイクを通さず、生声のまま聴いてみれば分かる。その声に、多分に倍音が含まれていることを。

端的に言うと、「ド」の音を出したとして、その音の周りに、なにやらぼんやりと、オーラというか雰囲気というか色気というか、「ド」を取り巻く謎の音群が存在していて、それが「ド」をよりどっしりと響かせ、まるで周りの音、「レ」や「シ」までをも包含せんとする音の広がりを感じさせる。すなわちそれ、安定感。
だから、倍音を持つ人の歌声を聴いていると、音を外すということが滅多とないことに気づく。それは音感がいいって類のもんじゃあなく、もしかしたら微妙に音が外れているのかも知れないが、その微妙なズレさえも、倍音の幅がカバーして止まない。だから、すごく安心して歌に聴き惚れることができる。

一方、倍音の持ち主でない人の歌声は、聴いていて不安になる。その代表格が俺。倍音を持たぬ人間は、か細い槍のようなもので音を捉えに行くため、安定もしないし、音のズレも目立ってしまう。倍音を持っている人の音のズレは、倍音で補正してくれるが、倍音を持たぬ人の音のズレは、誰も補ってくれない。孤軍奮闘。もう、そうなれば、歌うのなんてやめちまって、倍音を持つ人の歌声をただただ聴くに限る。あの倍音が、聴く人を酔わせるのであって、倍音を持つ人の歌声は、多くの女性たちはもちろんのこと、男性さえもうっとりさせることだろう。

ふと考えた。倍音は、音だけにあらず。それを総じて、センスと言ってみようと思った。
たとえば、ファッション。「何着ても似合うよね、あんた」と言われる人がいる。そういう人は、ファッション的な倍音の持ち主なんだと思う。ファッションの倍音が、多少のズレをも「アリ」にしてくれる。だから、どんなジャンルの服を着ても、似合って見えるし、魅力的に映る。

一方、ファッションにおける倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であるが、その場合、「なんか着せられてる感がハンパないよねぇ」とか「無理してるぅ」とか「ダサい」とか「臭い」とか散々言われる。それは、ファッション的な倍音を持っていないがため、自分に似合う服装というのが、幅ではなく、か細い槍の如く、突く際に多少のズレさえも許されない。そういう人間は、自分磨きや服そのものに金をかけても無駄。さっさと、自分に似合うか細い槍の突き先、要するに、このTシャツにこのジーパンにこの靴、といった固定の組み合わせを見出し、永遠にそれを身に着けるほかない。

髪型だってそうなんだ。髪型的な倍音を持っている人間は、伸ばしてもよし、ナナメに別けてもよし、短くしてもパーマをあてても、坊主にしたって似合う。倍音がその魅力を補ってくれるから。
一方、髪型的な倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であり、そういった人間が、倍音を持っている人間と同じような髪型にしたところで、「なんか違和感」とか「似合ってない」とか「古臭い」とか「臭い」とか散々言われる。悪かったなあ! と啖呵を切ってみたところで、髪型的な倍音を持っていない自分に非がある。

そう言えば、中学生の頃、ハリウッドスターに憧れ、ハリウッドスターのような髪型にすればモテるだろうと、映画雑誌を買い込んで、レオナルド・ディカプリオの髪型を自分なりに真似てみたところ、極度のクセ毛の持ち主である俺の髪型は、レオナルド・ディカプリオどころか、昭和の漫才師のような仕上がりに。しかし、その仕上がりの粗末さにも気づかず、自分がレオナルド・ディカプリオになったつもりで、ふふふんと鼻歌を歌いながら、街を闊歩していた。今思えば、抹殺したい、そんな奴。
その後、青春パンクに憧れ、髪を無造作に伸ばし、無頼者のパンクロッカーを気取っていたところ、周りから、昭和のフォークシンガーがいるだのなんだの噂され、これまた抹殺したい衝動を、今この瞬間、抑えきれない自分がいる。

あれもこれもすべて、自分に倍音がないがため。髪型の倍音を持ち合わせていないだけでなく、自分を客観視する倍音さえもないがゆえ、こんな恥さらしな生き様を露呈してしまう結果になるのである。

倍音を持ち合わせていない代表格の俺が、倍音の持ち主を見分ける方法を教えてやろう。もちろん、歌を聴いたり、服装や髪型を見れば一目瞭然なわけであるが、もっと単純な見分け方がある。それは、倍音の持ち主に対し、「倍音の持ち主ですねぇ」と伝えること。つまりは、「めっちゃ歌がうまいですねぇ!」とか、「めっちゃ服似合ってますねぇ!」とか、「どんな髪型しても似合いますねぇ!」と、賛辞を提供してあげる。
ひとつも倍音を持たない自分のようなクソ野郎は、その瞬間、「え? やっぱりそう思う?」感が出てしまうのである。顔が一瞬、緩むというか、下品な照れが出るというか、なんかそんな類の反応が見てとれるわけ。

一方、倍音を持つ人というのは、賛辞の言葉に対しても謙虚な対応を取れるという倍音まで持ち合わせているため、そんな賛辞の言葉を受け取ったとしても、「そんなことないんですよぉ」とか「適当にやってるだけなんですけどねぇ」と、こちらが用意したトロフィーを受け取ることを辞退しようとする。これこそが、倍音の持ち主かどうかの簡単な見分け方。トロフィーを辞退する人か、ぬへへと下卑た笑いを浮かべるタイプか。ちなみに、後者の代表格が俺。

そんな害虫のような俺が、唯一、倍音を響かせていると噂される場所がある。それは、生ビールが二百円代の居酒屋でベラベラと喋っているときだ。どうやら、生ビールが二百円代を超え、三百円代に突入する店になると、その倍音は消えてしまうらしいが、二百円代のリーズナブルでコストパフォーマンスだけがやたらと高い居酒屋では、倍音が出ているようだ。要するに、安い店で安酒を呷っていると、意気揚々と倍音が出るらしい。むろん、安い店じゃなければ、委縮して、その倍音は鳴りを潜めてしまう。究極に条件つきの倍音があるんだそうだ。

トークの倍音というものも、確かに存在する。同じ話でも、彼がしゃべると爆笑、ヤツがしゃべると沈黙、そういう状況に出くわしたことのある人も少なくないだろう。ネタ振りや声の抑揚、音の高低など、トークにもしっかりとセンス、すなわち倍音は存在する。

そんなこんなで、本日も安居酒屋。お得意の倍音を響かせ、我、トークの覇者なり、と言わんばかり、大声を張り上げ、唾を飛ばしながら、快活に語る。後輩相手に、我こそ、トークの覇者なり、と言わんばかり大げさに語る。安酒を呷りながら、ふと自分を冷静に見つめてみる。この年齢にもなると、ようやく自分を客観視できる類の倍音を身につけはじめたらしく、時に冷ややかな目で自分をPDCAサイクルできるときがある。

ん? ちょっと待てよ? 俺の倍音、低くないか? 下のほうの音ばかりが響いているぞ。下のほう? そうか、下ネタか。さっきから俺、下ネタしか喋ってへんがな。下のネタしか響かん倍音。安居酒屋で且つ下ネタでしか響かない倍音。果たしてそれが、人の心に響くと言うのだろうか。まあ、ええわ。人は人、俺は俺。なんにもないよりマシか。

そう思いながら、チャプチャプになったお腹へと、さらに安酒を流し込む、場末の居酒屋。そろそろ、一軒につき、アテ一品の経済状況から卒業し、アテの二品でも注文できるくらいの収入が欲しいところだ。

デタラメだもの。

20170128

当たり前を疑うには、まずは泣き寝入りして払っている料金からはじめてみるべきだ。『デタラメだもの』

当たり前というのは、いつからそれが当たり前になったのか不明だ。もはや当たり前になり過ぎていて、なんら疑いも持たんけれども、その実、それが当たり前のことじゃあない場合だってあるんだなってことが、たくさんあり過ぎて、今日も仕事をしながら終始、別のことを考えながら業務に従事する。

テレビのせいなのか、親のせいなのか、教師のせいなのか、兄弟のせいなのか、友人のせいなのか、恋人のせいなのか、本のせいなのか、自分のせいなのか、思考の中に当たり前という概念を作り上げてしまった僕たち私たちは、今日も疑うことなく毎日を過ごす。

よくよく考えてみれば、これほどまでに謎の多い身体の仕組みを持っている人間。怪我をしたらやがて治ったり、アルコールを飲めばやがて分解してくれたり、眠った後はしっかり目覚めてくれたり、快感を覚えれば出るものもでる。ふと臓器のある部分に不可思議な痛みを感じたとしても、それをすぐに忘れてしまえるほど、身体の中では、何かが起こり何かを治癒してくれているんだな、当たり前のようでいて、それがほんまに当たり前のことなんか? 疑ってもみたくなる。

と、そんなスケールのデカい話をしたかったわけじゃあないんだ。僕のように矮小な人間にとって、そんなスケールのデカいことを考えている余裕なんてない。もっとちっぽけなことを考えるほうが性に合っている。僕が疑いはじめている当たり前は、料金について。ほら、もうテーマが小さい。

世の中、料金設定というものがなされているよね。これを購入するためには、いくらの料金を支払わねばならないという、アレ。これをレンタルするためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められているし、これを飲むためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められている。あれに疑問を感じてしゃあない。

たとえば、ファストフードのポテト。美味しいよね、アレ。本品のバーガーを凌駕するほどの魅力を持っていると言っても過言ではないポテト。なんだったら、ポテトセットなる商品ラインアップを追加し、ポテトを主役、その他、バーガーやらナゲット的なやつやらを脇に添えても、人気メニューとして成立するんじゃあないだろうかとさえ思うほど美味しい。

しかしそのポテト、しなっしなの状態で提供されるときあるよね。作ってからかなりの時間が経過したのだろう、油が染み込みきってしまい、揚げた感も損なわれ、醍醐味のカリカリの部分は既に消失してしまっている。外装の紙パッケージだって、油がしゅんでベトベトになっている。あれに定価を支払う理由が分からん。あのポテト、全力で仕事してないよね? ポテト本来のポテンシャルを活かしきれてないよね? それやのに、なんで定価なん? ちょっとした値引きあってもええんちゃうのん? 当たり前のように定価を支払うことに、悔しさを隠しきれない。

しなっしなだけじゃあない。塩加減だってそうだ。まれに、ぜんぜん塩がまぶされていないポテトが提供されるときもあるし、逆に、塩のかたまりがゴリゴリに付着しているときだってある。味付けが人任せなので仕方がない部分もあると思うが、ちょっとしたイレギュラーな要求には、「マニュアル上、無理なんで!」と、なにもかも突っぱねているんだったら、ポテトの塩加減もマニュアル通り、しっかり対応してもらいたいもんだ。塩加減がデタラメなポテトが提供されてきたら、「マニュアル通りの塩加減じゃあなかったので、本品は受け取ることができません!」と、受け取り拒否する権利だって、あるんだぜ、こっちには。

ただ、そんなクレームをつけたいために物申しているんじゃあない。要するに、商品本来の魅力の80%しか発揮できていない仕上がりの商品は、料金だって80%にするのが世の常ってもんじゃあないのってこと。当たり前のように、文句を言わず、しなっしなのポテトを食べてきたけれど、あれは全部、泣き寝入りの類だってことに気づいてしまった。

生ビールだってそうなんだ。駆けつけ一杯の生ビールを楽しみにし、直前の水分補給を一切絶ち、店が混んでいて入れなかったらどうしようという不安とも戦いながら、ようやく入店、着座し、あらんほどの清々しいボイスで、「とりあえず、生!」と叫び、ご褒美がテーブルにもたらされることを、少年のような気持ちで待つ。ようやく提供された生ビール。ジョッキを豪快に持ち上げ、さぁ飲むぞ! ぐびぐびぐびび。「ん、なんか、ぬるくない?」。これである。

冷えていて且つ喉越しを楽しめるのが生ビールの醍醐味。それを欲してここまで来たんだ。それを手に入れるため、その他の欲には目もくれず、あらゆるものを我慢してきたんだ。それやのに、生ビールが冷えてないって、どういうことなん?

またしてもそう。クレームをつけたいわけじゃあない。店が混んでいるときは、生ビールがオーダーされる数も飛躍的に増え、ジョッキを冷やす時間もないなど、最高のパフォーマンスを発揮できない理由も分かるんだ。だから言いたいのは、生ビールの温度が最高潮の時と比べ、二割減していたんだから、料金だって二割減になるのが世の中ってもんじゃあないのかい。それをなぜに、最高潮で味わえたときと、同額のマネーを支払わねばならんのだ。当たり前のようにやり過ごしてきたが、よくよく考えてみると、解せん。

世の中の一般的な仕事の場合、100%の満足を提供できなかった場合、「今回、商品がイマイチやったから、ちょっと値引きしてえやぁ」と、減額を要求される。それに対し僕たちは、「すんません。すんません。ほんま申し訳ございません。しっかりと値引き対応させてもらいますんで!」と、料金から、満足に至らなかった部分を考慮し、値引く。満足度が100%で提供できなかった理由が、その商品の制作時、納品時に、親が死んだからとて、財布を落としたからとて、恋人と別れたからとて、指名手配を受けたからとて、決して許されない。激怒されるか減額させられるかの二つにひとつ。

それなのに、ポテトも生ビールも。と思うと、泣けてきやしないだろうか。
もっとあり得ないのが、レンタルDVD。レンタルだからある程度は我慢せい、というスタンスなのかも知れないが、ある一部のガサツな連中の手によって、DVDの盤面にキズがつけられていること、あるよね。あのキズってもれなく、その映画の名画面で、音飛びやらコマ落ちを発生させやがる。自分が最も感情移入し、さぁ泣くぞ、さぁこの映画から人生の大切なものを授かるぞ、そんな場面で、必ず音飛びやらコマ落ちが起こる。すべて台無しじゃ。酷いときには、そのままDVDプレイヤーの動作が停止し、それ以降のシーンへと再生できなくなってしまったこともある。しかも何が大罪って、音飛びやらコマ落ちが一度起こってしまうと、その後もまた起こるんじゃないかと、意識の何割かがそちらへ向いてしまい、作品に集中できなくなってしまう。

それでも、定価。映画を最大限に味わい満喫し、人生の大切なものをしっかりと授かった場合と、同じ料金。なんでなん。映画監督が、その場面で、効果的に音飛びやらコマ落ちを画策し、仕込んでいたんなら仕方がない。それも演出のひとつだから。でも、ある一部のガサツな連中のせいよね。それなのに、定価って、あり得ますか? せめて、コマ落ちした分の料金も、定価から落としてもらわないと割に合わない。

そういったケースで最も泣きを見る瞬間が、ライブハウス。動くアーティストを目に焼き付け、生ならではの音を感じ、盛り上がるライブ。それなのに、身長の決して高くない僕、前に背の高い男子が来た暁には、醍醐味のうち、動くアーティストを目に焼き付けることの一切の権利が奪われてしまうの。オールスタンディングだったなら、ある程度、自由に場所を移動できるため、権利を掠奪されるのを回避もできるが、指定席の場合、終わる。指定席にも関わらず、アーティストがステージに登場した瞬間、暗黙の了解で会場中が総立ちになり、立ち見と化すパターンのライブの場合である。
身長の高い男子の肩越しに、なんとか、動くアーティストを目に焼き付けようと工夫をするものの、そうした結果、妙な姿勢でライブを見るハメになり、ライブ後、左右いずれかの首の関節を痛めてしまい、やれ鍼灸やら、やれ整骨やらに通わねばならなくなり、健康保険が適用されるからまだ良いものの、それなりの出費を伴うことになる。

背の高い男子に非がないことはもちろん承知している。彼らだって、望んで高身長に生まれたわけじゃあない。そんなちっぽけなことを言っているんじゃあない。こっちは醍醐味の半分を奪われているんだ。料金だって、半額でいいじゃあないの。それを言いたいわけである。

どこまでの低身長の人が減額対象になるのか議論が面倒臭いと言うのなら、小学校時代よろしく、ライブハウスの指定席では、背の順で席を割り振るとか、チケット購入の際、申し込みフォームで自身の身長も申告する制度とし、決して、背の低い人の前には、背の高い人が来ないようにプログラミングされた上で席順を決定づけるとか、方法はいっくらでもあるはずなんだ。当たり前のように、背の高い男子の背中だけを眺めるライブを楽しんできたが、やっぱりこれは当たり前のことじゃあないよね。

あかんあかん。書けば書くほど、自分が小さな人間に思えてきた。だって、そんなことを声高に叫んでみたところで、サービス業というものは、「だったら食うな」「だったら飲むな」「だったら来るな」と突き放してくるに決まっている。僕みたいな人間を相手にしてくれるわけがない。だから泣き寝入りするしかないの。

そんなしょうもないことを考えながら、地下鉄の電車内。さっきから、やたら座席が窮屈だなって思っていたところ、シートの中央に目をやると、めちゃめちゃ巨漢な男が着座していた。一般人の二人分のスペースは確保している。しかも、あろうことか、股を開き気味でリラックスして座っていやがる。それのせいで、僕は座席の端、追いやられ、肩身の狭いを思いをしながら、窮屈さを押し付けられていたのである。これは解せん。

そう思い僕は、すっくと立ち上がり、「それだけ大きい図体で且つリラックスした状態で着座されているということは、二人分のスペースを確保してはりますよね。だったら、料金も倍支払ってもらいますか。もしくは、半人分ほどのスペースに追いやられていた僕の料金を半額にしてもらえるよう、大阪市営地下鉄に交渉してもらえませんか」と言ってやった。

言ってのけた刹那、巨漢男のグーパンチが、僕の頬をヒットした。ふっ飛ばされる僕。車内の乗客から嘲笑される。はずい。はずい。余計なことをした。さっさと席に戻ろう。頬の痛みに耐えながら、赤ちゃんみたく床を這い、席に戻ろうとしたところ、元々僕が座っていた席は、別の誰かに取られてしまっていた。それはそれは、半人分のスペースでも充分に座席の醍醐味を味わえるほど、痩せ細った男子だった。

デタラメだもの。

20170108

何もかもが早い。そんな時代を楽しむための手段をじっくりと考えてみる。『デタラメだもの』

2017年、はじまる。2016年もあっという間に終わってしまったことを考えると、2017年も同じように、あっという間に終わってしまうのだろうか。

2016年のスタートと同時に、今年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだの、誓いめいたことを語っていた気もするが、それがつい最近のことに感じる。実現できたのか、実行に移せたのかさえ振り返る間もなく、またしても、2017年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだのと語ってしまいそうで閉口してしまう。

年をとると一年が早くなるとはよく言うが、あまりにも早すぎやしないだろうか。早いというか、もはや、速い。
どうせ、「もうすぐお花見のシーズンだね」なんて言い合いながら、あっと言う間に桜のシーズンを追い越してしまう。「やっぱり夏だよね」なんて言い合いながら、すぐに秋の気配を感じてしまう。「今年も紅葉の季節がやってきたね」なんて言い合いながら、気づけば紅葉はみな、散ってしまう。「肌寒くなってきたね」なんて言い合いながら、クリスマスも大晦日も横目に、あけましておめでとう、なんて言ってのける始末。想像に難くない。

クリスマスやら大晦日やらにしたってそうだ。不景気のせいか、イベント感が薄いように思う。昔はもっと、街がクリスマス一色になったり、お正月ムード一色になったりしていた気がする。テレビCMだって、バラエティ番組だって、もっと季節感を押し付けてくるようなものが多かったように思う。それがどうだろう。あまりにも一年、メリもハリもなさ過ぎる。

電化製品だってそうだ。製品購入と新製品登場のイタチゴッコは昔から変わらないかも知れないが、パソコンやスマートフォンなんて、機種の世代交代が早すぎやしないか。キャリアの二年契約があるからとか、不具合はまだバッテリーくらいのものだからと、人並みの物持ち良い精神で買い替え渋っていたとしても、いざようやく最新機種を買ったや否や、即座に新機種登場のニュースを耳にしたりで辟易。

ともかく、なんでもかんでも早すぎる。便利すぎる。のんびりしていない。こんな便利さに慣れてしまった人間は、既に不便だったあの頃にはもう戻れないのかも知れないが、徐々に、スローダウンさせて行くのも粋な気がする。

俳優やタレント、芸人やミュージシャンだって、流行り廃りが早すぎる。せっかく世に出られたとしても、次から次へ、ニューカマーが世に送り出されるもんだから、目まぐるし過ぎて記憶にも残らない。人々の記憶に残らないということは、歴史的な記録にも残らないということだ。それじゃあ、伝説的な人物やグループなんて、後世、出てくるわけがないだろう。機械だけならまだしも、人間をも使い捨てする時代になってしまったということか。

ほんま、なんでこんなにも、何もかも早く感じてしまうのだろう。休みの日が過ぎるのは早い。それだけならまだしも、気乗りしない平日さえも早く過ぎて行く。饒舌に語る楽しげなお酒の場は、なんであんなにも時間が早く過ぎるのだ? 夜中のタクシーのメーターは、なぜあんなにも早く料金を刻んで行くのだ? 二割増しってレベルちゃうやろ? ゆっくり身体を休めたいと思って眠りについても、朝はなぜあんなにも早く訪れるのか? それなのになぜ手の込んだインスタントラーメンは、湯を入れてからの待ち時間が五分もかかるのか? あれはより高度な技術で三分に短縮できないのか?

そこでこう思う。2017年は、そろそろ便利さを一枚ずつ剥いで行こうじゃあないかと。
たとえば、スマートフォン片手でできるような、そうやね、銀行振込なんかも、わざわざ銀行に足を運んで行うとか。銀貨をチャリンと投入すれば、自動で車を洗浄してくれるようなハイテクマシーンは使わずに、車を手でゴシゴシ洗うとか。家のお風呂に入らず銭湯に行く。インターネットで音楽などを採取せず、CDショップで購入したり、レンタル屋に借りに行く。助平な動画だって、観たいと思えば、ブラウザを起動するんじゃあなくって、レンタル屋の然るべきコーナーに行けばいい。

それらの風情な行為を、便利さの名の下に時短させ、時短したことによって作り出した時間に、その他の行為や用事を詰め込むことによって、それらの風情な行為を味わいながらやる心の余裕を欠いてしまっているってことに気づいた。自らその首を締めているということに。

今年は、便利さから遠い場所で生きて行くことをテーマとしよう。これだったら、今からでもできるし、やれ達成できただのどうだのと、下世話な会話も生まれてこない。ビールは瓶ビール。グラスに注ぐって行為を大切にしよう。その時間を大切にしよう。じゃあ、生ビールしかない店だったらどうするか。そりゃ、生ビールとグラスひとつをオーダーし、ジョッキから注いでやろうじゃあないの。いかんいかん、これじゃあ作為的で人為的過ぎる。もっと自然に無駄を楽しみたい。答えは出た。瓶ビールが飲める店に行きゃいいじゃあないの。

それはそうと、話は逸れるが、近頃、物忘れが激しい。友人知人と会話をしていて、やれ得意げに、「最近、おもしろい話があったんですよ」と、話の導入を自ら設け、意気揚々とオチへと向かって話していると、その中途で、話のオチを失念してしまうことしばしば。
すごく秀逸なエピソードトークを用意していたために、話を持ちかけたのである。それは真実。最終的な抱腹絶倒ポイントへと、しっかりアテンドしようとおもてなしていたのも事実。なのにだのに、どんなオチだったのかを忘れてしまう。前半から中盤にかけて、あまりに得意げだったため、「何の話か忘れてしまいまして……」などと後ずさることも許されぬ。オーディエンスたちは、その勢いのまま、ゴールまで駆け抜けてもらうことしか期待していない。

そんな窮地に陥ってしまうと、これ致し方がない、話ながら別の脳みそで、別のオチを捏造するほかない。右脳でしゃべっていたら、左脳でオチを、左脳でしゃべっていたら、右脳でオチを創るほかない。しかし、そこは即席のオチ。インスタントなオチ。出来栄えが良いわけがない。前半から中盤にかけての話との整合性だって怪しい。結果的に、ウケない。ウケないばかりか、期待を持たせ意気揚々と語り始めた分、変な空気になる。

こんな失念っぷりが最近目立つ。ともかく、話を途中で忘れたときの恐怖感は尋常じゃないんだよ。冷や汗だって、大量に出る。まさに失念ダイエットというところか。みなさん、期待を持たせて話はじめたくせに、おいまいなオチで、尻すぼみになったと感じた場合は、「あっ! こいつ、話忘れよったな?」と、大目に見てくだせえ。そんな寛大さも、心に余裕があってこそ。家電も人間の交流も、もっとのんびり行きましょうや。

もっと人々の心に余裕があった頃の、昭和のレガシーを訪ねるべく、懐古的に生きて、どんどん鈍くさく、どんどん鈍感に、スローライフ、すなわち、不便な毎日を送って行こうと思う。

今年は、酉年だそうだ。心にも、ゆとり、を持って生きたいものだ。

デタラメだもの

20170101

パソコンのデータが消えてしまうと、お金も大量に消えてしまうし、物の価値まで見失ってしまうよ。『デタラメだもの』

まさか、こんな日が来るなんて。信じられない。大切にしてきたのに。無理させずに、負荷もかけずに、穏やかに過ごして来たつもりなのに。まさか、こんな日が来てしまうなんて。信じられない。自宅のパソコンが壊れた。電源さえつかなくなった。厳密にいうと、電源ボタンを押せば、ファンは動き出す。起動しようと頑張るものの、二秒ほどすると力尽きて諦めてしまう。もう、ただただその動作を繰り返すばかり。何度やっても、繰り返すばかり。そんな事態が、ある日、いきなりやってきた。

やばい、データ消えてしもたがな。

これまでにもパソコンが故障したことはある。経年劣化により、オペレーションシステムなるパソコンの中心的存在のソフトウェアが故障したものの、さまざまな手法を駆使して、データを救出し、まるでバトンリレーの如く、一切のデータを失わずに、今日まで生きてこれた。初代のパソコンの調子が悪くなった後に、データを救出し、二代目へ。二代目のパソコンの調子が悪くなった後には、再びデータを救出し、三代目へとJ Soulしてきたわけである。

ところが今回は違う。だって、電源が入らないんだモン。

電源が入らないということは、なんの手法も試みることができない。つまりは、パソコンがただの箱と化してしまっているということ。これまで生きてきた中で身につけてきた技やら術やらの一切を、もはや受け付けてはくれない。ということはつまり、データが救出できないということ。あかんがな。

これまでにもデータを失いそうになったことは、ある。そんな経験から、たくさんのことを学んだ。重要なデータは、パソコンの内部に保存しないってこと。そうすることで、パソコンが故障したときはもちろんのこと、パソコンを買い替えたときにも、データの移行がめちゃめちゃ楽なんだぜ。だから、重要なデータは、完全に外付けハードディスクに保存してあるから、今回のトラブルとは無縁だ。

しかし盲点だった。重要なデータとはつまり、仕事に支障をきたすデータたち。それなしでは、継続的な仕事ができなくなってしまうデータや、自分にとってのレガシー的なデータ。そいつらは、外付けハードディスクの中だ。ところが、やや重要なデータたち。つまりは、仕事に支障はきたさないものの、生活にやや支障が出るものや、ないと死ぬわけではないが、ないと困るもの、なくなってしまうのは寂しすぎるものたちなど、重要のランク付けからワンランク下げられてしまったデータたちは、ゴッソリとパソコンの中にある。そいつらは、ただの箱の中に永遠に閉じ込められたままになってしまう。あかんあかん、それはあかん。生活が不便になるだけでなく、過去のノスタルジックな思い出たちの一切合切を捨ててしまうことになる。

そうだ、業者さんに、相談しよう。

思い立ったらすぐ電話。直近で対応いただける時間で、家に来てもらうことに。結局、次の日の朝から、自宅に来てもらうことに。さぁ、早う、パソコンの電源、直してくださいな。それが無理なら、データを復旧してくださいな。僕のかわいいパソコンを治療してやってくださいな。

「これ、もう、無理っすね」

え? 無理とかあるん? 業者さんってパソコン界でいうところのお医者さんちゃうん? そんな簡単に諦めたりするもんなん?

「修理とか出されるんでしたら、部品類はすべて海外製なので、戻ってくるのに一ヶ月以上はかかりますね。費用的にも二十万くらいかかるんちゃいますかね?」

はぁ? その間の仕事、どうするん? っていうか、購入した金額の倍以上の修理費かけて、一ヶ月以上、パソコンなしで暮らして、どうやっておマンマ食えばいいの?

「それか、データの復旧しましょか?」

パソコンを修理するのは諦めるしかない。背に腹は代えられん。というか、もはや、データ復旧の一択やん。それでお願いします。新しいパソコンは、なんとか工面しよう。それなら、話は早い。早うデータ復旧してくださいな。

業者さんは、おもむろに自分のノートパソコンを取り出し、今、ただの箱と化した僕のパソコンの内部から取り出されたハードディスクとつなぎ込む。ジョイント。すると、彼のパソコンの画面内に、これまで僕が手塩をかけてきた、見慣れたフォルダやファイルたちがズラズララララと表示された。おぉ、なんだこの、もう二度と出会えないと諦めていた友人、知人に再び会えたときのような感動は。涙が出そうじゃないか。

なにやら、その業者さんの料金システム的には、ある一定の容量の復旧は基本料金で、その後、十ギガ復旧ごとに追加で料金が発生するというもの。
先にも述べたが、あくまで、やや重要となるファイルたち。仕事がめっぽうできるタイプの僕くらいになると、仕事に支障をきたすデータ、命を脅かす類のデータは、すべて外付けハードディスクの中。やや重要となるファイルなんて、そんなにもないだろう。もしかしたら、基本料金内で収まる程度かも知れない。

気楽な気持ちで、「このデータも復旧お願いします。あ、あと、このデータも。それと、このフォルダもお願いします。それと、こっちのフォルダもっすね。あ、そうや、このフォルダもお願いします」と、業者さんのノートパソコンの画面を指差しながら、復旧希望のファイルやらフォルダを指定していく。

こんなもんかな。救えないデータもあるのはあるけれど、そこは諦めよう。費用が高くなってしまっては困る。だから、必要最低限にしておこう。
「以上です!」と業者さんに伝える。彼は電卓を取り出し、パチパチチと打ち出す。「新しい保存用の外付けハードディスクもご用意させていただきまして、復旧費用、合計八万五千円っすね。へへ」

聞き間違いだと思った。データだよ。無形物だよ。しかも、重要なデータじゃないんだよ。やや重要なデータたちだよ。なんでそんなに高いん?
まだ見積もり段階ということもあり、思わず、

「知人や友人で、パソコンのハードウェアに詳しい人間だったら、頼めばデータ復旧って、してもらえるもんなんですかね?」と尋ねてみた。
「まぁ、システムいじれる人だったらやれるかも知れないっすけど。どうされます? その人に頼まれます?」

実はそんな知人も友人もいない。それどころか、普通の友人さえいない。完全に僕の回答待ちになった。二択だ。目の前の業者さんにお願いするか、てめぇでなんとかするか。その回答を、彼は待っている。

「データ復旧だけを専門にやってらっしゃる業者さんっていますよね? そんな業者さんに頼めば、もうちょっと費用って安くなるもんなんですかねぇ……?」あがいてみた。
「同じくらいじゃないですかねぇ。だいたい、どこも同じ方法でデータレスキューしますんで。どうされます? 他の業者さん、探します?」

またしても僕の回答待ちになった。二択だ。目の前の業者さんにお願いするか、まだ見ぬ業者さんにお願いするか。その回答を、彼は待っている。

「復旧、お願いします……」

僕は諦めた。僕は負けた。目の前の彼に依頼する以外、方法はない。あれやこれやと動き回っているような時間もない。
結果的に、作業は六時間ほどかかった。無事に、僕が指定したデータたちは復旧された。超高額な費用をかけて守られた貴重な、やや重要なデータたちだ。なにが悔しいって、業者さんのパソコンの画面には、僕の失われたデータたちのすべてが表示されていたこと。僕が指定したデータだけを選択し、プイッと外付けハードディスクにドラッグアンドドロップ。彼はパソコンを救う立場だよね。パソコン界の医者だよね。画面内に出ていたんだよ、僕の失った、全ファイルが。でも、僕に指定されたかったデータは、救出されない。みんなはこう思うだろう。お前が指定しなかったから、救えなかったんだろうが、ボケが、と。でもね、指定すればするほど、お金がどんどん積み上がって行くんだもん。ファイルが選択されればされるほど、お金が積み上がって行くんだもん。諦めるしかないよね。

僕が彼の立場だったらね。会社に出す見積書とかには、お客様が指定されたデータ容量だけを書き込み、その実、すべてのデータを復旧してあげるね。だって、真実は分かんないじゃん。作業は一緒なんやもん。ドラッグアンドドロップだけやもん。そのほうがお客様、いや、患者様は喜ぶに決まってるもの。それが営利団体の通念違反だっていうなら、僕のことをブラックジャックと呼べばいい。そうまでしてでも、お客様のデータは、すべて救ってあげたい。だって、作業は、ドラッグアンドドロップだけやから。

まぁ、無事、僕のやや重要なデータたちは復旧されました。パソコンがなくては仕事ができないため、業者さんが帰られたあと、すぐにパソコンを購入した。便利な世の中だわな。スマートフォンで購入したよ。ただね、聞いておくれよ。何が悲しいってねぇ、新しく購入したパソコンが、五万円強だったのさ。やや重要なデータの復旧に、八万五千円を投じた後に、五万円強でパソコンを購入。物の価値ってものを見失っちゃいそうだな。

って戯言を、今、こうやって書いているのは、もちろん、五万円強のパソコンなのである。

デタラメだもの

20161203

立ち飲み屋でおっちゃん二人寄れば喧嘩になる。しかし、結果的にパンクロックを学べる機会でもある。『デタラメだもの』

先日、天六商店街で取材があり、予定よりも早く終わったため、フラリと天満の立ち飲み屋に寄り一杯。まだ、夕方に差し掛からんとする時間だったため、先客は若いおっちゃんと、おっちゃんの二人。まだ事務所に帰って仕事もあるため、息抜きに気軽なお酒でも楽しもうと、たこぶつと瓶ビールをオーダー。しんみりと、ひとり飲む。

おっちゃんが二人寄れば、議論が始まる。立ち飲み屋ともくれば、尚、当然こと。若いおっちゃんと、おっちゃんは、例に漏れず、議論をおっぱじめた。話しのネタは、どうやらセクハラに対する倫理観のようだ。

おっちゃんのほうは典型的な定年退職後でいらっしゃる風体。もうひとりの若いおっちゃんは、スラリとした身なりにキャップを被り、オレンジのフリースを着るなど、まだまだ現役を匂わせる風体。場末の岩城滉一といったところか。
おっちゃんのほうがイキリ立つ。最近の女は、やれすぐにセクハラだのと叫びやがると。けしからんと。それに対し反論する若いおっちゃん。

「おっちゃん、そりゃ27年前の価値観と、今とじゃ、大いに違いがありまっせ……」

おっちゃんはどうやら、27年前の倫理感を持って、セクハラ問題を斬らんとしているご様子。なんでも、嫌がる女性職員(定年退職後でいらっしゃる風体のため、現役時代の話をしているのか、元同僚たちとの最近の飲み会の話をしているのかは定かではない)に対し、飲み屋で歌を唄うのを強要したところ、拒否。その態度が気に食わんと、激昂。女は男の言うことを聞くのが社会の常。それを、やれセクハラだなんだと、身の程を知れとの発言。それに対し、若いおっちゃんは呆れた様子。昔と今じゃ時代が違う。今では、発言の受け手が不快に感じた時点で、セクハラ、パワハラ、アルハラの文化。そんな大昔の倫理観を持ち出されても、話になりまへんで、と反論。

おっちゃんは、若いおっちゃんの正論に腹を立てたのか、「自分、学校どこや?」と、詰問。話は逸れるが、不良たちが「自分、学校どこや?」と詰問するときは、「どこどこ中学のモンなのか?」を確かめるためであり、相手の中学が荒んでいればいるほど、身構えねばならないし、どれほど荒んだ学校に身を置いているかで、そいつの身分を測らんとする。しかし、おっちゃんたちの会話で、「自分、学校どこや?」と詰問された場合は、出身大学を答えるのが常。すると、若いおっちゃんが冷静に答えた。

「僕ねぇ、関大(関西大学)出てますねんやわぁ」

それを聞くや否や、おっちゃんが一瞬、怯んだ。若いおっちゃんが、「先輩は大学どこですのん?」と詰問するも、おっちゃんは、「それは言えまへん!」と、口をヘの字に曲げる始末。この時点で、本日の立ち飲み屋での身分の上下が明確になった。

関大が発する意見だと怯んだためか、おっちゃんは先ほどのセクハラ議論に対し、「そないでっか……。もう時代がちゃいまんのやなぁ」と、しおらしく認める始末。なんという学歴社会。立ち飲み屋にも、確かにヒエラルキーはあった。

しばらく穏便に会話をしていた二人。すると、話の流れが給料のネタに。僕はオーディエンスとしてまだまだ席を立ちたくなくて、もう一本だけ瓶ビールを注文。アテも切れてしまったので、たことキュウリの酢の物をオーダー。どれだけたこ好きやねんと自分で苦笑しながら、おっちゃんたちの会話に耳を澄ませる。

おっちゃんはどうやら、現役時代、公務員だった模様。若かりし頃、先輩に連れて行ってもらった北新地の話を始めた。先輩がその日奢ってくれた飲み代が、自分の一ヶ月の給料以上だったとのこと。会計の金額を見て、世の中狂っていると憤慨したそうだ。若いおっちゃんはそれを聞くや否や、「その先輩は、接待費で落としてはりますて」と諭す。おっちゃんはその意味が掴めていないらしく、「あの先輩、どれだけ給料貰っとったんじゃい……」と、数十年の時を経て肩を落とす。「だから、接待費で落としてはりますて」と何度も諭すも、おっちゃん、酔がまわっているためか、耳を貸さない。

そこから給料の話が続く。公務員だったおっちゃん、残業や休日出勤の制度に不満があったのか、定時以外の勤務には、もっと手厚い時間外報酬があるべきだと主張。若いおっちゃんが、「そない不満不満言いますけど、どれくらい貰ろてましたん?」と質問。するとおっちゃん、「時給2,500円足らずしか出まへんねん!」と回答。それを聞くや否や、若いおっちゃん、「そない貰ろてんの? 考えられへんわ……。税金でっせ!」と、眉間に皺を寄せ、少し声を荒らげる。「もっと貰わなあきまへん!」と、おっちゃん。「民間企業のこと考えてみなはれや、そんな時間外報酬なんて、どこも出まへんで!」と、若いおっちゃん。

すると、おっちゃん、公務員の待遇がもっと優れているんだと主張し始めた。退職する職員には、餞別代として、現金を支給するとのこと。それも数万円。何に係る費用かを明記しない領収書を発行した上で、餞別代を支給すると暴露し始めた。若いおっちゃんは、どうやら自分の弟が公務員らしく、そんな制度はないと反論。おっちゃんは、「僕の頃はあったんですわ。餞別代がね!」と豪語する。すると、若いおっちゃんは、「何が餞別代じゃ!我々から絞り取った税金を、何に使ことんねん! 信じられへんわ!」と、ブチ切れ。「それが公務員なんです!」と、意味の分からん反論をするおっちゃん。「ほんま、信じられへん!」と呆れ返る若いおっちゃん。「ほんま、信じられまへんなぁ……」と、おっちゃんも同調。お前はどの立場で若いおっちゃんに同調してるねんと、キュウリの酢を感じながら、心の中でツッコむ。

かなり険悪なムードになり、しばし二人、無言で酒を飲む。ちょっとの間、それが続いた後、若いおっちゃんが、「いやぁ、しかし餞別代って、とんでもない制度でんなぁ……」と、おっちゃんに話しかけた。するとおっちゃん、何を思ったのか、「僕ねぇ、餞別代なんて、ひと言も言うてないよ」と、坊っちゃんのように恍ける。

「さっき、言いましたやん……」
「僕、そんなこと言うてないよ」
「ハッキリと、餞別代、言いましたっ!」
「僕、言うてない」

おっちゃん、暴露してはマズいことを口外してしまったことに気づき、その事実を揉み消そうとしているのか、それとも、酔っ払い過ぎて、単に覚えていないだけか、とにかく、餞別代という言葉を口にしていないと主張する。

「退職する人間に、餞別代出すって言いましたやん!」
「僕、そんなこと、いつ言うた? 僕は言うてない!」
「おっちゃんなぁ、いくら酒場やからて、そんな適当な話したらあきまへんで。そんなん酒場でも許されへんで!」
「酒場も何も、僕は餞別代で領収書切るなんて言うてません!」
「ほらっ! 領収書とか言うてしもてるやん。俺、今そんなこと言うてへんのに、おっちゃん自分で、領収書って言うてしもたやん!」

おっちゃん、相手からの王手飛車取りを感じたのか、「ごめん! おあいそっ!」と叫び、ポケットから千円札を数枚抜き取り、支払うや否や、小走りで店を出ていった。

店の雰囲気は重く、にはとてつもない険悪なムードが漂っていた。若造の僕は居心地の悪さを少し感じていた。店内には、最前の喧嘩の最中に来店した、新客のおっちゃんが二名増員。
まだ半分以上残っている瓶ビールを眺めながら、グイッと飲んで帰ろうか、雰囲気も悪いことやし。でも、なんか損した気になるよなぁ。いやいや、でも、この雰囲気、気を使うしなぁ。

と悩んでいたところ、隣の新客のおっちゃんのひとりが口を開いた。

「ここって、メニュー変わるの、月一回やったっけ? 週一回やったっけ?」

と酔っぱらいながら、大将に発する。それとは別で、もうひとりの新客のおっちゃんも口を開く。

「今日なぁ、腰痛ぁてな。なんか、パイプ椅子ひとつだけなかったっけ? あったら貸してくれへん?」

最前の喧嘩を受け、居心地の悪さを感じていたのは、僕ひとりだった。やはり、昼間っから飲み屋に来るおっちゃんたちは、少々のことじゃ動じない。マイウェイを駆けている。すぐ隣で喧嘩があろうがなかろうが、メニュー変更のタイミングを気にし、腰の痛みからパイプ椅子を探している。人は人だ。自分は自分だ。周りがどうなろうが、自分は自分だ。まさに、パンクロックだ。よっしゃ、僕もおっちゃんたちのアティチュードを見習って、腰を据えて残りの瓶ビールを楽しんでやろう。フフフンと鼻歌混じりに、瓶ビールを謳歌してやろう。

予定より早く終わった取材。しかし、腰を据えて飲んでしまったために、当初の予定をはるかに超してしまった。事務所に戻る時間が遅くなる。本番公開せねばならない案件が遅れそうになる。予定より仕事が詰まる。帰宅が遅くなる。中途半端に酔ったもんだから、身体が怠くなる。眠くなる。眠くなる。だけれども、後悔はない。おっちゃんたちの真髄を見たから。またひとつ、成長できたから。時間外報酬なんて一円も出ないけれど、まだまだ頑張れる。キッズたちよ、教科書に乗っていない学習カリキュラムは、天満の立ち飲み屋に行けば出会えるぞと、わけのわからんことを考えながら、酔の名残りから、二文字打ちゃ一文字はタイピングミスしてしまう、覚束ない指先を眺めた。

20161105

ナメクジとプロ意識と明かりをテーマにしたらこんな小咄になるだろう。『デタラメだもの』

夏の終わり、秋のはじまりの頃には、夏が最後にもがいているような雨がしばし降ることがある。そんな雨もやみ、「まるで今日、夏日やね」と言われる数日を経た直後、肌寒さが訪れ、秋を感じはじめる。

夏のもがき雨がやんだある日、仕事終わりに部下と缶ビールを飲んでいた。オフィス街の植え込みのレンガに缶ビールを据え置き、談笑しながら雨上がりのビールを満喫する。酔も手伝って、ふにゃふにゃしながら、缶ビールを口に押し当て、流し込もうとすると、なぜか飲み口まで、ふにゃふにゃしてやがる。まだそんなにも飲んでいないのに、こんなに感覚がおかしくなることあるかねぇ。と、何度も何度も、飲み口を押し当てる。直近で下唇を火傷でもしたかしらん? そんなアホなことはあるまい。そんな不便を感じた記憶はないし。
そう思い、飲み口から缶ビールをスーッと離してみると、飲み口の円形に沿うようにして、ナメクジがへばりついてやがった。ギャプッ! ナメクジに対して下唇をやや強めに押し当てていたのかと、発狂寸前。もう一度、ジロリと缶ビールを眺めてみると、なんと、缶ビールを握りしめている自身の薬指と缶ビールの隙間にもナメクジ。薬指でナメクジを押さえつけながら、下唇でナメクジを押しやりながら、ビールを飲もうとしていたのである。ギャプッ! 発狂寸前。体内の水分が欠乏してしまうほどに全力で一心不乱に唾を吐き続けた。自分の感覚の中に残る、ナメクジ感のすべてを吐き出したくて、唾を吐き続けた。

忌まわしきものとして、植え込みのレンガの上にポツネンと据え置かれた缶ビールの上を、二匹のナメクジがうにゃうにゃと這い回る。横を走りすぎる車のヘッドライトが照らした僕の缶ビール。缶ビールと同時に、スラリと長く伸びたナメクジの二本の触角まで照らし出されて、それを見た僕はさらに発狂。その具体性、要らん。感覚だけでも参っているのに、その具体性、ひとつも要らん。車のヘッドライトは、道路だけを照らしておいてくれ、ナメクジの具体的な部分を照らし出さんでよろしい。しばし発狂した後、落ち込んで帰る。自分の中の処女を汚された気がした。もう、処女である証は二度と自分に戻ってこないという事実が、これほどまでに辛苦の思いを味わわせるのか。

と、冒頭、季節の小粋な文章を挿し込んでみたのですが、いかがでしたでしょうか?
それにしてもこの季節、無駄に歩いて帰りたくなるよね。仕事していようが飲んでいようが、終電までに帰るというよりも、いっそ、終電なくなったし歩いて帰ろ、となる季節ですよね。そんなこんなで、日付が変わったくらいの時間からでも、平気で一時間やら二時間やらかけて歩いて帰っています。

そうやって長い時間歩いて帰っていると、たいていの人は、プロ意識について考えるよね。僕も例に漏れず、ぷらりぷらりと歩きながら、プロ意識について考える。サラリーマンがこれほどまでにプロ意識を欠いている、プロである意識を持ち合わせずに仕事をしているのはなんでだろうか、と考える。そうか、固定給貰ってるからか、と答えを導き出す。その間、およそ十秒。答えは出た。さて、残りの道中は何について考えようかと思案。いやいや、プロ意識について、もうちょい深掘りしなはれと自分でツッコミ。しゃーない、考えよか。

プロであるとうことは、対価を貰って仕事をしているということ。基本的に失敗が許されないということ。たとえ失敗したとしても、プロ意識を持ってリカバリに努める必要があるということ。リカバリの際は、プロとしての付加価値を添えなければならないということ。そして、需要がなければ、不要の烙印を押されてしまうこと。敗北してしまえば、不要のレッテルを貼られること。それらすべてを総括するならば、対価を支払ってくれる人が求めることに対し、常に、期待以上で返せること。

サラリーマンは、そんな小難しいこと考えなくとも、固定給は貰えるし、クビになることはないし、不要の烙印を押されることもない。増してや、そんなことを意識して仕事したとて、給料が上がることもないし、ボーナスなんて貰える時代じゃあない。そりゃあ、プロ意識も欠けるわな。しょうもない。

近ごろ、年齢のせいもあってか、歩いて帰っていると、足も痛くなるし、腰も痛くなる。タクシーに乗るのも勿体なく、歩くにしても身体が悲鳴を挙げてしまい、自ら選んだ選択にも関わらず、道中、辛くなって泣きそうになることがある。まったく情けない。
泣き顔になりながら、こんな風に思ったわけです。金に焦点を当ててしまうから、サラリーマンはプロ意識を持たずにやり過ごせる。だったら、時間に焦点を当ててみようじゃないかと。金は固定的に貰えるかも知らんけれど、間違いなく、残された寿命というものは、相対的に目減りしているんだぞ、と。相対的ってえ由縁は、寿命の長さは人それぞれで違うから。時間を犠牲にして働いている。時間を犠牲にして仕事をしている。それをなあなあな気持ちでやり過ごすなんて、なんてバチ当たりな。病床に伏した未来の自分がタイムマシンに乗って現代にやってきて、お前と対峙したとしたなら、点滴の管を引きちぎりながら、豪腕パンチ一発。頬をぶん殴られるに決まってる。

未来の自分にぶん殴られないように、プロ意識をしっかりと持って、日々の仕事と向き合いたいと、改めて思った。あかん、夜も更けてきて、小腹が減った、とも思った。

道中の牛丼屋にでも寄って、小腹の減りを満たすか。新たな目標ができたことに喜々として、遥か前方に見える牛丼屋の看板を目指す。ようやく辿り着き、入店しようとした刹那、ふと、「お金、持ってたかなぁ?」と心配になり、やや分厚い財布をカバンから取り出す。やや分厚かったために、お札の数枚でも入っているだろうと過信していたが、その実、ぜんぶ不要なレシートの束だった。まったくもって不要なレシートの束が、無駄に財布を分厚くさせていやがった。あかんあかん。お札を諦め、小銭入れのジッパーを開く。中を除く。牛丼屋の店内の明かりに照らされた僕の小銭入れの中には、十五円しか入っていなかった。しゃあない。牛丼は諦めよう。小腹の減りと仲良くしながら、残り半分の道のりを帰るか。

明かりというものは、ナメクジの触角も照らし出してくれるし、無銭の財布の中身も、しっかりと照らし出してくれる。そして時に、自分の未来も照らし出してくれるもんだから、なかなか粋な奴である。グゥゥゥゥゥ(空かした腹が泣いた)。

デタラメだもの。

20161010

今宵、モンスターボールで華麗にゲットされる。『デタラメだもの』

ここ数週間、大きなお仕事をいただけたことにより、やってもやっても仕事が終わらず、タクシーで帰宅する日々。ドロンドロンにくたびれた、と表現してしまうほどにヘロヘロしながら、すがる思いで右の手を挙手、止まっていただいたタクシーに、すがる思いで乗り込む。

元来、タクシーに乗車した際は、人との貴重なトークの場だと、しゃべりたそうにしている運転手さんの雰囲気を察知するや否や、会話をおっぱじめ、できるだけたくさんの笑いを生もうとしゃかりきになってきたものの、さすがに疲労も極み、ふと、黙っていても家まで運んでくれる、この時間も休息として活用せねば、体がくたばってしまうということに気づき、しゃべらなくなったばかりか、いっそ眠ってしまおうと、瞳を閉じるほどに堕落した今日この頃。

が、ある日、その沈黙を破るようにして、運転手さんのひと言が、車内にこだました。「お客さん、ポケモンGOってやりはりますか?」と。

乗車した会社付近から家までの、ちょうど半分くらいの道のりを来たあたり。こっちとしては、降車までこのまま沈黙が続くであろうと思って当然のタイミングで、ビクッ、怯えるほどに驚いてしまった。しかし、しゃべりたそうにしている様子を察知した僕は、そのフレーズを機に、会話を始めた。

「そうですねぇ、ボチボチやってますよ」と返事。するとタクシーの運転手さん、「いやねぇ、僕らタクシー運転手って、ある意味、ポケモンGOをやってるようなもんなんですよ。街なかで手を挙げているポケモンを探す旅っちゅうか。言ってみれば、タクシーGOですよねぇ、なははは」
タクシー運転手さんの平均年齢からすると、少し若め。真面目そうな人柄のタクシー運転手さんは、そう語り始めた。むむむ、なかなかハードルの高い会話。これをどう料理するのか、腕が試されている。タクシーGOというボケに対して、そのネタを広げて行くのか、それともそのフレーズに早々と限界を見出し、ポケモンGOに関する一般的な時事ネタに逃げるのか、かなり悩んだ末、一旦はそのネタに付き合ってみる、そして、天井が見えそうなら、時事ネタに逃げてみる、という選択肢を選んだ。

しっかりと戦略を立てた結果、話はかなり盛り上がり、愉快に笑ってくれる運転手さんだったことも手伝って、車内はとても和やかなムードのまま、降車位置に辿り着いた。
疲れきって沈黙していた僕に対し、渾身のネタを放り込んでくれた運転手さんへの感謝の意味も込めて、降車の際、「じゃあ、気をつけて次のポケモン探してくださいね! レアポケモンをゲットできること期待してますよ!」と言い残し、タクシーを降りた。ドアが閉まるまで、車内には運転手さんの愛想のいい笑い声が響いていた。

和やかなポケモン話に花を咲かせた翌日、またしてもタクシー帰宅。同じようにくたびれ、昨晩と同じ場所で右の手を挙手。何日こんな日が続くんだと、肩を落としながら、停車したタクシーに乗り込む。本日も、休息させてもらおう。しばし瞳を閉じて、仮眠させてもらおう。走行するタクシーの軽い振動に身を任せながら、ウトウトしていたところ、昨日とほぼ同じ場所で、急に運転手さんが口を開いた。

「お客さん、ポケモンGOってやりはりますか?」
え? 昨日と同じフレーズ!? でも、昨日とは違う運転手さん。どういうこと!? 道中、昨日とほぼ同じ場所で全く同じフレーズが、沈黙の車内にこだました。
面食らってしまったものの、しゃべりたそうな雰囲気をしている運転手さんに無礼がないよう、「ボチボチやってますねぇ」と返事。するとタクシーの運転手さん、「昨日ねぇ、南森町のスナックの界隈で、常連のお客さんを待って停車してたんですわ」と話し始めた。

「対向車が通れないくらい細い道に車を止めて、お客さんが来るのを待ってたんですね。そしたらね、道の向こうから二十代中盤くらいの女性が歩いてきましてねぇ。ポケモンGOやりながら、こっちに車が止まってるのを見もせず、気づきもせず、真っ直ぐ歩いて来はったんですわ。私ねぇ、危ないと思ったもんだから、軽くクラクション鳴らしたんですわ。夜道で車の存在に気づいてないのかなって思ったからねぇ。そしたらね、私の車の横を通り過ぎるときにね、その女性ね、クラクション鳴らさんでも分かってるんじゃボケッ! って暴言吐きよったんですよ。私ねぇ、腹立ってねぇ! 今でもまだ腹の虫が治まらないんですわぁ……」

九州弁で静かに怒りを露わにする運転手さん。プロの運転手として、その暴言はやはり悔しいものだろう。歩行者とモメてしまっては、呼び出してくれているお客さんにも迷惑をかけてしまう。その思いから、腹に力を込めて、怒りを飲み込んだそうだ。言葉の端々から、あまりにも根深い怒りが伝わってきたので、その怒りをほぐしてあげる意味も込めて、「でも、それって、ポケモンGOやってたとは限りませんよねぇ…(笑)」と合いの手を入れてあげ、「よく考えたら、ほんとですねぇ。ポケモンGOのせいにしたらダメですねぇ(照)」と、和む場面も作ってあげた。

近ごろの若者は礼儀が全くなっていない。若い乗客でも、降車時にお札を放り投げるような輩もいる。中には丁寧にお礼を言ってくれる若者もいるが、ガラの悪い連中もたくさんいると、かなり愚痴っておられました。九州訛りが余計に、大阪に出てきた男の侘び寂びを物語っているようで、単純な愚痴話にも関わらず、一人の男の人生を垣間見ているようで、とても興味深く聞き入ってしまった。

タクシーの降車時、「この話ねぇ、誰にもするまいと決めていたんですけど、しゃべってしまいましたわ。でも、ちょっとスッキリしました。怒りもちょっと収まってきました。ありがとうございます」と、丁寧に礼まで言ってくだすった。すごくいいことをした気分になった。タクシーで帰宅せねばならん時間まで働く日々は、笑顔で許容するにはまだ器の大きさが足りていないかも知れないが、こんなサプライズがあるなら、まだまだなんとか頑張れそうだと、小さく拳を握りしめる自分もいた。

しかし、ふと、こんな風に思った。タクシー組合なるものがあって、タクシーだより的な回覧板なるものがあるなら、こんな風に書かれていたんじゃなかろうかって。
話したいネタがあって、お客さんに耳を貸してもらいやすくするための今月の定番フレーズは、「お客さん、ポケモンGOってやりはりますか?」ですよ、と。

デタラメだもの。

20160912

調子に乗って話を盛りすぎると、ジェンガのブロックが崩壊するよ。『デタラメだもの』

大阪人だからだろうか、話を大きく盛ってしまうクセがある。特に、人と会話していて調子が良く、ウケにウケてる状況なんかになると、もっと笑いをくれ、もっと笑いをくれと貪欲になり、話をどんどんと盛って行く。脳内の別の自分が、「おいおい、そんなに話を大きくして大丈夫かね?」と、さりげなく心配してはくれるものの、「大丈夫、大丈夫、笑いは一期一会、この瞬間を逃すと二度と来ない。逆を言えば、この瞬間だけで終わるもの。話なんて、盛ったほうがおもろいやん」と、その心配を焼き払い、さらに大げさな話を続ける。

他人のエピソードなどを語っている場合には、あくまで見聞き知ったことを語っているだけなので、どれだけそれが現実離れしていようが、話の手離れが良い。最も厄介なのが、自分のエピソードを、大いに盛りに盛って語ってしまったとき。

その昔、音楽をやってる連中たちと某家に集い、鍋をつついたりお酒などを呑んだりしている最中、初対面の若手と語り合うことになった。彼は即座にこちらを慕ってくれ、兄貴、的な視線を送ってくれる。何を言うても響く。何を言うても感銘を受けてくれる。こちらの音楽に対する姿勢なんぞにも、大いに尊敬の念を示してくれるじゃあないの。
もとより、音楽に関しては雑食のワイ。偏ったジャンルに固執せず、どんな音楽でも柔軟に溺愛できる姿勢が彼に感銘を与えたらしく、ヨイショと持ち上げられ、持ち上げられ、気分よくなったワイは、「まぁ、こんな雑多に音楽を貪った結果、CDも集めに集め、今じゃ、家のラックに3,000枚くらいはあるよね」などと話を盛ってしまった。

こういうケースでひと言、言っておきたいんだが、こちらが明らかにネタと分かる数値だの距離だのを使用した際は、即座にそれを、ネタだと受け止めて欲しいのです。そういうの、関東の人には一切通用しないのは、なんとなくの経験上、理解しているし、こちらも傷つくのが嫌なので、めったと使わないが、そこはせめて関西人、ちゃんとネタはネタとして受け止めて欲しいのです。

ところが、彼、「さすがっすね! 兄貴! 今度、兄貴の家に遊びに行かせてくださいよ!」と来やがった。CDが3,000枚あるということを真に受け、そして、兄貴の凄さの証明が、家に3,000枚のCDがあることだという、僕を尊敬するひとつのファクターとして、CD3,000枚をコミットしやがった。

ということは、もし、彼が家に来たとして、3,000枚のCDが無かったとする。そうした瞬間に、兄貴への尊敬やら畏怖の念やら憧れの眼差しは消失してしまうということになるわな。ブロックゲームのジェンガで言えば、根底で上部の重みをズシリと支えている一枚のブロックを、問答無用に引き抜かれることになるというわけだ。
そんなアホな。家に3,000枚もCD、あるかいな。せいぜい、あっても200枚やわ。話を盛り上げよう思うて、15倍、盛っとるねん。家来るとか言うなよ。そんな殺生な話、あるかいな。

もちろん、彼を家には呼べない。彼は家に来たがる。「家、行きたいっす!」の話が持ち上がる度に、適当なことを言って誤魔化す。バルサン焚いてるから無理だとか、親戚一家が泊まりに来てるだとか言うて。
そのうち、それも面倒になり、彼とは会わんようになるわよね、自然の流れとして。疎遠になるわよね。彼、元気にしてるのかしらん。生息さえも知り得ない関係になるわよね。誰のせい? 話を盛った人のせい? そない殺生な。

そういえば、幼少の頃、話を盛ったことで殺されかけた経験もある。

当時、ミニ四駆なるレーシングカーの模型が流行し、キッズたちはこぞってそれを手にし、熱狂していた。
ミニ四駆というのは、いろいろな車種のラインアップがあり、マシンを構成するパーツがケースに入って販売されている。買いたてのキットは、標準のパーツしかセットされていないので、いわば、生まれたての状態。それを組み立てて、コースにマシンを持参し、走らせ、スピードを競いながら遊ぶ。

ところがこのミニ四駆、モーターやらタイヤやらホイールやらベアリングやらシャーシやらを強化できるアイテムが単独で売られており、それらを購入し、本体を改造していくことで、どんどんとスピードが速くなっていく。改造すればするほど、自分のマシンが強化されていく。そのため、キッズたちは、より最強のパーツを手に入れことを憧れとしていた。

ある日、マンガ雑誌かテレビ番組かで、正確な名前は忘れたが、ミニ四駆史上、最強のモーターが発売されるとの発表があった。実際にそのモーターを搭載したマシンが走っているところをテレビで目にしたが、思わず失禁してしまいそうなほど、速かった。あのモーターが欲しい。キッズたちの全員が、そう思ったものだ。
ただ、住んでいるのは、大阪でも都会とは呼べない街。近所の模型屋に、そんな流行のモーターなどが入荷するわけもなく。憧れが憧れのまま流れる日々が続いた。

話は変わって、小学生の頃は、校区なるものが定められていて、ここの道路から向こうは行ってはダメだよ、ヨソの学校の校区だからね、君たちキッズは、ここの道路からここの道路までの区間しか移動しちゃダメ、校区外に出るときは、マザーかファーザーと一緒にね。なんていうルールがありましたよね。

とある晴れた午後、親の用事に付き合うべく、親とともに校区を出て、大型スーパーへと向かった。我が小学校区の境界となる道路沿いには当時、イッコーホビーなる、模型屋さんがあった。位置関係でいうと、こちらの校区の境界があって、道路を挟み、イッコーホビーが向かいに見えている状態。親と大型スーパーに向かう際、そのイッコーホビーの店内にチラッと目をやると、ミニ四駆のセットが数台、売っているのが目に見えた。「へぇ。イッコーホビーって、ミニ四駆も売ってんじゃん!」という軽やかな印象を持った。

後日、友だち同士でミニ四駆の話で盛り上がっている最中、話はやはり改造のネタへと。あの軽量シャーシがヤバイとか、真鍮のギアにはグリスを塗りすぎるとダメだとか。そして話の中心は、例のモーターに。
友だちの中でも、不良とされている男の子が、やけに例のモーターの話をしたがるもんだから、僕は調べに調べたそのモーターの知識を披露。大いに盛り上がる。不良から賞賛される。心地良い。よっしゃ、話をもっと盛ってやろう!

そう考えたのが、悪夢の始まり。なんと僕は、不良からの賞賛欲しさに、「校区外にあるイッコーホビーに、例のモーターあるらしいよ」なんてことを口走ってしまったのである。不良は大喜び。喜び過ぎて、はしゃぐ、叫ぶ、そばにある物を破壊するの祭り状態。そして、僕への賞賛は、その瞬間、最高潮に達した。「ヤベッ……」とは思ったものの、イッコーホビーがあるのは校区外。僕たちキッズは、あちらへは行けないシステムだ。真相なんて確かめられるわけがない。まだ幼い僕の脳みそは、単純にそう考え、安堵していた。

ところが相手は不良。時にルールやマナーはもちろん、人として守らねばならない境界をも踏み抜いて行く人種。校区なんて知ったこっちゃあない。翌日、彼はなんのためらいもなく境界線を越え、イッコーホビーを訪ねたそうだ。そして、例のモーターの所在を確かめたそうだ。無かったそうだ。そりゃ、無いよ。チラッと目にした店内に、ミニ四駆が数台だけ売られているのしか、見てないんだもん。例のモーターなんて、あるわけないじゃん。

彼の怒りが沸点に達したのは、容易に察しがつく。翌日、僕の目の前に現れたのは、数日前、喜々として僕を賞賛してくれていた彼ではなく、猛り狂ったガタイのいい、荒くれ者のただの不良だった。お察しの通り、シバかれた。首を締められた瞬間、恐くてすぐに泣いた。失禁しそうになった。ちょっと、失禁した。

こんな経験をしているにも関わらず、いまだに話を盛ることはやめられない。目先に待つ、より大きな笑いが欲しい。先にも書いたが、話を盛ることは、ジェンガのブロックを高く積む如くの行為。その話を支えているブロックが外れたときの崩壊のリスクも描いておかねばならない。そうならないための防御策は、最低限、モーターが本当に売っているかどうかだけは、事前に確かめておくことだ。

デタラメだもの。

20160716

珍しく乗ってみようと思った流行に、乗り損ねると大怪我をするよ。『デタラメだもの』

流行に敏感な人というのは、ほんと、感心してしまう。だって、今何が流行っているのか、次は何が流行るのかという情報源に対し、アンテナを張り、常に敏感に意識しているということだもんね。性格的に、そんなマメなことは、ようできないため、いつだって流行には取り残された自分がいる。

まあ、どこか斜に構えた生き方をしている自分みたいな人間にとっては、「流行なんか取り入れるなんて、生き様に反してるわ」と強がってしまえば済むわけで、これまでもずっとそうやって生きてきたもんで、だから、殊更、流行を意識して生きようなんざ思っちゃいないが、時に、流行モノを欲してしまう瞬間というものがあるから、困り者。

そう、今、それが、電子タバコ。

近頃、巷で大ブームを巻き起こしているアレ。火を使うことなく、たばこを加熱して味わうというアレ。今まさに、自分の中で、遅ればせながらの大ブームが到来しているのである。

例の電子タバコを人々が持ち始めた頃は、「こんなまがいもんに手を出してまで吸うくらいやったら、タバコなんて、やめてしもたらええねん……」と悪態をついていた。だって、「僕、意識高い系の男子ですねん」というようなオーラが胡散臭く、よくもまあ、堂々と街なかでこんなもん吸えるなあと、多少、見下した感でその景色を眺めていた。
ほら、あれ、携帯電話本体を耳にも付けず口元にも寄せず、イヤホンとマイクを使っておしゃべりしている連中がいるじゃあないの。あれと一緒。あれも、周りからすると、アホの極みやと思われてるよね。白昼堂々、ひとり言を愉快痛快大声でしゃべり倒しているおかしな奴だと、一瞬思うよね。そう思われてるのを知ってか知らずか、堂々と例のアレを活用している連中というのは、もはや、世捨て人やで。最先端や思うてるんやろか? 意識高い系や思うてるんやろか? 頭のおかしい人間やと周りが思っていること、知ってはるんやろか?

まあ、早い話が、あれと一緒で、電子タバコもイキった連中が持つイキりアイテムだと感じていたわけさ。それがどうしたことか、職場の後輩の中でも、最も意識が低い系のメンズが、例のアレ、電子タバコを買っちゃったじゃあないの。
しかも、「先輩も一緒に買います? 最近、人気で、在庫ほとんどないらしいですよ?」なんて、声までご丁寧にかけてくれちゃって。

「そんなもん、要らんわい!」

と一喝。俺様を誰様やと思うとるんじゃい。あえて流行の逆に歩を進めるような無頼者やぞ。そんなもん、ワシに薦めてくれるな若造よ。

そうやって意地を張っていたのもつかの間。後輩に何度か試し吸いさせてもらっているうちに、「これ、ええやん……」。灰が出ないから、散らかすこともない、「これ、ええやん……」。煙のニオイもない、「これ、ええやん……」。普通のタバコと比べて、タールがほとんど含まれていない、「これ、ええやん……」。

そして、「これ、欲しひ……」、となったわけである。

が、しかし、その後、家電やサブカルに強い影響力を持つ某トークバラエティ番組で、例のアレの特集が組まれたり、インターネット大手検索エンジンのニューストピックスにデカデカと記事が掲出されたりで、世間の注目が一気に集まり、瞬く間に巷から、例のアレが姿を消した。

なんじゃい! こっちが欲しいと思ってやった途端、手のひら返すんかい! せっかく買ってあげよ思うてんのに、そっちから逃げて行くんかい!

そう吠えてみたものの、一度火がついた衝動(電子タバコは火がつかないタイプの煙草ですが)は抑え切れず、寄るタバコ屋、寄るコンビニ、どこへ行こうが、「例のアレ、置いてる?」と、キザに確認してまわり、「ないっすね!」「余裕で、ないっすね!」「あるわけないっすね!」と、どこの店でも軽くあしらわれ、そうなると人間、ますますそれを欲する熱情が増し増して、ぐぬぬ、アホウと思い、先の後輩に、「お前、それ、どないやって買ったんじゃい!」と、鼻から焦りの煙をモウモウと吹き出しながら詰問。すると後輩、「僕が買ったころは、まだタバコ屋に、普通に入荷してましたもん。だから先輩に声かけたんじゃないっすか、あの時! 僕が買った日も、まだ三台くらい在庫あったのに!」と、流行に対してのスロースターターを追い詰める態度を取られる始末。

こんなんでメゲてられるかい。そう思った僕は、懇意にしているタバコ屋のご主人に、「例のアレ、次、いつ入荷しますのん?」と尋ねてみた。
すると、「今、ブームやからねぇ。次の入荷は分からんわ。まぁでも、一過性のもんやから、そろそろ落ち着くんやない? 半年くらいのスパンで見たら、涼しい顔して手にできるよ」と。

「半年……」

もう、流行とかどうでもいいんですわ。灰が出ないとか、タールが少ないとか、もうそんなんどうでもいいんですわ。欲したものが手に入らない、どこに行っても手に入らない、そのジレンマを解消したいだけなんですわ。
夢は叶う、とか、偉人さん、よう言いはりますよね。でも、僕の夢は叶わないんですわ。少なくとも、今、僕の手では、叶えることができないわけです。そんな気分で、いつものタバコを吸っていると、灰はボロボロ落ちるわ、ヤニのニオイは強烈やわで、なんか、とっても惨めな気分に。

流行って、それに乗るのがダサイと感じていた頃もあった。それなのに今、流行に乗ろうとして一歩を踏み出したくせに、流行に混ぜてもらえなかった自分がいる。素直に流行に身を任せている人のほうが、なんぼか美しい。なんぼかスマートだ。

こんなことを言うのは失礼かも知れないが、甲子園を目指して、夜な夜な家の前で素振りの練習をする高校生がいる。さぞ、甲子園に行きたいのだろう。もしかしたら、甲子園に行くのは夢の途中で、その後、プロになって活躍し、メジャーに行って大記録を打ち立てたいと、毎日毎日、スイングを続けているのかも知れない。その憧れたるや、相当のものだろう。
しかしだね、僕が電子タバコを手にしたいという憧れも、決して君に負けてやしない。僕だって、君がバットを振る回数くらい、タバコ屋やコンビニを巡っている。僕のバットにボールが当たることはない。いつだって空振りだ。そのストレスで、普段吸っている、マールボロメンソールライトの摂取量は、平常時の三倍近くなってきた。高校生よ、いつか僕がホームランを打つその一球、ピッチャーの球種はロー、つまりは、低めの球だろう。だって、電子タバコに、灰、はないんだもん。くだらん。僕が手にする栄光に、タールは少ないが、エールはきっと多い。くだらん。

さあ、次はどこを攻めようか。きっと、戦国時代の武将たちも、こんな風にして、次の戦に胸を躍らせていたに違いない。もはや、侍だ。早う、刀が欲しい。火を使わず、加熱するタイプの刀が欲しい。ぐぬぬ。

次のタバコ屋には、例のアレ、なんだか置いてそうだぞ。第六感がそう叫んでいる!
心の中で、「ヨシッ!」と気合を入れながら、通りの向こう、タバコ屋に攻め入るべく、横断歩道へと一歩を踏み出した。

デタラメだもの。

20160703

僕はこれを、胸を張って、獄中ダイエットと呼ぼう。『デタラメだもの』

くはははは、ついに痩せることができた。ついに痩せることができた。

年齢を重ねると人間、わずかばかりの小金を持つようになり、そうなると、うまいもん喰いたいと、生意気にお店などを選びはじめ、舌鼓を打ちはじめたりする。
その結果が、だらしないボディライン。ハングリーとはほど遠い仕上がり。貪欲さの欠片もないプロポーション。意識はすれど、痩せるはずもなく、醜くなる一方。
長渕剛のSTAY DREAMの歌詞を、自分に置き換えて、心に染み込ませながら聴き入っている最中も、「くよくよするなよ あきらめないで Just Like a Boy その痩せこけた頬のままで」というサビの部分で、痩せこけているどころか、無駄な贅肉に覆われた自分の頬を思い、流れていた感涙も逆流するような苦々しさを噛み締めはじめて、もうどれくらいが経つだろう。

それがだ、くはははは、ついに痩せることができた。ついに痩せることができた。

ロクに仕事もようできない自分のような人間が、なまじっか大きな規模の案件に手を出すと、痛い目に遭うわな。お客さまはプロジェクト成功の夢を見ていらっしゃるので、その夢を覚ますような醜態を演じてしまうと、そりゃ寝起きも悪くなられるゆえ、要するに、「何をしとるんじゃおのれ! 中途半端なことしとったらいてまうぞ! 不眠不休絶食絶飲で、ワシにもう一度、夢見せたらんかい!」と、胸ぐらを掴まれつつ、そのまま持ち上げられつつ、足先が宙に浮きつつ、そんな状態の折り、舌を巻きながら申されたわけで、「ひいいい、すみません。不眠不休絶食絶飲でやらせていただきやすぅぅ」と、脊髄反射で返答。

気づけば、九十時間、不眠不休で仕事をしていた。事務所から帰宅も許されず。その間、お食事に関しては、早朝、人の目がない時間帯に、牛丼チェーンで二度だけ食べた。髭は放置。風呂も入れない。歯も磨けない。まるで、ひと昔前の大都会東京の繁華街。栄華が終焉を迎えた朝方に、路上に散財した黒いゴミ袋。それをついばむカラスたち。カラスの嘴にこじ開けられ、路上に散ったゴミ。そのゴミを車が踏みつける。地面にめり込むゴミ。ちょうど、その地面に埋め込まれたゴミのような風体に成り果てていた。
最終的には、PHPと呼ばれるWebプログラミングをしている最中、意識が飛んだ。キーボードに両の手を置いた状態で、首をもたげて死んだ、否、寝落ちした。そんな不自由な態勢にも関わらず、三時間近く寝落ちしていた。眠っているにも関わらず、エチケットを気にしてか、お口エチケット用のタブレットを口に放り込んでいたらしい。

まあ、そんなことはどうでもいい。無能な人間からすれば、こんな事態は、二ヶ月に一回あってもおかしくはない。そんなもんだ。人様が帰る時間帯に帰れることなんてない。人様が休んでいる間に休息できることなんてない。人様が大型連休を満喫している間に、ようやくタバコの一本でも吸えるってなもんだ。

言いたいのは、そんなことじゃない。よう働いた自慢や徹夜アピール、休日出勤アピールなんかしている時点で半人前。そんなことはどうでもいい。
地獄のような数日を過ごした結果、痩せた。痩せたんだ。ふと目をやると、お腹まわりの贅肉が姿を消している。ズボンがブカブカになっている。顎のラインがシャープになっている。身体が軽くなっている。ちょっとジャンプするだけで、メリーポピンズのように、フワフワと浮かんで行ってしまいそうだ。体重計に乗ってみる。なんと、三キロも痩せているじゃあないの。くはははは、笑いが止まらん。

これは便乗すべきだ、この機会を活かすべきだ、一斉に畳み掛けよう。そう考えた僕は、その日以降、毎日毎日、チェーン店のかけ蕎麦だけを食べ続けた。二百十円だ。しかも、汁は飲まない。麺だけを喰らう。とてもひもじい。食べた直後から、もうお腹が減っている。満腹感などない。でも、だらしないボディラインは嫌だ。「くよくよするなよ あきらめないで Just Like a Boy その痩せこけた頬のままで」の部分で、感涙が逆流するのだけはごめんだ。しかも、お昼代を削ることで、財布からお金が飛ぶこともない。なんという完璧なプランなんだ。

そんな日々をひたすらに続けた結果、一ヶ月弱で五キロも痩せた。すべてのズボンは廃棄処分せねばならない。これまで履いていたズボンとウエストの間には大きな空間ができる。カンガルーの子どもくらいだったら、きっと入れてあげられることだろう。身体が軽すぎる。全盛期のマイケルジョーダンの踏み込み位置よりも、少し手前からジャンプして、軽やかなスラムダンクをぶち込めるくらいに軽い。

何のことはない。ダイエットに成功したという話だ。地獄のような数日間を経て、ダイエットに成功したという話だ。思い返せば悲壮な数日だった。僕はこれを、胸を張って、獄中ダイエットと呼ぼう。あんな数日は、二度と経験したくない。
でも、ダイエットには成功した。鏡で自分の顔を眺めてみると、以前よりもスラッとして、まるで昭和のアイドルのような微笑みをたたえている。

そんな調子で、ふふふんと鼻歌を歌いながら日々を過ごしていると、どうやらお客さま、まだまだ仕上がりに不満足だったようで、依然、憤慨している模様。再びあの怒声。「約束してたもんとちゃうやろが! このボンクラ! さっさとやり直さんかい! 数日間猶予を与えたるから、さっさとやり直せボケ!」と、胸ぐらを掴まれつつ、そのまま持ち上げられつつ、足先が宙に浮きつつ。しかし気づいたかい、お客さんよ。今、あんたが胸ぐらを掴みつつ、そのまま持ち上げつつ、足先を宙に浮かせている男、以前よりも軽くなっているだろう。気づいたかい? この麗しき変化に気づかないようじゃ、まだまだ俺のほうがうわてだぜ。その証拠にほら、胸ぐらを掴んでいるその手を離してごらん。地に降り立つ俺の身体の滞空時間は、誰よりも長いぜ。まるで綿毛だぜ。フワフワと地に足をつけるぜ。気づいたかい?

胸ぐらを掴まれながら、得意気にそんなことを考えた僕は、「くはははは、俺様はダイエットに成功したのじゃー!」と叫んだ。というところまで妄想を終えると、四十回近く小刻みに首を振りながら謝罪し、「ひいいい、すみません。不眠不休絶食絶飲でやらせていただきやすぅぅ」と、涙目になりながら仕事を進めた。こんな苦い涙は、ぜひとも、瞳へと逆流して欲しいもんだ。

デタラメだもの。

20160326
ギャラリー
  • 自分の一生を全うするためには、「修正」という言葉を軽々しく口にしてはならない。『デタラメだもの』
  • 連絡無精の言い訳を対人関係にすることと緑豆もやしが枯れたことには大いに因果関係がある。『デタラメだもの』
  • 先輩の仕事とは後輩を育てることではなく後輩に夢を見させてあげることだと教えてくれた河豚、否、おじさん。『デタラメだもの』
  • 正常稼働していた歯が治療され、あろうことか、その後の激痛に悩まされる日々。『デタラメだもの』
  • 男たるもの、酩酊したうえでの失態を他人に見せるべからず。ましてや介抱されるだなんて。『デタラメだもの』
  • 退屈しのぎにネクタイを巻いてみた。意味のないことにも価値あるものとそうでないものがある。『デタラメだもの』
  • ラブホテル街にこだまする「ありがとうね」。今宵も美味なる缶ビールを片手に思いを巡らせる。『デタラメだもの』
  • 新幹線で窓側の席から順に指定席が埋まって行く原理が分からない。『デタラメだもの』
  • おっさんが我慢しても抗えないものそれは、えずく、という忌まわしき生理現象。『デタラメだもの』
最新記事