デタラメだもの

デタラメに生きる。デタラメに暮らす。薄暗い世の中をデタラメに生きるための処世術、バイブル。エッセイです。

賭け事をしない人間でも強制的にギャンブルさせられる唯一の場所があるのです。『デタラメだもの』

それにしても、大文字のBと小文字のbは理解できる。丸みを帯びている向きが同じだから。一方、大文字のDと小文字のdは解せない。丸みを帯びている向きが逆だから。それだったら、Dの小文字を同じ向きのbにして、Bの小文字を丸みの中間に棒線を引くなり何なりして、もう少し工夫すれば理にかなった形状になるのに。と、そんなことばかり考えていると眠れなくなってきて辟易。

さて私はギャンブルをやらないタチの人間である。せっかく稼いだお金を運に任せる宝くじの類やら、せっかく稼いだお金を競走馬やらボートやら自分の能力以外に任せる賭け事の類やら、店側の操作で何とでもヤラれてしまいそうなパチンコ・スロットの類まで、基本的にギャンブルには手を出さない。お金を賭けずに競馬を見ることはごく稀にあるものの。

ただ唯一、勝機の有無を把握せずに賭けざるを得ない場面がある。それはファストフードやチェーン展開している喫茶店の座席確保。あれはどう考えてもギャンブルに等しいだろう。

というのも、二階や三階に座席があるタイプの店舗。一階の注文カウンターで希望の品をオーダーし、商品をトレイに乗せ、それを持ったまま二階やら三階やらへと上がるタイプの店舗ってあるよね。あれのこと。

二階やら三階の座席が空いているかどうか未確認の状態で商品を注文し、階上へと移動。もし万が一、上階で座席が空いていないことが判明した場合、どう処すればいいのか僕は解していない。立ち食い立ち飲みの様相で、片手でトレイを持ち、もう片方の手で飲み食いをするのだろうか。それとも、見ず知らずの他人にすり寄って行き、半ば強引に相席を申し入れるのだろうか。まさか、スゴスゴと階下へ移動し、注文カウンター前に仁王立ちし、「座席が空いていなかった故、お持ち帰りにチェンジしてはもらえないでしょうか?」と物申すのか?

コインパーキングの如く、『空』やら『満』やらの表示が一階にあれば、「嗚呼、座席が空いていないから別の店にしよう」だとか、「今日は持ち帰りにしよう」という事前判断ができるのに、階上へ移動してなんぼ、座席を確保できるか否かは、己のギャンブル運に任せよと言わんばかりの、あのサービス形態には閉口してしまう。

有名大学を出ているような優秀な人ならば溢れる叡智が働き機転が効くもんだから、「先に階上に移動し、空いている座席を確認してから一階に降りて注文すれば?」と、涼しい顔で指摘してくれるに違いない。あほんだら。仮に確認した折に1席しか空いていなくて、注文カウンターに4~5人が並んでいたら、その時点でアウトじゃあないの。それなら事前に諦めもつくが、3席の空きを確認した後、注文カウンターに3人が並んでいて、私が4人目という状態なら判断に迷うじゃあないの。

空きが3人だから実質、僕は座席には座れない計算になる。が、注文カウンターに並んでいる間に客がひとり、上階で飲食を終え階下に降りてきた場合、俺も座れるやん、という判断ができる。が、もし万が一、空席確認の際にそいつがトイレに立てこもっており、そこから出て来た客だった場合、空席が3席という状況に変化は生じない。「4席目が空席になったから列の4番めの俺は座れる!」という刹那な判断がぬか喜び、先走り、フライングになってしまう。ウキウキして階上へ移動するも、座る席はどこにもなし、という現実を突きつけられ、片手にトレイ、もう片方の手で飲食、というスタイルを余儀なくされてしまうじゃあないの。

ちなみに、「先に階上に移動し、空席を確認した時点でテーブルの上に私物でも置いて席を確保しておけば?」という意見が出るのも目に見えている。しかしだ、もし万が一、注文カウンターに並んでいる先客の誰かが、事前に階上に移動し空席確認を済ませていたとしよう。そこへだ、後発の僕が妙な私物、たとえば引きちぎったシャツのボタンであったり、つい先ほど道中でもらったポケットティッシュであったりを置いていた場合、「誰じゃい、後発のくせに姑息に私物など置き腐って。こいつは俺が先に目をつけていた女。後から来たお前が手を出せる女じゃあない」と吠えられて、胸ぐら掴まれて殴られる光景が容易に想像される。だから、私物を置いての座席確保は禁物だ。痛い目を見るからやらない。

そんな状況は単独で店を訪れた場合の話。仮に二人で店を訪れた場合も、また質の違う問題をはらんでいる。たとえば後輩と二人で店を訪れた場合、どちらか一方が先に空席を確保するというクレバーなやり方が考えられる。が、しかし、この手法もまたリスクがあるのだ。

僕が階上へと移動し座席を確保。座席に鎮座し、注文は後輩に任せきる。二人分の商品をトレイに乗せ、さも重そうに階上へと移動してくる後輩。尚も鎮座する先輩の俺。周りの目はどうだろうか。この先輩は腐っとる。偉そうに座席にふんぞり返りやがって、何もかもを後輩に任せっきり。きっと職場でも、後輩に対し横柄な態度を取ってるんだろう。いかにも上から目線で指示など出しそうな輩だ。人間のクズを絵に描いたような野郎だな。アホンダラだな。と、誹謗中傷されるに決まっている。人間としての品格を全否定されるに決まっている。これまで築いてきた地位も名誉も、すべて消失し失脚の憂き目に遭うに決まっている。

じゃあ、ということで、階上で後輩に座席を確保しておいてもらい、先輩の俺が注文カウンターで商品をオーダーするとしよう。二人分の商品をトレイに乗せ、さも重そうに階上へと移動することになる。周りの目はどうだろうか。この先輩は貧弱だ。後輩にコキ使われている。あまりの無能さに、職場でも立場が逆転し、後輩から指示を受けて働く何の役にも立たない給料泥棒に違いない。人間のクズを絵に掻いたような野郎だな。アホンダラだな。と、見下し嘲笑されるに決まっている。これまで築いてきた地位も名誉も、すべて消失し失脚の憂き目に遭うに決まっている。

これらのパターンを考察するに、やはりギャンブルというものは危険なものであり、一歩間違えれば、地位も名誉も失ってしまうほどリスクが高いということがわかる。
だから僕は基本的に、飲食スペースが二階やら三階やらにある店舗には入らない。店舗が一階にしかない店で且つ、無色透明なガラス張りで店内が一望でき、間違いなく座席が空いていることが確認できる良心的な店舗にしか入らない。つまりは、余計な賭け事はしないということ。たかがコーヒー1杯で、苦い思い出は残したくない、という強がり。嗚呼、今日もなかなか生き辛い世の中だこと。

デタラメだもの。

20190501

予備の予備まで買い備えてしまう人々の性分を凌駕するほどの珍妙な癖とは。『デタラメだもの』

性格上、予備の予備までを買い備えてしまうという人も、世の中には多いのではないだろうか。要するにあれ、万が一トイレットペーパーが自宅になくなってしまっては困る。だから、現状はあるけれども、念のため予備を買っておこう。にはじまり、ついには、トイレットペーパーの予備がなくなってしまっては困る、ってえなもんで、予備があるにも関わらず、そのまた予備を備えておくという性分のやつ。

僕には特段、そういった性分がないため、何らかアイテムの予備を買っておくという行為は平生行わない。予備はおろか、メインのアイテムそのものすら、なけりゃないで何とかなるだろうと楽観的に考えるため、予備る必要、予備っておく必要がないのである。

がしかし、そんな僕が唯一、予備を保有しておかなければ発狂してしまうであろう物がある。それは、鞄の中に忍ばせた本である。現在読んでいる本だけに留まらず、もう一冊。そして、予備の予備となるもう一冊。常に鞄に入れておかなければ、ムズムズと不快感に襲われ、平常心を保てないわけです。

この珍妙な性分が炸裂するのが、やれ出張やらやれ旅行やらと、宿泊を伴う外出をする際。このクソ忙しい現代人は、やれ出張やらやれ旅行やらと言っても、時間に追われついぞ過密なスケジュールを組んでしまうもの。何時にここに着いた途端、そこいらで昼食を済ませ、とっとと客先やら観光地やらを巡った上で、即座に移動し、その日の宿に入る。で、ちゃっちゃと食って飲んで、気づけばダラダラと食って飲んで、で、疲れ果ててバタムと寝入る。翌朝目覚めた刹那、ちゃっちゃと支度して、朝食を頬張り、とっとと客先やら観光地やらを巡り、ランチを流し込み、「あっ! もうこんな時間やん!」と呟くや否や、帰りの便に間に合わせるため駆け足る。で、乗り物に乗るや否や、缶ビールをプシュ。グビグビやりながら、意味のない会話を繰り広げ、気づけば、「えっ? もう着くの? 帰りってなんか早くない?」などとほざき、下車し、手を振り、別れる。おおよそこんなもんじゃないだろうか。

ところがだ、こんな過密なスケジュールが予想されているにも関わらず、まずは主として読む本を鞄に忍ばせる。で、その本を読み切ってしまった場合、手持ち無沙汰になることが予想されるため、予備の一冊を忍ばせる。で、もし万が一、旅先で速読に目覚め、奇跡的なスピードで予備の本を読了してしまった後の心許なさを想像し、予備の予備としてもう一冊を忍ばせる。

それだけならまだしも、万が一、満足に読書の時間が確保できず、中途半端な隙間時間が連発してしまう状況に陥った場合、小説やらビジネス書やらを熱心に読み耽ることができない。そんなクリティカルな場面に備えるために、辞書のようなものも鞄に忍ばせる。隙間時間に数行読んだだけでも価値がある書籍。すなわち辞書。英和辞書の場合もあれば、英英辞書の場合もある。そして、その一冊が果てしなく重いんだ。肩にズシリときやがる。そんな私、書籍の重量が原因で、背負う鞄が重くなり過ぎ、両肩を圧迫した結果、旅先で肩こりに悩まされ、高熱が出てしまったという経験もあるほど。

にも関わらず、主の本と予備の本と予備の予備の本と辞書を携行することはやめられない。なぜなら、万が一、読書の時間が確保できたときに、本がないために手持ち無沙汰な時間を過ごすことになっては、あまりにも悲惨だから。

勘のいい読者なら気づくだろう。お前、インターネット系の仕事に従事してやがるんだから、電子書籍とかで読めや、と。そうしたら重量もクソも関係なく、手元のスマートフォンのみで読書ができるんだから、何万冊持っていっても不便じゃないだろうが、と。

嫌なんです。旅先での電子書籍は。日常生活においては、電子書籍を読むことに抵抗はないのですが、なぜか旅先で電子書籍は、嫌なんです。せっかく遠方に出ているにも関わらず、電子書籍は風情がなくて、なんか嫌なんです。自分でも分かっているのです。それができれば、こんな悩みとは金輪際、綺麗さっぱりサヨウナラできるということも。でも、嫌なんです。

そして、何より悲しいことは、これまでの人生、そうやって大量の書籍を携行していったにも関わらず、あまりの過密スケジュールを組むもんだから、読めたとしても、主となる本の2ページ程度。最悪のケースでは、主となる本を開く瞬間すらない。そういう実績が残っているのです。予備の本はもちろんのこと予備の予備の本も、もちろん辞書も、開くことすらないんです。

さらに悲しいことに、衣類やら機械類やらと同じ鞄に書籍も詰め込むもんだから、本たちは鞄の中をガサゴソと移動。その結果、帰宅後、書籍を取り出してみると、出発前には美しかった本の四隅が折れ曲がっているなどの惨状もあり、げんなり、しょんぼりしてしまう始末。毎度、大量の書籍を携行していった自分を恨み、巨大な後悔が押し寄せるのです。

実はこの性分には、さらに阿呆なカラクリが仕込まれておりまして。それは、僕が類を見ないほどの乗り物酔い人間だということ。自身で運転する車以外の乗り物には、もれなく酔う。その昔、地元大阪から東京まで夜行バスを利用して移動する際、地元のバス停を出発し、次の乗客を拾うために大阪上本町というバス停で停車した時点で、既に酔いが限界を迎えていたという事例もある。乗車時間わずが十数分で限界を迎えたんだぜ、東京まで6時間強もの移動が待っているというのに。屈強な人間だろう。どうだい?

で、何が言いたいかと言いますと、移動中の乗り物の中では、書籍を読むことは不可能だということ。ひと文字でも視線で追いかけた刹那、胃の奥底からマグマのような物体が、口腔内目がけて噴出してくるだろう。なので、乗り物の中では絶対に本は開けられない。絶対に禁止だ。となると、俺は一体、出張先やら旅先やらで、いつ何時、読書に耽ろうと考えているのか。それは自分でも分からない。働き方改革が巻き起こり、日本人がますます労働をしなくなり、無駄に呆ける時間も存分に増えるだろうし、その時間を活用してこの謎と向き合ってみたいと思う。

デタラメだもの。

20190414

極度の近視の僕がVRを体験してみたところ、VRゴーグルとの熾烈な戦いとなり、仮想世界どころじゃなかった悲惨な経験。『デタラメだもの』

技術が進化している過渡期ってのは、少々無様に映るときがある。携帯電話なんてものも、世に出てすぐの頃はサイズも巨大で、よいしょと担ぎながら電話をするスタイルを、今では揶揄されたりもする。

ノートパソコンなどの類も同様。今でこそスタイリッシュな形状をしているが、ひと昔前までは、ボテンとドでかい弁当箱みたいで、重いは場所を取るわ。挙げ句に動作もモタモタしていて、何かしら動作をするたびに、画面上に砂時計のアイコンが表示され、動作が完遂するまでの間、ひたすらに待たされる。

とかく、過渡期には、無様な様相を呈するということ。

で、常々、常に過渡期でいらっしゃるなぁと感じるのが、目元に装着するデバイス。これだけは、いつまで経ってもスタイリッシュになりやがらねぇ。

思い返してみると、幼き頃の映画館。3D上映みたいなものが颯爽と登場した頃。キッズが愛好するアニメの映画上映を3Dでやっちゃいましょうという企画。そりゃ子ども心に、ウキウキするよね。ワクワクするよね。

しかしだ、いざ映画館に着いてみるとそこには、青と赤のフィルムが貼られた、おもちゃのようなメガネが。これを装着して映画を観ろだ? まぁ、ええわい。それで飛び出す映像が堪能できるなら構わんと、おもちゃのようなメガネを掴み館内に。するとだ、そこには、青と赤のフィルムが貼られたおもちゃのようなメガネを堂々と着用し、スクリーンに熱い視線を投げかける大勢の子どもたち、大人たちの姿。

その光景があまりにも滑稽過ぎて、吹き出してしまった。とても阿呆な光景に見えてしまったのである。中にはその拍子抜けした風情でポップコーンを頬張る紳士や淑女の姿まで。いかんいかん、映像がどれだけ飛び出そうが、周りの人間たちが気になって気になって、作品どころではない。到底、没入どころではない。ぐふふ。今にも笑い転げてしまいそうだ。ぐふふ。

飛び出す映像が来場者を興奮の渦に巻く大型テーマパークの館内でも、未だにメガネをかけさせられるらしいし、さすがに幼き頃の映画館で用意されていたような、安っぽいメガネじゃなくなっているにせよ、とにかく、大勢の人間が集い、皆が皆、同一のメガネを着用しているという光景が、我慢ならんのです。今にも笑い転げてしまいそうになるのです。

で、目元に装着するデバイスの進化に着目してみると、VRの存在は外せないでしょう。ぐふふ。ぐふふふふふ。幼き頃の映画館で着用したメガネは、さすがにチープ過ぎて笑いが止まらんかったけれど、VRはVRで逆に機械っぽすぎて威圧感がすごい。一同集った皆さま方がVRゴーグルを装着している様子は、イカつ過ぎて、これまた笑ってしまいそうになる。

そんな折、VRの世界を体験できる機会に恵まれ、人生で初めて、あのイカつい機械を装着することに。しっかし、無類の近視の性質を持ち合わせた僕は、自身のメガネを手放すことはできない。ひと度、メガネを外してしまうと、まるで水中にいるかの如く、視界が幻想的になってしまうんだもの。ということで、「これって、メガネしたままで装着できるんですか?」と確認。

「いやぁ、コンタクトを推奨させてもらっていますね。メガネが破損してしまう原因にもなりますし」と言われたものの、都合よくコンタクトなど持ち合わせておらず。意を決してメガネの上から、ゴーグルを装着してみることに。

ん? なんも見えんよ?

もちろん、僕ひとりでVRを体験しているわけじゃあない。複数の人たちが集い、一斉に体験しているもんだから、自分ひとりが場をかき乱すことなどできない。が、しかし、なんも見えんよ?

皆さんの準備が整ったのか、映像が開始されることがアナウンスされる。伝えていないので伝わっていないかもしれないが、僕はまだ準備が整っていない。準備どころか、なんも見えない。直後、おそらく映像が開始されたのだろう。皆、一様に歓喜の声。しかし、依然、なんも見えない。

こういう不測の事態もあろうかと、「仮にド近視の人間がメガネを外し、裸眼で見たとしても、映像って見えるのでしょうか?」と事前にスタッフさんに問うていた俺。ぐふふ。やむを得ない。なんも見えないまま、VR体験を終わらせるわけにはいかない。15分程度しかない体験の機会。一秒もムダにはできない。

実際にゴーグルを装着してみたところ、瞳から十数センチ離れた位置にレンズがある。その程度なら、ド近視の俺でも、裸眼で物体を捉えることは可能だ。たまに目が疲れたときなんか、メガネを外して本を読んだりしていることから、それは立証されている。この距離なら仕留められる。

意を決した俺は、頬骨あたりに密着しているゴーグルの接着面を強引に浮かせ、命の次に大切なメガネを引っ剥がし、放り投げた。よっしゃ、来いや。VRよ、俺が裸眼で相手してやる。

ん? 余計になんも見えんよ?

視界は完全に水中と化した。詰んだ。もはや、なんも見えんよ。どうしよう。どうしよう。

焦った俺は、放り投げたメガネをゴソゴソと手探りで探し出した。ええい。こうなったら、再びゴーグルを浮かせ、わずかに生じた隙間からメガネを装着するしかない。俗に言うところの、おかえりなさいメガネをするしかない。

転がっていたメガネを強引に掴むとき、ベタベタとメガネのレンズを指先でつまんでしまった。皮脂が弄ぶ指紋の付着が視界を妨げるのではないかと一抹の不安を覚えたが、そうも言っていられない。もう、体験の時間が終わってしまう。急がねば。

俺は浮かせたゴーグルの隙間からメガネを押し込んだ。ここで、またしてもアクシデントが。

VRゴーグルは、多くの利用者が使い回すことから、利用者の顔面とゴーグルが直接触れないよう、目を覆うような布切れみたいなものを着用する。汚れ防止マスクと呼ばれるペランペランの簡易メガネのようなものだ。要するに、俺の肌、汚れ防止マスク、そしてゴーグルという層になっている。そうすることでゴーグルが汚れず、他の利用者も清潔に使用できる、というもの。

俺は焦りから汚れ防止マスクの存在をすっかり忘れ、強引にメガネをねじ入れてしまったため、ゴーグル内で防止マスクがクシャクシャに捻じれ、物理的に俺の瞳を覆ってしまった。

ん? 完全になんも見えんよ?

俺の焦りはピークに達した。なんせ、間もなく映像が終了してしまう。まだ、VRらしい映像を何ひとつ見られていない。こんなアホなことがあるかいな。

俺はこの対決に決着をつけるべく、ゴーグルを可動域ギリギリまで浮かせ、頬骨とゴーグルの間に生じた隙間に指を突っ込み、まずは防止マスクの位置を正した。そして、強引に自身のメガネの位置も正し、即座にゴーグルを元の位置に戻した。

勝った。完全に勝った。決着は着いた。
ん? なんも見えんよ?

事態は最悪な状況に。なんと、開始から現在まで死闘を繰り広げた結果、俺の顔面とゴーグルの間の密閉空間には、信じられないほどの湿度が蔓延っていたのだ。そのため、自身のメガネを装着しゴーグルを再びセットした瞬間に、メガネのレンズが完璧に曇ってしまったのだ。レンズ一面が曇っているため、もはや視界はゼロだ。どう瞳を動かしてみても、なんも見えんよ。

無情にもVRの体験は終了した。非情な絶望感と異常な疲れだけが残った。地面に付いてしまうのではと思うほど深く肩を落としながら、ゴーグルを外し憎きメガネの曇りを確認しようとしたところ、湿度から解放された僕のメガネは、曇りから水滴へとその姿を変え、ワイパーを作動させずに雨中を走った車のフロントガラスのようにビチャビチャになっていた。水滴の中には、僕の涙も混じっていたかもしれない。

そして、ゴーグルと僕の顔面が密着している上辺部分には、自身の前髪が挟まっていたのかしらん。壮絶なプレッシャーとあまりにも高すぎるゴーグル内の湿度にやられ、髪の毛がビチャビチャに。大量の冷や汗を流していたらしく、顔面も汗でビチャビチャに。
周りの人間が僕のことを見たら、「あれ? 最近のVRって、水とか噴射されたりすんの? けっこう日本の技術ってすごいよね」などと、誤った技術の進化をお伝えしてしまうやもしれない。

皆々様一同がゴーグルを装着し、映像に没頭する光景を可笑しがっていた僕は、完全にしっぺ返しを喰らってしまった。一同がゴーグルを装着している様子なんかよりも、一同がゴーグルを装着し、VRの映像を満喫している最中、ひとりだけ焦りに焦り、何度もゴーグルを浮かせては、メガネを外したり再び装着したり、最終的にはゴーグル内に湿度を溜め込んで視界を奪われジタバタしている人間のほうが、よっぽど滑稽で無様だ。きっと、スタッフさんは僕だけを見て、嘲り笑っていたに違いない。こいつ、何してやがんだ、と。こいつ、希代の阿呆か、と。

そして、今、僕はこう思っている。僕はまだ、VRというものを体験したことがない。技術の進化の過渡期である今、それに触れてみたい。その熱き情熱は、僕の胸から飛び出さんばかりだ。もし、次に体験できる機会があれば、ぜひとも仮想世界に酔いしれてみたい。もちろん、コンタクトレンズ持参で。

デタラメだもの。

20190317


券売機の前では人生をどん底に突き落とすほどのトラブルが巻き起こることがあるから気をつけたい。『デタラメだもの』

並ぶ、という行為の威圧感に異を唱えたい団体代表を務めて久しい。元来の気の弱さが邪魔をして、特に券売機と対峙した際、その威圧感に飲み込まれてしまう。

例えば美味で有名なラーメン屋。愛好しているがゆえ、お昼時によく足を運ぶ。オーソドックスな横浜家系のラーメン屋。その店の定番ラーメンは、既に幾度となく食している。が、その店舗、店前に看板を出し、その他のジャンルのラーメンやら、いかにも美味しそうな添え品やらが宣伝されている。

定番ラーメンの美味さは既に知っているがために、その他のジャンルにも手を出したいし、腹ペコリンの折りには添え品にも手を出したくなる。しかし、ここで問題だ。その店舗、店前の券売機で希望商品の食券を買わせてから入店させるという制度を導入しているのだが、解せぬことに、僕が券売機の前に立ち、数多のボタンを眺めた刹那、必ず他の客が僕の後ろに並ぶ。人気店だから仕方がないのは承知のうえだが、必ずといっていいほど、並ぶ。

元来の気の弱さを持ち合わせた僕は、後ろに客が並ぶことで平常心をかき乱されてしまう。僕が商品選定をモタついた暁には、そいつが腹ペコリンに耐えられなくなり、僕に何らかの暴言を吐くかもしれない。もしかすると、僕が商品選定をモタついた暁には、腹ペコリンの後ろの客の、そのまた後ろに、新参者の腹ペコリンの客が立ち並び、行列の様相を呈するかもしれない。

この世がスムーズに進行するためには、僕がさっさと商品選定を済ませ、一目散に店内へと姿を消すほか、ない。

この威圧感、重圧には大敗以外の経験がない。だから、幾度となく足を運ぶラーメン屋において、僕は今なお、定番ラーメン以外の商品を選定できたことがない。店前の看板の美味しそうな他ジャンルのラーメンやら添え品を渇望しているにも関わらず、それをオーダーできたためしがない。それは完全に、後ろに立ち並ぶ客の「早よせぇや、こちとら腹ペコリンで参上しとるねん、一秒でも早う商品選定せぇや!」の無言の圧力に大敗した結果、押し慣れた定番ラーメンの発券ボタンしか押せないためだ。

だって、他のジャンルのラーメンや添え品の発券ボタンが券売機の中に乱立するボタン類のどこに位置するかを発見するためには、かなりの時間が必要になる。そんな芸当を瞬間的にやってのけろ、というほうが無理難題だ。後ろに立ち並ぶ野郎も、僕の視線が券売機のボタン類を右往左往しているのを知った暁には、恐らくだが僕のことを暴行してくるに違いない。たかだかラーメンを食べに訪れただけなのに、暴行されてしまってはたまったもんじゃない。

そうやっていつも、諦め、定番ラーメンのボタンを押す。

ここでひとこと、言ってやりたいわけだ。それは、「俺のほうが先客だぜ」ということ。俺のほうが先に店に到着しているにも関わらず、俺のほうが不利な仕打ちを受けるとは何ぞや。なんだって先に到着したほうが良き目を見られるのは世の常じゃねぇのか。オールスタンディングのライブハウスだって、箱に先着したほうが先に箱に入れるし、ステージ前の良きポジションを確保できる。先客有利の理論だ。

にも関わらず、ラーメン屋の店前では、先客である僕が、常に不利な状況を強いられる。そりゃ後ろの野郎は、じっくり選ぶだろうよ。他ジャンルのラーメンや添え品をネチネチと選ぶだろうよ。そのラーメン屋の商品ラインアップを、心行くまで堪能するだろうよ。定番ラーメンしかオーダーしたことのない弱者の俺を尻目にな……。

元来の気の弱さに悔しさを噛み締めつつ生きていると、さらにエスカレートした事態にまで発展することがある。つい先日、奇しくも別のラーメン屋でそれは起こった。こちらは店内に設置された券売機前での出来事だ。

その店の券売機は一風変わっていて、デジタル方式。画面上のボタンを巧みにタップし、希望の商品を選定するタイプの券売機だ。

まず、使い方に慣れていない券売機という点、そして、複数提供されているジャンルのラーメンを検討するのに、操作画面上に設置されたタブをタップし、ジャンルを切り替えながら検討していくという、デジタルリテラシーを要する選定方式を用いた券売機だという点、それらが僕を地獄のどん底に突き落とした。

操作方法がわからずアタフタしていると、あろうことか、後発の客が入店しやがった。僕は絶望した。その日、ラーメンを無事に食し、店を後にする自分の像が脳内に描けないくらいに。

千円札を機械に通し、あっちゃこっちゃのタブを押しまくる。希望の商品を選定するも、後ろの客に気を取られ、希望の商品すらも脳内で想像できず、タブレット端末を手渡された猿のように、ただ押す、ただ押す、ただただ押しまくる。

もはや後発の客はキレているだろう。このガキ、商品選定にもたつくくらいだったら、「わたし、まだ希望の商品を検討し切れておりませんの。よろしければ先にお選びになってくださる?」とか何とか言えんのかボケと、胸中穏やかじゃないはずだ。

ええい、ままよ。もう、ええわい。その日は、あっさりしたジャンルのラーメンを欲して入店してはいたものの、もう目に飛び込んだこれでええわい。自暴自棄になり、僕は、赤辛ラーメンとかいう、ひときわ辛そうな商品を選定した。

が、不運はこんなもんじゃ終わらない。実はその券売機、商品を選定しただけじゃオペレーションが終わらず、発券というボタンを押さねば、機械との対話が終了しないタイプの券売機だったのだ。

赤辛ラーメンを選定したことに安堵し、任務を終えたと勘違いした僕は、余裕をかまし立ち尽くしていたのだけれど、一向に食券が発券されない。あっ、もうひとボタン押さねばならんのか。デジタル画面の右下隅に発券という赤色のボタンが存在することを知った刹那、鼻歌を歌い立ち尽くした数十秒を後悔した。

そして、その発券ボタンに気づいた僕は、人生でも上位にノミネートするほどに狼狽し、慌てふためき、額からは大量の冷や汗を垂らしながら、俊敏な動作で画面上のボタンに手を伸ばした。

実は、これまでの寸劇は序章に過ぎない。ここで本日の不運劇場の開幕のベルが鳴ったのだ。

画面上のボタンに伸ばした僕の手、僕の指は、発券という赤いボタンを押さずに、なぜだか知らぬが、払い戻しという黒いボタンをタップしてしまったのだ。

後々思い返してみると、この刹那、僕の脳内では、発券・払い戻し、それぞれ言葉は違えど、どちらも食券を発行するという同義の意味を持つ言葉だと解釈してしまっていた。だから、どちらのボタンを押下しても良し。もちろん、払い戻しでも良し。食券が発券されてくるだろうと、至極当然のように僕の指が動作していたことを朧げに記憶している。

世は無情。当然のように券売機は、発券ではなく、別の動作のために異音を発し唸る。しまったぁぁぁぁぁ。払い戻しは券売機に挿入した金銭を払い戻すためのボタンであることに、遅れ馳せながら気づいた。心の中の咆哮が、世間に漏れ出していたかもしれない。それほど大きな叫び声が、心臓付近のハートの中をつんざいた。

どうしよう、どうしよう。後発の客にズブリと刺されるかもしれない。腹ペコリンの恨みは想像を遥かに超えるはず。券売機から吐き出された千円札を強引に引き取り、脇目も振らず退店してやろうか。そのまま他の都道府県まで逃げ切ってやろうか。

その後の戦略を立案しながら吐き出される千円札を待ちわびていると、券売機はさらに僕に追い打ちをかける。なんと、券売機の画面上に、『発券しています』という表示がなされたのだ。

なぜ? なに? なぜ発券? なにを発券?

発券ということは商品を選定できたということか。やはり、発券・払い戻しは同義の意味で合ってたじゃあないの、僕チン。僕ってば、やっぱり冴えてるじゃあないの。赤辛ラーメン、買えてんじゃあないの。そう理解した僕は、誰もが嫌悪するほどの不敵な笑みを浮かべていたはずだ。

発券口に切符程度の大きさの紙キレがストン。勝った。俺は券売機に勝った。後発の客よ、ようやく商品選定のフェーズへと進めるぜ。良かったな同志よ。

食券を取り出し、チラッと視線を落とす。不運のデビルは、まだ僕を解放してはくれなかった。そこにはなんと『お預かり券』という意味のわからないフレーズが印字されていた。え? 何をお預かり? ここ銀行? お預かり券が果たす役割とは? 貯金? 預金? え? なに? というか、僕の千円札は、なぜにお預かり券に化けたの? その理由は? 原理は? 僕の千円札どこ行ったの?

あの刹那ほど、脳内が真っ白になったという喩えに相応しい瞬間はなかっただろう。ここから僕はさらに崩壊する。

お預かり券を取り出した僕は、当初それとは気づかずにいたため、既に券売機から半歩進もうとしていた。が、お預かり券ではラーメンが食せぬと察知した僕は、後発の客が券売機へと一歩前に進まんとしているのを制止し、再び券売機前に立ってやった。がはははは、後発の客よ。俺が噂の、狼狽しながら何度も券売機に立つ漢だ。俺の凄みにひれ伏しやがれ。ふはははは。

僕は俊敏な手さばきで、サイフから新たな千円札を取り出し、券売機に挿入。押し慣れた赤辛ラーメンのボタンを押下する。俺様の学習能力を見くびるなよ。この次は発券ボタンを押すのだ。そうしないと大変なことが起こる。同じ過ちは繰り返さない。そして、豪快に発券ボタンを押す。

と、同時だった。キッチンの中にいたラーメン屋の店員さんが、「払い戻しされました千円でございます」と、濡れた手を前掛けで拭いながら持ってこられた。

わかっているだろう? 僕の脳内は既に、小学校低学年が解くレベルの問題を突きつけられただけでも、畏怖しお小便を垂れ流してしまうほどに、グチャグチャな状態になっている。赤辛ラーメンを発券し終えた僕には、店員さんが持ってきた千円札を受け取る資格も権利も義務もないと判断した。

で、「あっ。もうラーメン買ったんで、大丈夫です」

と、満面の笑顔で、千円を受け取ることを辞退したのである。

店員さんは、その千円が何なのかを、何度も僕に説明してくれはしたものの、僕は既に見ざる・言わざる・聞かざるの状態に陥っていたため、呆けた笑顔で会釈してばかり。店員さんは、僕の態度を怪訝がるも、僕は呆けた笑顔で会釈してばかり。

赤辛ラーメンを食べ終える寸前くらいに、あっ、お預かり券って、払い戻しのお金と交換するための券だったのか。だから店員さん、わざわざ僕に千円札を持ってきてくれたのか。あれは払い戻しのお金だったのか。そもそも、僕のお金だったものを、店員さんが持ってきてくれたのか。僕にはそれを受け取って然るべき理由があったんだ。

と気づいたものの、ここでまた、元来の気の弱さが邪魔をする。払い戻しのお金を拒絶するという阿呆な態度を取り続けてしまった。そんな人間の交渉に、再び店員さんが応じてくれる可能性は極めて低い。単に「千円、払い戻してください」というのとはワケが違う。ハードルが高すぎる。棒高跳びの競技に、棒を持たずに参戦しているに等しい。

元来の気の弱さを持ち合わせたこの僕が、やっぱりあの千円、戻してもらえますか? と言えたかどうかは、読者の皆さまの想像にお任せすることにする。

デタラメだもの。

20190224

伝える、という行為は難しいもの。しかし、言う、という行為そのものも、また難しいものである。『デタラメだもの』

これ以上、言うてええのんか迷うわ。という話なんだけれども。
あと、それに加え、いやいやなんでそんなことできるの、まっとうに育てられてないの? という話へと展開しようかと思っている次第で。で、そこから、「いや、まだ続くんかい、この話!」っていう話で進めてみようかと思います。

飲食店でよくある光景なんだけれども、お店の混雑時、ホールの店員さんが忙しなく動き回っているとき、ありますよね。ただ、こちとらの席では、もはや数分前にビールジョッキが空っぽになり、「次、ビール頼むときに、コレとコレとアレとアレと、あっ、ソレも一緒に頼みましょ!」と作戦会議もとっくに終了済み。

ただ、店員さん、忙しなく。周りのお客さんは、忙しそうな店員さんに対しても容赦せず、忙しないのはそっちの事情、こっちは早よ注文したくて仕方がないねんと言わんばかり、語気を荒めて呼び止めるや、やや怒鳴り気味に注文したりする光景がチラホラ。

まぁ、店員さんも忙しそうやし、無理やり呼び止めて注文するのも品がない。手が空いてそうな店員さん来たら言いましょか。と、空っぽのジョッキを眺めながら自分たちを宥めながら。

ただ、さすがに10分以上が経過してしまったら話は別。そろそろ店員さん呼び止めますわと、店内を凝視。もう、通過しそうになった店員さん誰でもいいから呼び止めて、早よ注文しないと場が白ける。そう思い「すんませーーん!」と声を張り上げる。

いかにも忙しなさそうな店員さんが来てくれた。

「はい?」
「あの注文いいですか?」
「どうぞ」
「ええとですね、生ビールふたつと、それからコレと、あとコレと、でアレとアレと……」

店員さん、あまりに忙しないためか、注文を受け付ける機械みたいなやつを持たずに、当方のオーダーを聞き取っている。このパターン、危険が潜んでいるのだ。

店長クラスで仕事がバリバリできる人なら、いちいち機械に入力せずとも、お客さんの大量の注文を脳に記憶できて、それをキッチンのスタッフに正確に伝えられる。もはや道具に頼らなくとも業務を遂行できるスキルを持ち合わせた人のパターンだ。

一方、それほど大量の注文が一度にくることはないだろうと高を括り、また忙しさも相まって、さらには自分の記憶力を過信して、機械を取り出すことを辞したうえで注文を聞き取ってやろうという勇んだ野郎のパターン。

後者の場合、必ず注文の聞き漏れが発生する。頼んだやつのうち、必ずどれかはこない。そうなってしまうと次に気がかりになるのが、注文を聞き漏らしたがためにそもそもオーダーが通っていないパターンか、それとも注文は聞き取りあとあと機械に入力したものの、それをキッチンに伝え忘れるなどし、オーダーだけが通ってしまい品が運ばれてこないパターン。後者の場合、しっかりと請求はされる。そして、レジでモメる。レジが混んでいるときは、他のお客さまを待たせるのも品がないし、「まぁ、二品くらいやし、しゃあないか……」と泣き寝入る。そんな悲しき顛末が訪れる。

だから、機械は絶必で取り出して欲しい。取り出したうえで注文を聞き取って欲しい。が、相当に忙しいのだろう。無理は申せぬ。当方、10分以上も注文ができずにいたがために、注文することそのものに飢えている状況下。もはや機械の有無は問うまい。

とのことで先のセリフ、「ええとですね、生ビールふたつと、それからコレと、あとコレと、でアレとアレと……」。

ちょっと待った。この段階まで注文したところで、店員さんの奴、内心、「あれ? 思てたんとちゃうなぁ。ビールおかわり、くらいで呼び止められたと踏んでたんやけども。こいつら予想外にフードのオーダー出してくるやん? 機械出さな覚えられへんやん……。でも、いまさら機械取り出すのも奇妙やし、ましてや機械に頼ろうと決めた瞬間に、今まで脳内で覚えていた注文内容、たぶん忘れてしまうやん。どうしようもでけへんやん。もう手遅れやん」と、思ったはず。

なぜなら、表情が一気に曇り始めたからだ。

いやいや、こっちが気を使わなあかんこと? せっかく忙しない状況のなか、この卓で立ち止まってくれたわけやん。機械出したら済んだ話やん。どうしたらええの? このままあと数品、注文言い切ってしまいたいんやけども。もう、僕、覚えられませんねんってな顔しはじめてるやん。俺の表情から、白旗を感じ取ってくれ、みたいなってるやん。どないしたらええのん? 言うで言うで、注文全部、言うてしまうで。機械出さなかった自分自身を恨みや。いやいや、そんな表情されたら、これ以上、言うてええのんか迷うわ。

結局その夜、イカの塩辛とポテトサラダが卓に運ばれてくることはなかった。

そんな風な店員さんに対するマキシマムな配慮を持ってして、不運な結末を迎えている今日この頃ですが、常々疑問に思うことがありまして。

それは仕事の場面でよく遭遇するシーンなのです。やれデザインしたりやれ文章を書いたりする仕事に従事しているもんだから、よくお客さまから修正指示というものをもらう。それは、間違っている箇所の訂正、というようなものではなく、「もうちょっとここを丸にして欲しい」だの「ここを『ワタシが』じゃなくて『アタシが』にして欲しい」だの、作ったものをお客さまの要望通りに変形していく作業ですわね。

まぁ、ありがたいことに、常時20~30本近いお仕事に携わらせていただいておりまして、ご担当者さまともなると一日に20人近くの人とやり取りすることなど珍しくもなく。ともなると常日頃、自分が誰の何の仕事をしているのかすら見失ってしまうような過酷な状況におりまして。まぁ、それは楽しくやらせてもらっているのでいいのですが、そこで珍妙な場面によく出くわすわけです。

電話が鳴る。

「あ、もしもし?」
「アホンダラ代理店の阿呆駄羅王と申します。えっとですねぇ、このオレンジの四角形をですねぇ、赤色の丸に変えて欲しいんですよぉ」

いやいやなんでそんなことできるの、まっとうに育てられてないの?
ちょっと待って。誰? 誰の何? 誰の何の仕事のどの部分のオレンジ?

ある程度常識を欠いた私ですら、電話口の相手が今、自分が話したい用件である仕事に取り掛かっているとは限らないこと、たとえ取り掛かっていたとしても、相手が自分と同じ資料を見ている可能性は著しく低いこと、たとえその奇跡が起こったとしても、その刹那、同じオレンジの四角形には着目していないであろうことくらいは容易に想像ができる。

きっと、子どもでもできる。

どの案件のことかくらいはまず伝えられるはず。資料の説明をしたいから、手元に資料を用意して欲しい旨のお願いくらいできるはず。資料内のどのオレンジの四角形の部分かくらい、紙面の右端だの中央下あたりだのと説明できるはず。そんなこともできずに、よく大学卒業できたね、よく結婚できたね、よくお子さんを育てられるね。と思う人が、社会には実に多い。忌々しき問題だ。

あと何でしたっけ?
あっそうそう、「いや、まだ続くんかい、この話!」という話ですわ。

文字数も多くなり過ぎましたし、どうにも文章の精細を欠いている様子ですし、もしこれ以上、ダラリダラリとこの口調でお話を続けてしまいますと、何より読者さまの胸の内で、「いや、まだ続くんかい、この話!」と思われてしまうこと不可避。そろそろこの辺で、話を締めさせていただきたく。私、オレンジ色の長方形を修正する作業が残っておりますので。

デタラメだもの。

20190210_2

新春早々、お金のことについて熱く語ってみようと思う。『デタラメだもの』

新春早々、お金の話を書こうと思いつき、筆を走らせる。その瞬間、ああ、今年も快活で明朗な一年は過ごせそうにないなと、飼いならした自分の性分に目を向けニンマリ。低空飛行。低空飛行。

で、一昨年末のふとした瞬間、バチンッとブレーカーが落ちるが如く気づいたことがあった。それは、お金持ちになる秘訣というか、お金持ちの特徴というやつだ。今年の一発目は、そんな話題からスタートしてみたいと思う。

一般の人なら誰しも、こんな感覚を持ったことがあるはずだ。いや、ないか。いや、あるはずだ。それは、「何億円も稼いでいる人たちって、そんなにも多くのお金を手にして、いったいどうするんだろう。使えるはずがないじゃん。そんなにも多くのお金」ということ。

例に漏れず、僕もそのうちのひとり。ひとりだった。ブレーカーが落ちるまでは。

で、気づいたこと。お金持ちになって行く過程には、階段のようなものが存在すること。で、その階段を登っていくごとに、どんどんお金持ちになっていく。ただし、ここからが重要。階段を登るごとに、お金の価値観が変わるということ。いや、お金の価値観を変えていかねばならないということ。

例えば、階段の一段目に立っているとき、日頃足を運ぶ飲み屋は1本数百円の焼き鳥屋でいい。で、会話は会社の愚痴でいい。会社の愚痴を吐いて吐いて、明日の活力にすればいい。ただ、一段目に居続ける限り、そのルーティーンは変わらない。

もし、階段をもう一段登ろうと思う。すると、時にはチェーン店ではなく、大将がこだわりを持って酔客に料理を振る舞うような店に行かなければならない。もちろん、酒の値段は高くなる。料理の値段だって変わる。ここで意識改革だ。

「ビールはビール。同じビールなのに、なんでわざわざ値段が高い店に足を運ぶんだ?」

と考えてしまうと、きゃつの人生はそこで止まる。それは無駄遣いをせよ、という意味ではない。その価格差には理由がある。店の雰囲気だったり、素材や味付けだって違う。そして、会話だって変わってくるはずだ。ただただ会社の愚痴を言うためだけに酒を流し込むわけにはいかない。そういう所作が、そういう店では似合わないから。

となると、現状の稼ぎではそういう店に足繁く通うことができない自分に気づく。さぁ、ここからが問いだ。じゃあ、どうすればそれができるのだろうか。考える、考える。で、さらに気づく。常日頃からそういう店に足を運んでいる人たちは、なぜそれができるのか。さぁ、問いだ問いだ。問え、問え。

自分に問うた末、見事、行動やら思考やらを変えることに成功し、結果、階段を一歩登ることに成功したとしよう。そのとき、周りにいる人たちを見渡してみればいい。きっと、こんなことに気づくだろう。これまでとは違った顔ぶれがたくさん居たり、皆さん服装にこだわりを持っていたり、明日につながる会話が生まれたりしていることに。

そう。その階段には、その階段にいるべきお金の価値観を持った人たちが集まっている。その階段ならではの居心地がある。そこに登るためには、お金の価値観を変えなければならないし、価値観が変わったからこそ、その階段の上に立てるわけだ。で、またしても意識改革。

「無理して見栄張って階段を登ったとしても、しんどくなるだけでしょ……」

ここだ。決して無理をするんじゃない。意識や価値観を変えることで行動が変わる。行動が変われば景色が変わる。それは、無理をしているわけじゃなく、周りが勝手に変わってくれる。

で、さらに階段を登っていくと、もやはチェーン店の居酒屋にいた頃には会うこともなかった人、見ることもなかった人が、すぐ近くにいることに気づく。目が飛び出そうなほどに高いスーツを着ていたり、驚くほど値段の高いランチを食していたり、顔色ひとつ変えずに大勢の後輩に酒を奢ったりと。そして、それを見た人たちの多くが、きっとこんな風に言う。

「金を持っているからって、いい気になりやがって」

この発想が、完全に間違えている。彼らの稼ぎが一般の人たちの十倍あるとしよう。すると、一般の人たちの一万円の価値は、彼らのなかで千円に値する。という話をすると、「俺は死んでもそうはならない! どれだけ稼いでも千円は千円で死ぬほど大切にする!」と。

うそだ。お金の価値観は相対的で、多くのお金を保有していると自分が自覚した瞬間、使っている額が少額に感じてしまうものだ。

例えば、旅行に出かける。旅行そのものにまとまったお金がかかっているもんだから、現地で購入するお土産が多少高くとも、旅行代のまとまったお金と無意識に比較し、これくらいならいいか、と錯覚し商品に手を伸ばす。

家や車を購入したことがある人なら経験があるはずだ。家や車そのものの価格があまりにも大きいため、室内に設置する家具や家電、車ならオプション品の価格を、これくらいならいいか、と錯覚し、それ単品なら絶対に躊躇する値段だったとしても、それに手を伸ばしてしまう。そういうこと。

あっ、ちなみにこれらは、そもそもお金持ちになりたいと思っていない人は、別に意識することじゃないことだし、お金がないのに無駄遣いしちゃう人は論外ですので。

で、話を戻す。だから、彼らのお金に対する価値観ってのは、そういうもんだということ。多くのお金を持って、どうすんだい。という前述の設問に対する答え。それは、多くのお金を持てるような生き方をしてきたということ。そして、多くのお金を持てるような生き方をするには、多くのお金が必要だということ。繰り返すと、お金の価値は相対的なので、多くのお金というのはあくまで一般の人からすると多くのお金であって、彼ら彼女らからすると、一般の人が使うお金の感覚とさほど変わらないということを忘れずに。

彼ら彼女らは結果的に、周りの人からすると、巨額の富を手にした人々に映る。で、ここが重要。仮に使い切れないほどのお金を手にした場合、そもそもお金で満たされることへの興味が薄まる。だって、買えないものだからこそ買いたいわけで、食べられないものだからこそ食べてみたいし。憧れや欲望って、そういうもんだし。だから、お金があれば満たされるのにという欲求やそれに対する葛藤が消失することで、それが欲望ですらなくなる。

で、どうなるか。一般の人たちが臨時収入として数万円を手にし、ちょっと背伸びして高級な飲食店に足を運んだり、高級とされる宿に宿泊したり、自分へのご褒美に高いバッグを買ったり、という喜びが、もはや、無い、ということだ。

ここまで語ると人は言う、「けっ! じゃあ、金持ちたちは不幸なんだね。俺らのほうが幸せじゃん!」と。

ここも違う。多くの人たちがお金で欲を満たそうとしている。にも関わらず、彼ら彼女らは、お金じゃないもので欲を満たそうとしている。つまりは、既に別のレールを走っているわけだ。その欲は万人共通のものではなく、彼ら彼女ら個々が保有する、超個人的な欲のはず。もしかすると、彼ら彼女らが、いつまで経っても手にできない、彼ら彼女らが持つ憧れの象徴なのかもしれない。それを追い求めることは、きっと、とても幸せなことなんだと思う。

簡単に説明してみる。常に五位を走るマラソン選手がいたとしよう。その選手は、他の選手同様、一位になることに憧れ努力する。四位になったときの喜び、三位になったときの歓喜、二位になり一位の存在を捉えたときの高揚感。そして、一位の選手を追い抜き、自分がトップに躍り出たときの達成感、満足感。ここまでは良しとしよう。じゃあ、一位になったその選手に、もはや喜びや高揚感、達成感、満足感はないのか? 違う。ここなんだな。

「けっ! じゃあ、金持ちたちは不幸なんだね。俺らのほうが幸せじゃん!」と言っちゃう人たちは、まだまだ二位以下であって、一位になったあとのことは到底、想像すらできないもの。ここがすごく重要なのです。

新年早々、すごく長々と書いてしまった。脳内のブレーカーが落ちた瞬間に気づいたこと。それらをツラツラとまとめてみた。で、これは実行あるのみ。動いたもん勝ち。そう思った僕は、秒速でお金への価値観を変えてみることにした。そして、変わった気がした。

次は、周りの景色を変えねば。普段食しているものを変えねば。焦りを感じた僕は、稼いだお金のすべてを握りしめ、行ってみたかったステーキ店に足を運び、店で最も高級なものをオーダーした。その夜は、行ってみたかったカニ料理の料亭へと足を運び、店で最も高級なものをオーダーした。そして、帰りに服を買い靴を買い自転車を買った。

あれ、お金がもう、ない……。

お札を握りしめていたはずの手のひらの中には、シャカリキな握力が残した爪痕。明日からどうやって生活しよう。そういえば、ルーティーンだった仕事が新年の一月から消失することが決定付けられていたことを思い出す。あれまぁ、収入が激減する。どうしよう。どうしよう。まぁ、ええっか。ステーキとカニを食した時点で、階段は三段くらい登っているはず。まぁ、ええっか。

と強がりながら、後輩とふたり、非チェーン店の暖簾をくぐる。腐っても鯛。俺は、世に二枚と無いのれんしかぐぐらんのだ。ぬひひ。と息巻きながら着座。「大将! 生ビールふたつ」と、さらに息巻く。

後輩が筆文字のお品書きを手にする。「先輩! 見てくださいよ」。後輩が手にするお品書きに視線を落とす。すると驚愕の事実が。その店、良心的でリーズナブルな価格設定をしていらっしゃる。なんと、チェーン店よりも生ビールの値段が安かったのだ。世に二枚と無いのれんはくぐった。しかし、お値段はなんとも良心的。助かった。後輩の前で恥をかかずに済んだ。だって俺、もうお金がないんだもの。

生ビールをクイッと飲んだ瞬間、僕は誰にも気づかれないように階段をそろりそろりと後ろ向きのまま降り、今、双六で言うところの振り出しに戻った状態で謹賀新年。今年も楽しくなりそうだ。

デタラメだもの。

20190101

まだ見ぬ人々の数は腰を抜かすほどに多い。そして一流と呼ばれる人の数は実に少ないものだ。『デタラメだもの』

広告の仕事をしていると、世間の人たちの動向に驚かされることがある。事実は小説より奇なりとはよく言ったもんで、特にWeb広告の出稿のお手伝いをさせていただいていると、顕著に驚く機会が多い。なぜ驚かされるかというと、「え!? こんな場所に設置されているバナー広告、なんでこんなにもクリックされてるの?」というケース。

広告の仕事をするということは、自分と消費者は異なるもの、と考えなければならないはず。なぜそう感じるかというと、個人的にバナー広告をクリックすることはほぼ皆無だから。広告屋になる前から、バナー広告をクリックすることはなかったから。世の中、ターゲティング広告が主流で、ワントゥワンマーケティングも熱を帯びている昨今、最先端技術によるターゲティング技術により、例に漏れず、僕もターゲットとして特定されているはず。しかし、クリックしたくなる広告は、表示されないんだなぁ、これが。

ところが世間の人たち、しっかりとクリックしていらっしゃる。こんなページの隅に設置されたバナー広告なんか誰が見るねん! と思っているような広告でも、しっかりとクリックしていらっしゃる。「広告を作るなら、消費者の気持ちになれ!」とか言われても、無理無理。あんな隅のバナーを見つけてクリックする人の気持ちなんか、一ミリも理解できないもん。

もっと驚くのが、クリックの数。量。日本にはどれだけ人間がおるねんと、単純に驚かされる。人の数を数字で理解したと思うなよ一般大衆。ほんの些細な広告を出稿しただけでも、びっくりするほど広告表示され、クリックされるんやからな。観客総動員数は100万人でしたとか言われて、へぇ100万人やったんや、ちゃうで。100万人とか、めっちゃ多いで。小さなバナー広告を出稿しただけでも、アッという間に100万回表示されたりとかするねんで。人口って末恐ろしいで、ほんま。

僕が人口の多さ、まだ見ぬ人々の多さを実感したのは、広告屋になってからではない。それは中学一年生の頃。当時の僕は日本を代表するロックデュオ B'zにハマッていた。「B'zかっこいい、稲葉さんかっこいい、クンカクンカ」とドハマリしていた。ファンクラブにまで入っていたくらいだから、今思えば、相当なもんだ。

で、世間的にはB'zの知名度がグングン上がり、CDをリリースすればまたたく間に一位。ツアーの発表があっても、争奪戦でチケットは取れない。絶対に取れない。そんな状態の折、僕はある違和感を覚えた。その違和感こそが、「まだ見ぬ人々は世の中に無数におるねんで持論」の礎。
どういうことかと言うと、クラスにB'zが好きな奴がひとりもいなかったのだ。そして、家の近所にもB'zが好きな奴がひとりもいなかったのだ。僕の住む街の界隈には、B'zが好きな奴はおろか、B'zに興味を持っている奴さえいなかった。俺が住んでいる街は、比較的都会なほうだ。大阪でも都会に類する街に住んでいるはずだ。それなのに、B'zに興味を持っている奴がいないだと。

じゃあ、なぜ、CDをリリースすればまたたく間に一位なんだ。ツアーの発表後、なぜあんなにも瞬殺でチケットが売り切れるんだ。稲葉さんがテレビに出れば、なぜあんなにも多くの女子が悩殺されているんだ。一体この街のどこに、B'zに興味を持っている奴がいると言うんだ?

結論。まだ見ぬ人たちって、ほんまにたくさんおるんよね。

自分の日々見ている世界ってものは、実はとてつもなく狭く、得てして、まだ見ぬ広大な世界を忘れ、自分の立つそこが世界のすべてだと錯覚しがち。それは危険な状態だ。だからこそ、Webサイトの中でも、こんな辺鄙な場所に設置されたバナー広告なんて誰がクリックするねん、と侮ることなかれ。それはあなたの価値観でしかない。もしかすると、あなた以外のすべての人は、あなたとは別の価値観を持っているかもしれない。もっと言うと、「こんな辺鄙な場所にバナー広告出すやなんて、誰がクリックするねん!」と、あえて思わせるために、優秀なマーケッターがそこに配置するよう、指示を出したのかもしれない。まだ見ぬ人々がたくさんいるのと同様、世の中はたくさんの不思議で包まれている。

そして、この逆も、然りなんだ。世の中にはまだ見ぬ人々が実にたくさんいるのに対し、知名度があり、テレビに出たり作品を発表したりして、世の中のまだ見ぬ人々たちを歓喜させている一流な人たちの数。この一流の人たちの数が、いかに少ないか、だ。

よく芸人ってのは、クラスで一番面白かった奴らがお笑い専門学校に集い、その中でも群を抜いて面白い奴だけが舞台に立ちファンを笑かすことができる。しかし、そこはまだスタートライン。それを継続し、売れ、生業にしていける奴は、そこからさらに目減りしてしまう世界。実に厳しい。要するに、まだ見ぬ人々がよく知る、一線で活躍している一流たちは、選び抜かれたものの中から、さらに選び抜かれ、そして勝ち抜き、勝ち抜き続けて尚、輝き続けている人たち、ということだ。

その昔、フォークデュオ ゆず がデビューしたとき(今回、デュオの話題、多めやね)、世間のミュージシャンもどきたちは思ったはずだ。こんなこと、俺たちにもできる。路上で歌って、売れるんだったら、俺たちも売れる。こんな奴が売れるんだったら、俺たちもぜったいに売れる。

結論、ぜったいに、無理。

世に出られるということには、必ず理由がある。それは才能かもしれないし縁かもしれない。運かもしれないし金、人脈、行動力なのかもしれない。そのいずれをどのようにすれば世に出られるかは誰にもわからない。しかし、そういったものを欠いて世に出ることは不可能だ。

まだ見ぬ人たちは、驚くほどたくさんいる。世に出る一流の数はあまりにも少ない。ゆずを見て、俺たちにもできる、と思った奴は、まだ見ぬ人たちのほうだ。まだ見ぬ人たちは一度、まだ見ぬ人たちがどれほど多いか、興味本位でもいい、体感して欲しい。圧倒されると同時に、日本はまだまだやれる、と自信が持てる。

まだ見ぬ人たちの中から、突き抜けることも飛び抜けることもできるチャンス多き今の時代。ゆずにはなれないかもしれないが、決して君はクズではない。君だけの地図を広げ、期待に胸をムズムズさせ、首から下げた鈴を鳴らし、出発の合図としよう。グズグズしている暇はない。韻、失敬。

やったモン勝ちの世の中、なんでもかんでも先取りしよう。早くしないと、世間のみんながB'zのこと、好きになっちゃうよ。

デタラメだもの。

20180428

自分の一生を全うするためには、「修正」という言葉を軽々しく口にしてはならない。『デタラメだもの』

それにしても世の中、大勢に影響のないことに拘る人間が多すぎる。

日常的に仕事でデザインの真似事などをさせてもらっていると、兎角、修正という言葉を常用したがる輩に出くわすときがある。

修正というのは良くない点を改めることだぜ、そもそも何が良いかなんて、君たちに分かっているのかベイビィ。それを分かったうえで修正という言葉を連呼するならまだしも、そうでもないなら修正という言葉は、そんなに簡単に使うもんじゃないぜベイビィ。

まぁ、商業広告の世界だから、お金を支払われるお客様の意向を優先。それは当然。お客様は神様も同然。などと韻を踏みはじめてもしょーがない。商業広告たるもの、スポンサーありき。テレビ番組を作るときにスポンサーのお怒りに触れてしまっては、広告費も出なくなるし、そうなると番組の存続すらも危ぶまれる。まぁ、お金の巡りとは、そんなもんだ。

修正修正言われるのが嫌だとか、そんなガキっぽいことを言いたいのではないのだ。もっと、アダルトなことを言いたいのだ。

限られたお前の人生において、そんなどうでもいいことに修正修正と拘り、足踏みしている暇はないぞ。もっと次の章を目指せよ、新たなステージを目指せよ、さらなる高みを目指せよ。人間、いつ死ぬか分からんのだぞ。今日を本気で生きろよ、今を本気で生きろよ。そう考えたら、今お前が文句をつけようとしている修正点なんて、どうでもよくなるぞ。さぁ、早く目を覚ませ。今日という一日、お前はその修正を我々に言いつけただけで仕事が終わってしまったとして、直後、何らかの原因で命を落としてしまったとしよう。それでもお前は後悔しないか? いや、お前ほどの人間なら、きっと皆まで言わなくとも理解してくれるはずだ。ほら、気づいただろ。その口を閉じろよ。今まさに、修正と言わんとする、その口を閉じてみろよ……。

と、熱く語ってみましたが、要するに今日は早く帰って、帰り道にホットアイマスクとかいう商材を買って帰りたいのでやんす。近ごろ、目がね、目の疲れがハンパなくてですね。目を温めて寝たい。そのために、ホットアイマスクとかいう商材を買って帰りたいのですわ。だからちょっと、今から修正、言われてしまいますと、僕のホットアイマスクが買えなくなるわけです。そのための詭弁です。

あと、こんな風にも思うわけさ。

スポンサーたちは、物を売ったり売上をアップさせたりのために広告という手段を使いますわね。ということは目的・目標はそこにある。そして、スポンサーの目的・目標を達成するために集ったものづくりのプロたちは、己のものづくりへの拘りとスポンサーの目的・目標を達成するというミッションの最大公約数の地点で、最高のものを世に送り出す。その地点のことを仮に「K点」と呼ぶならば、ときに広告の世界では、K点を大幅に超えるほどの大ジャンプがある。それは人々から名作と呼ばれ、後世にまで語り継がれたりもする。

だから、ものづくりのプロたちは、その前者も後者も疎かにしてはいけないと思っている。

そんな折にだ、お前はものづくりのプロ側の人間でもないくせに、完全にお前は己のことを雇ってくださっている会社様が広告予算を用意してくれているのにも関わらずだ、商品の販売や売上アップ、さらには企業イメージアップが目的・目標ということを棚に置き、ワシの作ったデザインの真似事に対し、背景のモノグラムの画像にもう少し、スプーンやフォークの画像を加えてみては? とホザいていやがる。断言しよう。背景にスプーンやフォークの画像を増やそうが減らそうが、売上の大小に影響はない。もしあったとしたら、切腹してやる。

ということはだ、あなたは今、あなたの命題であること、すなわち、あなたのことを雇ってくださっている企業様というビッグな看板が用意したお金(あなたがそのお金の使い方に失敗し、事前予測したほどの効果を生まなかったとしても、決してあなたの財布は痛まず、あなたの家計に響くこともなく、大なり小なり怒られる程度で済むような類のお金)を使って、社内貢献するべく、商品を売り、サービスを認知させ、売上をアップさせるということを放棄したことになるぞ。
お前はものづくりのことなんぞ考えんでええのだ。しっかりと売上をアップさせるという観点から、その観点からしか見えない、知り得ない切り口を持ってきてくれればいいだけなのだ。スプーンやフォークの画像のことは、お前が口を出すことではない。スプーンやフォークの画像に拘りたかったら、お前もものづくりのプロに転職すればいい。お前のことを雇ってくださっている企業様に失礼だぞ。アダルトDVDのカメラマンとして就職しているのに、「ついつい興奮してポコチンを出しちゃいました」は通らない。ポコチンを出すのは男優の仕事。君はそれを映像に収めることが仕事。なぁ、そうだろう。

また、お前に特別な才能や努力の跡があるならば、専門的な見地や飛び抜けたセンスから、修正などの意見を出してくれてもいい。お前がただの凡人なんだとしたら、お前に修正を言う資格は皆無だ。意見はいい。修正はダメ。お前は実際に商品を使う消費者でもなければ、デザインの良し悪しを導けるほどの技術もない。それなのにデザインに口を挟むのは越権行為だ。それでもし、納期が遅延したら、消費者に好かれなかったら、売上が伸びなかったら、お前のせいでもあるんだぞ。プロの仕事とは、結果に対して責任を負うこと。スプーンやフォークの画像を増やした結果、巻き起こる出来事のすべてに対して、お前は責任が取れるのか。無理なら口を挟むな。アダルトDVDのカメラマンとして就職しているのに、「興奮してポコチンを出しちゃった結果、女優と絡んじゃいました、てへぺろ」は通らない。女優と絡める資格のある人間は、どんなときでも女優にしっかりと快感を与えられる、与え続けられる人間。すなわち男優だけだ。女優を満足させるのは男優の仕事。君はそれを映像に収めるのが仕事。なぁ、そうだろう。

となると、お前にはお前にしかできないことをちゃんとやって欲しいんだ。スプーンとフォークの画像のことは俺たちが考える。お前は商品そのものがもっと売れるよう、お前にしかできない方法で、お前だけにしか入手できない情報と知恵を俺たちに授けてくれよ。たとえば、「前回の利用者アンケートでは圧倒的にオレンジ色のパッケージの商品が売れていましたよ」とか、「経営層と現場の意見は乖離しはじめています。既存顧客の保守に走る経営層と、新たな層を取り込まないと会社の未来はないと感じはじめている現場。僕はあくまで現場の人間。会社の将来のことも考え、今回は新たな層を取り込みたい。それが現場全員の意見です。だからデザインも若年層向けでお願いします!」とか、そんな立場でいておくれよ。お前がスプーンやフォークの画像に拘ってしまったら、会社の売上に拘る奴がいなくなるだろう。俺は俺側のプロでやるから、お前はお前側のプロでいてくれよ。で、商品を売ろうぜ、売上を伸ばそうぜ、サービスのこと、世界のみんなに知ってもらおうぜ。

と、熱く語ってみましたが、先日ですね、スマートフォンを新しいやつに買い替えましてですね。どうやら古いほうをどこかしらに送り返すことで、ポイントがキャッシュバックされてくるそうなんです。それの期限が今日まででして。それをしないことには、せっかく入手できるはずのポイントがもらえず大損をこいてしまう。商品の売上? 認知度の向上? ちょっとそれどころじゃないですね。スマートフォンをね。今日が期限なんです。だから早く帰りたいんです。そのための詭弁です。

生まれて死ぬということは、生きとし生けるもの全員に与えられた平等なこと。でも、何年生きられるかは人それぞれ。平均寿命まで生きられる保障なんてない。自分の命はいつか果てる。ということから逆算して日々の行動を考えてみれば、しょうもない修正なんて、口をつぐみたくなるぜベイビィ。人それぞれ、やるべきことをやろう。

そやそや、今日は早よ帰って、今使ってる鞄、2,000円くらいで買ったけど人々から20,000円くらいやと思われてる鞄の持ち手の付け根がちぎれたから、縫わなあかんのやった。ジッパーも3日目で使われへんようなったしな。やっぱり安いの買うと故障するのも早いなあ。どこかにええ鞄の広告、出てへんかなあ。

デタラメだもの

20180218

連絡無精の言い訳を対人関係にすることと緑豆もやしが枯れたことには大いに因果関係がある。『デタラメだもの』

今年一年を振り返る大晦日。それなりの年齢にもなってくると、大晦日に一年を振り返ったとしても、昨年と同じような一年だったなぁという感想しか漏れてこず、特に変わり映えのしない一年だったことに気づかされる。それも、毎年のようにそれに気づかされる。

そして、新年が明けたことで、「さぁ、今年はどんな一年にしてやろうか!」と発起してみても、結局、どんな一年にもできなかったことを次の大晦日で振り返る。要するに、未来が見えているというやつ。自分を占えているというスピリチュアルな奴。

そんなことを申し上げつつも、やはり一年を振り返りたくなる大晦日。今年はちょっと大きく出てみようと思う。どういうことかと言うと、自分とは果たしてどんな人間なのかということを考察してみようと思う。で、答えが出た。いともたやすく出た。どんな人間かというと、連絡無精な人間だ。

自分のことなので自分の内面は誰よりもよく知っているが、僕は連絡無精では決してない。対人関係がめっぽう苦手な人間なのだ。きっと。

というのも、他人様からの連絡というものは、こちらの予期せぬときにやってくる。たとえば僕がアーチェリーの競技中で、弓を目一杯にギリリと引き、的を射抜かんと緊迫している最中にも容赦なくやってくるはずだ。きっと。

そうなると、もちろんのこと、連絡を受けることができない。「あっ、今、連絡が入っているな」とは気づきつつも、連絡を取ることができない。さすがにアーチェリーの競技中なんだもん、連絡は受けられないよね、わかっちゃいないと思うけどわかってよね。そんなことを心中でボソボソと呟きながらも、連絡が止んでしまうのを心を痛めながら待つしかない。

で、ここからが対人関係が苦手な所以。それは何かと言うと、連絡を折り返そうとするときに、「あのとき、アーチェリーやってましてん! すんまへん!」と、どんなテンションで言えばいいのか迷ってしまうのである。ちなみに僕は、矢を放つのに持ち時間いっぱいいっぱい使うタイプなので、折り返すのに日を跨いでしまうことが多いから余計に迷ってしまう。

神妙なトーンで伝えようとすると、どこか嘘っぽくなってしまうだろう。「お前、俺の連絡無視したことを誤魔化すために、嘘ついてんちゃうん!?」と思われてしまっては、アーチェリーの競技に参加していたことに対しても失礼に当ってしまう。一方、明るいトーンで伝えようとすると、「お前、連絡取らんかったくせに、何をヘラヘラしとん!? 殺すぞ?」と、逆鱗に触れてしまいそうだ。

どうしよう、どうしよう、どんなテンションで折り返したらいいんだ。という葛藤を続けていると、大抵の場合、さらに次の日の朝を迎えてしまう。これで二度の宵越しだ。
しかし人にはきちんと接したい。不義理はしたくない。だから、たとえ二度も宵越ししてしまったとしても、その朝、ちゃんと折り返しを試みる。

がしかしだ、アーチェリーの競技中だったことをどのように伝えればいいのか悩んだ上に、今度はさらにひと晩寝かしてしまっている状態だ。どのように伝えればいいのか。事態はさらに悪化しているんだぞ。

「実は一昨日、アーチェリーの競技に出てまして。で、連絡が取ることができませんでした。昨日折り返そうとしたのですが、アーチェリーの競技に出ていたことを正しく伝えるにはどうすればいいのかを悩んでいるうちに、さらに夜が明けてしまいまして、で今朝を迎えております」なんて伝えたところで、誰が信用するねん。アーチェリーの事実までもが、さらに嘘臭さを増してしまうではないか。

取り返しがつかなくなってしまった事態に怯えていると、いかんいかん、連絡を折り返すことももちろん大切だが、お得意先様、お取引先様、業者様たちも僕を待っている。デザイン早よ出さんかい、文章早よ書かんかい、見積り早よ作らんかいと、僕を攻め立てている。すみませんが、アーチェリーの競技中にいただいた連絡の折り返し、少し寝かさせてもらいます。

気づけばその日の夜だ。もはや、どう説明すればいいのかわからない。事実をうまく伝えられなかったばかりに、数々の不義理をかましてしまっている。相手はもはや、激怒しているか愛想を尽かしているかのどちらかだろう。俺はやっぱりダメ人間だ。俺は他人様に迷惑しかかけることができない無用者だ。こんな俺に発せられる言葉はひと言足りともない。もう俺なんて黙ってしまえ。黙ることで意思を表明せよ。ええい、ケセラセラ。

と見事に、対人関係が苦手ゆえに連絡無精と思われていることを証明する数式が描けたと思う。
さらに補足するならば、このプロセスのどこかのタイミングで、再びアーチェリーの競技中に連絡をくれた方から、改めて連絡をいただくケースもある。しかし、ここでも問題が発生する。それは、不運なことに、改めて連絡をいただいた際に、カーリングの競技中であることが多いんだ。しかも、ブラシで氷上を掃いている最中が殊更に多い。

考えてみて欲しい。連絡をもらった方がいる。それを受けられなかった僕がいる。折り返す方法、というか、折り返すアティチュードに迷っている最中に、改めて連絡をくれるほど寛大な御方。にも関わらず、僕はブラシで氷上を掃いていて再びその連絡も受けられない。相手が抱く感情はひとつしかない。それは、殺意だ。対人関係が苦手なばかりに、寛大な御方を殺人犯に仕立て上げてしまうことになる。黙ることで意思を表明せよ。ええい、ケセラセラ。

さて、長くなってしまったが、ここからが本題。
こういった軟弱で身勝手な性格が如実に現れた事件が起こった。それは通称、緑豆もやし事件だ。

通信教材などのおまけによくありがちな、自宅で植物を育ててみよう風のものに対して比較的強い興味を持つ僕は、路上に設置されたガチャに、緑豆もやしを自宅で育ててみようという趣旨の玩具があることに気を引かれた。

少額の小銭を入れ、早速玩具を手に入れる。自宅に持ち帰りひとり、プラのコップに水を入れ、付属のキットの上に緑豆もやしの種を据える。暗所に設置せねばならないということで、自室の本棚の隙間に設置し、紙袋で光を遮ってやることにした。育成ルールとしては、日々、水を替えてあげなければならないこと。

ところがだ、自分は平日の朝に極端に弱い。休日ともなれば、どれだけ睡眠時間が短かろうが、意のままの時間に起きられるのに、平日ともなると、遅刻ギリギリの時間にならなければ起きられない。というか、ほぼ毎日、遅刻している。なので、朝の僕には時間がない。

では、夜に水を替えてあげればいいじゃあないの、ということになるが、夜は夜でお酒に酔っ払って、フランフランの状態で帰宅している。繊細な作業を要する水替えができる状態ではない。結果的には、緑豆もやしのことを気にはしているものの、水を替えてあげられない罪悪感に苛まれ、緑豆もやしに目を向けることができなくなってしまった。

日々、脳内では想像する。水がなくなってカラカラになって死滅してしまっているかもしれない緑豆もやしのこと。もしくは、清潔でなくなってしまった水で成長したことで、妙な成長を遂げ、人間では保護してあげることのできない物体に進化してしまっているかもしれない緑豆もやしのこと。

こうして幾日もが過ぎた。正しく育成すれば、育った緑豆もやしを食べることができますよ、という指定の日もとっくに過ぎた。しかしこれだけは言っておく。緑豆もやしのことを考えなかった日は、その間、一日足りともない。

僕も成人を迎えた大人。いつかは暗所に光を当て、自分の気の弱さにも目を向け、緑豆もやしを処分してやらねばならない。そう思い、僕は光を遮るための紙袋をどけ、ついに暗所に目をやった。

緑豆もやしは、元気なく枯れてしまっていた。それは僕が想像していたような悲惨な状態ではなく、愛を注がれなかった植物が、力尽きたという風情。胸が痛んだ。自分の弱さに嫌気がさした。果てしなく反省した。来年こそは、こんな身勝手な自分の性格を叩き直し、緑豆もやしを育てる機会があれば、正しく愛を注いであげ、たとえアーチェリーの競技中だったとしても、他人様の連絡はできるだけ受けるように務めたいと思った。

感傷に浸りながらも、最後くらいはしっかりと緑豆もやしを埋葬してあげようと、プラのカップを取り上げると、暗所に設置していたため気づかなかったが、緑豆もやしの種を据えるための付属のキット(黒い網状のプレート)に、白い綿状の菌が大量に付着していた。

最後くらい愛を注いでやろうと、威勢よく持ち上げたことで、綿状の菌が各々自由に世界へと放たれたことは言うまでもない。もちろん、彼ら彼女らの世界とは、僕の自室を指す。その光景はまるで、キラキラと輝く風花のようだった。嗚呼、僕もこの風花のように美しい人間になりたい。そして僕は風花に憧れを示すかのように、大きく深呼吸した。舞い散る風花を体内に吸い込んでしまったことは言うまでもない。

冒頭、アーチェリーの妙なたとえを出してしまったせいか、文章がどうにも的を得ていない気もするが、時の流れは光陰矢の如しとはよく言ったもので。来年もこんな風に、駄文の締めをどうにか上手いこと言ってすり抜けてやろうと企み、それに失敗した結果、スベった足元は氷。そうか、今はカーリングの競技中だったなあ。

デタラメだもの

20171231

先輩の仕事とは後輩を育てることではなく後輩に夢を見させてあげることだと教えてくれた河豚、否、おじさん。『デタラメだもの』

お酒を飲むときに、食べ物を口にしないタイプの人がいる。僕もそのひとり。基本的に、飲む、となれば物はほとんど食べない。逆に、食べる、となればお酒は飲まないくらい。要するに器用に食事とお酒の両方を楽しめない人間なのである。

そこで困るのが、目上のお方がよく、何らかの賞賛を与えてくださるときに飲みに連れて行ってくれるやつ。あれの何が困るのかというと、名目的には「飲みに連れてったる」やのに、その実、店に着くなり「うまいもん、どんどん食えよ」という大盤振る舞いにすり替わるからなのだ。

せっかく目上のお方とご一緒させていただけるんだから、こっちとしてはお酒を煽り、普段できない会話をしたり、普段言えないことを言ってのけたり、激しい議論を交わしたり、時に生意気な口を利いたりと、要するにお酒ありきのコミュニケーションをしたいわけだけれども、「どんどん食えよ」という縛りを設けられると、たちまちその場が苦痛に変わってしまう。食いたいわけじゃない。あくまで飲みにきたのだと。

なぜにこんなにもニーズにミスマッチが生じてしまうのか。そこには2通りの仮説が成り立つ。まずひとつめは、目上のお方たちが下々の人間へ与える賞賛の形が間違っている説。

わがまま勝手な言い分かもしれないが、賞賛されるには、賞賛されるに値する何かの貢献を、こっちがやってのけたということになる。となると、貢献したこちら側が望む形態の賞賛を欲するのは当然のこと。言葉でありがとうを伝えて欲しいだけの人もいれば、地位や名誉を与えて欲しいと考える人もいるだろう。ちなみに僕の場合は、お金で結構です。多くは望みません。わずかばかりのお金をいただければ、ぬへへ。

とまぁ、賞賛を受ける側のニーズを無視して、賞賛を与える側の思い込みで、「たいていの人間は、うまいもんをしこたま食わせてあげれば喜ぶだろう」と盲信し、「どんどん食えよ」ってなフレーズに結びついているんじゃなかろうかと。

ちなみに冒頭申し上げました通り、僕は飲みにいくと食べません。なので、飲みにきて且つどんどん食べるというシチュエーションもあり得なければ、それを欲することもないのでございます。
こんなことになるくらいなら、賞賛に値するような貢献をしなければよかったと感じるじゃあないか。賞賛に値する貢献をしてしまうと、「どんどん食えよ」と言われてしまう。それを避けるためには、賞賛に値する貢献をしないほうがいい。ならば仕事も控えめにやるべきだ。目の前に広がる広大なキャンバスのなかにデザインなどを施すのではなく、キーボードの溝に溜まった埃なんぞを掃除し続けているほうがよっぽどいい。そうすれば、「どんどん食えよ」とは言われない。それを避けることができる。と、まぁ、なるわな。

そしてもう1つの仮説は、「どんどん食えよ」と飯を食わせておけば、どんな人間も喜びよるやろ、一人ひとりの人間に合わせた賞賛なんぞ考えるの面倒臭いから、どいつもこいつも賞賛のときは、「どんどん食えよ」と言っとったらええわ、という投げやりな発想による行為説。

そりゃ美味しいものを食べれば人は喜ぶ。それは否定しない。しかし、ご馳走になるにも、ご馳走していただく御方に心がこもっていなければ、それを手放しで喜ぶことはできない。適当に食わしといたら満足しよるやろ。適当に食わしといたら、引き続き賞賛に値する貢献を続けよるやろ。ほんでまた、賞賛に値する貢献を連発しよったら、「どんどん食えよ」と言って、適当に飯を食わせておけば、ほいほい言うて賞賛に値する貢献を続けよるやろ。ほんま、アホなガキは楽やで。適当に食わしておくだけで、賞賛に値する貢献を続けよるんやもん。「どんどん食えよ」のひとことに、ウレション垂らしながら飯をバクバク食うとるわ。楽勝なやっちゃで。と、バカにされているようにも感じる。

相変わらずお前は性格が歪んでいるなと思われるかもしれない。まぁその実、性格は歪んでいる。歪みはそんなに簡単に矯正できないもんね。なんてことを脳内で考えていると、とある過去のエピソードを思い出した。

その昔、職場で僕のことを気にかけてくれていたおじさんが、僕と同じくらい熱量のある人間が社内にもおるからと、某高級料理屋で引き合わせてくれたことがある。会社のなかで若気の至りを暴発させ、会社を変えようとか社風を変えようとか、もっといい会社にしようと、時に上司に噛み付いたりしていた僕の鬱積したストレスを、似たような気持ちを持つ人間と引き合わせることで発散させようとしてくれたみたいだ。

肌寒い季節だったと思う。河豚でも食べんかと声をかけられた。君と同じくらいエモーショナルな奴がおるから連れて行くわとおじさん。当時まだ20代前半だった僕は、缶ビールとポテトチップスを夕食にするような粗暴な人間だったため、エレベーターが天空近くまで上昇していくような、そんな酸素の薄い位置にある料理屋なんてものにはもちろん無縁。ただ若かりし僕は、高級料理店に行くことよりも、自分と同じくらいのエナジーを持ち合わせた人間と会話ができることに胸を踊らせていた。

僕と同じくらいのパッションを持つとされるそのお人は、僕よりも6つ年上の先輩。同じ会社に勤めてはいるものの、まったく違う部署だったため、会話すらしたことがなかったところ、おじさんの粋な計らいで対面することに。

重ね重ね申し上げますが、僕は飲みに行くと、基本的に物を食べません。目の前にどんなに豪華な食材が並んでいようが、それには目もくれません。その日、僕たちの目の前には、てっちり、てっさ、白子など、今思えば目ン玉をひん剥くほどの高級食材が並んでいた。

ところが僕の興味は、その熱い気持ちを持ったお人と会話すること。同じくらいの情熱を持っているため、当然のように議論は激化する。お互いの考え方を戦わせる。いつしか議論が口論に変わる。しかしそこは上品で静穏な高級料理店。「うまいねぇ」と小声で料理に賞賛の言葉を述べる程度の会話しか生まれてこないようなお店。高級食材を口に運んだときに、小さく首を縦に数回振り、味を称える動作だけでも会話が成立するようなお店。そんなシチュエーションのなか、エモーショナルな僕は「これだから大阪の人って下品で嫌いなのよねぇ……」と忌避されるであろう大声で、しゃべり倒した。相手を打ち負かさんと、吠え続けた。年上の人間との議論が楽しすぎて、眉間に皺を寄せながら、打ち負かさんと咆哮した。相手も僕のペースに飲まれ、大声を張り上げる。こめかみに血管を浮かべながら、相手も吠える。僕も吠える。相手も吠える。吠える。吠える。吠える。

結果的に僕は、箸袋から箸を抜いていなかった。要するに、固形物を何ひとつ口に運んでいないことになる。あれほどの高級食材が目の前に並んでいたのにも関わらずだ。もちろん、お会計はおじさん持ち。相当な金額だったと思う。その行為がどれほど無礼だったか、今ならわかる。ただおじさんは帰りの道で僕に、こう言ってくれた。

「今日の目的は飯を食いにきたわけちゃうからな。お前とあいつを引き合わせて熱い思いをぶつけてもらうためにきたからな」
「はい……」
「楽しかったか?」
「はい……」
「ほな、よかった。また連れてったるわな」

数年後、おじさんの内情をとある人から耳にした。実は、僕が河豚で無礼を働いてしまった時期より少し前くらいから、時代の流れとともに事業が傾き、かなり苦しい生活を強いられていたらしい。ただ、貧乏な若手や後輩にいい思いをさせてあげたいからと、僕たちを飯や飲みに誘う際、キャッシングローンなどで一時的に借金をしていたそうだ。自分にお金がないにも関わらず、借金してまで飯を食わせてくれていたらしい。

おじさんはよくこう言っていた。「年上のもんが貧相に生きてたら、夢がないやろ。頑張ったらこんな風になれるんやって憧れを持たせてあげないと、若手の夢、奪ってしまうからな」と。

僕は今、当時のおじさんと同じ気持ちで生きている。もちろん、当時のおじさんよりはまだまだ若輩者だけど、後輩には「年上の人間はやっぱり違うなぁ!」と少なからず思ってもらえるような生き方をしている。もちろん、そんなに豪勢なものは食べさせてあげられない。美味しいお酒も飲ませてあげられない。あの日の河豚の高級さを思えば、自分の未熟さを鼻で笑いたくもなる。

ただ僕は「どんどん食えよ」なんて死んでも言わない。あの日、おじさんが、まったく箸をつけなかった僕に、どんどん食うどころか一切食わなかった僕に、飯が目的じゃないからと、楽しんでくれてよかったと、ニコチンで染まった黄色い歯を全開に見せて笑い飛ばしてくれた豪快さを、僕は忘れない。

おじさんはその後、大病を抱えることになる。弱っていく姿を人に見せたくないからと、周りの人間との音信を絶った。だからその後のおじさんの消息を知っているものは、少なくとも僕の周りにはいない。でも、気合いで病を克服し、ビシッと仕立てたスーツで再び繁華街を闊歩してくれることを信じている。そしてもし、おじさんとばったり街で会ったなら、こう言ってやろうと思う。「腹減ったっすわ! 河豚食いに連れてってくださいよ!」と。

デタラメだもの

20171014
著者

常盤英孝(ときわひでたか)

《3分後にはもう、別世界。》 3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。

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