デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

正常稼働していた歯が治療され、あろうことか、その後の激痛に悩まされる日々。『デタラメだもの』

数ヶ月前に左上奥歯に被せている銀歯が取れたため、歯医者に通い出してからというもの、未だに卒業できないでいる。よほど歯のお手入れに力を入れている人を除けば、基本的に歯医者というものは、行かざるを得ない状況になってはじめて通院するものだと思う。例に漏れず、銀歯が取れて物が噛めない瀕死の状態になったからこそ、歯医者に行った。それをきっかけに、ここにも虫歯がある、こっちにもある、こっちにもと、数珠つなぎのように治療を重ねられ、先日、右下奥歯の治療を終えた。

その次は、右下奥歯のひとつ手前の虫歯の治療へと続き、最終的には、1年ほど前に別の歯科医院で治療を終えた右上奥歯の治療がずさんな仕上がりだそうで、それのやり直し治療を受けねばならないというスケジュールが組まれている。

そんな矢先に悲劇は起こった。なんと、治療を終えたばかりの右下奥歯が痛み出したのである。どれほど痛み出したかというと、冷たいものは受け付けず、熱いものも受け付けず、物も噛めないほどの痛みに襲われ始めたのだ。柔らかい煮キャベツを噛んだだけでも激痛が走る。要するに、使い物にならない状態というわけだ。

冷静に考えてみたい。僕は左上奥歯に被せている銀歯が取れたため、それを治療して欲しくて歯医者に行った。土曜の午後にそれが起こったため、土曜の午後も診察してくれる歯科医院をインターネットで探し、治療を乞うたわけである。そして、当該箇所の治療以外は、自覚のないものばかり。歯科医院に言われるがまま、治療を受けていった。だから、使い物にならなくなった右下奥歯なんてえのは、まったく正常に稼働していた部位である。にも関わらず、治療を終えた後に使い物にならなくなったわけ。この事態をどのように受け止めればいいものか。

これを医療ミスと捉えるべきなのか、それとも虫歯の治療には付き物の事象と捉えるべきなのか。インターネットで同様の症状を調べてみると、医療ミスだとする意見もあれば、虫歯治療あるあるだとする意見もある。さらに混乱する。が、事実はひとつ。右の奥歯で物が噛めないということ。

生活に支障をきたすということで、急遽、歯科医院を訪問し、痛みの症状を見てもらうことに。予約が埋まっていたにも関わらず、診察してくれたその歯科医院には非常に感謝している。ただ、症状を伝えたところ、痛むなら神経を取るしかない。しかし、神経を取る施術は、近ごろの歯科医院では行わないのが主流だ。でも、神経を取らないと痛みはなくならない。が、まれに神経が健康に回復し、痛みがなくなることもある。でも、なくならないこともある。だから、神経を取るか取らないかの判断は、患者であるあなたに委ねます。どうしますか?

いやいや。判断でけへんって。昔の歯医者さんは、神経なんか取りまくってたよね。虫歯の治療といえば、神経取るのとイコールなほどに。でも、最近の施術では神経取らないんでしょ? ってことは、神経を取るって選択することはつまり、旧来の治療を希望するってことでしょ。そんな重大な判断、患者任せでええの?
仮に携帯ショップにたとえてみるならば、「昔はガラケーを使っている人が多かったんですが、今ではスマホを使ってらっしゃる方がほとんどですね。で、どうされます? ガラケーで契約するかスマホで契約するかはあなたで選択してください」って聞かれたとして、「じゃあ、ガラケーで……」って言える?

最近の施術では神経を取らない方針が主流っていうなら、神経を取らなくても痛みが起こらない治療ってのも主流にならないとあかんのちゃうの? 主流を選択すると痛みはつきものなん? なになに? 主流ってのは、ドM的なやつなん?

僕は過去に、歯科医院で医療ミスを何度も体験している。あり得ないミスを。だから、基本的には歯科医院とは相性が良くないことを自覚している。
その昔、歯科医院っていうのは開業しやすいものだと聞いたことがある。だから、世の中には歯科医院が溢れていると。聞くところによると、日本全国に立っている電信柱の数よりも、歯科医院の数のほうが多いと言われるほど。
にしても、個人のスキルにバラつきがあり過ぎやしないかと感じる。歯は一生もの。大切にしなきゃね。そのわりには、バラつきのあるスキルを持った個人の裁量で、それを削られたり抜かれたり。削られたものは返ってこないじゃあないの。抜かれたものは生え変わらないじゃあないの。まぁそんなことはどうでもええわ。要するに、正常稼働していた、違和感すらなかった部位を治療していただき、その結果、激痛で使い物にならなくなった僕の右下の奥歯の行末だけ教えて欲しいわけだ。

近ごろ、セカンドオピニオンの重要性が説かれている。こういった場合、セカンドオピニオンに耳を傾け、どうすればいいか判断するのが適切なんだろうな……。ちゃうねんちゃうねん! セカンドオピニオンに行ったら、また初診料取られて、レントゲンも取られる。結果的に、時間も奪われるし、お金も消費する。歯の痛みだけじゃなく、財布のほうも痛むやんか。気軽にセカンドオピニオンとか言っていられないわけよ。ファーストオピニオンで右下の奥歯を復元して欲しいわけやんか。しかも、無料で復元して欲しいわけやんか。僕らだって、仕事の立場上、お客さんの商品を壊してしまったら弁償もするし、印刷物で誤植をやってしまったら、もちろん代金もいただかないし、こちらの財布からお金を出して刷り直しをするわけやんか。

僕のモットーは、どんなことが起ころうがヘラヘラと笑って生きること。辛いことがあろうが顔に出さず、愉快で痛快に生きていきたいと思っている。だからここ数日、僕と接触を持つ機会があった方々、いつも通り僕はヘラヘラと笑っていたことでしょう。ただ、心ではかなり泣いていたのさ。正常稼働していた一生ものの歯が削られ、挙句、激痛が走り使い物にならなくされてしまった。本当は泣きたいんです。本当は、泣きはらしたいんです。ビールを飲んで、忘れてしまいたいんです。でも、ビールがしみるんです。片方の歯だけで食べ物を咀嚼するため、しっかりと噛めないまま飲み込んでしまうから、消化の効率が悪くなり、お腹だって痛いんです。クライアントが別の業者ばかりに仕事を発注するから、ほとんど干されてしまってるんです。仕事がないんです。このままじゃあ、おまんまが食えないわけです。そう。歯的にも、仕事的にも。

個人的には、現在通院している歯科医院の先生、とても良心的な方なので、全面的に信頼しております。こんな無神経な人間ですが、どうにか、神経だけは生かしてやってください。そして、どうにか痛みを取り除いてやってください。再び右の歯で物が噛める日がやってきますように。正常に食べ物が消化されますように。お仕事が舞い込んできますように。これ以上、案件が削られませんように。

デタラメだもの。

20170815

男たるもの、酩酊したうえでの失態を他人に見せるべからず。ましてや介抱されるだなんて。『デタラメだもの』

仕事からの帰宅途中、最寄り駅の改札を出たすぐのベンチの上に、おっさんが横たわっていた。おそらく酒を飲み過ぎたんだろう。膝丈ほどの高さのベンチの上に、のんべんだらりと横たわっている。隣には奥さんと思われる女性。隣に立ち、おっさんの出っ張った腹を、「ほら、行くよ……」と言わんばかりトントンと軽く叩きながら、「ほら、みんな見てるよ……」と言いたげにトントンと軽く叩いている。

そういや道端や駅構内で女性に介抱されながら、オエオエやっている男の姿を見かけることがある。世間的には誠に情けなく映っている。男とあろうものが、酒に潰れて女性に介抱されるだなんて。という具合の視線を痛いほど浴びている。まぁ、当の本人は強烈な吐き気のなか、そんなことを意識する余裕もないだろうけれど。

勝手なイメージなのだけれどもねぇ。それほどまでに酔い潰れるということは、その女性とお酒を飲んでいるとき、ずいぶんと調子に乗っていたんじゃなかろうかと思うわけだ。自分が下戸だとわかっておきながら、女性を前にして、「日本酒、おかわりしよかな?」などと酒豪ぶって、ピッチ早く「おかわり」を連呼していたんじゃないだろうかと、勝手に想像してしまうわけ。

で、酔ったら酔っただけ舌も調子に乗り、やけに饒舌になり、我、笑いの覇者なりと周りをイジッてみたり、自分のことを自慢したり、政治を批判したり、上司の不出来を詰ってみたり、どこかのプロ野球チームの4番バッターの成績を非難してみたり。有能な評論家よろしく、大量の唾を飛ばして大声張り上げていたに違いない。

その結末が、これである。介抱である。なんとも情けない。酒に弱いことが情けないのではなく、誠に勝手なイメージで申し訳ないが、結末までの調子の乗り方と結末のギャップが酷すぎて情けないのだ。

もし仮にだ、同席していた女性がお酒を口にしない人だった場合、男の盛者必衰を冷静に見せつけられることになる。下戸に酒が入ることで調子に乗っていくさまを眺め、下戸に酒が入ったことで介抱が必要なほど崩れ去るさまも眺めることになる。いったい、どんな気分なんだ。さだまさしの関白宣言と関白失脚を同じ日に見せつけられるようなもんじゃあないのかい。

まぁ、駅の改札すぐのベンチで横たわっていたおっちゃんは、調子に乗ったんじゃあなく、日々のストレスが蓄積した結果なのかもしれない。そうだとしたら、放免だ。ただ、若くして調子に乗って、飲めない酒を煽った挙句、オエオエやって女性に介抱されている連中には同情できない。どんな面して、翌日、職場に現れるんだ。

じゃあお前の場合はいったいどうなんだい? と聞かれたならばこう答える。僕は酔いつぶれているさまを他人には一切見せないようにしている。どれほど気分が悪く、オエオエやりたくなったとしても、その宴が終わり、「おつかれっした!」と散り散りに解散し、姿が見えなくなるまでは、そういった素振りを一切出さないようにしている。

もちろん、アルコールを大量摂取しているため、酩酊した結果、電信柱に顔面をぶつけ、眉間から大量出血したり、二階に構えられた店で飲んでいるときなどは、帰りの階段で足を踏み外し落ちそうになったことなど、情けない失態を披露したことはあるものの、それは単に鈍くさいだけだもんね。酔ってなくても電信柱に顔面をぶつけることはあるし、酔ってなくても階段から落ちる人はおるしね。てへぺろ。

ただ僕の場合、「おつかれっした!」の後がタチが悪い。もともと気を使いすぎる性分のため、「おつかれっした!」の後、責任感から解き放たれた解放感が、爽快感とともに襲ってくるため、臨場感溢れる醜態を、孤独感のもと繰り広げるわけである。

まず、公共の場において自分だけが音楽を楽しめるように設計されているイヤホーン的なものを耳に装着する。音量をとにかく上げる。そうして、その音量に負けないほどの大声で、歌を歌いはじめる。俗にいう「原曲のキー」で歌うので、腹から声が出ることになる。ただ、イヤホーンのなかの世界に酔っているから、俗世間にどう聞こえているのか、どう見られているのかなんて関係ない。

そうやって歌いながら、テクテクと帰る。途中、コンビニに酔っては、追い焚きならぬ、追いビールをする。イヤホーンを付けたままレジの店員さんとの応対をするのは、人としてどうかと思うので、一旦イヤホーンをしまう。そして店を出た後、すぐにイヤホーンを装着し、再び音楽を鳴らし、大声で歌う。

さらにタチの悪いのが、歌に感情を込めすぎて、自分で自分に感動してしまい、大泣きすること。大声で歌を歌いながら、ワンワンと泣きながら、イヤホーンをしながら、缶ビール片手に歩いている。そんな中年。もはや救済の余地がない。
眼鏡をかけているため、スムーズに涙が拭けないので、涙を拭うときは缶ビールを地面に置き、立ち止まったまま拭う。あまりにも感極まっているときなどは、拭っても拭っても涙が溢れてきやがるから、その行為を一歩ずつ行うため、一向に家へと着かないこともある。

冷静に自分の様子を振り返ってみると、駅の改札すぐのベンチで奥さんに付き添われ、出っ張ったお腹をポンポンされたり、飲めない酒を煽ったがために、女性に介抱されながらオエオエやったりしている男のほうが、よっぽどマシなような気がしてきた。母性溢れる女性ならば、男性を介抱してやることくらい、お茶の子さいさい。むしろ、ウエルカムなのかもしれないな。それに比べて、僕の醜態は母性などくすぐるはずもない。忌避されること間違いなしだ。

お酒は強いか弱いかハッキリしているほうが良い。強い人ならどれだけ飲んでも故障しないだろうし、弱い人なら、すんなりと介抱だってしてもらえる。強くもなく弱くもない、僕のような人間がいちばん収まり悪い。酔ったからとて、他人に迷惑をかけるようなことは一切したことがないが、社会にはずいぶんと迷惑をかけているな。

もし、次に酩酊し歌いだしそうになった暁には、素直に改札すぐのベンチで、のんべんだらりと横になろうと思う。付き添いはいないため、お腹をポンポンされることはないだろうけど、駅が閉まる時間になれば、駅員さんに肩をポンポンされ、起こしてもらえるに違いない。それも一種の介抱と呼んでしまっても過言じゃあない。

酒に酔ったうえでの醜態は知られていないかもしれないが、自分に酔ったうえでの醜態は、多くの通行人に目的されているのかもしれない。

デタラメだもの

20170730

退屈しのぎにネクタイを巻いてみた。意味のないことにも価値あるものとそうでないものがある。『デタラメだもの』

あかん、何か変わったこと、違ったことをやらねば、毎日が同じ様子ばかりで息が詰まってしまう。退屈だ、退屈だ、ということで、ネクタイを巻いてみた。この世はクールビズ。今や東京都知事へと出世なされた時の環境大臣、小池百合子氏が提唱したクールビズ。たしかに、真夏のクソ暑い時期にネクタイ巻いて、上着を羽織って、何のメリットがあるのか意味分からんところを、見事にその悪しき慣習を打ち破ってくれたクールビズ。律儀に業者然とした振る舞いを貫き通している人たちを除けば、みなさん、涼し気な夏のビズを満喫しているのだろう。

そこで考えた。みんなと同じことをやってのけているから、毎日が退屈になってしまうのだと。やはりはみ出さねば退屈だ。あかん、あかん。もっともっとワイワイと世を盛り上げねばならん。そこでだ、このクソ暑い時期に、わざわざネクタイを巻いてみようと思った。車窓に映るノーネクタイの自分を見て、何かが足りないと感じたわけ。それが何かと熟考してみたところ、答えはネクタイだったのだ。

で、超意味のないこと。熱中症への危険が叫ばれる今の時期に、ネクタイを巻いてみるという無駄なことを継続している。さすがに同類の人間は、街ナカでほとんど目にしない。極度のアホと思われていること間違いなしであるが、それはそれで快感なのさ。ふふふん。

この世の中、意味のないことが多すぎる。たとえば、会社の定時システム。多忙な奴も暇な奴も、定時の間は会社におらねばならん。暇な奴は特段何もせず、インターネットでネットサーフィンなど楽しみながら、定められた定時という就業時間をやり過ごす。
就業時間の一時間前から多忙を極める予定を持った社員だって、始業時間から会社におらねばならず、多忙を極める時間までは、手持ち無沙汰で過ごす。そして、多忙を極めた一時間を経た後、即座に残業タイムへと突入する。
まぁ、世の中の中小企業なんざ、残業代など払う気もないので、会社にとっちゃ、社員たちが何時から多忙を極めようが知ったこっちゃないだろうが、どうにも人生という有限の時間を浪費させるシステムに感じて堪らない。

もっと意味のないこと。それは、無能なクセに日本の麗しき年功序列システムの恩恵を受け、管理職や上層部へと昇り詰めただけのおっさんが言う「今の世の中、実力社会だからね」というセリフ。お前が言う実力社会というものが、本当にこの日本を席巻しているのなら、まずお前みたいなもんから順番に、不要のレッテルを貼られ切られていくだろうよ。それなのに、お前みたいなもんが、のほほんと上層部面して会社に鎮座できている時点で、まだまだ実力社会でもなんでもなく、とどのつまり、お前のその発言も何ら的を得てないということを、お前みたいなもんが身を持って証明してるんじゃあないの。

考えればこの日本、能力が高いから管理職に就く、なんてシビアなシステムは採用されていない。外資系のように、能力者が抜擢されて、管理職や経営陣の仲間入りするようなビジネス慣習は、日本の中小企業にはほとんどと言っていいくらいに、ない。だから、中小企業の上の方の人間は、「昔からおる人間」になる。会社側も「昔からおる人間」には、それ相応のポジションを用意してあげなければならず、必然的に「昔からおる人間」が、社内で地位や権力を手にしていくシステムになる。

それに加え、「昔からおる人間」というのは、今のスピード社会にまったくついて行けてない。要するに、今の時代には不要なオワコンだ。慈悲と慈愛を込めた褒め言葉で称するならば、もはや彼らはレガシーだ。
それに加えて「昔からおる人間」は、景気の良かった頃の給与体系も手伝って、一律、高給取りなわけ。にも関わらず、レガシーは今の時代についていけてないので、お金を稼ぐことはできない。何ら生産できない遺産が、会社にとって最も維持コストがかかる。我々下っ端は、レガシーを守るためだけに、身を粉にして働く。そのうえでだ、営業成績が足りないだの、仕事の効率が悪いだのとブーブー言われる。どうやら、レガシーの守り方がなっていないようだ。腹筋がちぎれるほど、おかしなことをおっしゃる。

今の世の中、もっと実力社会の様相を色濃くせねば、とてもじゃないけれど生存できない。そして、実力なき者は不要の運命は、当然のようにレガシーにも当てはまる。日本社会は、会社に鎮座するレガシーにも平等に、実力社会を適用すべきだ。それが社会全体の流れなんだから。たとえ、創業時から会社にいる社員だろうが、それを理由に保護されるほど、今の日本社会は裕福じゃあない。
どうせ、レガシーたちはその高い給与ゆえ、豊富で潤沢な貯蓄を持っていらっしゃることだろう。そのうえ、未だに高い給与を得続けられては、いつまでたっても若手にチャンスは来ないってなもんだ。
レガシーたちに本当に愛社スピリッツがあるならば、自分たちの報酬をカットし、若手たちに分配し、経済を効率的に回すほうに脳みそをシフトチェンジするべきだ。そうしなければ、経済は停滞し、逆三角形の日本の様相は変わる兆しを見せないだろう。端的にいうならば、「あんたらはもうお金持ってはるんやし、高給は放棄し、恵まれないキッズに分配せよ」である。
「俺たちも生きていかねばならないから」とこめかみに怒りマークを浮き立たせられるかもしれないな。でも、それは老いも若きも同じこと。日本がこんな状況になることを読めなかったあなた方の落ち度であり、日本を継続するためには必要な選択なのだから仕方がない。中小企業が生き残るためには、レガシーを壊してでも、新しい建物を建築する勇気を持ち、それを実行する必要があるはずだ。

やっと言いたいことの30%程度は言えたかもしれないが、ネクタイの野郎がどうにも暑くてたまらん。ここはサウナか? なんで俺の部屋には冷房がないんだ。悪の声が囁く。「ネクタイなんか、外しちゃいなよ!」と。すると隣にいる天使がこう囁いた。「ネクタイなんか、外しちゃいなよ!」。僕はどうやら、ひとりぼっちでこのバカな拘りを継続せねばならんようだ。

デタラメだもの。

20170717

ラブホテル街にこだまする「ありがとうね」。今宵も美味なる缶ビールを片手に思いを巡らせる。『デタラメだもの』

それにしても痴漢の冤罪というものは恐ろしい。表沙汰にならず泣き寝入りしている痴漢被害も実際は多いとは思うものの、痴漢の冤罪被害も実際には多いんだろう。
痴漢扱いされてしまうと、人生が崩壊してしまうほどのダメージを食らうと聞く。それを恐れ、線路に飛び込み、走って逃げるケースもあるんだろう。いったい何から逃げているのか分からなくもなる。それで事故に遭ったニュースも目にするし、命まで落とした人もいた。もしかしたら、痴漢の犯人が逃走した末の結末なのかもしれないが、冤罪だったとしたら浮かばれない。

気候も良くなり、仕事後に缶ビール片手に、徒歩で帰ることが多くなる季節。ほろ酔いで繁華街を抜けながら、住宅街に着く頃には酩酊している。
2時間近く歩く日もあるので、さまざまな店の前を通り過ぎ、さまざまな人たちとすれ違う。飲み屋には相変わらず賑やかな笑顔が溢れかえっているし、道すがらも、陽気なのんべえたちの笑い声がこだまする。お酒の酔い方は人それぞれだが、自分と比べ、こうも仕上がりが違う人たちがたくさんいるのかと、自分の酔いを見つめ直すも、これが好きでそれが好きで呑んでいるんだからやめられない。

職場と自宅のちょうど中間くらいの街に、ホテヘルのメッカがある。昼間はひと目を避けて情事に耽る男女しか目にしないが、夜になるとネオンはギラギラ、ホテヘル嬢がホテルから出てくるのを待つ黒っぽい自動車の群れで埋め尽くされる。
そんなホテル街のど真ん中を、缶ビール片手にフォークソングを口ずさみながら突き抜ける。嬢待ちの車は窓を全開にし、中からはタバコの煙が吐き出される。サービスを終え、ラブホテルのエントランスから出てくる男女を目にすることもよくある。

「ありがとうね」
すっきりした表情で男は言う。女はその言葉に対し、何かしら呟いているが、そこまでは聞き取れない。ただ、いつも、男が言う「ありがとうね」だけは鮮明に聞き取れる。

男はどこか誇らしげ。まるで嬢が自分に好意を持ってくれているかの如く、「ありがとうね」と上から目線で言い放つ。
おいおい、相手は仕事だぜ。究極のサービス業の方々だぜ。お前なんかに好意があるわけないだろう。次回、指名してもらって、効率的に報酬を稼ぐための戦略だと思うぜ。疑似恋愛ならまだしも、リアルな恋愛の如く、甘い目線で「ありがとうね」を言うのはどうかと思うぜ。

「そんなこと分かった上でやってるんだよ、カスが!」と怒られてしまうかもしれないが、酔いも手伝って、その光景がとても虚しく映る。
いや待てよ、コンビニエンスストアで商品を買い、お会計を済ませたあと、サービスを提供してもらったことに対し、「ありがとうございます」と言うだろう。それと同じか? いやいや、どうにも違う気がする。だって、「ありがとうね」と言った男を見送った後、気だるそうにスマホを触りながら、イヤホンを耳に突っ込み、窓が全開でタバコの煙が車中から吐き出される真っ黒い軽自動車に乗り込み消えていく様子を、何度も目にしている。それが現実じゃあないのかい。

「そんなこと分かった上でやってるんだよ、カスが!」と、またしても怒られてしまうかもしれない。でも、真実を目の当たりにしてしまった人間は、もはやフィクションの中では生きられない。
きっと車中で嬢は、交際している男にLINEしたり、次の現場に向かうよう、スマホに飛んできた店からの指示に目を落としているかもしれない。さっきの男が言った甘い言葉、「ありがとうね」なんかは、もう意識の外。そいつへの好意なんて、微塵も感じていないんじゃあないだろうか。

ただ、冷静に考えてみると、自分に好意があると勘違いし、高額なサービス料を支払い、甘ったるい声のトーンで「ありがとうね」と言う男。自分を指名してもらうことで報酬も手に入るし、それで生活も維持できる。自分という特選品を選んでくれたことに対し「ありがとう」と礼を言う女。これでバランスが取れているんじゃあないだろうか。そこに自分のような、店呑みする金も持ち合わせず、缶ビールで酩酊し、精神を落ち着かせているような小者が口を挟む余地はないんじゃあないだろうか。そうだ、きっとない。
ラブホテル前で「ありがとう」を言い合う男女たちは逆に、ホテル街をプラプラと酩酊しながら歩く僕のような人間を見て、軽蔑しているかもしれないし、見下しているかもしれない。擬似恋愛でもいい、騙そうが騙されようが、「ありがとう」を言い合える自分たちのほうが、よほど高尚な存在だと感じているかもしれない。実におもしろい。

そうそう、だから何を感じたかって言うと、女の人がひと声あげれば、男は冤罪で捕まるし、人生だって崩壊する。男がどれほど女を支配しているような気でいて、「ありがとうね」なんて甘い声で呟いたとしても、女はそれを逆手に取り、カモ、としか思っていない。もちろんそれは、一個人の感想であって、実際には、真心込め、気持ちも心血も注いでサービスを提供している嬢もいるかも知れないが。
ただ、社会的な観点からすると、まだまだ女性のほうが生きづらい世の中だと思う。だからこそ、女性が逆襲できる場があるのは健全な気がするし、胸がスカッとする。もちろん、冤罪なんてひとつもあってはならないが、「やろうと思えば、アンタなんか潰せるんだよ、ふふふん」と、女性が強気に感じていてもいいと思う。

男のほうが上だからと威張っている男たち。世間に目を向ければ、カッコいい男や優秀な男なんて、それほどいやしない。それなのに、男、というひと括りで、「俺たちは上だから」とあぐらをかいている男が多いのもまた事実。そんな神輿は早々に崩れ落ちるべきだ。

吉田拓郎の今日までそして明日から、を口ずさみ終えた頃、ちょうどホテル街も終わり。両サイドに続く嬢待ちの車も見当たらなくなった。あれこれ思考を逡巡させてはみたが、辿り着いた答えは、自分は誰に「ありがとうね」を言うのだろうかということ。おっ! ちょうど大通りを渡ったところに、コンビニエンスストア発見! 手に持つ缶ビールも底を突いたし、買い直すか。

人生は特に難しく考えることなかれ。缶ビールの酔いに任せて生きればよい。気づけばレジ対応してくれた、将棋棋士の加藤一二三九段似のおっちゃんに、甘いトーンで「ありがとう」と言っていたじゃあないか俺。今宵も美味なる缶ビールを、ありがとう。

デタラメだもの。

20170611

新幹線で窓側の席から順に指定席が埋まって行く原理が分からない。『デタラメだもの』

新幹線の座席が、窓側から順に埋まって行く原理が分からない。
左側にシートが3列あって、中央に通路を挟み、右側にシートが2列。それぞれにアルファベットが付されていて、左の窓側から順に、A、B、C、通路があって、D、Eってな具合。AとEが窓側で、CとDが通路側。B席は、窓側と通路側の座席に挟まれている。

そこにニーズが集中しているからなのだろうが、なぜ、窓側から順に指定席が埋まっていくのかが分からない。まったくもって意味が分からない。

何を隠そう、僕は、奥まった座席が大嫌いだ。新幹線はもちろんのこと、居酒屋でも映画館でもそう、とにかく奥まった座席が大嫌いだ。その理由はひとつ、自由が奪われるから。

居酒屋などでも、奥まった座席に座ってしまうと、自由にトイレに行けなくなる。行きたいと思ったときに行けなくなる。
自分が尿意を催してトイレに立とうとしたとき、手前側の座席の連中の話が大いに盛り上がっているとする。それを遮ってトイレに立つことが罪悪に感じる。さすがにそれはできないや、ということで、尿意を我慢する。しかし、そんなときに限って、話の盛り上がりが鎮まる気配がない。尿意は増すばかり。膀胱が破裂しそうになる。
もう、あかん。さすがに座席で小便を漏らすわけにも行かないので、限界が来たところで、衝動的に立ち上がる。すると、タイミング悪く、連中たちの話の流れが、今まさに、大オチを言わんとする瞬間だったりする。完全に水を差してしまう。空気の読めない奴。小便を漏らす代わりに、ため息を漏らされる始末。

だから、奥まった席は、大嫌いだ。

その昔、ある恋愛系の映画を映画館に観に行ったことがある。奥まった座席しか空いていなかったこともあり、観ることを躊躇したが、「まぁ、2時間ちょっとぐらいなら、なんとかなるでしょ」と、気軽に考えたのが運の尽き。映画がスタートするや否や、自分の奥まった席への苦手感、恐怖感を強く意識してしまい、その意識が尿意へと直結。開始数分後から、尿意を催す事態に。

物語の進行に伴い、尿意もどんどんと進行。膀胱は破裂せんばかりに膨れ上がっている。体を前後左右に揺らして気を紛らわせていないと、耐えられないほどに。おそらく、後ろの座席のお客さんは、僕のことを、さぞかし不審な人間だと感じていただろう。

しかし人間には限界というものがある。もはや、尿が尿道の先までせり上がってきており、それを自らの親指と人差し指でつまみ、物理的に尿道を閉じている状態にまでなっていた。おしっこを我慢しているんじゃあ、ないんだぜ。おしっこが出やんとしているのを、指でつまんで栓をしているんだぜ。どれほど限界か分かるだろう?

もう、あかん。さすがに座席で小便を漏らすわけにも行かないので、衝動的に立ち上がる。奥まった座席に座っていたので、10人近くのお客さまの眼前を、手刀を切りながら横切る。
皆さん、リラックスして観賞していらっしゃるため、前の座席の背に足を伸ばしていたり、人によっては靴を脱いでいたり、もちろん足元には皆々様のカバンやらが据え置かれている。
小声で「すみません……」を連呼しながら横切っているとき、ふと、スクリーンに目が行った。すると、そこに映し出されていたのは、あろうことか、中盤のクライマックスと思しき場面。主人公とされる二人が乗った飛行機が南の島に不時着し、孤独感や不安感やらが二人の絆と愛をさらに深め、今まさに接吻しようと顔を寄せ合うシーン。
おそらく制作サイドは、この場面に、中盤のすべての力を注いだであろうシーン。ふはははは、こんな大事な場面で、小便を漏らす寸前のクソ野郎が、観覧者たちの眼前を横切るとは、誰ひとりとして予想もできなかったであろう。ふははははは。

今思えば、10人近くのお客さまの眼前を横切るとき、4度ほど、舌打ちされた気がする。ロマンチックな気分に水を差すクソ野郎。舌打ちだけで済んで幸いだった。

トイレに行くということは、トイレから戻ってくるという行為もつきまとう。となると、もう一度、あの10人近いお客さまの眼前を、今後は反対側から横切らねばならない。こいつ、何回邪魔したら気が済むねん。そう思われるのは間違いない。恐すぎる……。想像するだけで、小便がちびりそうになる。あっ。小便は今、出してきたところか。

恐怖に縮み上がり切った僕は、もう館内には戻らない、という選択肢を採った。だから、あの後、物語がどうなったのか、僕は知らない。知りたくもない。

後日、ガヤガヤしたコメディー映画なら、メンタル的な影響も少ないだろうということで、「ヨハネ・クラウザーII世」という神がかったキャラクターに仕上げられた草食系シンガーソングライターが、あろうことか、デスメタルバンドで活躍してしまうという痛快愉快な映画を観に行った。
客たちもガヤガヤ、映画そのものも、爆音激音が流れる激しいもの。何ひとつ気にすることなんてない。今回も奥まった座席だったけれど、何の問題もない。

気づけば、ラストシーンのちょうど手前で、手刀を切りながら、お客さまの前を横切る僕がいた。

そんなこともあって、僕は、奥まった座席が大嫌いだ。
新幹線なんて、窓側に何のメリットがあるんだ? 理解できない。寝たいと思ったときに、肘をついて眠れるからか? 上着をかける簡易フックが利用できるからか? 壁に設置されたコンセントでスマートフォンが充電できるからか?

いやいやいや。そんなしょうもないことで、数多の自由を奪われてなるものか。私は通路側にしか座らない。通路側以外に座らされようもんなら、連結部分のあたりに立ったまま目的地まで踏ん張ることを選択する。窓側なんて、死んでもいやだ。

だって、トイレに行きたくなったとき、得意先から携帯が鳴ったために、連結部分まで移動し電話を折り返さねばならないとき、喫煙室でタバコを吸いたくなったときに、通路側の奴や、AとCに挟まれた座席であるB席の奴が、簡易棚を下ろして食事していたらどうするんだ? 簡易棚の上にノートパソコンを広げて仕事をしていたらどうするんだ? 手刀を切ってその作業を中断させ、横切るのかい? もし、通路側の奴の足元にありえないくらい大きな荷物が置かれていた場合、もしくは、B席の足元にも通路側の足元にも、どちらにもありえないくらい大きな荷物が置かれていた場合、どうやって席を立つんだい? もしそいつらが寝入ってしまっていた場合、どうやってそれをどかすんだい? 手刀だけじゃ済まないぜ。最悪の場合、B席とC席、どちらの席の奴も、足元に巨大なカバンを置いていて且つ、簡易棚を下ろしその上にノートパソコンを開いた状態で、さらにそいつらが熟睡してしまっている場合は、どうするんだい? それらすべての難題を解決した上で、トイレに行く勇気と覚悟があるのかい?

僕には、ない。

だから僕は、新幹線の指定席で、窓側を選ぶ人の気持ちが分からないし、窓側から順に席が埋まっていく原理も分からない。常に同じ現象が起きていることを考えると、僕のほうがマイノリティだってことも分かる。だけど、なぜ、こちら側がマイノリティになるのかの原理が分からない。

僕にとっては、金を失うことや地位や名誉を失うことよりも、行きたいときにトイレに行ける自由を失うことのほうが、よっぽど恐怖なんだ。

デタラメだもの。

20170514

おっさんが我慢しても抗えないものそれは、えずく、という忌まわしき生理現象。『デタラメだもの』

若い頃には、なにを大げさな、と思っていた。そんなわけあるかいな、と思っていた。芝居じみて、誇張した所作だと思っていた。それが今や、当たり前になった。とにかく、えずく。

おっちゃんたちが、歯を磨くとき、歯ブラシを奥歯のほうに突っ込み、「おえっ!」と言って、えずく。「おえぇぇっ!」と言って、えずく。あれは大げさな芝居だと信じていたのに、気づけば、毎朝えずいている自分がいる。そして、とかく、口の中、奥が弱くなった。

ただ、えずいているだけなら、それほど生活に支障はでないものの、あからさまに支障をきたす場面がある。それが、歯医者。
子どものころは、「あの音が嫌だ」「痛いから嫌だ」などと、直接的なことに嫌悪感を抱いていた歯医者も、今では、「えずくから恐い……」に変わってしまった。人間、痛みには耐えられても、えずくことには耐えられないんだな、これが。

ちょっとばかり以前の話。奥歯に不具合が出たため、歯医者に通うことに。初日からやっちまった。
奥歯の様子を撮影するとのことで、「これを噛めば局部の写真が撮れるんです」なんてハイテクノロジーなフィルム型のアイテムを口の奥に突っ込まれた。もちろん、えずく。「おぇぇぇっ!」。
撮影は滞る。できの悪いグラビアアイドルの如く、時間ばかりを食わせてしまう。恐縮する。焦る。でも、えずく。シャッターは一向に切られる気配がない。なぜなら、えずいていることが原因で、うまくそのハイテクノロジーな機械を、上下の奥歯で噛めていないからだ。

涙目になりながら、なんとか局部の撮影を終え、初日の治療は終えた。
しかし、その後の治療が地獄だった。奥歯を削り、型を取り、銀歯をはめ込む作業。どの工程が地獄かっていうと、型を取る、それである。

虫歯の治療をしたことがある人はご存知かと思うが、型を取るためには、なにやらゴムみたいなガムみたいなやつを噛まねばならん。そいつが固まるまでの間、ずっと噛んでおかねばならん。こんなにも科学や技術が進歩した今の日本にいながら疑問に思う。あのゴムみたいなガムみたいなやつ、なんであんなにデカいの?

診察台はフラットな状態。ゴムみたいなガムみたいなやつを噛みながら、僕は天井を見つめる。ゴムみたいなガムみたいなやつは、大胆に喉の奥に触れている。今にも吐き出してしまいそうだ。でも、ここでこれを吐き出してしまっては、治療が滞るどころか、ゴムみたいなガムみたいなやつを無駄にしてしまう。医師は怒り出すかもしれない。どつかれるかもしれない。でも、今にも吐き出してしまいそうなほど、えずくのを我慢している。

あまりの苦しさに、目には涙。天井で灯る電灯の光が涙で滲み霞んでくる。もうあかん。いや、まだ行ける。そう自分に言い聞かせ、吐きそうになるのを我慢する。心の中で、大事MANブラザーズバンドの『それが大事』を口ずさむ。負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと。ゴムみたいなガムみたいなやつを吐き出すなとは、大事MANブラザーズバンドも言ってない。ってことは、吐き出して、楽になってもいいのか。俺はやる。俺は、もうやる。吐き出してやる。限界だ。こんなもの噛ませやがって。俺は噛ませ犬じゃないぞ。下らん。

そのとき、医師の声がした。
「起き上がって、うがいしましょう」
その言葉に僕は突き動かされた。目にもとまらぬ速さで起き上がり、ゴムみたいなガムみたいなやつを吐き捨てた。そして、喉の奥にたまっていた大量の唾液を垂れ流す。不幸にもその日僕は、ベージュの綿パンを履いていた。吐き出した唾液は、ちょうど股間のあたりに。完全に尿漏れだ。その量からして、残尿じゃあない。本尿だ。恥ずかしい。恥ずかしい。

そのトラウマを抱えた僕は、別の奥の銀歯が老朽化に伴い取れてしまった状態を、もう二か月も放置している。歯は治したい。しかし、えずくのだけはごめんだ。当面、当該箇所を治療する予定は、ない。

そうやって、えずきから遠ざかっていたある日。風邪をこじらせ、抗生物質をもらいに耳鼻科に行くことになった。普段はめったと病院には行かないものの、生活に支障が出るほどに症状が悪化していたし、他人に伝染してしまっては迷惑だとも思い、診てもらうことに。地域で信頼を集めている耳鼻科は、朝から強烈に混雑していたため、近所に最近できた行ったことのない耳鼻科へと向かう。その時の無垢な僕は、喉の診察にも、えずきが付き物だってこと、地獄のようなショーが待っていることを知る由もなかった。

自転車を止め、病院のなかに入る。待っている患者さんの姿はない。受付には、暇そうな看護師さんが3人ほど。最近できたばかりの病院だからか、外装も内装もとてもきれい。その新築っぽさが、なんだかこの病院の信頼度の低さを感じさせた。

待合室でかばんから小説を取り出した瞬間に、診察室に入れと名前を呼ばれる。待っている患者さんがいないためだ。すこすこと診察室に入る。するとそこには妙な光景が。それなりに年配でとても背が低く、それでいて色黒のスキンヘッドの先生が、そのツルツルの頭に、なんていうの、ハチマキみたいに頭に巻くタイプのカメラをセッティングして待ち構えていた。それだけでも違和感があったのに、診察室内には、先生のほかに看護師が3人。しかも、3人のうち2人は、机に座る先生の奥へと連なるように、並んで座っている。すっごく狭い診察室のなかに。意味がわからん。帰りたい。帰りたい。だから病院は嫌なんだ。帰りたい。

帰りたい願望はあっけなく無視され、丸椅子に座れと促される。「どうされましたぁ?」と先生。なんと、低身長、スキンヘッド、色黒、年配、頭にはスポーツカメラ的なやつ。特徴の海鮮丼的なキャラクターに加えて、おねえ口調という特徴まで持っていらっしゃった。恐い。帰りたい。なんで、おねえっぽいくせに、小狭い診察室に、若い看護師を3人も従えてやがるんだ。帰りたい。奇妙過ぎる。なんか医療ミスされそう。

かつてないほどの不信感に襲われながらも、喉のチェックをされることに。
まずは定番。銀色をしたアイスの棒のようなもので、舌の奥を押さえられながら、喉の炎症をチェックされるやつね。子どもが嫌がるやつね。あれね。子どもは嫌がるだろうが、こっちは大人だぜ。社会の荒波に揉まれて、日々戦ってるんだぜ。子どもとの違いを見せつけてやんよ。
誤算。この年齢になった僕は、舌の奥に異物を入れられることを、子ども以上に嫌がる人間に成り下がっていたのだ。

銀の棒が挿入される。舌の奥に触れる。条件反射的に、えずく。口を閉じる。口を大きく開けて「えーっ」て言ってくださいねと促される。再挿入。再接触。えずく。再閉口。それを数度繰り返すうち、チラッとだけ症状が目視できたのか、次のフェーズへと進んだ。赤茶色した薬品みたいなやつを、炎症部に塗るというやつ。今しがた繰り返したやり取りを再度行う。さすがに先生も痺れを切らしたのか、局部に塗るというよりも、まるで喉の奥にスイッチがあって、それを瞬間的にツンッと押し込むような程度に薬品を塗るという高等技術、要約すると、面倒臭さを全面に押し出したような処置でもって、局部に薬品を塗る工程は終了した。

そして、ついにはじまった地獄のショータイム。
これまでの工程で、極度にえずく体質の人間、要約すると、おっさん体質だということが判明したにも関わらず、あろうことか、喉の奥に細長いカメラを通して、局部を撮影します、なんて言い出しやがる。おいおい、こいつ正気か? あんたの顔面に、吐しゃ物ぶっかけちまうぞ?

あの丸椅子に座ると、もはや拒否権はない。黙秘権を行使しても、診察は続く。年配のおねえ色黒スキンヘッドの先生が、僕の前に立つ。顔を上げさせられる。「はい、大きく口を開けて、えーって言ってください」。細長いカメラが口のなかに。その時点で、えずく。脳はカメラを拒もうとするため、口を閉じさせる。「口は閉じないでください。大きく開けて、えーって言って」。それは理解している。充分過ぎるほど理解している。頭で理解できていても、体が動かないってこともあるだろうよ。頭のなかで100メートルを8秒で走りたいと念じても、体はそれをやってくれないだろうよ。だから、僕にはそれができないんです。勘弁してください。

何度いっても言うことをきかない相手に、苛立ちはじめたのか、徐々におねえ口調が、お叱り口調に変化してきた。「だからぁ……。口は閉じないでっ! えーって声に出したら、口は勝手に開くからさぁ」。そのとき僕は、えずくのを我慢するのと、目の前の低身長年配おねえ色黒スキンヘッドの先生の指示に従わねばという義務感とに板挟みになっていた。あらん限りの力で瞳を閉じ、目じりには涙が溜まっていたことだろう。そしてついに声を絞り出した。

「あーーーーーっ」

ひとつの発見があった。えずくのを我慢しながら口を大きく開けた状態では「え」の母音は言えない。「え」の口の形にしたとしても、発音されるのは「あ」になる。すごい発見だ。怪我の功名とはこのことか。
「だからぁ……。あ、じゃなくて、え、だってば! アッカンベーってできる? アッカンベーしたら、勝手に、え、って言えるからさぁ……。あとさぁ、別に目は閉じなくていいから」
新たな発見に酔いしれていた僕に、とんでもない侮辱が降り注いできた。きっと、先生はもちろんのこと、周りにいるであろう3人の看護師たちも、僕のことを見下しているに違いない。こいつ、え、も言えないでやんの。え、って言えって言われてんのに、あ、なんて言いやがんの。アッカンベーもできないでやんの。恐くて目を閉じてやんの。

腹を括らねば帰れない。吐しゃ物出てもええわい。そして絞り出した「えーっ」と「あーっ」の中間の音。英語のappleのaの音。あんな感じの、汚ねぇ音が出た。そこに勝機を見出した先生は、即座にカメラを喉の奥に押し込み、シャッターを切った。それはそれは、一瞬の出来事だった。
「はい、終わりです」
助かった。解放された。吐しゃ物出さずに済んだ。

丸椅子に正しく着座する。改めて先生と対峙する。先生は僕に症状やらを伝えてくれている。と同時に、先生の奥に腰掛ける2人の看護師のうち手前の人が、先生の前に設置してあるパソコンのキーボードに、おそらく僕の症状であろうフレーズを打ち込んでいる。なんかおかしくないか?
たとえば、ピアノの中央に看護師1名、高音の鍵盤付近にもう1名、低音の鍵盤付近に先生が座っているとしよう。普通、低音の鍵盤付近に座っているのは先生だから、低音パートは先生だよね。でもって、パソコンとキーボードは、低音の鍵盤付近にある。それなのに、ピアノの中央に着座した看護師がキーボードを打つもんだから、なんていうのか、先生が邪魔で邪魔で低音弾けません的な、ものすごく窮屈そうに入力している。恐い恐い。なにここ? ほんで、高音の鍵盤付近の看護師は、なんでそこに座ってるの。一般的な事務デスクくらいのサイズしかないのに、なんで、先生と看護師2人とがギュウギュウになって一緒に座ってるの。こんな滑稽な光景、生まれてはじめて見た。恐い。帰りたい。

「扁桃腺が腫れて炎症起こしてますね」

でしょうね。扁桃腺が腫れて炎症を起こしていると思って診察に来た者ですと、遅ればせながら自己紹介してやろうかと思ったが、おとなげないのでやめた。このひと言を聞くために、あんなに大それた、えずき、との対決を経なければなかったのか。あんなにも地獄のような時間を過ごさねばならなかったのか。割に合わない。やっぱり病院なんて、二度と来たくない。そして、喉の奥に異物を入れられる系の施術も、二度と受けたくない。と、心に誓った。

が、ここ数日、再び熱い戦いに出ろと俺様に言わんばかり、銀歯が取れた奥歯がズキズキと痛みやがる。

デタラメだもの。

20170430

こんなにも大将がスタッフを怒鳴りつける飲食店はかつて見たことがないぞ。『デタラメだもの』

頑固な大将がやってる寿司屋で、センスのない食べ方をした客が喝を入れられる。こだわり派の大将がやってるラーメン屋で、ペチャクチャおしゃべりしながら食べていた客が喝を入れられる。こういうのは、たまに聞く話。客は、そんな大将の態度よりも、余りあるほどの美味な食を求めて通う。これほどの味を提供してくれるんだから、大将の態度も仕方ないよね。むしろ、頑固な大将、こだわりの大将の存在も、店の価値を高めてるって、客自身が、自分の解釈で、店を良しとする。そんな話は、たまに聞く話。

職場近くに、お昼どき、サラリーマンたちがごった返す、焼きスパゲティの店がある。数種の限られたメニューしか提供せず、オフィス街の昼どきとあって、豪快で且つ、目にもとまらぬ速さで調理してくれる店。働き盛りのサラリーマンたちの胃袋を、十二分に満たしてくれる店。安く、そして量が多い。とてもありがたい店なのである。

ところがだ、その焼きスパゲティ屋、なにが曲者かって、大将が恐すぎる。どう恐いかって、店のスタッフに対する態度が、度を超してひど過ぎる。
「シバく」「殺す」「ボケ」「カス」は当たり前、狭い店内の中、ぎっしりの客の中にいて、店のスタッフさん、おばちゃんのときもあれば、おねえちゃんのときもあるが、これらの暴言を吐かれまくり、半泣きになりながら働いている。それはそれは異様な空間。さすがにそういったパワーハラスメントに耐えきれず、同じスタッフさんを二度は見ないほどに、入れ替わりが激しい。

皿を片付けようと、大将の後ろを通れば、「お前、邪魔なんじゃ、ボケ!」と言われ、皿洗いをしている最中に、大将から調味料を取れと指示を受け、それを優先で対応していると、水が流しっぱなしにしていたため、「水くらい止めろや、どアホ! 殺すぞ!」と言われ。とうてい、飲食店内で聞けるフレーズではない。

また大将、小声でやればいいものの、豪快な調理スタイルに任せて、そのままの勢い、大声でスタッフさんを怒鳴る。スタッフさんの顔が強張る。それを見て、「ボケッとすんなや! シバくぞ!」と、またしても怒鳴られる。それがいつもの流れ。

その店には、たまに後輩と訪れる。うどんやら安い定食やらを中心に食している昼どきに、焼きスパゲティを提供してもらえるため、本来ならばもっと重宝したい。
後輩と二人、焼きスパゲティを食することに、いつもちょっぴりワクワクしながら店内に入る。数種しかない限られたメニューのなかから、どれを食すか選んでいる間、さらにワクワクは高まる。注文した焼きスパゲティが運ばれ、ひと口。これがまた、なかなかうまい。気分を弾ませていると、今日もやっぱり、大将の暴言。スタッフさんが怒鳴られ、辱められ、貶められ、凌辱される。そのBGMを耳にしていると、だんだんと心が痛んでくる。後輩と二人、無言になる。悲しい気持ちになる。「やめてあげて……!」と、悲痛な叫びを、心の中で響かせる。焼きスパゲティの味が分からなくなる。

いたたまれない気持ちになり、ただただ無心で焼きスパゲティを胃袋に押し込み、椅子から立ち上がる。「ごちそうさまでした」。大将とスタッフさんにお礼を言うと、「いつも、あっりがとうございやすー!」と、満面の笑みを浮かべ、腰を低くして返礼する大将。いやいや、その笑顔には騙されないぜ。だって、あんた、そんな人間じゃあ、ないだろ。僕たちの目の前で、スタッフさんに怒鳴るわ、キレるわ、暴言吐くわ、そっちのほうがあんたの本性だろうよ、そんな付け焼刃のお客様第一主義的な笑顔には、騙されないぜ。だってさぁ、「あの人、ニコニコしてるけど、裏があるよね」とはよく聞くが、裏の顔を、表の顔以上にたっぷりと見せつけられたら、もはやどっちが裏か表か分からなくなるズラ。そう思いながら、いつも店を後にする。

ところがだ、ここ数回、スタッフさんは変わらず、同じ女性。ということは、大将という厳しい試練に耐えているのだろう。もちろん、大将の性分が丸くなったわけでもなく、そのスタッフさんが、殊更に優秀なため、大将の怒りに触れないということもない。
焼きスパゲティを平らげる時間のうちに、平均して四~五回は怒鳴られている。仮に焼きスパゲティを注文して平らげるまでの時間を、二十分としよう。二十分のうちに約五回怒鳴られていると仮定して、ランチの営業時間が三時間と仮定すると、都合、一日のバイト中に、四十五回は怒鳴られていることになる。僕がもしそこでバイトしたなら、初日は耐えられたとしても、翌日は店には足が向かないだろう。もしかすると、初日の途中で、逃げ出すかもしれない。もしくは、手近にあるフライパンで、大将の頭をどつきまわしているかもしれない。

それがだ、ここ数回、スタッフさんが変わっていない。暴言の精神的苦痛は、変わらず続いている。それなのにだ、その女性スタッフは辞めていない。なぜだ。なぜだ。考えろ俺。それがなぜかを、目から血が出るほどに考え抜け、俺。

そして思いついたのが、こりゃ大将、閉店後に抱いとるな。

その昔、学生の頃、不良と呼ばれる男子たちが、ふとした瞬間に優しい素振りなんかを見せると、女子たちはキュンキュンして、「めっちゃ優しい!」と、一気に胸をときめかせていたことはなかっただろうか。
日ごろ恐い奴、悪い奴が、急に優しくすると、レバレッジが効いて、極端に優しい人間に見える。そして、それに惚れる女子が、なんと多いことか。
ちなみに、日ごろから優しくしている奴は、ある瞬間、その優しさを欠いてしまうと、「偽善者」だの「本性はクズ」だの「終わってる」だの言われる。ちなみに、僕は圧倒的に後者。合計すると、優しさの回数は、恐くて悪い連中より多いにも関わらず、あっちは加点方式、こっちは減点方式。日ごろから人に優しくしている人間は、そうやって損をするケースがある。お分かりだろうが、焼きスパゲティの大将は、もちろん前者。

だからだ。店を閉めた後に、スタッフさんを抱きしめているんだぜ、きっと。抱きしめる以上のことをやってるんだぜ、きっと。その刹那、スタッフさんは、営業中に受けた恐怖やら悔しさのすべてを、テコに乗せ、原理を利用し、バッチーン! と、逆サイドに振るわけだ。そりゃもう、大将が魅力的に見えて仕方がないわな。法律で規制されている、やっちゃあいけないお薬を服用しながら、性交渉などをすると、平常時よりも快感が味わえるとはよく耳にするが、そういう類の現象と同種のものだろう。普通の人では受けることのない仕打ちをさんざん受けきったあとの、男の優しさ。かなりの快感と、中毒性が予想される。もちろん、次の日も、スタッフさんの足は、店へと向かうだろう。否。店ではなく、閉店後の大将の優しさへと向かっているのかもしれない。
家庭内暴力を受け、どれほどダメ男と分かっていても、そいつと離れられない女性がいると聞く。そんなタイプの女性も、同種の価値観を持っているのかもしれない。きっとそういう男は、打ちのめした後の女性に対し、「あれもこれも、ぜんぶ、お前のため」なんて撫でた声で言ってのけ、それに対し女性は「うれしい……」なんて、涙を流したりするんだろうなあ。

ということで、何が言いたいかってえと、基本的には、店側がスタッフ同士の揉め事を、客に聞かせるのはご法度だと思う。気分も害されるし、せっかくの食事が、マズくなる。しかし、閉店後に抱いてる場合は、良しとしよう。需要と供給が成り立っているから、こっちだって、心を痛める必要がないんだもん。それは、一種のプレイということだろ。僕らは、ある種のプレイを見せつけられながら、焼きスパゲティを食しているということで納得できる。良かった。これで、なんら気を遣わずに店を訪れることができる。

そんなことを考えながら、ナポリタンを食べていると、急にスタッフさんがおそるおそる大将に声をかけた。

「24番さん、ナポリタンじゃないです。明太子です」

どうやら、あまりの忙しさに、大将が24番テーブルのお客さんのオーダーを聞き間違え、違ったメニューで調理し切ってしまった様子だ。焼きスパゲティとは言え、調理には、それなりの時間を要する。待ってる側からすれば、今から作り直されるのはかなりの迷惑だ。なんせ、時間のないお昼どき。さぁ、どうする、大将。

「おい! とりあえず、24番に、作り直すから時間くれって言え!」

でました、逆ギレ。自分がミスしたにも関わらず、スタッフさんに怒りをぶつける。そして、何より、狭い店内。大将がスタッフさんに怒り交じりで発したその指示、当然のように、24番さんの耳にも入っている。耳を塞いでいたとしても、きっと聞こえていただろう。

スタッフさん自身が指摘してあげたのに逆ギレされたことで、スタッフさん、「え?」と、一瞬、理解ができない、といった表情に。それを見た大将。「はよ言いに行けよ! カス!」。こんな華麗な逆ギレ、かつて見たことがない。あまりの迫力に、スタッフさんは、即座に24番さん卓へ。

「すみません。作り直しますので、お時間いただけませんでしょうか?」

24番さんからすると、それ、さっき大将の口から聞いた。否。聞こえた。
もはや24番さんは、「はい……」としか言いようがない。しかも、なんか僕が明太子をオーダーしてしまって、店の調和を濁し、大将のミスを誘発し、それによってスタッフさんが怒鳴られるという、悲惨な事態を巻き起こしてしまって、なんかすみません。自分のせいじゃないのに、謝罪を強制されるような空気。

スタッフさんは、怒鳴られたこと、辱められたこと、お客さんを気まずい空気に巻き込んでしまったこと、それらを気にして、今にも泣き出しそうな表情。恐かったんだろう。辛かったんだろう。悔しかったんだろう。でもね、これだけは言ってあげたい。今日の閉店後は、うんと気持ちいいことが待っているぜ。

デタラメだもの。

20170311

結局、センスあるヤツが大勝する。それすなわち、倍音を持っているかどうかなのだ。『デタラメだもの』

倍音。
辞書で調べるとそれは、『振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音。ハーモニックス。』とある。
歌がうまい人とカラオケなどに行けばわかる。もしくは、プロの歌手の生歌を、すぐ近くで、できればマイクを通さず、生声のまま聴いてみれば分かる。その声に、多分に倍音が含まれていることを。

端的に言うと、「ド」の音を出したとして、その音の周りに、なにやらぼんやりと、オーラというか雰囲気というか色気というか、「ド」を取り巻く謎の音群が存在していて、それが「ド」をよりどっしりと響かせ、まるで周りの音、「レ」や「シ」までをも包含せんとする音の広がりを感じさせる。すなわちそれ、安定感。
だから、倍音を持つ人の歌声を聴いていると、音を外すということが滅多とないことに気づく。それは音感がいいって類のもんじゃあなく、もしかしたら微妙に音が外れているのかも知れないが、その微妙なズレさえも、倍音の幅がカバーして止まない。だから、すごく安心して歌に聴き惚れることができる。

一方、倍音の持ち主でない人の歌声は、聴いていて不安になる。その代表格が俺。倍音を持たぬ人間は、か細い槍のようなもので音を捉えに行くため、安定もしないし、音のズレも目立ってしまう。倍音を持っている人の音のズレは、倍音で補正してくれるが、倍音を持たぬ人の音のズレは、誰も補ってくれない。孤軍奮闘。もう、そうなれば、歌うのなんてやめちまって、倍音を持つ人の歌声をただただ聴くに限る。あの倍音が、聴く人を酔わせるのであって、倍音を持つ人の歌声は、多くの女性たちはもちろんのこと、男性さえもうっとりさせることだろう。

ふと考えた。倍音は、音だけにあらず。それを総じて、センスと言ってみようと思った。
たとえば、ファッション。「何着ても似合うよね、あんた」と言われる人がいる。そういう人は、ファッション的な倍音の持ち主なんだと思う。ファッションの倍音が、多少のズレをも「アリ」にしてくれる。だから、どんなジャンルの服を着ても、似合って見えるし、魅力的に映る。

一方、ファッションにおける倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であるが、その場合、「なんか着せられてる感がハンパないよねぇ」とか「無理してるぅ」とか「ダサい」とか「臭い」とか散々言われる。それは、ファッション的な倍音を持っていないがため、自分に似合う服装というのが、幅ではなく、か細い槍の如く、突く際に多少のズレさえも許されない。そういう人間は、自分磨きや服そのものに金をかけても無駄。さっさと、自分に似合うか細い槍の突き先、要するに、このTシャツにこのジーパンにこの靴、といった固定の組み合わせを見出し、永遠にそれを身に着けるほかない。

髪型だってそうなんだ。髪型的な倍音を持っている人間は、伸ばしてもよし、ナナメに別けてもよし、短くしてもパーマをあてても、坊主にしたって似合う。倍音がその魅力を補ってくれるから。
一方、髪型的な倍音を持っていない人間、その代表格は俺、であり、そういった人間が、倍音を持っている人間と同じような髪型にしたところで、「なんか違和感」とか「似合ってない」とか「古臭い」とか「臭い」とか散々言われる。悪かったなあ! と啖呵を切ってみたところで、髪型的な倍音を持っていない自分に非がある。

そう言えば、中学生の頃、ハリウッドスターに憧れ、ハリウッドスターのような髪型にすればモテるだろうと、映画雑誌を買い込んで、レオナルド・ディカプリオの髪型を自分なりに真似てみたところ、極度のクセ毛の持ち主である俺の髪型は、レオナルド・ディカプリオどころか、昭和の漫才師のような仕上がりに。しかし、その仕上がりの粗末さにも気づかず、自分がレオナルド・ディカプリオになったつもりで、ふふふんと鼻歌を歌いながら、街を闊歩していた。今思えば、抹殺したい、そんな奴。
その後、青春パンクに憧れ、髪を無造作に伸ばし、無頼者のパンクロッカーを気取っていたところ、周りから、昭和のフォークシンガーがいるだのなんだの噂され、これまた抹殺したい衝動を、今この瞬間、抑えきれない自分がいる。

あれもこれもすべて、自分に倍音がないがため。髪型の倍音を持ち合わせていないだけでなく、自分を客観視する倍音さえもないがゆえ、こんな恥さらしな生き様を露呈してしまう結果になるのである。

倍音を持ち合わせていない代表格の俺が、倍音の持ち主を見分ける方法を教えてやろう。もちろん、歌を聴いたり、服装や髪型を見れば一目瞭然なわけであるが、もっと単純な見分け方がある。それは、倍音の持ち主に対し、「倍音の持ち主ですねぇ」と伝えること。つまりは、「めっちゃ歌がうまいですねぇ!」とか、「めっちゃ服似合ってますねぇ!」とか、「どんな髪型しても似合いますねぇ!」と、賛辞を提供してあげる。
ひとつも倍音を持たない自分のようなクソ野郎は、その瞬間、「え? やっぱりそう思う?」感が出てしまうのである。顔が一瞬、緩むというか、下品な照れが出るというか、なんかそんな類の反応が見てとれるわけ。

一方、倍音を持つ人というのは、賛辞の言葉に対しても謙虚な対応を取れるという倍音まで持ち合わせているため、そんな賛辞の言葉を受け取ったとしても、「そんなことないんですよぉ」とか「適当にやってるだけなんですけどねぇ」と、こちらが用意したトロフィーを受け取ることを辞退しようとする。これこそが、倍音の持ち主かどうかの簡単な見分け方。トロフィーを辞退する人か、ぬへへと下卑た笑いを浮かべるタイプか。ちなみに、後者の代表格が俺。

そんな害虫のような俺が、唯一、倍音を響かせていると噂される場所がある。それは、生ビールが二百円代の居酒屋でベラベラと喋っているときだ。どうやら、生ビールが二百円代を超え、三百円代に突入する店になると、その倍音は消えてしまうらしいが、二百円代のリーズナブルでコストパフォーマンスだけがやたらと高い居酒屋では、倍音が出ているようだ。要するに、安い店で安酒を呷っていると、意気揚々と倍音が出るらしい。むろん、安い店じゃなければ、委縮して、その倍音は鳴りを潜めてしまう。究極に条件つきの倍音があるんだそうだ。

トークの倍音というものも、確かに存在する。同じ話でも、彼がしゃべると爆笑、ヤツがしゃべると沈黙、そういう状況に出くわしたことのある人も少なくないだろう。ネタ振りや声の抑揚、音の高低など、トークにもしっかりとセンス、すなわち倍音は存在する。

そんなこんなで、本日も安居酒屋。お得意の倍音を響かせ、我、トークの覇者なり、と言わんばかり、大声を張り上げ、唾を飛ばしながら、快活に語る。後輩相手に、我こそ、トークの覇者なり、と言わんばかり大げさに語る。安酒を呷りながら、ふと自分を冷静に見つめてみる。この年齢にもなると、ようやく自分を客観視できる類の倍音を身につけはじめたらしく、時に冷ややかな目で自分をPDCAサイクルできるときがある。

ん? ちょっと待てよ? 俺の倍音、低くないか? 下のほうの音ばかりが響いているぞ。下のほう? そうか、下ネタか。さっきから俺、下ネタしか喋ってへんがな。下のネタしか響かん倍音。安居酒屋で且つ下ネタでしか響かない倍音。果たしてそれが、人の心に響くと言うのだろうか。まあ、ええわ。人は人、俺は俺。なんにもないよりマシか。

そう思いながら、チャプチャプになったお腹へと、さらに安酒を流し込む、場末の居酒屋。そろそろ、一軒につき、アテ一品の経済状況から卒業し、アテの二品でも注文できるくらいの収入が欲しいところだ。

デタラメだもの。

20170128

当たり前を疑うには、まずは泣き寝入りして払っている料金からはじめてみるべきだ。『デタラメだもの』

当たり前というのは、いつからそれが当たり前になったのか不明だ。もはや当たり前になり過ぎていて、なんら疑いも持たんけれども、その実、それが当たり前のことじゃあない場合だってあるんだなってことが、たくさんあり過ぎて、今日も仕事をしながら終始、別のことを考えながら業務に従事する。

テレビのせいなのか、親のせいなのか、教師のせいなのか、兄弟のせいなのか、友人のせいなのか、恋人のせいなのか、本のせいなのか、自分のせいなのか、思考の中に当たり前という概念を作り上げてしまった僕たち私たちは、今日も疑うことなく毎日を過ごす。

よくよく考えてみれば、これほどまでに謎の多い身体の仕組みを持っている人間。怪我をしたらやがて治ったり、アルコールを飲めばやがて分解してくれたり、眠った後はしっかり目覚めてくれたり、快感を覚えれば出るものもでる。ふと臓器のある部分に不可思議な痛みを感じたとしても、それをすぐに忘れてしまえるほど、身体の中では、何かが起こり何かを治癒してくれているんだな、当たり前のようでいて、それがほんまに当たり前のことなんか? 疑ってもみたくなる。

と、そんなスケールのデカい話をしたかったわけじゃあないんだ。僕のように矮小な人間にとって、そんなスケールのデカいことを考えている余裕なんてない。もっとちっぽけなことを考えるほうが性に合っている。僕が疑いはじめている当たり前は、料金について。ほら、もうテーマが小さい。

世の中、料金設定というものがなされているよね。これを購入するためには、いくらの料金を支払わねばならないという、アレ。これをレンタルするためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められているし、これを飲むためにも、いくらの料金を支払わねばならないと定められている。あれに疑問を感じてしゃあない。

たとえば、ファストフードのポテト。美味しいよね、アレ。本品のバーガーを凌駕するほどの魅力を持っていると言っても過言ではないポテト。なんだったら、ポテトセットなる商品ラインアップを追加し、ポテトを主役、その他、バーガーやらナゲット的なやつやらを脇に添えても、人気メニューとして成立するんじゃあないだろうかとさえ思うほど美味しい。

しかしそのポテト、しなっしなの状態で提供されるときあるよね。作ってからかなりの時間が経過したのだろう、油が染み込みきってしまい、揚げた感も損なわれ、醍醐味のカリカリの部分は既に消失してしまっている。外装の紙パッケージだって、油がしゅんでベトベトになっている。あれに定価を支払う理由が分からん。あのポテト、全力で仕事してないよね? ポテト本来のポテンシャルを活かしきれてないよね? それやのに、なんで定価なん? ちょっとした値引きあってもええんちゃうのん? 当たり前のように定価を支払うことに、悔しさを隠しきれない。

しなっしなだけじゃあない。塩加減だってそうだ。まれに、ぜんぜん塩がまぶされていないポテトが提供されるときもあるし、逆に、塩のかたまりがゴリゴリに付着しているときだってある。味付けが人任せなので仕方がない部分もあると思うが、ちょっとしたイレギュラーな要求には、「マニュアル上、無理なんで!」と、なにもかも突っぱねているんだったら、ポテトの塩加減もマニュアル通り、しっかり対応してもらいたいもんだ。塩加減がデタラメなポテトが提供されてきたら、「マニュアル通りの塩加減じゃあなかったので、本品は受け取ることができません!」と、受け取り拒否する権利だって、あるんだぜ、こっちには。

ただ、そんなクレームをつけたいために物申しているんじゃあない。要するに、商品本来の魅力の80%しか発揮できていない仕上がりの商品は、料金だって80%にするのが世の常ってもんじゃあないのってこと。当たり前のように、文句を言わず、しなっしなのポテトを食べてきたけれど、あれは全部、泣き寝入りの類だってことに気づいてしまった。

生ビールだってそうなんだ。駆けつけ一杯の生ビールを楽しみにし、直前の水分補給を一切絶ち、店が混んでいて入れなかったらどうしようという不安とも戦いながら、ようやく入店、着座し、あらんほどの清々しいボイスで、「とりあえず、生!」と叫び、ご褒美がテーブルにもたらされることを、少年のような気持ちで待つ。ようやく提供された生ビール。ジョッキを豪快に持ち上げ、さぁ飲むぞ! ぐびぐびぐびび。「ん、なんか、ぬるくない?」。これである。

冷えていて且つ喉越しを楽しめるのが生ビールの醍醐味。それを欲してここまで来たんだ。それを手に入れるため、その他の欲には目もくれず、あらゆるものを我慢してきたんだ。それやのに、生ビールが冷えてないって、どういうことなん?

またしてもそう。クレームをつけたいわけじゃあない。店が混んでいるときは、生ビールがオーダーされる数も飛躍的に増え、ジョッキを冷やす時間もないなど、最高のパフォーマンスを発揮できない理由も分かるんだ。だから言いたいのは、生ビールの温度が最高潮の時と比べ、二割減していたんだから、料金だって二割減になるのが世の中ってもんじゃあないのかい。それをなぜに、最高潮で味わえたときと、同額のマネーを支払わねばならんのだ。当たり前のようにやり過ごしてきたが、よくよく考えてみると、解せん。

世の中の一般的な仕事の場合、100%の満足を提供できなかった場合、「今回、商品がイマイチやったから、ちょっと値引きしてえやぁ」と、減額を要求される。それに対し僕たちは、「すんません。すんません。ほんま申し訳ございません。しっかりと値引き対応させてもらいますんで!」と、料金から、満足に至らなかった部分を考慮し、値引く。満足度が100%で提供できなかった理由が、その商品の制作時、納品時に、親が死んだからとて、財布を落としたからとて、恋人と別れたからとて、指名手配を受けたからとて、決して許されない。激怒されるか減額させられるかの二つにひとつ。

それなのに、ポテトも生ビールも。と思うと、泣けてきやしないだろうか。
もっとあり得ないのが、レンタルDVD。レンタルだからある程度は我慢せい、というスタンスなのかも知れないが、ある一部のガサツな連中の手によって、DVDの盤面にキズがつけられていること、あるよね。あのキズってもれなく、その映画の名画面で、音飛びやらコマ落ちを発生させやがる。自分が最も感情移入し、さぁ泣くぞ、さぁこの映画から人生の大切なものを授かるぞ、そんな場面で、必ず音飛びやらコマ落ちが起こる。すべて台無しじゃ。酷いときには、そのままDVDプレイヤーの動作が停止し、それ以降のシーンへと再生できなくなってしまったこともある。しかも何が大罪って、音飛びやらコマ落ちが一度起こってしまうと、その後もまた起こるんじゃないかと、意識の何割かがそちらへ向いてしまい、作品に集中できなくなってしまう。

それでも、定価。映画を最大限に味わい満喫し、人生の大切なものをしっかりと授かった場合と、同じ料金。なんでなん。映画監督が、その場面で、効果的に音飛びやらコマ落ちを画策し、仕込んでいたんなら仕方がない。それも演出のひとつだから。でも、ある一部のガサツな連中のせいよね。それなのに、定価って、あり得ますか? せめて、コマ落ちした分の料金も、定価から落としてもらわないと割に合わない。

そういったケースで最も泣きを見る瞬間が、ライブハウス。動くアーティストを目に焼き付け、生ならではの音を感じ、盛り上がるライブ。それなのに、身長の決して高くない僕、前に背の高い男子が来た暁には、醍醐味のうち、動くアーティストを目に焼き付けることの一切の権利が奪われてしまうの。オールスタンディングだったなら、ある程度、自由に場所を移動できるため、権利を掠奪されるのを回避もできるが、指定席の場合、終わる。指定席にも関わらず、アーティストがステージに登場した瞬間、暗黙の了解で会場中が総立ちになり、立ち見と化すパターンのライブの場合である。
身長の高い男子の肩越しに、なんとか、動くアーティストを目に焼き付けようと工夫をするものの、そうした結果、妙な姿勢でライブを見るハメになり、ライブ後、左右いずれかの首の関節を痛めてしまい、やれ鍼灸やら、やれ整骨やらに通わねばならなくなり、健康保険が適用されるからまだ良いものの、それなりの出費を伴うことになる。

背の高い男子に非がないことはもちろん承知している。彼らだって、望んで高身長に生まれたわけじゃあない。そんなちっぽけなことを言っているんじゃあない。こっちは醍醐味の半分を奪われているんだ。料金だって、半額でいいじゃあないの。それを言いたいわけである。

どこまでの低身長の人が減額対象になるのか議論が面倒臭いと言うのなら、小学校時代よろしく、ライブハウスの指定席では、背の順で席を割り振るとか、チケット購入の際、申し込みフォームで自身の身長も申告する制度とし、決して、背の低い人の前には、背の高い人が来ないようにプログラミングされた上で席順を決定づけるとか、方法はいっくらでもあるはずなんだ。当たり前のように、背の高い男子の背中だけを眺めるライブを楽しんできたが、やっぱりこれは当たり前のことじゃあないよね。

あかんあかん。書けば書くほど、自分が小さな人間に思えてきた。だって、そんなことを声高に叫んでみたところで、サービス業というものは、「だったら食うな」「だったら飲むな」「だったら来るな」と突き放してくるに決まっている。僕みたいな人間を相手にしてくれるわけがない。だから泣き寝入りするしかないの。

そんなしょうもないことを考えながら、地下鉄の電車内。さっきから、やたら座席が窮屈だなって思っていたところ、シートの中央に目をやると、めちゃめちゃ巨漢な男が着座していた。一般人の二人分のスペースは確保している。しかも、あろうことか、股を開き気味でリラックスして座っていやがる。それのせいで、僕は座席の端、追いやられ、肩身の狭いを思いをしながら、窮屈さを押し付けられていたのである。これは解せん。

そう思い僕は、すっくと立ち上がり、「それだけ大きい図体で且つリラックスした状態で着座されているということは、二人分のスペースを確保してはりますよね。だったら、料金も倍支払ってもらいますか。もしくは、半人分ほどのスペースに追いやられていた僕の料金を半額にしてもらえるよう、大阪市営地下鉄に交渉してもらえませんか」と言ってやった。

言ってのけた刹那、巨漢男のグーパンチが、僕の頬をヒットした。ふっ飛ばされる僕。車内の乗客から嘲笑される。はずい。はずい。余計なことをした。さっさと席に戻ろう。頬の痛みに耐えながら、赤ちゃんみたく床を這い、席に戻ろうとしたところ、元々僕が座っていた席は、別の誰かに取られてしまっていた。それはそれは、半人分のスペースでも充分に座席の醍醐味を味わえるほど、痩せ細った男子だった。

デタラメだもの。

20170108

何もかもが早い。そんな時代を楽しむための手段をじっくりと考えてみる。『デタラメだもの』

2017年、はじまる。2016年もあっという間に終わってしまったことを考えると、2017年も同じように、あっという間に終わってしまうのだろうか。

2016年のスタートと同時に、今年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだの、誓いめいたことを語っていた気もするが、それがつい最近のことに感じる。実現できたのか、実行に移せたのかさえ振り返る間もなく、またしても、2017年はこんな風に生きてやるだの、こんな目標を持って生きてやるだのと語ってしまいそうで閉口してしまう。

年をとると一年が早くなるとはよく言うが、あまりにも早すぎやしないだろうか。早いというか、もはや、速い。
どうせ、「もうすぐお花見のシーズンだね」なんて言い合いながら、あっと言う間に桜のシーズンを追い越してしまう。「やっぱり夏だよね」なんて言い合いながら、すぐに秋の気配を感じてしまう。「今年も紅葉の季節がやってきたね」なんて言い合いながら、気づけば紅葉はみな、散ってしまう。「肌寒くなってきたね」なんて言い合いながら、クリスマスも大晦日も横目に、あけましておめでとう、なんて言ってのける始末。想像に難くない。

クリスマスやら大晦日やらにしたってそうだ。不景気のせいか、イベント感が薄いように思う。昔はもっと、街がクリスマス一色になったり、お正月ムード一色になったりしていた気がする。テレビCMだって、バラエティ番組だって、もっと季節感を押し付けてくるようなものが多かったように思う。それがどうだろう。あまりにも一年、メリもハリもなさ過ぎる。

電化製品だってそうだ。製品購入と新製品登場のイタチゴッコは昔から変わらないかも知れないが、パソコンやスマートフォンなんて、機種の世代交代が早すぎやしないか。キャリアの二年契約があるからとか、不具合はまだバッテリーくらいのものだからと、人並みの物持ち良い精神で買い替え渋っていたとしても、いざようやく最新機種を買ったや否や、即座に新機種登場のニュースを耳にしたりで辟易。

ともかく、なんでもかんでも早すぎる。便利すぎる。のんびりしていない。こんな便利さに慣れてしまった人間は、既に不便だったあの頃にはもう戻れないのかも知れないが、徐々に、スローダウンさせて行くのも粋な気がする。

俳優やタレント、芸人やミュージシャンだって、流行り廃りが早すぎる。せっかく世に出られたとしても、次から次へ、ニューカマーが世に送り出されるもんだから、目まぐるし過ぎて記憶にも残らない。人々の記憶に残らないということは、歴史的な記録にも残らないということだ。それじゃあ、伝説的な人物やグループなんて、後世、出てくるわけがないだろう。機械だけならまだしも、人間をも使い捨てする時代になってしまったということか。

ほんま、なんでこんなにも、何もかも早く感じてしまうのだろう。休みの日が過ぎるのは早い。それだけならまだしも、気乗りしない平日さえも早く過ぎて行く。饒舌に語る楽しげなお酒の場は、なんであんなにも時間が早く過ぎるのだ? 夜中のタクシーのメーターは、なぜあんなにも早く料金を刻んで行くのだ? 二割増しってレベルちゃうやろ? ゆっくり身体を休めたいと思って眠りについても、朝はなぜあんなにも早く訪れるのか? それなのになぜ手の込んだインスタントラーメンは、湯を入れてからの待ち時間が五分もかかるのか? あれはより高度な技術で三分に短縮できないのか?

そこでこう思う。2017年は、そろそろ便利さを一枚ずつ剥いで行こうじゃあないかと。
たとえば、スマートフォン片手でできるような、そうやね、銀行振込なんかも、わざわざ銀行に足を運んで行うとか。銀貨をチャリンと投入すれば、自動で車を洗浄してくれるようなハイテクマシーンは使わずに、車を手でゴシゴシ洗うとか。家のお風呂に入らず銭湯に行く。インターネットで音楽などを採取せず、CDショップで購入したり、レンタル屋に借りに行く。助平な動画だって、観たいと思えば、ブラウザを起動するんじゃあなくって、レンタル屋の然るべきコーナーに行けばいい。

それらの風情な行為を、便利さの名の下に時短させ、時短したことによって作り出した時間に、その他の行為や用事を詰め込むことによって、それらの風情な行為を味わいながらやる心の余裕を欠いてしまっているってことに気づいた。自らその首を締めているということに。

今年は、便利さから遠い場所で生きて行くことをテーマとしよう。これだったら、今からでもできるし、やれ達成できただのどうだのと、下世話な会話も生まれてこない。ビールは瓶ビール。グラスに注ぐって行為を大切にしよう。その時間を大切にしよう。じゃあ、生ビールしかない店だったらどうするか。そりゃ、生ビールとグラスひとつをオーダーし、ジョッキから注いでやろうじゃあないの。いかんいかん、これじゃあ作為的で人為的過ぎる。もっと自然に無駄を楽しみたい。答えは出た。瓶ビールが飲める店に行きゃいいじゃあないの。

それはそうと、話は逸れるが、近頃、物忘れが激しい。友人知人と会話をしていて、やれ得意げに、「最近、おもしろい話があったんですよ」と、話の導入を自ら設け、意気揚々とオチへと向かって話していると、その中途で、話のオチを失念してしまうことしばしば。
すごく秀逸なエピソードトークを用意していたために、話を持ちかけたのである。それは真実。最終的な抱腹絶倒ポイントへと、しっかりアテンドしようとおもてなしていたのも事実。なのにだのに、どんなオチだったのかを忘れてしまう。前半から中盤にかけて、あまりに得意げだったため、「何の話か忘れてしまいまして……」などと後ずさることも許されぬ。オーディエンスたちは、その勢いのまま、ゴールまで駆け抜けてもらうことしか期待していない。

そんな窮地に陥ってしまうと、これ致し方がない、話ながら別の脳みそで、別のオチを捏造するほかない。右脳でしゃべっていたら、左脳でオチを、左脳でしゃべっていたら、右脳でオチを創るほかない。しかし、そこは即席のオチ。インスタントなオチ。出来栄えが良いわけがない。前半から中盤にかけての話との整合性だって怪しい。結果的に、ウケない。ウケないばかりか、期待を持たせ意気揚々と語り始めた分、変な空気になる。

こんな失念っぷりが最近目立つ。ともかく、話を途中で忘れたときの恐怖感は尋常じゃないんだよ。冷や汗だって、大量に出る。まさに失念ダイエットというところか。みなさん、期待を持たせて話はじめたくせに、おいまいなオチで、尻すぼみになったと感じた場合は、「あっ! こいつ、話忘れよったな?」と、大目に見てくだせえ。そんな寛大さも、心に余裕があってこそ。家電も人間の交流も、もっとのんびり行きましょうや。

もっと人々の心に余裕があった頃の、昭和のレガシーを訪ねるべく、懐古的に生きて、どんどん鈍くさく、どんどん鈍感に、スローライフ、すなわち、不便な毎日を送って行こうと思う。

今年は、酉年だそうだ。心にも、ゆとり、を持って生きたいものだ。

デタラメだもの

20170101
著者

常盤英孝(ときわひでたか)

《3分後にはもう、別世界。》 3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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