デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

春も近づくと奇行も増える。が、それでいいじゃないか、爛漫しようやないか。「デタラメだもの」

春が近づき、チラホラと暖かい日なんかに出くわすようになると、つられるようにして、街でも奇妙な光景に出くわすようになる。

そりゃそうなるわな。だって、寒っむい寒っむい冬を、身を縮こめながら乗り越えたんだもの、そりゃ暖かい日が訪れれば、気分も解放され、奇行のひとつやふたつも目にしますわな。

でも、いいと思うわけです。世の中どんどんとインターネットやら何やら、やれ数値やらやれ統計やらやれ分析やらと、人間のことをさも画一的な動きをするロボットのような捉え方をされてしまう昨今だからこそ、そうやって、常識では掴めないような奇行、うん、そういうパワフルなこと、おっさんたちがどんどんとやっているような世の中じゃないとあかんと思うわけです。

で、例に漏れず、立ち飲み屋。

やっぱり立ち飲み屋はええなぁ。落ち着くなぁ。小ジャレた飲み屋などと違って、精神の解放感が違いますわなぁ。哲学多し、ですわなぁ。まぁ、そんなことはさておき。

向かい側のカウンター。
身なりを整えたやや清潔感のある50代後半と見えるジェントルマンなおっさん。そのおっさんが、おもむろに携帯電話を取り出した。スマートフォンのような形状のものではなく、通称ガラケーと呼ばれる、パチンと二つ折りにできる、アレね。

そしてジェントルマンなおっさん、何をし出すのかと思えば、携帯を顔の真ん前に縦に持ってきたわけです。つまりは、顔の真ん前に、携帯が「1」という数字の風情になってるわけね。おでこの辺りが聞く部分、鼻の辺りに折れ曲がる部分、口の辺りに通話口。

で、最初は、液晶部分を眼前に置いて、メールでも読んでるのかしらんと思っとったわけですが、そうじゃない、通話してる。はっきり、しっかりと通話してるわけです。受話部分を、耳に当てずに、通話してる。

そうなると、ほれ、最近よく見かける、イヤホン状のものを耳に差し込んで、電話をしてるアレかなと思ったわけですが、そうじゃなく、耳の穴には何も差し込まれていない。

なんなんだ、この光景は、おっさん、しゃべり続けてるぞ、通話口に向かって。

で、こう妄想したわけです。

このおっさんは、とてつもなく大きな会社の偉いさんで、しかも、絵に描いたような、ワンマンでトップダウンで高圧的な人物。

だから、受話はしない。通話口から指示のみ。聞く必要なし。言いっぱなし。あとは、シモジモが動けばいい、と。

きっとあの時の指示は、

「ええか、あの土地、買い占めてまえ」
「…」※受話口を耳に当ててないから
「ちゃんとやれよ」
「…」※受話口を耳に当ててないから
「明日の朝までにやぞ」
「…」※受話口を耳に当ててないから
「できんかったら、知らんぞ」
「…」※受話口を耳に当ててないから
「ちゃんと聞いてるか?」
「…」※受話口を耳に当ててないから
「おい」
「…」※受話口を耳に当ててないから

そりゃ返事ないわな。受話口、耳に当たってませんから。

そんな感じで、恐らく、ドでかい仕事の指示を、一方的、高圧的、傲慢に、部下、いや、シモベに指示している、そんな安い立ち飲み屋のワンシーンだったのではないだろうか、と推測。
ジェントルマンなおっさん、勉強なります。ワンマン経営も、ここまで行かんとあかんのですね。携帯電話を縦に使えるくらいにならんと、あかんのですね。中途半端なワンマンぷりでは、何もコトが運びませんわね。勉強なります。独裁って、こうやってやるんですね。

僕も高みに登りつめたら、ぜひ参考にさせてもらいます。登りつめられませんけど。

そんな風情を後にして、帰りの最終電車。

乗車後に電車の発車待ちをしていると、左後方から、真面目そうなサラリーマンの大きな声が。
おいおい、電車でデカイ声で電話するなよ。それにしても真面目な口調やな。

そう思って耳をそばだててみると、何やら、本日の行動報告をしてはるみたい。

「えぇ、本日はですねぇ、寿司屋で打ち合わせしまして…」

みたいなことを言うてはるわ。
見た目がとても真面目そうな40代前半と思しき男性。しゃべり口調もほんまに真面目で、性格が出てる。電車内で電話したらあかんと知りつつも、真面目な性格ゆえに、本日の行動報告を上司にせねば!との責任感から、仕方なくの業務遂行、なんやろうね。それにしても、丁寧且つハキハキと大きな声で電話してらっしゃる。

「だから、本日はですねぇ、寿司屋で打ち合わせをした後、あぁ、はい、そうです、キャバクラですね、はい。キャバクラ行きまして」

ん?何を言うとるんだ、この真面目男性は?
君のような真面目な男性が、大声でその単語を連呼してるのが、ミスマッチ過ぎて、車内全員目を向けとるがな。接待内容の報告なんやろうけど…

「もしもし?はい、そうです、だから、その後にキャバクラです」

また、電波が悪いのか、上司の飲み込みが悪いのか、何回も言いよるがな、そのフレーズ。電波改善するか、上司の理解度高めたれよ、この真面目君、頑張っとるんやから。

「えぇ、そうです。その後にキャバクラです」

まだ言うとる。もうええわ。笑ろてもたがな。

そうやって肩を揺らしながら、地元の駅を降り、家路をひた歩いてると、前から、おっちゃんおばちゃんが並んで歩いてくる。
夫婦で、ウインドブレーカーなんか着て、夜にウォーキングいうやつですね。

そう思ってほのぼのしてると、どうやら、夫婦、大喧嘩してる風情で、こちらに向かってくる。大喧嘩というか、旦那さんのほうが一方的にキレてるみたい。

「○×○△なんじゃ、コラ!」

みたいに、なんか怒鳴りつけてる。こりゃ穏やかじゃない。
ぼくのほうに近づくにつれて、怒声の内容がハッキリ聞き取れた。

「そやから、カンボジアなめんなよ!」

ん?カンボジア?

「だから、カンボジアをなめるな!」

ん?カンボジア?

「わかったか!なめんなよ、カンボジアを!」

は、はい。わかりました。カンボジアのことは決してなめません。
何の会話してて、なぜ火がついて、なぜに奥さんを怒鳴りつけてるんだ、このおっちゃん。意味がまったく分からんし、逆に、奥さんは、旦那をこうまでさせるほど、どのように、カンボジアのことをなめ腐ったのかが、気になる。

と、春が近づくと、こんな陽気でファンキーな光景に出会えるもんだから、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと、安堵。
もっともっと、日本が、規格外に、型破りに、常識外れに、小さくまとまらず、コンパクトにならず、破天荒でありますように。

デタラメだもの

20130320

社会に見る「笑い」から、偉いさんがみこしを担がれているサマを紐解いてみた。「デタラメだもの」

とある笑いの方程式を発見した。

社会には面白い人など、ほとんどといっていいほど、いない。「笑い」っていう意味でね。
社会に出て、いろんな人としゃべっている毎日だけれども、笑いっていう意味で、面白いと感じる人は、ほんまにほとんどいない。

なのに、会社や喫茶店や、あちらこちらで、笑いが起きている。面白い人がいない社会なのに、なぜにこんなにも、あちらこちらで、笑いが起きているのだ。

ということを考えまくっていたら、社会に見る「笑い」から、偉いさんがみこしを担がれているサマまでを、ズババババンと貫くように理解できた。なので、またしても戯言を少々。

社会では、『笑い → 笑う』といった風に、誰かが笑いを起こして、そしてオーディエンスが笑うといった図式は、ない。そう、ないんです。

じゃあ何かっていうと、こう。
『微笑ましいエピソード → 笑う』といった流れで、社会には、笑いがあちらこちらで起こっているわけなんです。これが、方程式です。

どういうことかと申しますと、社会での会社、笑いを呼ぶ会話の内容は、ほとんどがエピソードトークであり、それも、特に脚色もなく、ありのまま、見たまんまを話し伝えるのであり、オーディエンスも、そのまんまを受け取り、微笑ましさが伝わり、笑う。この流れですね。

さらに噛み砕きますと、つまりはこういうこと。

「今朝さぁ、通勤途中に駅前の公園を横切ってたら、鳩に糞をかけられてるサラリーマンがいてさぁ」

といった話が語られる。そうしてその、あまりにも微笑まし過ぎるエピソードを聞き、聞いている側も、その光景に微笑ましくなり、笑う。のである。

何が言いたいかというと、そこには、フリもなく、オチを盛ったり、タメもなければ何もない。笑いの要素が何もない。
芸人さんが話すトークのように、ネタの構成やテクニックなども、微塵もないし、その真似事でさえない。
なのになぜ笑いが起きるのだ?
と考えると、とどのつまり、そのエピソードを語っている人ではなく、鳩に糞をかけられたサラリーマンの手柄なのである。その、微笑ましい光景を生み出した、サラリーマンが金メダルを貰うべきなのである。

が、社会とはなんて判断基準の歪んだ空間なのだろう。あろうことか、このエピソードを語った人、その人が、面白い人だと称されるのである。これは、ほんとに、遺憾ともしがたい。

例えばこの場合。

「パソコンのキーボードの隙間にさぁ、消しゴムのカスが詰まっちゃってさぁ、なんかタイピングしたあと、キーがねぇ、ニューッて戻ってくるんだぁ」「うそー!ギャハハハ」

これもそう。エピソードを語ってる人は、何ひとつ面白くもなんともない。面白いのは、ニューッと戻る、キーボード君なのだ。
しかしこのようなケースでも、語り部が賞賛される。まったく気にくわない。

いったい、何なんだ。社会と呼ばれる世界は、身の上話を多弁するヤツが、面白いとされるのか?何なんだ、ほんとにまったく腹が立つ。
そういう話でケラケラ笑っているヤツほど、しっかりと組み立てて、いわゆるネタにしたような笑いを提供しても、ピンと来なかったり、イメージできなかったり、例えに使った単語を知らなかったりと、まったくと言っていいほど、笑いに対する予備知識を備えていないでいやがる。

それか、、、社会でこのぼく、浮きまくっていたり、スベリまくっていたりする原因は。

とまぁ、ここまで考えた段階で、いや、ちょっと待てよと思ったわけです。今や、テレビ番組でもバラエティが多くなり、どのチャンネルをつけても、お笑い芸人を見ない日なんて、ない。
世の中の皆々様方も、笑いに対して、多少なりとも敏感になっているはずである。それなのに、このくだらないエピソードトークごときで、なぜにあちらこちらで笑いが起きている現状。

なんかおかしい。

そこでひとつ、こう思ったわけであります。

社会とは、愛想に侵された世界なのではないだろうか?と。

右の人へも愛想。左の人へも愛想。上司にも、得意先にも、年上にも、年下にも。男性にも、女性にも、パソコンにもコピー機にも、愛想。
そうやって、愛想ばかりが蔓延って、いわゆるひとつの、社交辞令ばかりがコミュニケーションの中で闊歩してしまっているのではないだろうか。

きっと、そうだ。

だから、あんなにクソつまらない会話や、クソつまらない身の上話ごときで、あんなに笑いが起きるんだ。間違いない。普通の人間なら、あんな程度で、笑うはずがない。社会がつまらない人間で溢れかえっているとは言え、そうだとしても、やはりちょっとおかしすぎる。

だから、やっぱりだ、愛想だ。

そして、結論。

この、愛想というやつが、偉いさんやおっさん連中をみこしで担ぐ結果となり、のぼせ上がらせ、有頂天にさせ、わけのわからない事態を引き起こしてしまっているのだ。これは、罪悪だ。下衆の極みだ。

偉いさんたちが、虚無で不毛な権力を振りかざしたり、物事をジャイアンの如く強引に捻じ曲げたり、俺の好きにせい、俺の思うようにせい、などと、はしゃぎまくることに対して腹を立てている、我々シモジモの人間たちよ、彼らをみこしで担ぎ、高い位置から物を言えるように祭り上げたのは、他でもない、我々シモジモの人間なのである。

そうやって、愛想で勘違いをさせ、自分は何を言ってもウケる、何を言っても笑いを取れる、何をやっても和ませられると、変な自信をつけさせてしまい、その自信が続けば確信へとつながり、確信が確変を起こして、もうパチンコ玉は、ジャンジャンバリバリ出まくる次第で、嗚呼、もうどうにも止まらない。

ほんで、挙句に、「俺の言う通りにせい!」などと、暴言を吐き散らすのである。

なので、やっぱり、正しい評価は必要なわけで、旨いもんは旨い、不味いもんは不味い、ちゃんとそう評価することで、伸びるものは伸び、足らずのものは努力するわけである。

だから今日から、社会では、「お前、おもんなぁ…」以外の返しは、禁じ手としていただきたい。「ギャハハハ」や「あぁ!腹痛てぇ!」とか「めちゃおもろいやーん!」なんてリアクション、社会では考えられないのだから。

社会に出て十数年、笑いとして「面白い」と感じたことなんて、ほんの数回しかない。だから、「お前、おもんなぁ…」をしっかりと使うべきタイミングで使えるようになり、いち早く、偉いさんたちをみこしから降ろして差し上げ、我々シモジモの人間が、住みよい社会を作ろうではないか。

が、この記事に対する「お前、おもんなぁ…」だけは、ぜひとも勘弁していただきた。なぜなら、ここは、社会ではないのだから。

デタラメだもの。

20130223

まぁ、ともかく理不尽に振り回される。「デタラメだもの」

朝の通勤なんていうと、誰しもが鬼のような形相で、階段を上り下り、閉まりかけの電車のドアに駆け入り、人にぶつかろうが、足を踏もうがお構いなし。そういったドタバタが日々繰り広げられているわけで。

これはいたしかたないですねぇ、朝ですから。

なんといっても、行きたくもない会社に、やりたくもねぇ仕事、そんでもって、起床時のお布団は、なんとまぁ優しいことやら、ヌクヌクと我々を包んでくれるわけで、そりゃ起きたくもねぇっつうの。そりゃ、お布団の中に後ろ髪を引かれまくりなわけで、一分一秒でも、その温もりに包まれてたい。できれば、このまま現実なんか無くなってしまえ!って具合に、朝の動きも鈍くなる。

そうして気づけば、この電車逃してなるものか。逃せば遅刻。朝の朝礼に遅れてしまって、仕事が始まる前から、たちまちカミナリ。それはイヤだ。それは避けねば。そうなりゃ仕方ない、全力疾走だ、バカ野郎。

と、そんな繰り返しなわけですね。

まぁ、朝早く起きて、優雅に朝食などを召し上がり、ゆったりのんびりと会社に出勤できるような紳士淑女の方々は、何らかの実の能力者かと思われますので、ぼくのようなクズ野郎とは、住む世界が違うといった解釈をしておきましょう。

で、事の本題、何が理不尽かと申しますと、朝の通勤時ですわねぇ。改札ですわねぇ。ぼくはめったと当事者にならないわけですけども、よくよく目にする理不尽があってですねぇ、それは何かと申しますと、

駅の自動改札機の不具合に見舞われその他大勢の人々から凍てつくような冷たい目で睨みつけられ恨まれる悲しき不運な運命を背負った人

のことです、はい。

どういう事態かといいますと、ほら、あの、駅の自動改札機ってやつ、たまに、不具合を起こして、「正しき人」を通さんとする時って、ありますやんか?

なんというか、とある男性、まぁA氏としましょう。A氏が、平常通り、電車を降り、人の波にもまれながらもようやく自動改札機前。
んで、普段通りに定期を通す。すると、普段通りの所作にも関わらず、自動改札機が、ビコンビコン!と反応し、ゲートがバシン!と閉じられる。

まずここで、平常通りのこと、つまりは無意識レベルで動いていたA氏は、何が起こったのか事態が飲み込めず、ゲート内でしばし狼狽。

そしてさらに、自動改札機とは何のトラブルもなく通過すること、が平常になっているその他大勢の人々も、何ら疑わず、そのゲートを通過しようとする。

が、そこには、出口を阻まれたA氏の姿。

詰まる、詰まる、ゲート内が、詰まる。

これはまるで、ところてんを押し出す用具の出口が塞がれ、用具内がところてんで詰まりまくって、てんてこ舞いになってしまうが如く、ゲートが詰まりに詰まって、消化不良。

で、やっかいなのが、人間の恐ろしいところ。
ここで、大衆は皆、A氏を「どんくさい・おっちょこちょい・のろま・うすのろ・クズ・アホ・ボケ」といったレッテルと共に、睨むわけです…。

朝のラッシュ時、もちろん皆々様、一様にお時間に迫られて行動していらっしゃることは百も承知。ですが、A氏、なんら悪くないわけです。完全に自動改札機が悪いんですもの。
だって、その冷ややかな目線の最中、やや冷静さを取り戻し、自身の定期を、もう一度、入り口側の挿入口に差し込めば、何のことはない、平常通りゲートが開き、出られるんですもの。

となると、完全に、少しばかり前のトラブルは、自動改札機の仕業じゃねーの?なのに、なぜにA氏に怒りの矛先が…?

とまぁ、A氏からすると、恐ろしく理不尽な事態に見舞われるというわけですよ、朝も早よから。大勢の突き刺さるような視線を一身に受けて。

なので、人々よ、ここは一旦冷静になって、朝も早よからA氏を責めるのだけは、やめましょうよ、と。ぼくは言いたいわけです。全てを自動改札機のせいだと、受け止めましょうよ。A氏を責めても、朝の貴重な時間は返ってきませんよ。

そんな風な平和でのんびりした感情を朝から抱きながら、本日も、電車を一本乗り過ごし、出発時点から遅刻が確定してしまっているぼくが、今日も自動改札機をくぐりますよ。

あっ!そういやぼくも、東京出張後など、関西で使用の「Pitapa」と、関東で使用の「Pasmo」を同じ定期ケースに入れたまま、朝の自動改札機を混乱させ、挙句に、ビコンビコンとエラー音を鳴らし、ゲートを閉じられ、数名に白い目で見られる経験、あったなぁ。

「そない怒らんでも…」

と、小声でブツクサ言うた記憶がございます。
これは理不尽なのか不注意なのか。ともかく、自動改札機付近では、イライラせぬよう、清々しい気持ちで、ゲートを通過しようじゃありませんか。

自動改札機のほうも、ゲートだけに、人々に悶々させたくないはずですよ。と、まぁ、くだらない。

あと、何が理不尽かっていうと、某大手ハンバーガーチェーンのドライブスルー。

車の窓を開けて、マイクに向かって、さぁいざ、声が裏返らないように、「え?はい?」などと聞き返されないように大きな声でハッキリと、などと、気持ちを引き締めてさぁ注文ってタイミングで、

「季節限定の○○バーガーはいかがでしょうか?」

と、頼みたくもねぇ限定商品をレコメンドしてくるの、やめてもらえないでしょうか?
元来のチキン野郎のぼくみたいな小心者は、人のススメを断る勇気とか、そういった類の横暴なことができませんで。なので、なんて言っていいのやら、困りに困った挙句、

「あっ…、じゃあそれで…」

などと、押しに負けて注文してしまうこと、しばしば。

ぼくは、シンプルなバーガーが食べたくて、ここへ来たんですの。その、季節限定のイロモノに寄せられて参ったわけではないんですの。

と、元来食べたいものを、食べ損ねるような、そんな押しの弱い日々を過ごしてなお、悔いなし。

デタラメだもの。

20130211

日々を長く充実して生きるためには。「デタラメだもの」

子どもの頃なんかではよく、「休みの日はアッという間に過ぎるなぁ」なんて言って、あのなんとも妙な、土日祝の駆け足具合に悩まされたわけで…

ところが近頃ふと気づく。
「そういや平日も早くね?」
って。

である。そうなのである。なんと、近頃、平日も休日も早いのである。
ということはこれは、人生がものすごく駆け足で進んでしまっているということになるのではなかろうか…

で、焦る。

でいったい、人はどのような時に、「アッという間に過ぎる」と感じるのであろうか、と悩むこと数分。
くだらねぇ毎日を過ごしていりゃ、そりゃアッという間に、何の充実感を帯びることなく過ぎてしまう。これは分かりやすい。

でも、たとえば、音楽をやってる人なんていうのは分かってくれるのではなかろうか、ひたすらライブまでの期間、延々と練習に練習を重ね、いざ本番。充実した時間。盛り上がる観客。輝く汗。こぼれる笑顔。見事な演奏。んで、ライブ後にひとこと、「アッという間に過ぎた」
やっぱり、アッという間に過ぎるんやん。

ほななにかい、充実してなくてもアッという間に過ぎて、充実しててもアッという間に過ぎる。ぼくらの命は、アッという間に終わってしまうのだろうか…。

いやいや、そんなことを言っちまうと、我々人間の命の素晴らしさ、美しさに失礼になってしまう。
そこで、こう思ってみることにした。

充実しない日々はただただ過ぎ去りゆくだけ。
充実した日々は過ぎた後に思い出し語り幾度も実る。

と。

なるほど、そうかもしらん。
ただ、じゃあ、何を持って充実とするのだろうか?その定義が曖昧なままでは、思い出そうにも思い出せず、語ろうにも語れんじゃないか。

そう思い、ぼくは、日がな一日、ボーッと無意識に過ごすのではなく、とてもとても意識的に過ごし、どこに意識を向けるのかというと、人間を見てやろうと。人間を意識に焼き付けてやろうと。そうして、人間の面白みってやつを、自分に焼き付けて、思い出し語り、くっきりとその日一日という焼印を心に押し付けてやろうと決意。

さぁ、こい!
俺の心に染み渡る、そんな七色な彩りを持った人間よ、こい!

仕事も終わり終電の中。ぼくはおとなしく、ゴトンゴトンと揺られる電車の中。

ふとドア付近に目をやると、小奇麗な身なりをした老人。全身、ブラウン系のフォーマルな服に身を包み、同系色のハットまで被っていらっしゃる。たいそう頭からつま先まで、意識の行き届いた老人だ。

そんな印象を頭にチラチラ浮かべていると、急にその老人、

「グゥオー」

みないな、獣みたいな、ケダモノみたいな声を、デカデカと一発。
なんだなんだこの老人、体調でも悪いのかと思い、目をやると、意外とそうでもなく、ピンと立っていらっしゃる。

すると何か?この方は、発狂でもしていらっしゃるのだろうかと、またもやそんなことを考えていると、再び、

「グゥオーゴゴゴ」

みたいな大声を老人。
なんだ、やはり奇人変人摩訶不思議系老人なのか、ともう一度目をやると、あ、あ、あかん、こやつ屈みよった、これはもしや、嘔吐のシグナルちゃうんけ?この感じ、間違いなく嘔吐のパターンのやつやんけ?

と、思うや否や、老人の口からは、大量の嘔吐物が、いわゆる、ゲロというやつが。電車の床に、ドロロロロ。
そのドア付近に座っていた女性たちは、まるで火事やらの災害から逃げ惑うように、畏怖の表情で、別の車両へと駆けていく。

老人は屈みながら、グゥオーゴゴグゴと奇妙な発声をしながら、床に嘔吐物を垂れ流し続けている。

まさに、地獄絵図。

何を隠そう、この私、カンもセンスも鈍いくせに、嗅覚だけが異常に発達しており、これはもしや犬並みなのでは?と、自分で疑いたくなるほどに鼻がよく、つまりは、こない身近でゲロを吐かれた日には、自分の嗅覚を激しく刺激し、そう、もらいゲロしてしまう羽目になり兼ねない。

そう判断したぼくは、逃げ惑う女性たちに紛れ、同じく別の車両へと逃げ惑った始末。

遠めに老人を見続けてみたが、延々と嘔吐を続けていらっしゃったのである。

なるほど、こうやって人間を目に焼き付けてやろうと決意した刹那、こんなに素晴らしい出来事に出会うなんて、自分はなんてツイてない人間なのだろう。

ただ、確かに、その日は、妙に長く感じたのは確かである。長く長い一日。ただただ疲れだけが残った一日。そうか、こうやって、日々を長く感じて生きていくのだな。嘔吐のひとつやふたつで、ガチャガチャ言ってちゃいかん。もっともっと、嘔吐よカモン。そないな姿勢で、我が人生も安泰というもんだ。

ただひと言、電車内で吐かねばならんほどに、飲みなさんな。
飲んだら乗るな。吐くなら闇で。そう、人目につかぬ場所で、ひっそりと頼みます。

電車は人を運ぶものです。嘔吐物を運ぶものでは、決してない、と信じたい。

20130127

新年明けましてから、何か変わったのだろうか?「デタラメだもの」

ぼくはなにかしら、大人たちの潔さを、年明けや大晦日に、感じてしまうわけです。

そりゃいったい何だい?と、まぁ、なってくるわけですけども、それは何というか、大晦日や元旦は、ものの見事に『ざわざわ』となされるわけさ。その、ある種のイベント感を出しつつ、気持ちやら、行動やらを、『ざわざわ』と。

そして毎年思うのが、新年明けてから、未だ一月中盤で、デフォルト状態(初期設定の状態)に戻るの、早くないかえ?ってこと。

その『ざわざわ』から『デフォルト状態』に戻る様が、妙に潔く、そこに大人のある種の潔さを感じてしまうわけです。

わたくしのような子どもじみた人間からいたしますと、あの年末の、「新年明けたら、オイラは○○してやるぜ!」といったような、鬼気迫る決意表明は、いったいどこいったんだい?と。
「来年からは、思い切って○○をやめる!」といった、男気溢れる宣言は、いったいどこいったんだい?と。

もうすでに、○○してへんがな…。
もはや、○○してしもとるがな…。

といった感じに、一月中盤で、既に、決意表明はリタイアでござんす。

というのが、世間一般の大人の方々であり、例に漏れず、ぼくもそのような情けなく、しょっぱく、なんの意外性も持ち合わせない、そんな一月を平々凡々に過ごすわけだ。

新年の目標をたてる際、あっ、目標は何かってぇと、『朝、早起きする』ってだけなんですけれども、その目標をたてる際に、年末のある日、ふと、こう思ったわけです。

目標をたてている今日この日、仮に12月29日としますわね、今日この日に実行できやしないことは、恐らく、1月1日からも、とうてい実行なんぞできやしない。

ふとそう思ったゆえに、ぼくは少々奇をてらい、じゃあ12月29日の今日、つまりは、明朝12月30日の朝を、早起きしてやろうじゃないかと。
そうして、大晦日の日も継続し、その流れで、新年を向かえ、この目標を堂々実行し継続してやろうと企んだわけです。

まさに、競艇のフライングスタートみたいな感じですねぇ。
スタート位置の時点で、もうスピードがついているような。

これはこれは、やはりわたくし、思いつくことが他の人々と一線を画しているなぁ、なんて自画自賛しつつ、これでこの新年の目標も、もらったも同然と余裕をぶっこいておりました。

結果はといえば、12月30日の朝は、いつも並みの起床。31日も同じような塩梅。元旦の日だけ、やや少し早く起きれたものの、2日、3日と、まったく平常の通りの起床。

そのまま、その目標を実行することなく、一月の中盤に身を置いているという、この意志の弱さ。

まぁそれだけ、人間というやつは、特段ガラリ自分を変えてみるだの、生き方を変えてみるだのといった、そんな躍起になる姿勢は、不似合いなのではなかろうかと、思ってみたりもするわけです。

なので、だから、とりあえずは、年明けや大晦日など、ざわざわと。で、一月の中盤には、平常に戻る、そういった潔さ。

不思議と、年々、その潔さの切れ味が、自身も世間も、色濃くなってきているように感じるのは、やはり歳のせいなのかしらん。不明。

あっ。そういえば、先日、我が家の前で、特段意味もなく、まるで不審者の如く、ウロチョロとして時間をつぶしいるとき、とあるカップルの女性側の声が、道の右側から聞こえて参った。

「姿勢を正して歩くとね、健康にもいいんだよ」

そんな風な言葉を彼氏さんに放ちながら、彼氏さんと手をつなぎ、ぼくの前を右から左へと通り過ぎていった。

ぼくは依然ウロチョロしながら、そのカップルの過ぎいく背中を眺めていた。確かに彼女さん、姿勢よく歩いていらっしゃる。不自然で、笑ってしまいそうなくらいに、姿勢を正して歩いていらっしゃる。

その不自然さを鼻で笑いたくなったのが味噌なのではなく、その会話の清楚さ、その汚れをしらない純白な台詞に、これは台本でも存在するのかしらんと疑ってしまうほど、飾り気なく、清らかなのだ。

今のご時勢、若いカップルでいて、手をつなぎながら歩いている際の会話に、姿勢を正して歩くと健康に良いという内容を話し、さらにはそれを不恰好にも実行しているなど。なんて美しく儚い光景なのか。
こんな素晴らしいものを、絶やしてなるものか。そんな気持ちを抱きつつ、半ば涙目に彼氏彼女を見送ったわけであるが…

それに比べて、わたくし、なぜにこうも汚れてしまっているのか。

もっぱら今は、ひとりジャンケンが、マイブームでして。
内容は簡単、自身の右手と左手で、ジャンケンを戦わせ、毎回に各々の手の出し技を変え、且つ指定した方の手に勝利させるというもの。

これが思っている以上に難しく、先日も仕事帰りの電車の中で、いざこれを本気でやってみた場合、何回くらいにゲームが続くのだろうと思い、右手に勝たせる様式でゲームを定め、さぁ息を吸い込み、勝負!せいや!と言わんばかりに、ゲームを始めて即座、二戦目でゲームが終了するという刹那さ。右手、二戦目にして、敗北。

小学生でも四~五回はゲームを続けられるのではなかろうか?
自身で考案したゲームに、自身で挑み、あっけなく負けてしまい、電車の中で、なんともこっ恥ずかしい気持ちになり、ニヘニヘと、本日も最終電車に揺られ、変わらぬ日々を過ごします。

デタラメだもの。

20130120

すごく細かいけれども、『要は…』に挑んでみる「デタラメだもの」

子どもの頃には、あまり気づかなかったけれども、大人になって気づいたことがある。それは、「要は…」が乱発されているということ。

特に社会ではこの「要は…」が、より一層に濫用され、会話の端々、いや、中心的フレーズとなって耳に入ってくるわけで。

んで、おかしなことに、この「要は…」は、あまり「要は…」の意味になっていないこと多く、「要は…」の役を果たしていないこと多く、そういや自分も、使うまい使うまいと思ってはみるものの、恐らく「要は…」に頼り、会話を進めてしまっていることは、言わずもがな。

社会にはびこる「要は…」にスポットを当ててみると、こんな感じ。

「そのプロジェクトはですねぇ、要は、我が社の実績から数多の信頼を受け、最も得意とする分野でございまして、故に、この分野では、右に出る者のいないほどに、自信を持ってクライアントの皆々様に、安心のサービスをご提供できるわけでございます候」

長い…。

要はですねぇ、「要は…」の後が長すぎるわけです、思うに。
それは、非常にかっこ悪い醜態を晒していると思うわけで。つまり、要はといって話をまとめてやるぜと息巻いて、俺にはこの話をズバリと濃縮させ、濃ゆい濃ゆい、濃縮果汁のような酸っぱさ旨さで、この話をお伝えしますぜ、と言わんばかりの威勢で「要は…」。

が実際には、「要は…」の後に、ダラダラと長く、万が一、その話を拝聴しておられるお方が、相当なスキルの持ち主であった場合、「要は…」の後の話の長さに、こいつは威勢良く飛び出して行ったものの、ノープラン、方向性さえ持っておらずに、会話の迷子。サービスインフォメーションの譲にでも、呼び出しのアナウンスをかけてもらわねば。
「紺色のネクタイに縦ストライプのYシャツをお召しの30代前半の男性の方。会話の結論がお待ちですので、至急、要は…の前に会話をお戻しください」
などと、恥ずかしいアナウンスに誘われ、首の根っこを掴まれ、はい、そこまでよ。

で、この場を借りて、挑んでみようじゃないか、と。
かっこいい男と思われるためには、やっぱり「要は…」の後は短く、端的に、スパッと。

例えばどうだろう。

「要は、バシンッと行きます」

アホやな、これは。要はの後が抽象的なっとるがな。

「要は、100万円で!」

おぉ!これはええじゃないか。具体的に数字に落ちとるじゃないか。でも、何が100万円か分からんぞ、これじゃ。

「要は、機会損失防止システムの導入を100万円で!」

なるほど、より具体的じゃないか。でも、機会損失防止システムというのが長ったらしくて、気にくわんね。

「要は、機損防システムの導入を100万円で!あっ、機損防というのは、機会損失防止という単語を短くするための即席の略語です」

あかん、説明の説明が増えとるがな。これはボツやな。機会損失防止システムを扱っとるからあかんのや。扱うもんを、いっそ変えたらええんやな。

「要は、スープに浮いてるナルトの枚数は3枚です」

おぉ!完璧に近づいている気がするのは、僕だけだろうか。見事にスープに浮いているナルトの数を端的に伝えている。これは行けるんじゃないか。

「要は、スープに入っているチャーシューの枚数は2枚です」

むふふ。ごらんなさい、今や、俺は「要は…」を完璧に使いこなせているではないか。気持ちが高揚してきたので、もうひとつ。

「要は、スープはしょうゆベースでございます」

もう慣れたものだ。「要は…」マスターになっている。が、スープ絡みのものを端的に言う以外に、「要は…」を使えないんじゃないのか。

「要は、機会損失防止システムの導入を100万円で!あっ、ただ、機会損失防止システムは呼び名が長いため、我が社では、機損坊システ…」

だめだ。俺にはやっぱり機会損失防止システムは扱えない。事が大き過ぎて手に負えない。

やはり僕は、「要は…」なんてキザな言葉を使うことなく、のらりくらりと会話を進め、飽きられぬよう、無い知恵と浅いユーモアを使って、しゃべり倒すという方法で突き進んでみようと思う。

要は、身の丈に合った会話を。要は、カッコつけない会話を。要は、を使うなら勝機を感じたタイミングで、さりげなく、スマートに。

ただ、こんなことだったら言えるぜ。

「ごらん、向こう岸に見えるタワーは12時にライトアップが消えるんだ。そうしたら僕は、ポケットから小箱を取り出す。その小箱には、あのタワーのライトアップ以上にキラキラと輝く、リングが入ってるんだ。そうさ。要は、結婚してくれってことさ」

ううん…。イマイチやな。「要は…」には、用は無いみたいだ。

デタラメだもの。

20121210_2

印象に残る愛すべき営業マンの「デタラメだもの」

先日、飛び込みに近いかたちで、ぼくのような何の影響力もない人間に会いに来たいと、とある営業マンが事務所を訪れました。いや、訪れていただきました。

その営業マンの勤める会社は、Webのとあるサービスを展開していらっしゃるのですが、まぁ、そういったサービスは星の数ほど存在する上に、まぁ難も多く、ぼくといたしましても、そういったサービスを試してみたり、実際に案件に使ってみたりの経験多く、それがどうにも、「こりゃサービス使わずに、自分でゴリゴリやった方が、楽だわなぁ」などという結論に辿りつきまくっているわけで。

ただ、ぼくのような微塵の影響力も、このビジネスの世界において発せないような小物に対して、ぜひ会いたいなどと言ってくださるのですから、そりゃ、頭を下げまくりつつ、ぜひぜひこちらこそお願いします、と言って、会いに来ていただいた次第で。

でまぁ、ビジネスの世界ですから、会えば「こりゃ初めまして、こちら○○と申します」なんて、様式通りの挨拶を行い、名刺なんぞを渡しながら、「いやはや、どもども」なんて恐縮しつつ、席に着いたりしますわなぁ。

で、ぼくは、極度の人見知りなもんで、この名刺を渡すといった儀式の際は、まともに相手の顔を見れず、目を合わせている態で、その実、目を全く合わせないという離れ業を、いつもいつもやるわけでして。

ほんでほんで、着席しますわなぁ。で、改めて、じゃあお願いします、なんて話を始めるわけだけども、結論から言うと、その営業マン、思いっきり、鼻水をタラリと垂らしてたわけですわ。

話を最後まで進めてしまいますと、その日以来、この営業マンの話、二日に一回程度、出ます。それぐらい、印象に残りまくってます。提案いただいたサービスの話は別として。

でですねぇ、何が言いたいのかと言いますと、早い話が、営業マンよ、みんなもっともっと鼻水を垂らせよってことですよ。

その営業マンの方は他にも、やたらめったら自社サービスを卑下してみたり、iPadで資料を見せてくれるのはいいんだけども、やたらめったら、かわいそうなくらいに指がカサカサで荒れてたり、サンプルで出した自社実績の制作サイトに使われてる女性の写真の表情が、笑いを堪えきれないくらいにアホ面してて、笑っちゃいけない商談の場で、涙腺が爆発するくらいに笑いを堪えさせられたりと、なかなか骨のある営業マンでした。

が、これがどうだろう、その方は別として、もしそのような滑稽な雰囲気の中に、チラリとでも、「こいつ、なかなかやるなぁ」というような光るものがあった場合、前述のような滑稽さが、「もしやこいつは、優秀な道化じゃあるまいか?」といった風に、こちらでその方の力量の評価をグイグイイと上げて行かざるを得ないのではないだろうか。

その道化をやってのけて尚、光るものを覗かせる、それ相当にデキル人間なのではなかろうか?と。

当のぼくは、その昔は憑りつかれたようにビジネス本を読み倒し、いろんなメソッドやいろんな思考法などを試したり齧ったり、なんやかんやしましたが、全部やめました。

いろんな理由があって、一切やめたのですが、理由を挙げ続ければ、ひどく真面目な話になってしまい、何の面白みもないので、割愛。

結局は、ぼく自身が、いろんな文化や芸術に触れ、感情・感性というものが豊かな人のほうが、断然に好きでして、ビジネス本など読みまくっていても、そういった感情や感性など、たいして豊かにならねぇなぁと感じてしまい、そうなると、そういった類の本、まるで電化製品の取扱説明書のように思われ、見向きもしなくなってしまったわけです。

で、もう一度言いますと、営業マンよ、もっと鼻水垂らせよ!と。

ぼくの尊敬する、三代目魚武濱田成夫さんの詩に『印象』というものがあり、
印象

印象づけるために
俺はグラスの水なんて
今までに100回くらい
わざとこぼしてる

という、まさにこの方、一度会えば二度と忘れられない印象をお持ちで、ポエトリーリーディングのライブに行くといつも、ド肝を抜かれるくらいに感動させられまくってます。

そうなんです。だから、鼻水を垂らせば、商談した相手から、二日に一回は話題にされます。商談した相手が話芸に長けているお人ならば、おもしろおかしく、事務所内や飲み屋、いたるところで、あなたの鼻水について、逸話をひとり歩きさせてくれることでしょう。

ぜひ、おすすめですね、鼻水。

そんなぼくは、以前、長きに渡った契約が、本日破棄されるのではといった緊迫した商談の日、得意先に向かう途中で、スーツのズボンのチャックのジッバーが千切れてしまい、ジッパーが千切れてしまったもんは既にチャックでも何でもねぇやといった具合に豪快にパックリ開いたまま、超が付くほど緊迫した会議に、股間の通気性抜群の状態、チャックだけに、締りの無い状態で挑み、見事に契約が破棄されたという、苦い思い出がございます。

くれぐれもひと言。

契約破棄の時に、印象に残しても、基本的には、手遅れです。

デタラメだもの。

20121202

世の中変わった人多く、まだまだ日本も捨てたもんじゃない「デタラメだもの」

日々生活していると、そりゃ街も歩き電車にも乗りますわな。ほんで、商店街を歩いたり、大通りを歩いたり、しますわな。

そんな折、大阪弁でいうところの「ほんま、けったいな人やなぁ」いう人を目にする機会多く、その都度ぼくは、その人たちから勇気をもらい感動をもらい、これで明日も頑張れるというエールまでもらったりもするわけです。

事実は小説よりも奇なり

とはよく言ったもので、ほんとに現実の世界には、とうてい創作などでは足元にも及ばない、想像すらつかない人たちが多く、とても素晴らしい。

先日などは、会社帰り、鶴橋の駅で電車が向かい側の電車の連絡待ちで停車し、ドアが開きっぱなしになっているとき、その女性はいたのである。

その女性、停車中の電車の開いたドアの目の前、ホームに立ち、カバンをゴソゴソしている。ぼくはその様子を、停車中の電車の中から眺めている。

その女性、服装は地味、髪型も地味、生き方も地味(こりゃ失礼…)な雰囲気にも関わらず、KITSONのロゴがデカデカとプリントされた、ピンク色のスパンコールまみれのミニトートを持っていらっしゃる。

その宝の持ち腐れ感(こりゃ失礼…)というか、暗闇の中にポツリ唯一輝く灯台のような(こりゃ失礼…)というか、ブタに真珠(これまた失礼…)というか、地味な奴のド派手なKITSON(そのままやないかい!)が、めちゃくちゃ浮いておりまして、あの女性、あのトートバックを持たずすれば、夕暮れの中にしても判別できぬが、あのトートバッグを携えれば、月明かりもない真っ暗闇にしても、そのバッグの存在感で判別できるだろう(ごめんなさい…)。

そのバッグに顔まで突っ込み、この方、バッグの中に潜り込みたいのかしらんと思わせるほど、強烈に顔を突っ込み、自身のバッグを漁っている。

異常なほど、バッグに潜ることに執着する女性。何度も何度も、顔、いや頭まで突っ込み、バッグを漁り続ける。

地味な女性、ド派手なKITSON、開きっぱなしのドア、モロに見える女性の姿、電車内の全員が注目、それでも気にせずバッグに潜る女性。

何をしてるんだ?不可解すぎる。想像を超えている。でも、素晴らしい。

ぼくはこの女性を見て、恐らくはこのバッグ、どこでもドア的なシステムになっていて、きっとこの女性は何かの極秘組織の諜報部員か何かで、急遽の任務にそのバッグ、つまりは、どこでもドアの中に潜り込み、現場へと駆けつける必要があったのではと推測。

が、このシステムの不具合により、うまくバッグに潜り込めずに、四苦八苦。鶴橋のホームで嘲るように笑われようが何しようが、任務最優先。地味な姿は、人々の中で目立たぬよう、仮の姿。

が、なぜ、そのどこでもドアのデザインを極彩色のピンク、しかもスパンコールだらけのトートバッグにしたのか、それは不明。

うまく現場へたどり着けたことを、願う。

また別の日、ランチで行きつけの格安うどん屋にて。

めちゃくちゃ紳士、ジェントルマンな雰囲気の年配の男性。うどんを食し終え、どんぶりにはダシだけの状態。

紳士は、セルフで汲んできた水を飲もうとしている。
ごくごく普通の光景。

が、その紳士、ちょうどダシだけのどんぶりの真上あたりに顔を据え、水をグビグビ飲んでいるのだけども、その水のほとんどが、紳士の口から漏れ、あご髭をつたい、どんぶりの中にジョボジョボ。

すごい勢いで水を飲むも、ほとんどがそんな感じで、紳士の口から漏れ、あご髭をつたい、どんぶりの中にジョボジョボ。
ダシだけのどんぶりの中に、ジョボジョボ。
豪快にこぼし飲むものだから、すごい音をたてて、ジョボジョボ。

何をしてるんだ?まことに、不可解。

そこでぼくはこう推測する。

この紳士、全国津々浦々、伝説のうどんダシを求め、ようやく辿り着いたのが、この格安チェーンのうどん屋。

そのダシに、最後の塩分を足すべく、自身のあご髭及び口周りの汗なり何なりの塩分を、セルフの水で溶融させ、注ぎいれ、完全なるオリジナルの伝説のうどんダシを作ろうとしたに違いない。

そのために、人目もはばからず、あんなに意味不明な行動に出たんだ、きっとそうだ、全国津々浦々、周り廻って辿りついたその場で、恥だの何だの、言ってられない。

だから、紳士、水をジョボジョボやってたんだな。きっと、そうだな。

とまぁ、こんな感じで、皆さん、意味不明で、滑稽で、恥さらしで、アホな行動、想像もつかない行動をしてはるわけで、そういうのを見ると、その羞恥心のカケラもない、エネルギッシュな人間力に、勇気がわいてくるのであります。

自分が日々の中で、何かしら、情けねぇことしたとしても、そんなちっぽけなもんは、人の記憶にすら残らないような、カスッちぃ微々たることでして、やっぱりそういった先人たちの偉業には、足元にも及ばないわけです。

皆さん、まともなことして、まともなりにしくじって、それでいて、とてもまともとは言えないようなお偉いさんなりに怒鳴られて責められて、ちゃんちゃらおかしい世の中ですよ。

もっともっと、レールを踏み外しましょう。
他人から、もっともっと笑われましょう。
そして、人の記憶に残りましょう。

あなたの記憶は、ウワサとして、各所の居酒屋や職場の喫煙所なりで、ひとり歩きし、瞬く間に、あなた、有名人。
これでメジャーデビューも、夢じゃないですね!

デタラメだもの。

20121124

サービス精神とは何ぞや - デタラメだもの

お昼ご飯は、某格安チェーン店のうどん屋と決めている。

それはなぜか、、、安いから。

我々みたいな薄給のサラリーマンが、お昼からワンコインだなんだと騙されて、500円もふんだくられて、それでのほほんとお腹をぽっこりぽってり出っ張らすわけにも行かんわけで、なので、お昼はいつも、

『かけうどん 200円』

まいどあり。

まぁ、かけうどんなので、ごくごく普通のうどんの鉢に、うどんひと玉、そして出汁を注ぎ、最後にネギをつまみ入れる。んで、終了。

ご自由にどうぞ、と脇に置かれた天かすは、無料でトッピングできるので、いつも大量にぶっかけ、油でコテコテになった出汁を眺めながら、かけうどんを食している、そんなランチタイム。

チェーン店ということもあり、オペレーションがシステム化されているわけだ。
やれ、うどんを湯がく係、盛り付ける係、揚げ物やおにぎりなどサブメニューを作る係、そしてレジをする係などなど。

この盛り付けをする係の人が、ネギもトッピングしてくれるわけやけども、このネギトッピングの人のサービス精神にムラがあり過ぎて、まぁ、そんなわけなんですわ。

ある人物がこのネギの盛り付けをしてくれる際は、

「おやおや、かけうどん注文だなんて、いい歳こいて、貧しい人なんだなぁ。気の毒だなぁ。ほんとは、かしわの天ぷらもサービスしてあげたいところだけど、それはさすがにできないから、ネギを多めにトッピングして差し上げよう。それ、もうひと盛り!」

といった慈悲の手つきで、ネギを盛ってくれるわけです。

それが、別の人物の場合は、

「おやおや、いい歳こいて、かけうどん注文なんて、情けねぇ人生の負け組野郎だぜ!いい気味だ!俺は仕事にゃムラを出さねぇタイプ。こいつが貧乏かどうかなんて関係なく、マニュアルで決められた通りのネギの量しかトッピングしねぇぜ!カス野郎!」

といった尖り切った眼差しを、こちらに差し向けてきやがるわけです。

ほらほら、こういった感じで、ネギの盛り付けだけでも、サービス精神を発揮できたり、サービス精神の無いつまんねぇ店員だなと思わせたり、まぁ、てんやわんやですわ。

ぼくが店員だったならば、かけうどんを注文される方には、芝生の如きネギをトッピングして差し上げ、余計なサービスにブン殴られたりしそうなもんである。

その話で思い出した昔話がひとつ。

以前勤めていた職場のほん近所には、吉野家がありまして、まぁ牛丼好きのぼくとしては、こりゃたまらんといった具合に、来る日も来る日も吉野家に通い詰め、結局、半年間連続昼メシ吉野家といった塩梅で、過ごしていたわけです。

そんな中、その吉野家に、ひとりのおっさん店員がデビュー。

おそらく勤め先をリストラされたような態で、人柄はめちゃくちゃ良く、少しばかり太ったおっさん店員でした。

なぜリストラされたようなと言って差し上げることができるかと言いますと、とにかく、おっさん、要領悪い!

何をやっても、20~30歳近く年齢が下の先輩店員に、怒られ怒鳴られ、ミスを責められ。おっさんはもう、ただただ、

「えらい、すんまへん!」

と謝るばかり。

店員に怒られるだけならまだしも、もちろんミスが多いことから、客から怒られることも多く、「なにしとんじゃ!ボケ!」的に、客から怒鳴られていることもしばしば。おっさんはもう、ただただ、

「えらい、すんまへん!」

である。

ぼくはそんなおっさんが一生懸命、挫けずに接客を頑張っている姿勢が好きで、あえておっさんの持ち場の島(カウンター)に座ったり、軽く世間話したり、たとえおっさんのミスでオーダーと違う商品が来たときなども、「わぉ!ちょうどこっちのメニューが食べたい気分になりましたわ!おっさん、ありがとう!」といった具合に、それも愛想愛想と、楽しく吉野家を楽しんでおりました。

日々吉野家に通う中で、おっさん、メキメキ接客が上達していきまして、しばらく後には、どの店員よりも、スピーディーに且つ的確に動き、他の店員を仕切るほどの能力を発揮し出したわけです。

「Aカン、都合牛丼14丁!」

といったように、14人の客の注文を同時に聞き(そない同時に大勢頼むかいな!)、しかも、汁ダク、ネギ抜きといったような、注文バリエーションも聞き漏らすことなく伝え、それらを間違えることなく、オーダーしたお客様へ通す。

人間、ここまで立派になるもんやなぁ。

ぼくは、おっさんの成長がまるで自分のことである如く、日々、パッキパキに動くおっさんを見ながら感動していたものでした。

そしてある日、ぼくの中でのサービス精神という概念を大きく覆してくれる、嬉しい出来事が起こったわけです。

その日は、吉野家特製丼プレゼントキャンペーン期間中。

ぼくは変わらず、その日も吉野家へ。

毎日来ていると、それほどキャンペーンなど意識することはない。普通に食べて、普通に腹を満たして、普通に帰る、と。

その日も普通に食し、普通に帰ろうと、お金を払ってカウンターを離れようとしたところ、妙に他人行儀なおっさんが、カウンターから出て、ぼくの方へ近づいてきた。

「ちょっと、すんまへん」

ん?なんだ、なんでそんな余所余所しいん?

おっさんは妙にそわそわして余所余所しく、ぼくのところへ近づいてきた後も、目も合わさずもぞもぞとしている。

そして、おもむろにぼくの右手を掴んで、

「これ、もろといてぇ」

と小声で囁き、紙袋をぼくに持たせた。
チラッと袋の中身を見たぼくは、即座に気づいた!

吉野家特製丼や!

そうである、おっさんは、来る日も来る日も店に通い詰める(キャバクラみたいな表現やな)ぼくを、そしておっさんの下積み時代、他の店員や客がおっさんを責める中、冗談と愛嬌でミスをミスとせず接していたぼくを、そんなぼくを、最大級のおもてなしという名のサービス精神で包んでくれるべく、吉野家特製丼を、くれたわけだ!

おぉぉぉぉぉぉ、なんだこのサービス精神は!!!

おっさんは紙袋を手渡すや否や、すぐに照れて目も合わせず、自分の島(カウンター)に入っていき、何事もなかったかのように、次の客の注文を聞き始めたのでした。

ぼくは、その帰り道、泣きましたよ。
おっさん、ありがとう!おっさん、大きくなったなぁ!と。

こんなサービス精神溢れる話がある中で、前述のネギ係よ、かけうどんしか日々注文できないぼくに、もう少し、慈愛をくれんか、慈悲をくれんか、情けをかけてくれんか、恵みをくれんか、あんた鬼か?

黒い丼の中に、何の具もなく、純白のうどんのみ置かれた丼の中に、あんたよくあれだけ、ほんの一つまみのネギだけ置いて、はいお待ちなんて、ヌケヌケと抜かせるなぁ。

と心の中で思いつつも、サービス精神は強制するものでもなく、その人に委ねられ、その人に任せられ、ポスピタリティっちゅうんかいな?なんか、そういう横文字とかも入ってきて、よく分からんので、ぼくは少しばかりしょぼんとした様子を装い、天かすをてんこ盛りにトッピングしてやり、バカ野郎、俺は、ネギにゃ頼らねぇ、天かすまみれにして、茶色いうどんを楽しんでやる。俺様に緑色なんざ、似合わねぇよ、ぬはははははは。

と、油がギトギトと浮く、かけうどんを、今日も美味しく召し上がるのでした。

デタラメだもの。

20121017

社会で飛び交う薄っぺらい会話に「デタラメだもの」

社会人になって十数年がたつが、今だにあの、社会に飛び交う薄っぺらい会話というものに、どうも慣れない。

あの薄っぺらさが、とてもとても鼻につくわけです。

例えば若手社員が、上司や上層部に対して話す、お世辞にも満たない、太鼓持ちほど質の良くない、下品な媚び諂い。

例えば会社で催される飲み会などで繰り広げられる、その場限りの、妙に座りの悪い会話の数々。

そういった場に出くわしたりすると、もう寒気がして、これは夢か現実か?といった具合に、目の前のできごとを、疑ってみたくなる。

思い返せば、ぼく自身も、社会に出たての頃や、新しい職場環境になった時、あとほんの僅かではあるが、社会というフィールドでのし上がってやろうかしらん、そない思った時など、そう、思い返せばそんな頃、やってましたわ、媚び諂い、やってましたわ、その場限りの虚無な会話。

でもいつからだろうか、単純にそういう自分が、痴態を晒してるなぁなんて感じ出したこと。ほんま、シンプルに痴態めいて映ったわけです、自分のことが。

長渕剛も歌ってましたわなぁ。

偉い人に頭を下げたら いい奴だと口々にほめられた
心とうらはらの顔を鏡にうつしたら 恥ずかしい自分に気がついた

って。

ん?となると、社会に出ておられる皆々様方、ああいう痴態は、自らちゃんと痴態だと意識して、やはり社会に身を人質として取られている身分ゆえ、恥を忍んで実行しておられるのだろうか?

疑問である。はなはだ、疑問である。

そしてそして、さらに難解なのが、まぁ一方的にそういった下品な言葉を用いたり姑息な手段を取るのは、百歩、譲りたくもないが、譲ったとして、その言葉の数々を受け止める側も、なんだか、まんざらじゃないような、そんなニヘニヘした表情で、受け取るもんだから、これまた、難解。

いわゆる、捏造された言葉で、気持ちよくされたところで、ぼくだったらば、ぼくだったらばですねぇ、こいつアホちゃうか?そない歯の浮くような言葉、五月雨式に言いやがって、なんの信用も置けんぞ、こいつは。

と、まぁ、鼻持ちならず、まず疑ってかかりますわ。

それが社会では、なんだか、そういった下衆い言葉でキャッチボールが成立するときやがる。意味わからん。

さらにさらに、そういった奇妙な奴が、社内で地位を優位に確立したりだとか、出世したりだとか、得意先も拡大したりだとか、意味わからん。

社会とは、アホの集まりなのか?

まぁ、私自身、既に社会の標準レールからは、とうにはみ出してしまっており、すでにそのレールと私自身のひた走るレールとは連結されておらず、グイグイイと果て無き砂漠へと向かうレールをまっしぐらなわけですが、自分よりもずいぶん若い社員などが、そういった明け透けに下品極まりない言動・行動などを繰り返しているのを見ると、その器用さにゲロを吐きそうになり、こいつ、終わっとるな、そない感じてしまうわけです。

それと同時に、そういった、下衆の極み的な言葉を受けて、ニヘニヘヘとしておられる年配の方々、権力者の方々、ステークホルダーの方々、決裁権をお持ちの方々、そういった方々にも、心底の侮蔑の眼を差し向けてしまうわけであります。

社会とは、あぶら取り紙一枚程度の薄っぺらい人間関係で、バランスが保たれておるのかしらん?

そんなこんなで今日も、ウンコのような顔面の色を晒した決裁者と呼ばれるような方々に、やぁおはようございます、今日もナイスなウンコ色の顔面でございますね、とも言えず、かといって、いつも快活なイメージですね、何かスポーツでもやられてるのですか?キレイに日焼けされておられる、なんてウンコのようなセリフを吐けるわけでもなく、ただひたすらに、影響を及ぼし及ぼされるような方々とは、目が合わぬよう、伏目伏目で、今日も斜陽。

ともかく、社会で飛び交う薄っぺらい会話からは、いち抜けた、を続ける日々なわけであります。

20121012
著者

常盤英孝(ときわひでたか)

《3分後にはもう、別世界。》 3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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